【東紀州】須賀利をめぐる 須賀利大池・日和山・寺倉峠
Posted: 2023年1月22日(日) 16:28
【日 付】2023年1月21日(土)
【山 域】東紀州
【コース】須賀利中8:15---10:15江戸鼻---12:15日和山---13:25寺倉峠---14:30須賀利中
【メンバー】単独
草川さんの「海をながめる山歩き」を読んで気になっていた須賀利に出かけた。年末にロケ地巡りで来ている。中学校の跡地に駐車し、車道沿いの小さな谷から登山道に入る。植林の稜線を越え下りにかかった所に石積の祠の跡がある。ここまでが、元須賀利の領域だったのだろう。太い木はすべて幹が上がったところから子に分かれるアガリコになっており、炭焼きに使われていたようだ。
須賀利小池に降り立ち浜から小尾根を乗越すと須賀利大池が見えてきた。すぐに社護神社で、石垣と祠が残っている。このあたりが江戸時代に廃村となった元須賀利のあった場所だ。そのまま池の北側の道を進むと池の東端にきれいな炭焼窯があった。かんちょう型をした窯で台高で見かける形だ、ウバメガシが多い場所だから備長炭を作っていたのかもしれない。大池の先のコルからは熊野灘が大きく開け、沖合の岩礁で釣りをしている人が見える。
江戸鼻に御挨拶をして池の南側の道を進む。こちらの方が石積みも残り歩きやすい。椿の花が見ごろで美しく、赤い実をつけた万両も多い。神社から来た道を戻る。分岐から稜線を進み日和山に着くと四角く石で囲まれた狼煙台がある。須賀利の老人に聞いたところ、幕末に外国船を見張ったようで、島勝にもあると教えてくれた。須賀利の12時の時報「尾鷲節」のメロディがまじかに聞こえる。kitayamawalkeさんの標識に別れを告げ、下山路を思案する。東紀州の山だけに植林地もシダにおおわれている所が多く、へたをするとシダのヤブコギになりかねない。P240から北西に降りる尾根に踏み跡があるのでここを下る。テープもあり杣道として使われているようだ。末端で右の谷に下り、シダコギをすることなく網小屋の前に軟着陸できた。
須賀利の普済寺方面に向かう。本堂はマグロ・カツオ漁で港が賑わっていた文久元年(1861)に再建されたもので、大工の棟梁は名古屋の竹中和泉(竹中工務店の祖)が請け負ったそうだ。寺にはマグロ供養塔が残っている。ここから寺倉峠へ向けて道が続いている。津波の避難路に沿っていくと自然とつながった。立派な石積みの九十九折の道が続いている。ただ、まったく使われていないようで、道には倒木が放置されシダが生えている。登り口には不動明王を祀った小屋がある。シダコギをしながら峠が近づくとプラスチックで作られた鳥居と神社の小屋があるが、中は見えない。
寺倉峠は掘割になっていて。寺倉側は植林だった。道は続いているが植林道のピストをする気になれず引き返す。木の間から引本の町が見えた。須賀利の老人によると須賀利から寺倉峠を越え寺倉、目と鼻の先の引本までは櫓をこいで生活物資を
調達するのが昔のルートで、子供のころはこの道でよく遊んだと言っていた。遅めの昼食を取りロケ地巡りに向かう。
中上健次の代表作「千年の愉楽」の映画はほとんどのシーンを須賀利で撮っている。普済寺では路地唯一の産婆オリュウノオバ(寺島しのぶ)が赤ん坊をとり上げるシーン、寺に通じる長い階段は高岡蒼佑が他人妻を口説くシーンで使われた。
路地をつなぎ須賀利婦人会「おんばの会」の家に向かう。オリュウノオバが住んでいた設定で使われ。縁側からは母の子宮のように集落を包み込む須賀利湾が目の前に映る。少し登った水場では、路地の女たちがよもやま話をするシーン、高良健吾が刺され亡くなるシーンに使われた。須賀利の老人によると水道が引かれるまでは、この水を飲み水として使っていたそうだ。
高宮神社の雑木林は染谷将太とオリュウノオバが契りを結ぶシーンに使われた。ここで須賀利の老人に会いいろんな話を聞いた。ロケ現場の本部に使われた銭湯の二階や昼食場所として使われた公民館の話など、昨日のことのように話してくれる。ここにはロケ地巡りの看板などないが、皆親切に教えてくれる。なんとはなしに満ち足りた気持ちで帰路についた。
