【奥越】雪稜の冠山に登る

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わりばし
記事: 1753
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

【奥越】雪稜の冠山に登る

投稿記事 by わりばし »

【日 付】2023年3月19日(日)
【山 域】奥越
【コース】田代第3トンネル駐車場6:30---10:20県境稜線---11:35冠山---12:45県境稜線---15:15田代第3トンネル駐車場
【メンバー】単独

 徳山村の西谷は近江の玄関口で、東谷は越前とのつながりが深い。徳山村からの越前越の峠のひとつが冠越で、現在の冠山峠と違って冠山の東肩の標高1100m付近にある。この峠を見たくて冠山に向かった。


冠山
冠山

 田代第3トンネルから続く尾根に雪は無く、トンネルから取り付くのは厳しそうだ。尾根の末端に植林地があるので橋を渡り向かう。植林地は整備された石垣で分けられており集落跡だった。田代の看板と墓もあり、田代の集落で間違いない。昭和25年には木地師の家がありトチノキの原木からお椀を挽いていたそうだが、その面影はない。田代尾根に取りつくとヤブっぽいものの昔の杣道があり尾根芯を外して道がつけられている。アガリコの木があり里山だったことがわかる。人の手の入った山の特徴と思っているミズナラの木も多い。P602やP852付近にはワイヤーや滑車などが残されており木材搬出の中継点として使われたようだった。

 先行者がいるような雰囲気があるのだがはっきりしない。人間の歩き方と違う気がする。雪がつきだしてはっきりした。数頭の鹿が歩いた跡が尾根道に続いている。これが冠山手前までつながっており、不思議だ。雪の苦手な鹿が登山道を歩くことはあるが、何のために山頂付近まで足を運んだのだろう。


あらくら山
あらくら山

 あらくら山の三角形の山容が目を引き付ける。尾根も雪におわれだし青空のもといい山行になりそうだ。林道を横切る所でアイゼンをつけ取り付きの急斜面を登っていく。雪庇の急な斜面を登っているとアイゼンの跡がある。先行者がいるようだ。ただ早い時間帯に通過したようで雪面に刃の跡があるだけだ。白山の白い輝きと金草岳が見えてきた。県境稜線には青空に白く映える霧氷の森が光り。目指す冠山のドームと連なる稜線がくっきりと見える。

 P1058の頂上部あたりで雪が途切れヤブが出ている。ヤブの下りなので体重をあずければどうにかなるかと進む。雪の重みに耐えたシャクナゲのヤブは強く、前のめりのまま体ごと持っていかれた。苦労して体を立て替えて、ちょっとずつヤブをこいで切り抜けた。強烈な場所はここだけで、後はたいしたことなかったが、雪解けが進むと苦労するだろう。

 獣のトレースにはげまされながら進むと県境稜線は近い。霧氷の輝く県境まで来るとグンと雪の量が増え雪稜が続く。ナイフリッジになった所も何カ所かあるが、雪が適度にゆるんでいるので問題はない。近づくにつれて冠山はジョーズのようにとがってきた。オイオイと思う急斜面である。


冠山
冠山

 源頭部で休憩をし、急斜面を右へ最短トラバースして主稜線を目指す。微妙にゆるんだ雪の斜面をアイゼンとピッケルを使いながら一歩一歩慎重に進む。主稜線に出ると徳山側がスパッと切れ落ちた山頂が見えた。冠山は見る方向によって山容を変化させて楽しませてくれる。また、雪の状態次第でアプローチの方法を考えさせてくれる山でもある。

冠山
冠山

 山頂は狭く三角点の標石が顔を出していた。美濃俣丸に三周ヶ岳、金草岳、銀杏峯に部子山、千両役者の白山に、能郷白山の山々と徳山湖が見える。越前と徳山を結ぶ冠越は田代から足羽川源流を進み尾根に取りつき冠平からヒン谷の支流、中ノ又とシタ谷の間の尾根を下るルートになる。徳山村に下る尾根がよく見えている。

冠越
冠越

 徳山村の正月はお寿司ではじまり、鯖とにしんを使う。東谷から冠山を越え真っすぐに行くと越前鯖江で、毎年福井から大量に鯖を売りに来ていた。また、東谷の塚や櫨原には鯖江の誠照寺派西福寺の檀家も多かった。寛文2年(1662年)より年1回「美濃檀家廻り」として鯖江の誠照寺本山が根尾、徳山を巡回して田代を経て鯖江に帰山する慣習が続いていた。こうした事に思いをはせながら冠越をながめると生活の場としての山を感じずにはいられない。

