【南伊勢】参拝者の押し寄せた参宮古道 水穴・鷲嶺観音・竜ヶ峠
Posted: 2026年1月26日(月) 05:07
【日 付】2026年1月18日(日)
【山 域】南伊勢
【コース】8:30横輪---9:45水穴---11:15鷲嶺観音---12:20竜ヶ峠---13:40久昌寺---14:30横輪
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.417071/13 ... z0r0s0m0f1
伊勢神宮に西国の人々が船で参拝する際は、五ケ所浦に入り陸路で切原峠・竜ヶ峠を越えて内宮に入ったことから「船は着いたや五ケ所の浦へ、いざや参らん伊勢様へ」と歌われた。陸路に当たる参宮古道で歩いていない竜ヶ峠―矢持町菖蒲をからめた周回コースを歩くことにした。
横輪公民館に駐車し、鷲嶺(しゅうれい)の稜線が見える下村より水穴に向かうと六地蔵と対岸に集落の墓地が出てくる。沢沿いに棚田の大掛かりな石積みが続き、滝のある上部にも棚田があり昔人の苦労がしのばれる。斜面を上った大岩に注連縄がかけられた鷲嶺の水穴と呼ばれている水穴洞窟があり、奥行きは300m以上で水の流れる洞内には石筍、鍾乳石がある。ここから尾根筋に向かうが嵓が出てきたものの2つの嵓の隙間から取りつけそうだ。嵓を抜けたザレザレの斜面を上っていくと四角い石積があり、鷲嶺の水穴につながる信仰の場だったようだ。すぐに稜線で、常緑樹の尾根を進むと平石(470m)で神宮林周回道(天空界道)に合流した。
周回道には境界を示す四角い石積や石柱が置かれ、明治以前よりあるのが四角い石積で、宮マークの石柱が明治から戦前までの宮内省、司マークの石柱が戦後の神宮司庁のもので時代を越えて混在している。
鷲嶺を別荘地側に下った実線道終点手前に「右鷲嶺観音」の石柱があり、踏み跡か獣道かわからない斜面をトラバースしていくと嵓の洞に鷲嶺観音が祀られている。注連縄が掛けられた洞の奥には蓮の花を持った聖観音の石仏が、壇ノ浦に向かって敗れた平氏の冥福を祈っていると伝えられている。木に吊るしてある反射板の光が下村から見えたので、観音洞前で焚かれた護摩の火も集落から眺められことだろう。鷲嶺観音は吉川英治の小説で宮本武蔵が断崖によじ登って修行をした場所とされ、西には総門山が見える。北畠氏とともに南朝方で戦った五ケ所城主愛洲氏一族の愛洲移香斎が兵法三大源流の一つ陰流の始祖であり、兵法家である宮本武蔵の時代には名が知れ渡っていた事から題材に選んだのだろう。下村からは炭焼き道をつなぐ杣道が鷲嶺観音につながっている。
平石まで戻り下りきると竜ヶ峠で、参宮古道が通り矢持と内宮奥の高麗広を結んでいる。この道は古くから伊勢詣の参拝者の歩く道であり、全国から伊勢に訪れる参拝客の胃袋を満たす「魚の道」でもあった。ただ、明治になって切原と高麗広をつなぐ県道が開通してからは、幹線道路としての役目をゆずり「行商の道」「生活の道」へと変わっていった。五ケ所浦の魚は伊勢の河崎まで担いで運び、獲った魚を夕方すぐに運ぶと翌朝の朝市で販売できるので7・8里(約30km)の道のりを夜なべしたそうだ。
咲きだした冬桜を見ながらゆるやかな道を下っていく、道が九十九折になる所には石積で補強が何か所もされており、長い年月にわたり歩かれてきた古道だと教えてくれる。大規模な石積が集まっている茶屋跡には、萱場橋の茶屋と辰ヶ橋の茶屋があり田を作りながら店を営み、団子・どぶろく・わらじ・ちょうちん等を売っていた。どぶろくのつまみとしてヒキガエル・山椒魚・クサギムシが茶屋の名物で、石積の大きさからその賑わいが伝わってくる。切原越にも二つの茶屋があり船で来た多くの参拝客が伊勢神宮に思いをはせ休憩したのだろう。
古道沿いには平氏の残党が源氏の追っ手を打ち負かした事に由来する「馬落とし」「隠れ岩」「六ヶ谷の戦い跡」が残されている。矢持町・横輪町は覆盆子谷といわれた平家の谷で、菖蒲には壇ノ浦の戦いの5年後の建久元(1190)年に平知盛(清盛の四男)により創建された久昌寺があり、承久3(1221)年の阿弥陀如来立像が祀られ知盛の墓と伝えられている五輪塔もある。平家一門の室町末期の苔生した五輪塔が約40基並んでいるのは圧巻で、この人たちが鷲嶺観音を祀ったのだろう。
参宮古道(五ケ所―切原―床木)
【南伊勢】切原越 神宮より五ヶ所へつながる参宮道 - やぶこぎネット
https://www.yabukogi.net/viewtopic.php?t=5446
(竜ヶ峠―高麗広)
【伊勢】高麗広より神宮林をたどる - やぶこぎネット
