【台高】嘉茂助谷作業所跡・嘉茂助滝・嘉茂助谷ノ頭 彷徨の地
Posted: 2021年12月05日(日) 15:23
【日 付】2021年12月4日(土)
【山 域】台高
【コース】花折峠口P7:45---9:25嘉茂助谷作業所跡---10:25嘉茂助滝---11:45嘉茂助谷ノ頭---13:40花折峠口P
【メンバー】単独
大台林道を上っていくと、坊主尾根に朝日に照らされた赤みがかった虹がかかっている。小木森滝は200mの高さから降り注ぎ、八町滝は滝横の崩落した岩肌が見える。今回は、昔のziipさんのレポにあった嘉茂助谷作業所跡と嘉茂助滝をめぐることにした。花抜峠駐車場で、準備していると工事関係の車が2台上って行った。
駐車場正面の谷の石積みは千尋峠に向かう物で、左の谷から土倉古道は続いている。この10年で石垣の崩れが目立ち、道に木がおおうようになってきたものの快適な道には違いない。途中で小木森谷源流に降りていく道と分かれる。この先にも木馬道がきており、この付近は木馬道が縦横無尽につけられていた。花抜峠付近が不明瞭なためか千尋峠から上る登山者が多いようだ。
花抜峠では引本浦と熊野灘の雄大な景色が開けるが、風花が舞っていて寒い。峠から北に下る破線道は荒れていそうなので、谷の二俣に向かって北北西に降りている峠横の尾根を下る。すぐに水音が聞こえてきて二俣に到着。右岸に石積が残っており明治時代に建てられた御料林嘉茂助谷作業所跡になる。
大正元年8月に民俗学者で歌人の折口信夫が二晩宿営したと木柱に書いてある。海山郷土資料館の記念碑には、「船津から往古川を遡り八町滝から花抜峠付近で山道に迷い二日間絶食して彷徨す。その貴重な体験を翌年自筆詩集ひとりしてに記す」と書かれている。これが詩の中の『山めぐり 二日人見ず』の事だろう。江戸時代から八町滝は熊野灘から見えるだけに有名だった。真砂谷には木馬道に杣道があったので、これを使って右俣にある八町滝に入ったようだ。巨大なゴーロを避ける道が当時はあったのだろう。八町滝は左岸のルンゼから巻く道もあったようだ。難所を越えてから遭難し、最後は嘉茂助谷作業所に助けを求めここに二泊したのだろう。当時土倉道は出来ていたので、花抜峠に上り返し土倉道で船津に戻ったようだ。
作業所跡には大量の瓶が残っている。宝焼酎の瓶にタカラビールが混ざっている感じで、1960年代の物だ。明治に出来た嘉茂助谷作業所は、この時代まで現役で使われていたのだろう。ここから大台林道までは長年使われてきた道が右岸に残っており、これを歩いた。
大台林道から工事の音がする。すぐに嘉茂助谷で、その先の法面の工事を朝見かけた業者が行っていた。
林道出合の堰堤は右岸から巻く。テープが上り口と下降点にあるが、人がまったく通っておらず簿妙な感じで越えた。谷に入ると工事の音も消え、静かだ。濡れたくないのでへつったり巻いたりしながら進む。高巻くより濡れた方が安全と思う場所では水の中に入る。下半身は沢装束で来ているので問題はない。谷の両岸が立ってきて、嘉茂助滝が出てきた。滝前には大岩が重なり滝口は正面の槍岩の横で、そこから流れ落ちた水流がその下の岩で二つに分かれており25mはありそうだ。手前の左岸からも滝が落ちている。この水が大杉谷に下り出合のニコニコ滝群になるかと思うと感慨深いものがある。
左岸は急なザレ場でその先が見えないが、右岸のルンゼは上まで見えているのでここを上る。慎重に植林の尾根まで上りきると、テープがある。最初は目印テープと思ったが、稜線まで尾根芯に沿ってつながっていたので林業関係者の物のようだ。
土倉古道につき嘉茂助谷ノ頭に向かう。日陰の古道には雪が残っていた。嘉茂助谷ノ頭は相変わらず風が強いので、少し下の展望の良い所で休憩した。ここには、御料林当時の宮印の標柱が残っている。明治時代のもので、嘉茂助谷作業所と同時代のものだ。山頂では千尋峠から上ってきたパーティと話をした。土倉古道で帰る途中、小木森公団造林地の看板を目にして所有者を見て驚いた。国有林と思っていたら尾鷲の山林王土井家の持ち物だった。
折口信夫から大正元年当時の山歩きに思いをはせることができたのは収穫だった。当時の花折峠付近は人が行き交う場所と思うのだが、折口信夫はどこを二日も彷徨していたのだろうか。この時折口は、大阪府立今宮中学校の教員をしており、学生2人を連れての山行だった。遭難時の心情がリアルに表れている。