宮指路
記事: 1008
登録日時: 2011年2月27日(日) 21:13

Re: 【奥越】雪稜の冠山に登る

投稿記事 by 宮指路 »

わりばしさん、おはようございます。
 
徳山村の西谷は近江の玄関口で、東谷は越前とのつながりが深い。徳山村からの越前越の峠のひとつが冠越で、現在の冠山峠と違って冠山の東肩の標高1100m付近にある。この峠を見たくて冠山に向かった。[/color]
この辺りは登山道を外れると2mくらいの笹薮で積雪時でないと何ともならないらしいですね。

P3190051.JPG
 田代第3トンネルから続く尾根に雪は無く、トンネルから取り付くのは厳しそうだ。尾根の末端に植林地があるので橋を渡り向かう。植林地は整備された石垣で分けられており集落跡だった。田代の看板と墓もあり、田代の集落で間違いない。昭和25年には木地師の家がありトチノキの原木からお椀を挽いていたそうだが、その面影はない。田代尾根に取りつくとヤブっぽいものの昔の杣道があり尾根芯を外して道がつけられている。
杣道があれば何とか進めることができるのですね。
アガリコの木があり里山だったことがわかる。人の手の入った山の特徴と思っているミズナラの木も多い。P602やP852付近にはワイヤーや滑車などが残されており木材搬出の中継点として使われたようだった。
鈴鹿の水晶岳の奥でワイヤーや滑車を見つけたことがあります。

 
 あらくら山の三角形の山容が目を引き付ける。尾根も雪におわれだし青空のもといい山行になりそうだ。林道を横切る所でアイゼンをつけ取り付きの急斜面を登っていく。雪庇の急な斜面を登っているとアイゼンの跡がある。先行者がいるようだ。ただ早い時間帯に通過したようで雪面に刃の跡があるだけだ。
冠峠から来た登山者でしょうか?
白山の白い輝きと金草岳が見えてきた。県境稜線には青空に白く映える霧氷の森が光り。目指す冠山のドームと連なる稜線がくっきりと見える。

 P1058の頂上部あたりで雪が途切れヤブが出ている。ヤブの下りなので体重をあずければどうにかなるかと進む。雪の重みに耐えたシャクナゲのヤブは強く、前のめりのまま体ごと持っていかれた。苦労して体を立て替えて、ちょっとずつヤブをこいで切り抜けた。
しゃくなげ地獄は厄介ですね。登山道ならそんなことはないですが、ヤブ道のシャクナゲはなんともなりません。
 獣のトレースにはげまされながら進むと県境稜線は近い。霧氷の輝く県境まで来るとグンと雪の量が増え雪稜が続く。ナイフリッジになった所も何カ所かあるが、雪が適度にゆるんでいるので問題はない。近づくにつれて冠山はジョーズのようにとがってきた。オイオイと思う急斜面である。[/c

冠山のピークの岩場は登山道でも急ですから


 
源頭部で休憩をし、急斜面を右へ最短トラバースして主稜線を目指す。微妙にゆるんだ雪の斜面をアイゼンとピッケルを使いながら一歩一歩慎重に進む。主稜線に出ると徳山側がスパッと切れ落ちた山頂が見えた。冠山は見る方向によって山容を変化させて楽しませてくれる。また、雪の状態次第でアプローチの方法を考えさせてくれる山でもある。

積雪時の冠山は厳しいでしょう


 
山頂は狭く三角点の標石が顔を出していた。美濃俣丸に三周ヶ岳、金草岳、銀杏峯に部子山、千両役者の白山に、能郷白山の山々と徳山湖が見える。越前と徳山を結ぶ冠越は田代から足羽川源流を進み尾根に取りつき冠平からヒン谷の支流、中ノ又とシタ谷の間の尾根を下るルートになる。徳山村に下る尾根がよく見えている。