【山 域】東紀州
【コース】須賀利中8:15---10:15江戸鼻---12:15日和山---13:25寺倉峠---14:30須賀利中
【メンバー】単独
草川さんの「海をながめる山歩き」を読んで気になっていた須賀利に出かけた。年末にロケ地巡りで来ている。中学校の跡地に駐車し、車道沿いの小さな谷から登山道に入る。植林の稜線を越え下りにかかった所に石積の祠の跡がある。ここまでが、元須賀利の領域だったのだろう。太い木はすべて幹が上がったところから子に分かれるアガリコになっており、炭焼きに使われていたようだ。
須賀利小池に降り立ち浜から小尾根を乗越すと須賀利大池が見えてきた。すぐに社護神社で、石垣と祠が残っている。このあたりが江戸時代に廃村となった元須賀利のあった場所だ。そのまま池の北側の道を進むと池の東端にきれいな炭焼窯があった。かんちょう型をした窯で台高で見かける形だ、ウバメガシが多い場所だから備長炭を作っていたのかもしれない。大池の先のコルからは熊野灘が大きく開け、沖合の岩礁で釣りをしている人が見える。
江戸鼻に御挨拶をして池の南側の道を進む。こちらの方が石積みも残り歩きやすい。椿の花が見ごろで美しく、赤い実をつけた万両も多い。神社から来た道を戻る。分岐から稜線を進み日和山に着くと四角く石で囲まれた狼煙台がある。須賀利の老人に聞いたところ、幕末に外国船を見張ったようで、島勝にもあると教えてくれた。須賀利の12時の時報「尾鷲節」のメロディがまじかに聞こえる。kitayamawalkeさんの標識に別れを告げ、下山路を思案する。東紀州の山だけに植林地もシダにおおわれている所が多く、へたをするとシダのヤブコギになりかねない。P240から北西に降りる尾根に踏み跡があるのでここを下る。テープもあり杣道として使われているようだ。末端で右の谷に下り、シダコギをすることなく網小屋の前に軟着陸できた。
須賀利の普済寺方面に向かう。本堂はマグロ・カツオ漁で港が賑わっていた文久元年(1861)に再建されたもので、大工の棟梁は名古屋の竹中和泉(竹中工務店の祖)が請け負ったそうだ。寺にはマグロ供養塔が残っている。ここから寺倉峠へ向けて道が続いている。津波の避難路に沿っていくと自然とつながった。立派な石積みの九十九折の道が続いている。ただ、まったく使われていないようで、道には倒木が放置されシダが生えている。登り口には不動明王を祀った小屋がある。シダコギをしながら峠が近づくとプラスチックで作られた鳥居と神社の小屋があるが、中は見えない。
寺倉峠は掘割になっていて。寺倉側は植林だった。道は続いているが植林道のピストをする気になれず引き返す。木の間から引本の町が見えた。須賀利の老人によると須賀利から寺倉峠を越え寺倉、目と鼻の先の引本までは櫓をこいで生活物資を
調達するのが昔のルートで、子供のころはこの道でよく遊んだと言っていた。遅めの昼食を取りロケ地巡りに向かう。
中上健次の代表作「千年の愉楽」の映画はほとんどのシーンを須賀利で撮っている。普済寺では路地唯一の産婆オリュウノオバ(寺島しのぶ)が赤ん坊をとり上げるシーン、寺に通じる長い階段は高岡蒼佑が他人妻を口説くシーンで使われた。
路地をつなぎ須賀利婦人会「おんばの会」の家に向かう。オリュウノオバが住んでいた設定で使われ。縁側からは母の子宮のように集落を包み込む須賀利湾が目の前に映る。少し登った水場では、路地の女たちがよもやま話をするシーン、高良健吾が刺され亡くなるシーンに使われた。須賀利の老人によると水道が引かれるまでは、この水を飲み水として使っていたそうだ。
高宮神社の雑木林は染谷将太とオリュウノオバが契りを結ぶシーンに使われた。ここで須賀利の老人に会いいろんな話を聞いた。ロケ現場の本部に使われた銭湯の二階や昼食場所として使われた公民館の話など、昨日のことのように話してくれる。ここにはロケ地巡りの看板などないが、皆親切に教えてくれる。なんとはなしに満ち足りた気持ちで帰路についた。