『 山めぐり二日人見ず あるくまの蟻の孔に、 ひた見入りつつ 』
【山 域】台高
【コース】花折峠口P7:45---9:25嘉茂助谷作業所跡---10:25嘉茂助滝---11:45嘉茂助谷ノ頭---13:40花折峠口P
【メンバー】単独
大台林道を上っていくと、坊主尾根に朝日に照らされた赤みがかった虹がかかっている。小木森滝は200mの高さから降り注ぎ、八町滝は滝横の崩落した岩肌が見える。今回は、昔のziipさんのレポにあった嘉茂助谷作業所跡と嘉茂助滝をめぐることにした。花抜峠駐車場で、準備していると工事関係の車が2台上って行った。
駐車場正面の谷の石積みは千尋峠に向かう物で、左の谷から土倉古道は続いている。この10年で石垣の崩れが目立ち、道に木がおおうようになってきたものの快適な道には違いない。途中で小木森谷源流に降りていく道と分かれる。この先にも木馬道がきており、この付近は木馬道が縦横無尽につけられていた。花抜峠付近が不明瞭なためか千尋峠から上る登山者が多いようだ。
花抜峠では引本浦と熊野灘の雄大な景色が開けるが、風花が舞っていて寒い。峠から北に下る破線道は荒れていそうなので、谷の二俣に向かって北北西に降りている峠横の尾根を下る。すぐに水音が聞こえてきて二俣に到着。右岸に石積が残っており明治時代に建てられた御料林嘉茂助谷作業所跡になる。
大正元年8月に民俗学者で歌人の折口信夫が二晩宿営したと木柱に書いてある。海山郷土資料館の記念碑には、「船津から往古川を遡り八町滝から花抜峠付近で山道に迷い二日間絶食して彷徨す。その貴重な体験を翌年自筆詩集ひとりしてに記す」と書かれている。これが詩の中の『山めぐり 二日人見ず』の事だろう。江戸時代から八町滝は熊野灘から見えるだけに有名だった。真砂谷には木馬道に杣道があったので、これを使って右俣にある八町滝に入ったようだ。巨大なゴーロを避ける道が当時はあったのだろう。八町滝は左岸のルンゼから巻く道もあったようだ。難所を越えてから遭難し、最後は嘉茂助谷作業所に助けを求めここに二泊したのだろう。当時土倉道は出来ていたので、花抜峠に上り返し土倉道で船津に戻ったようだ。
作業所跡には大量の瓶が残っている。宝焼酎の瓶にタカラビールが混ざっている感じで、1960年代の物だ。明治に出来た嘉茂助谷作業所は、この時代まで現役で使われていたのだろう。ここから大台林道までは長年使われてきた道が右岸に残っており、これを歩いた。
大台林道から工事の音がする。すぐに嘉茂助谷で、その先の法面の工事を朝見かけた業者が行っていた。
林道出合の堰堤は右岸から巻く。テープが上り口と下降点にあるが、人がまったく通っておらず簿妙な感じで越えた。谷に入ると工事の音も消え、静かだ。濡れたくないのでへつったり巻いたりしながら進む。高巻くより濡れた方が安全と思う場所では水の中に入る。下半身は沢装束で来ているので問題はない。谷の両岸が立ってきて、嘉茂助滝が出てきた。滝前には大岩が重なり滝口は正面の槍岩の横で、そこから流れ落ちた水流がその下の岩で二つに分かれており25mはありそうだ。手前の左岸からも滝が落ちている。この水が大杉谷に下り出合のニコニコ滝群になるかと思うと感慨深いものがある。
左岸は急なザレ場でその先が見えないが、右岸のルンゼは上まで見えているのでここを上る。慎重に植林の尾根まで上りきると、テープがある。最初は目印テープと思ったが、稜線まで尾根芯に沿ってつながっていたので林業関係者の物のようだ。
土倉古道につき嘉茂助谷ノ頭に向かう。日陰の古道には雪が残っていた。嘉茂助谷ノ頭は相変わらず風が強いので、少し下の展望の良い所で休憩した。ここには、御料林当時の宮印の標柱が残っている。明治時代のもので、嘉茂助谷作業所と同時代のものだ。山頂では千尋峠から上ってきたパーティと話をした。土倉古道で帰る途中、小木森公団造林地の看板を目にして所有者を見て驚いた。国有林と思っていたら尾鷲の山林王土井家の持ち物だった。
折口信夫から大正元年当時の山歩きに思いをはせることができたのは収穫だった。当時の花折峠付近は人が行き交う場所と思うのだが、折口信夫はどこを二日も彷徨していたのだろうか。この時折口は、大阪府立今宮中学校の教員をしており、学生2人を連れての山行だった。遭難時の心情がリアルに表れている。
『 山めぐり二日人見ず あるくまの蟻の孔に、 ひた見入りつつ 』