展望最高で良かったですね。
 徳山村の正月はお寿司ではじまり、鯖とにしんを使う。東谷から冠山を越え真っすぐに行くと越前鯖江で、毎年福井から大量に鯖を売りに来ていた。また、東谷の塚や櫨原には鯖江の誠照寺派西福寺の檀家も多かった。寛文2年(1662年)より年1回「美濃檀家廻り」として鯖江の誠照寺本山が根尾、徳山を巡回して田代を経て鯖江に帰山する慣習が続いていた。こうした事に思いをはせながら冠越をながめると生活の場としての山を感じずにはいられない。
冠越が特定できたのですね。
歴史のある峠だったようで、苦労して来た甲斐がありましたね。

宮指路
アバター
わりばし
記事: 1753
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【奥越】雪稜の冠山に登る

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、宮指路さん。
徳山村の西谷は近江の玄関口で、東谷は越前とのつながりが深い。徳山村からの越前越の峠のひとつが冠越で、現在の冠山峠と違って冠山の東肩の標高1100m付近にある。この峠を見たくて冠山に向かった。[/color]
この辺りは登山道を外れると2mくらいの笹薮で積雪時でないと何ともならないらしいですね。

そうでしょうね。
田代に人が住んでいたころは切り開きがあったのでしょうが、無いと厳しいでしょうね。

 田代第3トンネルから続く尾根に雪は無く、トンネルから取り付くのは厳しそうだ。尾根の末端に植林地があるので橋を渡り向かう。植林地は整備された石垣で分けられており集落跡だった。田代の看板と墓もあり、田代の集落で間違いない。昭和25年には木地師の家がありトチノキの原木からお椀を挽いていたそうだが、その面影はない。田代尾根に取りつくとヤブっぽいものの昔の杣道があり尾根芯を外して道がつけられている。
杣道があれば何とか進めることができるのですね。

何とかはなるんですが、ヤブを押しのけたり、顔に当たったりとめんどくさいです。
杣道と言っても田代の集落があったころのものですので、面影って感じです。
アガリコの木があり里山だったことがわかる。人の手の入った山の特徴と思っているミズナラの木も多い。P602やP852付近にはワイヤーや滑車などが残されており木材搬出の中継点として使われたようだった。
鈴鹿の水晶岳の奥でワイヤーや滑車を見つけたことがあります。

台高ではよく見かけますが奥越では珍しい気がします。
田代の里山だったんですね。

 
 あらくら山の三角形の山容が目を引き付ける。尾根も雪におわれだし青空のもといい山行になりそうだ。林道を横切る所でアイゼンをつけ取り付きの急斜面を登っていく。雪庇の急な斜面を登っているとアイゼンの跡がある。先行者がいるようだ。ただ早い時間帯に通過したようで雪面に刃の跡があるだけだ。
冠峠から来た登山者でしょうか?

たぶん同じ場所からの登山者だと思ます。
かなり雪のしまった早い時間に通過していたので気づかなかったようです。
それ以上に目を引く鹿のトレースもありましたし。

鹿のトレース
鹿のトレース
白山の白い輝きと金草岳が見えてきた。県境稜線には青空に白く映える霧氷の森が光り。目指す冠山のドームと連なる稜線がくっきりと見える。

 P1058の頂上部あたりで雪が途切れヤブが出ている。ヤブの下りなので体重をあずければどうにかなるかと進む。雪の重みに耐えたシャクナゲのヤブは強く、前のめりのまま体ごと持っていかれた。苦労して体を立て替えて、ちょっとずつヤブをこいで切り抜けた。
しゃくなげ地獄は厄介ですね。登山道ならそんなことはないですが、ヤブ道のシャクナゲはなんともなりません。

ここは尾根筋がシャクナゲなんで何ともなりません。
帰りはシャクナゲと雪がせめぎ合うギリギリの斜面をトラバースしました。

 獣のトレースにはげまされながら進むと県境稜線は近い。霧氷の輝く県境まで来るとグンと雪の量が増え雪稜が続く。ナイフリッジになった所も何カ所かあるが、雪が適度にゆるんでいるので問題はない。近づくにつれて冠山はジョーズのようにとがってきた。オイオイと思う急斜面である。[/c
冠山のピークの岩場は登山道でも急ですから

そうなんだ。
なにせ、冠山は初めてなもんで。
:mrgreen:

