【台高】蓮乾留第四・第五工場の人や物資は赤嵓滝谷左岸道から来ていた
Posted: 2021年6月13日(日) 19:37
【日 付】2021年6月12日(土)
【山 域】台高
【コース】千石林道駐車場7:30---10:05赤嵓滝---15:00千石林道駐車場
【メンバー】単独
三重木材乾留会社の蓮第四工場と蓮第五工場は赤嵓滝30mの滝上にある。第四工場・第五工場は共に対岸に飯場跡があり規模の大きさがうかがえる。「蓮の場合は山中の工場から人の背や肩により清瀬まで運んだ。」と搬出方法について飯高町郷土史に書かれている。大量の土管やレンガ等の資材をどうやって運んだのだろうかと思っていたところに「神戸鈴木の乾留工場のあった頃の開墾地」が谷の左岸にあることを知り以前に探索をした。
千石平の北西に広がる緩やかな広い斜面が開墾地で石積みと乾留工場の土管が残されている。ここから左岸の水平道が続き、植林から自然林に代わり尾根を回り込みながら進んでいる。この先の赤嵓滝谷に流れ込む水線のある谷が抜け落ちており、以前ここで撤退した。
先週ここを巻こうと岩尾根を上ったが、目的の尾根の上部は嵓が立っており厳しい。左岸の水平道は赤嵓滝の下部の嵓と尾根の上部の嵓の弱点を突くようにつけられているようだ。三重木材乾留会社を引き継いだ千秋社に勤めていた青田のオジヤンもこの道の事を知っていたので間違いないだろう。
赤嵓滝を越える左岸道の核心部がそのまま残っているとは考えられないので、今日は赤嵓滝谷をつめて赤嵓滝を越えて左岸道の探索をすることにした。
千石林道を終点まで歩き赤嵓滝谷に降りる。屈曲部に流木が詰まる最初の滝は右岸の小尾根から巻く。CS8m滝は右岸の岩場を木の根頼りに越える。ここは何度か来ており簡単に越えたように思うのだが、今日はいやらしい。乗越す地点にあるロープまで慎重にトラバースした。下部の足場が落ちて取りつきにくくなっている。この先に植林が千石平から下りてきているので、これを使えば巻きは回避できる。
赤嵓滝が見える位置で右から支谷が来ている。これが開墾地の先の水線の谷で赤嵓滝は目と鼻の先である。赤嵓滝は右岸をトラバースしながら巻くので、ピンソールを付けた。
倒木のある滝口に着いて、左岸を少し上ると道跡らしき筋が滝上を巻くようにつながっている。左岸道は開墾地からここにつながっていた。反対側の右岸にも上り返してみると瀬戸越に向かって獣道が続いていた。
左岸の第四工場はすぐだ。ここは、土砂におおわれ、ほとんどの土管は割れている。石積みと窯の一部のレンガ、ダンパー等が残っており乾留工場であったことがわかる。ただ、このまま土砂崩れが進むと、数年で消えてしまいそうな感じだ。少し上流にある右岸の飯場には、サクラビール、カブトビール、大日本麦酒、三ツ矢印平野シャンペンサイダー等の瓶や食器等の生活痕が残っている。
しばらく歩くと右岸に第五工場、左岸に飯場のあった三俣に着く。ここは三重木材乾留会社の乾留工場の中でも大正時代の工場の痕跡を最も残している。二窯三火床の岩本式木材乾留炭化装置に石垣や冷却用の土管などが当時のまま残っている。第四工場と第五工場を結ぶルートは両岸にあったようだ。
オジヤンの言ったとおり、開墾地から赤嵓滝を越えて左岸の道はつながっていた。開墾地から第四工場まで最短でつないでおり20分もかからなかったんじゃないだろうか。大量の物資は仕事の早い左岸道を使って人の背で運んだようだ。とはいうものの1年で山中に11か所の乾留工場を作り生産にこぎつけたのだから、右岸の瀬戸越につながる道も当然使われたと思う。ただ、鈴木商店が開墾地を作った経緯を考えると左岸道が主力の運搬路として活用されたと考えるのが自然だと思う。