https://www.yabukogi.net/viewtopic.php?t=4609
【山 域】南伊勢
【コース】8:30横輪---9:45水穴---11:15鷲嶺観音---12:20竜ヶ峠---13:40久昌寺---14:30横輪
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.417071/13 ... z0r0s0m0f1
伊勢神宮に西国の人々が船で参拝する際は、五ケ所浦に入り陸路で切原峠・竜ヶ峠を越えて内宮に入ったことから「船は着いたや五ケ所の浦へ、いざや参らん伊勢様へ」と歌われた。陸路に当たる参宮古道で歩いていない竜ヶ峠―矢持町菖蒲をからめた周回コースを歩くことにした。
横輪公民館に駐車し、鷲嶺(しゅうれい)の稜線が見える下村より水穴に向かうと六地蔵と対岸に集落の墓地が出てくる。沢沿いに棚田の大掛かりな石積みが続き、滝のある上部にも棚田があり昔人の苦労がしのばれる。斜面を上った大岩に注連縄がかけられた鷲嶺の水穴と呼ばれている水穴洞窟があり、奥行きは300m以上で水の流れる洞内には石筍、鍾乳石がある。ここから尾根筋に向かうが嵓が出てきたものの2つの嵓の隙間から取りつけそうだ。嵓を抜けたザレザレの斜面を上っていくと四角い石積があり、鷲嶺の水穴につながる信仰の場だったようだ。すぐに稜線で、常緑樹の尾根を進むと平石(470m)で神宮林周回道(天空界道)に合流した。
周回道には境界を示す四角い石積や石柱が置かれ、明治以前よりあるのが四角い石積で、宮マークの石柱が明治から戦前までの宮内省、司マークの石柱が戦後の神宮司庁のもので時代を越えて混在している。
鷲嶺を別荘地側に下った実線道終点手前に「右鷲嶺観音」の石柱があり、踏み跡か獣道かわからない斜面をトラバースしていくと嵓の洞に鷲嶺観音が祀られている。注連縄が掛けられた洞の奥には蓮の花を持った聖観音の石仏が、壇ノ浦に向かって敗れた平氏の冥福を祈っていると伝えられている。木に吊るしてある反射板の光が下村から見えたので、観音洞前で焚かれた護摩の火も集落から眺められことだろう。鷲嶺観音は吉川英治の小説で宮本武蔵が断崖によじ登って修行をした場所とされ、西には総門山が見える。北畠氏とともに南朝方で戦った五ケ所城主愛洲氏一族の愛洲移香斎が兵法三大源流の一つ陰流の始祖であり、兵法家である宮本武蔵の時代には名が知れ渡っていた事から題材に選んだのだろう。下村からは炭焼き道をつなぐ杣道が鷲嶺観音につながっている。
平石まで戻り下りきると竜ヶ峠で、参宮古道が通り矢持と内宮奥の高麗広を結んでいる。この道は古くから伊勢詣の参拝者の歩く道であり、全国から伊勢に訪れる参拝客の胃袋を満たす「魚の道」でもあった。ただ、明治になって切原と高麗広をつなぐ県道が開通してからは、幹線道路としての役目をゆずり「行商の道」「生活の道」へと変わっていった。五ケ所浦の魚は伊勢の河崎まで担いで運び、獲った魚を夕方すぐに運ぶと翌朝の朝市で販売できるので7・8里(約30km)の道のりを夜なべしたそうだ。
咲きだした冬桜を見ながらゆるやかな道を下っていく、道が九十九折になる所には石積で補強が何か所もされており、長い年月にわたり歩かれてきた古道だと教えてくれる。大規模な石積が集まっている茶屋跡には、萱場橋の茶屋と辰ヶ橋の茶屋があり田を作りながら店を営み、団子・どぶろく・わらじ・ちょうちん等を売っていた。どぶろくのつまみとしてヒキガエル・山椒魚・クサギムシが茶屋の名物で、石積の大きさからその賑わいが伝わってくる。切原越にも二つの茶屋があり船で来た多くの参拝客が伊勢神宮に思いをはせ休憩したのだろう。
古道沿いには平氏の残党が源氏の追っ手を打ち負かした事に由来する「馬落とし」「隠れ岩」「六ヶ谷の戦い跡」が残されている。矢持町・横輪町は覆盆子谷といわれた平家の谷で、菖蒲には壇ノ浦の戦いの5年後の建久元(1190)年に平知盛(清盛の四男)により創建された久昌寺があり、承久3(1221)年の阿弥陀如来立像が祀られ知盛の墓と伝えられている五輪塔もある。平家一門の室町末期の苔生した五輪塔が約40基並んでいるのは圧巻で、この人たちが鷲嶺観音を祀ったのだろう。
参宮古道(五ケ所―切原―床木)
【南伊勢】切原越 神宮より五ヶ所へつながる参宮道 - やぶこぎネット
https://www.yabukogi.net/viewtopic.php?t=5446
(竜ヶ峠―高麗広)
【伊勢】高麗広より神宮林をたどる - やぶこぎネット
https://www.yabukogi.net/viewtopic.php?t=4609
【南伊勢】参拝者の押し寄せた参宮古道 水穴・鷲嶺観音・竜ヶ峠