金草岳
金草岳

 
源頭部で休憩をし、急斜面を右へ最短トラバースして主稜線を目指す。微妙にゆるんだ雪の斜面をアイゼンとピッケルを使いながら一歩一歩慎重に進む。主稜線に出ると徳山側がスパッと切れ落ちた山頂が見えた。冠山は見る方向によって山容を変化させて楽しませてくれる。また、雪の状態次第でアプローチの方法を考えさせてくれる山でもある。
積雪時の冠山は厳しいでしょう

雪が多いとスノーシューで行ける時もあるようですが・・
厳冬期だとダブルピックステッキがベストなようです。
私も万が一を考えて、ピッケルをもうひとつ購入しました。
この日の雪の状態では必要ありませんでしたが。


 
山頂は狭く三角点の標石が顔を出していた。美濃俣丸に三周ヶ岳、金草岳、銀杏峯に部子山、千両役者の白山に、能郷白山の山々と徳山湖が見える。越前と徳山を結ぶ冠越は田代から足羽川源流を進み尾根に取りつき冠平からヒン谷の支流、中ノ又とシタ谷の間の尾根を下るルートになる。徳山村に下る尾根がよく見えている。
展望最高で良かったですね。

展望は最高で北アルプスまで見えました。

冠山山頂
冠山山頂
 徳山村の正月はお寿司ではじまり、鯖とにしんを使う。東谷から冠山を越え真っすぐに行くと越前鯖江で、毎年福井から大量に鯖を売りに来ていた。また、東谷の塚や櫨原には鯖江の誠照寺派西福寺の檀家も多かった。寛文2年(1662年)より年1回「美濃檀家廻り」として鯖江の誠照寺本山が根尾、徳山を巡回して田代を経て鯖江に帰山する慣習が続いていた。こうした事に思いをはせながら冠越をながめると生活の場としての山を感じずにはいられない。
冠越が特定できたのですね。
歴史のある峠だったようで、苦労して来た甲斐がありましたね。

ありがとうございます。
好展望の冠山で人を見ることはなく
ゆったり感慨に浸れました。
sato
記事: 417
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【奥越】雪稜の冠山に登る

投稿記事 by sato »

わりばしさま

こんばんは。
19日は、この上ないお天気でしたね。
前日雨で、夜は風が強く、翌朝の気温が低い予報でしたので、空気が澄んでいてお山の木々は霧氷で飾られるかな、と思ったのですが、
ここまで、澄み渡った空になるとは。皆さまの、レポを拝見し、ため息をついています。いや、歯ぎしりです。
お山を味わえなかった人には、この日のレポは、精神衛生上、よくないです(笑)。

わりばしさんは、この日、冠山を楽しまれてきたのですね。アルペン的なお姿が印象的なかっこいいお山ですね。
でも、このお山の味わい深さは山容だけではない。
私も、地図を眺めた時、冠山を挟んで東西にある冠ケ峠(冠越)と冠山峠に興味を惹かれました。
冠山峠は、1971年に林道冠山線が通った時に新設された峠。人々が歩いて行き来した峠は、冠ケ峠ですね。
冠越の道は、古くから美濃の徳山と、越前の田代とを結ぶ峠道。
そう、大正時代、桧尾峠道が主流になるまで、鯖江の誠照寺の美濃檀家廻りのお廻りさんも歩かれた道。
この道を歩いた人たちは、どのような気持ちで、冠山を仰ぎ見たのでしょうね。

伊吹山の山頂に立った時、足元から続いていく白山への道(稜線)を感じ、ドキドキした江美、越美国境稜線。
この稜線の山やまに分け入るのが夢になりました。
『秘境・奥美濃の山旅』を読み、お廻りさんの風習を知り、越美国境稜線の山やまへの想いがどんどんと膨らんでいきました。
冠越の越前側の道は、『秘境・奥美濃の山旅』を読むと、・916の尾根のようですね。
スタンフォード大学の地図でも、田代から冠谷を遡り・916の尾根へと破線が続いています。
今は、ヤブに埋もれていますね。ヤブや落ち葉の下には、人びとの様々な思いも折り重なっているのだなぁ。
地図を眺めていると、いろいろな思いに包まれます。

雪の冠山へは、私も田代尾根から登りました。雪の中の平家落人の伝承が残る廃村田代の空気も味わいたいと思いました。
私が訪れた年は雪が多く、トンネル横から取りつきました。
尾根の両側の木々は若く、人びとがずっと入っていたお山なのだなぁ、と思いました。ワイヤーと滑車は、鮮明に記憶に刻まれています。
田代尾根は杣道が残っているのですね。雪の降り積もったまっ白な尾根だと分からないですね。
山頂まで、ヤブに捕まった記憶は無いのですが、・1058周辺は雪融けが早いのですね。

稜線に出ると、霧氷でしたか。素晴らしい世界に出会えましたね。霧氷はお山の神様からのプレゼント。
わりばしさんは、今シーズン、何度も、うつくしい霧氷に出会われていますね。うらやましいです。
私は、日頃の行いがよくないのか、今シーズン、一面の霧氷!という世界は味わえませんでした。

山頂への最後の登りは、ワクワク面白かったです。
アイゼンに履き替えなくても大丈夫だな、と思い、スノーシューとピッケルで登りました。
雪の状態で判断する箇所ですね。
山頂は、灌木も雪で埋まっていて、うつくしい雪庇に飾られていましたが、春霞で遠くのお山は、ぼやけていました。
金草岳の大きな大きなまっ白なお姿に圧倒されました。
冠越の美濃側は、シタ谷の左岸尾根。私も、ここが峠道だったのだなぁ、と感慨に浸っていました。
雪の季節は、尾根や谷を見渡せて、埋もれてしまった道が浮かんできますね。

下りは、冠平に降りて、大野市と池田町の境の尾根を標高900mまで辿り、トンネル入り口に向かいました。
冠平から仰ぎ見た冠山は、どこまでも白く滑らかで、アイスクリームのようでした。
さっきまでの荒々しい冠山はどこにいってしまわれたのだろう、と不思議な気持ちに包まれました。
白と水色ふたつの色の冠平は夢のような場所でした。

境の尾根は、わりばしさんが少し前に歩かれた部子山へと延びていますね。熊河峠、巣原峠が気になっています。
水海の伝統行事、田楽能舞の歴史は鎌倉時代に遡るのですね。
北条時頼と村人との交流によって始まったという伝承がありますが、わりばしさんが、おっしゃるように、
能郷の能が巣原峠を越えて伝わったのかもしれませんね。
桐ケ平山周辺は地形も面白く、数年前に訪れた時は霧でしたので、再訪したいなぁ、と思い続けています。

山と人との歴史に思いを馳せながら山を歩くと、いろいろな風景が見えてきますね。
ヤブ山は、マイナーな山、誰も歩かないような道なき山、という言い方がされますが、
少し前の時代までは、山中には、交易道や仕事道が縫われ、人びとが行き交っていたのですね。
山は、生活の場だったのですね。
山に限らず、今、目に見えているものがすべてではない。目に映るものの奥にあるものに思いを巡らすと、
見えてくるもの、感じるものがたくさんありますね。

先日、京都丹波のちいさな峠を巡りました。いろいろ感じるものがありました。
もう霧氷に出会えないのは残念ですが、山と人との歴史を感じながらの山歩きが楽しみです。

sato
skywalk
記事: 509
登録日時: 2011年3月07日(月) 21:33

Re: 【奥越】雪稜の冠山に登る

投稿記事 by skywalk »

わりばしさん、こんにちは。
冠山には登ったことがないのですが、積雪期には近づくことさえ難しそうな気がします。
田代の看板と墓もあり、田代の集落で間違いない。昭和25年には木地師の家がありトチノキの原木からお椀を挽いていたそうだが、その面影はない。
早速ウンチクが出てきましたね。と思ったら今回はsatoさんも参戦して複雑怪奇な展開に。素人はただ見守るしかない。

数頭の鹿が歩いた跡が尾根道に続いている。これが冠山手前までつながっており、不思議だ。
鹿も増えすぎて里へ下りるか山奥に進むしかなかったのかな。

雪庇の急な斜面を登っているとアイゼンの跡がある。先行者がいるようだ。ただ早い時間帯に通過したようで雪面に刃の跡があるだけだ。
わりばしさんの先をいくとはすごい人。

県境稜線には青空に白く映える霧氷の森が光り。目指す冠山のドームと連なる稜線がくっきりと見える。
翌日、能郷白山に登ったけどポカポカ天気で霧氷なんか全然ありませんでした。霧氷なんか期待してなかったからぽかぽか天気の方を選んだのですが。

ヤブの下りなので体重をあずければどうにかなるかと進む。雪の重みに耐えたシャクナゲのヤブは強く、前のめりのまま体ごと持っていかれた。
おや、こんなところでヤブが出てくるとは。異常高温のせいですね。

霧氷の輝く県境まで来るとグンと雪の量が増え雪稜が続く。ナイフリッジになった所も何カ所かあるが、雪が適度にゆるんでいるので問題はない。近づくにつれて冠山はジョーズのようにとがってきた。オイオイと思う急斜面である。
何やら危険な雰囲気。ワリバシさんなら問題ないけど私だったらビビるな。それにしてもカッコいいですね。

徳山側がスパッと切れ落ちた山頂が見えた。
本当見事なまでに切れ落ちている。

美濃俣丸に三周ヶ岳、金草岳、銀杏峯に部子山、千両役者の白山に、能郷白山の山々と徳山湖が見える。
翌日、能郷白山からみた県境稜線はうねうねと曲がりくねってどこが冠山だか見分けがつかないのです。分かりますか。
IMGP9800.JPG
徳山村の正月はお寿司ではじまり、鯖とにしんを使う。東谷から冠山を越え真っすぐに行くと越前鯖江で、毎年福井から大量に鯖を売りに来ていた。また、東谷の塚や櫨原には鯖江の誠照寺派西福寺の檀家も多かった。
昔から随分交流があったのですね。京の都に鯖街道で運ぶのは理解できますが、徳山村でそんな需要があったとは想像できません。鯖江からの檀家周りも理解できないところがあります。宗派的な繫がりでしょうかね。私の未熟な想像力を越えています。
わりばしさんの想像力は古の生活と結びついたようで目的達成できましたね。
アバター
わりばし
記事: 1753
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【奥越】雪稜の冠山に登る

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、satoさん。

19日は、この上ないお天気でしたね。
前日雨で、夜は風が強く、翌朝の気温が低い予報でしたので、空気が澄んでいてお山の木々は霧氷で飾られるかな、と思ったのですが、
ここまで、澄み渡った空になるとは。皆さまの、レポを拝見し、ため息をついています。いや、歯ぎしりです。
お山を味わえなかった人には、この日のレポは、精神衛生上、よくないです(笑)。

南条のあたりを通った時は濃霧で、ここまで晴天になるとは思いませんでした。

私も、地図を眺めた時、冠山を挟んで東西にある冠ケ峠(冠越)と冠山峠に興味を惹かれました。
冠山峠は、1971年に林道冠山線が通った時に新設された峠。人々が歩いて行き来した峠は、冠ケ峠ですね。
冠越の道は、古くから美濃の徳山と、越前の田代とを結ぶ峠道。
そう、大正時代、桧尾峠道が主流になるまで、鯖江の誠照寺の美濃檀家廻りのお廻りさんも歩かれた道。
この道を歩いた人たちは、どのような気持ちで、冠山を仰ぎ見たのでしょうね。

越前も徳山も一向宗ですね。
一時期は弾圧された宗派だけに相互扶助の助け合いの意識も強いようです。
根尾谷と徳山谷の人たちだけが越前の一向宗の檀家というのもうなずけます。


『秘境・奥美濃の山旅』を読み、お廻りさんの風習を知り、越美国境稜線の山やまへの想いがどんどんと膨らんでいきました。
冠越の越前側の道は、『秘境・奥美濃の山旅』を読むと、・916の尾根のようですね。
スタンフォード大学の地図でも、田代から冠谷を遡り・916の尾根へと破線が続いています。
今は、ヤブに埋もれていますね。ヤブや落ち葉の下には、人びとの様々な思いも折り重なっているのだなぁ。
地図を眺めていると、いろいろな思いに包まれます。

・916の尾根みたいですね。
昔は登山道だったみたいだけど今もたどれるのかな?
『秘境・奥美濃の山旅』が気になって思わずヤフオクでポチッとしました。


雪の冠山へは、私も田代尾根から登りました。雪の中の平家落人の伝承が残る廃村田代の空気も味わいたいと思いました。
私が訪れた年は雪が多く、トンネル横から取りつきました。
尾根の両側の木々は若く、人びとがずっと入っていたお山なのだなぁ、と思いました。ワイヤーと滑車は、鮮明に記憶に刻まれています。
田代尾根は杣道が残っているのですね。雪の降り積もったまっ白な尾根だと分からないですね。
山頂まで、ヤブに捕まった記憶は無いのですが、・1058周辺は雪融けが早いのですね。

雪解けが早かったので強靭なヤブにかかりましたが、杣道にも出会えました。
木地師の村だったので、当時はそれなりの木がたくさんあったと思います。


稜線に出ると、霧氷でしたか。素晴らしい世界に出会えましたね。霧氷はお山の神様からのプレゼント。
わりばしさんは、今シーズン、何度も、うつくしい霧氷に出会われていますね。うらやましいです。
私は、日頃の行いがよくないのか、今シーズン、一面の霧氷!という世界は味わえませんでした。

そういわれればそうですね。
山行の回数の割にはラッキーでした。
タイミングと山域ですから。
:mrgreen:

P3190047.JPG

山頂への最後の登りは、ワクワク面白かったです。
アイゼンに履き替えなくても大丈夫だな、と思い、スノーシューとピッケルで登りました。
雪の状態で判断する箇所ですね。
山頂は、灌木も雪で埋まっていて、うつくしい雪庇に飾られていましたが、春霞で遠くのお山は、ぼやけていました。
金草岳の大きな大きなまっ白なお姿に圧倒されました。
冠越の美濃側は、シタ谷の左岸尾根。私も、ここが峠道だったのだなぁ、と感慨に浸っていました。
雪の季節は、尾根や谷を見渡せて、埋もれてしまった道が浮かんできますね。

スノーシューで登れたってことは雪が多かったんだ・・うらやましい。

金草岳
金草岳

徳山谷はアマゴやイワナがたくさん取れた所なので
サバやニシンのお寿司は正月の特別な料理だったと思います。
帰りに池田町の街の駅で「ニシンの昆布巻き」を買いました。
美味しかったです。
山奥の集落でニシンを食べる食文化は残っていました。
新潟生まれの妻も正月にはよく食べていたと言っていたので
北前船の影響かなと思いました。


下りは、冠平に降りて、大野市と池田町の境の尾根を標高900mまで辿り、トンネル入り口に向かいました。
冠平から仰ぎ見た冠山は、どこまでも白く滑らかで、アイスクリームのようでした。
さっきまでの荒々しい冠山はどこにいってしまわれたのだろう、と不思議な気持ちに包まれました。
白と水色ふたつの色の冠平は夢のような場所でした。

雪の多いときに周回をしたいですね。
今年はなにせ雪解けが早すぎました。


徳山湖
徳山湖

境の尾根は、わりばしさんが少し前に歩かれた部子山へと延びていますね。熊河峠、巣原峠が気になっています。
水海の伝統行事、田楽能舞の歴史は鎌倉時代に遡るのですね。
北条時頼と村人との交流によって始まったという伝承がありますが、わりばしさんが、おっしゃるように、
能郷の能が巣原峠を越えて伝わったのかもしれませんね。
桐ケ平山周辺は地形も面白く、数年前に訪れた時は霧でしたので、再訪したいなぁ、と思い続けています。

伝承には箔をつけるために後付けでなされる場合も多いです。
その最たるのが木地師の惟喬親王ですね。
時代が違いますから。
昔の人の知恵なんでしょう。
残された文化と地図でにらめっこするのがシンプルな気がします。


山と人との歴史に思いを馳せながら山を歩くと、いろいろな風景が見えてきますね。
ヤブ山は、マイナーな山、誰も歩かないような道なき山、という言い方がされますが、
少し前の時代までは、山中には、交易道や仕事道が縫われ、人びとが行き交っていたのですね。
山は、生活の場だったのですね。
山に限らず、今、目に見えているものがすべてではない。目に映るものの奥にあるものに思いを巡らすと、
見えてくるもの、感じるものがたくさんありますね。

明治以降日本人は古いものを切り捨てるのに慣れすぎちゃいました。
その中に大切なものもあるような気がします。
私達の祖先がどう生きてきたのか・・
見てみたいですね。


先日、京都丹波のちいさな峠を巡りました。いろいろ感じるものがありました。
もう霧氷に出会えないのは残念ですが、山と人との歴史を感じながらの山歩きが楽しみです。

今は丹波の峠ですか。
歴史のある地域だけに楽しみですね。
アバター
わりばし
記事: 1753
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【奥越】雪稜の冠山に登る

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、skywalkeさん。

冠山には登ったことがないのですが、積雪期には近づくことさえ難しそうな気がします。
田代の看板と墓もあり、田代の集落で間違いない。昭和25年には木地師の家がありトチノキの原木からお椀を挽いていたそうだが、その面影はない。
早速ウンチクが出てきましたね。と思ったら今回はsatoさんも参戦して複雑怪奇な展開に。素人はただ見守るしかない。

いい突っ込みですね。
今回は強敵ですよ。
:lol:

数頭の鹿が歩いた跡が尾根道に続いている。これが冠山手前までつながっており、不思議だ。
鹿も増えすぎて里へ下りるか山奥に進むしかなかったのかな。

そうかもしれません。
数頭でしかも1200mあたりまで来てました。


雪庇の急な斜面を登っているとアイゼンの跡がある。先行者がいるようだ。ただ早い時間帯に通過したようで雪面に刃の跡があるだけだ。
わりばしさんの先をいくとはすごい人。

人影すら見てないんです。
山頂付近で、私はトレースがわかるぐらい沈んだんですが
まったく沈んでませんでしたから
かなり早い時間かと?
深夜は月夜だったので、その中を歩いたのか?


県境稜線には青空に白く映える霧氷の森が光り。目指す冠山のドームと連なる稜線がくっきりと見える。
翌日、能郷白山に登ったけどポカポカ天気で霧氷なんか全然ありませんでした。霧氷なんか期待してなかったからぽかぽか天気の方を選んだのですが。

私も気温が高いので霧氷は期待してなかったのですが
県境稜線にはついていてラッキーでした。
昨晩は風が強かったんだろうな。


能郷白山
能郷白山

ヤブの下りなので体重をあずければどうにかなるかと進む。雪の重みに耐えたシャクナゲのヤブは強く、前のめりのまま体ごと持っていかれた。
おや、こんなところでヤブが出てくるとは。異常高温のせいですね。

そうでしょうね。
久々に強靭なヤブに出くわしました。
雪が残った所は沈み込んでおり
雪の重みはすごいんだなと実感しました。


霧氷の輝く県境まで来るとグンと雪の量が増え雪稜が続く。ナイフリッジになった所も何カ所かあるが、雪が適度にゆるんでいるので問題はない。近づくにつれて冠山はジョーズのようにとがってきた。オイオイと思う急斜面である。
何やら危険な雰囲気。ワリバシさんなら問題ないけど私だったらビビるな。それにしてもカッコいいですね。

斜面が凍った時はダブルピックステッキがいいようで
念のためピッケルを1本新たに購入しました。
冠山は徳山からだとピラミッドに見える所もあり
いろんな顔を持っています。


冠山
冠山

徳山側がスパッと切れ落ちた山頂が見えた。
本当見事なまでに切れ落ちている。

この切れ落ちがいろんな山容を見せてくれるポイントなんでしょうね。

美濃俣丸に三周ヶ岳、金草岳、銀杏峯に部子山、千両役者の白山に、能郷白山の山々と徳山湖が見える。
翌日、能郷白山からみた県境稜線はうねうねと曲がりくねってどこが冠山だか見分けがつかないのです。分かりますか。

能郷白山からだとわかりにくいですね。
若丸山の影に隠れちゃうのかな?


白山
白山

徳山村の正月はお寿司ではじまり、鯖とにしんを使う。東谷から冠山を越え真っすぐに行くと越前鯖江で、毎年福井から大量に鯖を売りに来ていた。また、東谷の塚や櫨原には鯖江の誠照寺派西福寺の檀家も多かった。
昔から随分交流があったのですね。京の都に鯖街道で運ぶのは理解できますが、徳山村でそんな需要があったとは想像できません。鯖江からの檀家周りも理解できないところがあります。宗派的な繫がりでしょうかね。私の未熟な想像力を越えています。
わりばしさんの想像力は古の生活と結びついたようで目的達成できましたね。

サバやニシンはお正月などの晴れの日用です。
日頃はアマゴやイワナを食べていました。
檀家廻りは一向宗の繋がりがあると思います。
徳山谷は元々天台宗や真言宗が盛んだったようで
それを越前から山越えで来て改宗させたようです。
おもしろいでしょ。

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