当時の賃金体系を見ると、危険を伴なう筏流しの日雇い賃金が30銭、乾留工場が1円、手車引き(乾留関連)2円20銭が相場になっており破格の賃金であったことがわかる。
第五工場から桧塚劇場に上り、第二劇場を過ぎたピークから南南西に伸びる急な尾根を下り開墾地経由で下山した。
【山 域】台高
【コース】千石林道駐車場7:30---10:05赤嵓滝---15:00千石林道駐車場
【メンバー】単独
三重木材乾留会社の蓮第四工場と蓮第五工場は赤嵓滝30mの滝上にある。第四工場・第五工場は共に対岸に飯場跡があり規模の大きさがうかがえる。「蓮の場合は山中の工場から人の背や肩により清瀬まで運んだ。」と搬出方法について飯高町郷土史に書かれている。大量の土管やレンガ等の資材をどうやって運んだのだろうかと思っていたところに「神戸鈴木の乾留工場のあった頃の開墾地」が谷の左岸にあることを知り以前に探索をした。
千石平の北西に広がる緩やかな広い斜面が開墾地で石積みと乾留工場の土管が残されている。ここから左岸の水平道が続き、植林から自然林に代わり尾根を回り込みながら進んでいる。この先の赤嵓滝谷に流れ込む水線のある谷が抜け落ちており、以前ここで撤退した。
先週ここを巻こうと岩尾根を上ったが、目的の尾根の上部は嵓が立っており厳しい。左岸の水平道は赤嵓滝の下部の嵓と尾根の上部の嵓の弱点を突くようにつけられているようだ。三重木材乾留会社を引き継いだ千秋社に勤めていた青田のオジヤンもこの道の事を知っていたので間違いないだろう。
赤嵓滝を越える左岸道の核心部がそのまま残っているとは考えられないので、今日は赤嵓滝谷をつめて赤嵓滝を越えて左岸道の探索をすることにした。
千石林道を終点まで歩き赤嵓滝谷に降りる。屈曲部に流木が詰まる最初の滝は右岸の小尾根から巻く。CS8m滝は右岸の岩場を木の根頼りに越える。ここは何度か来ており簡単に越えたように思うのだが、今日はいやらしい。乗越す地点にあるロープまで慎重にトラバースした。下部の足場が落ちて取りつきにくくなっている。この先に植林が千石平から下りてきているので、これを使えば巻きは回避できる。
赤嵓滝が見える位置で右から支谷が来ている。これが開墾地の先の水線の谷で赤嵓滝は目と鼻の先である。赤嵓滝は右岸をトラバースしながら巻くので、ピンソールを付けた。
倒木のある滝口に着いて、左岸を少し上ると道跡らしき筋が滝上を巻くようにつながっている。左岸道は開墾地からここにつながっていた。反対側の右岸にも上り返してみると瀬戸越に向かって獣道が続いていた。
左岸の第四工場はすぐだ。ここは、土砂におおわれ、ほとんどの土管は割れている。石積みと窯の一部のレンガ、ダンパー等が残っており乾留工場であったことがわかる。ただ、このまま土砂崩れが進むと、数年で消えてしまいそうな感じだ。少し上流にある右岸の飯場には、サクラビール、カブトビール、大日本麦酒、三ツ矢印平野シャンペンサイダー等の瓶や食器等の生活痕が残っている。
しばらく歩くと右岸に第五工場、左岸に飯場のあった三俣に着く。ここは三重木材乾留会社の乾留工場の中でも大正時代の工場の痕跡を最も残している。二窯三火床の岩本式木材乾留炭化装置に石垣や冷却用の土管などが当時のまま残っている。第四工場と第五工場を結ぶルートは両岸にあったようだ。
オジヤンの言ったとおり、開墾地から赤嵓滝を越えて左岸の道はつながっていた。開墾地から第四工場まで最短でつないでおり20分もかからなかったんじゃないだろうか。大量の物資は仕事の早い左岸道を使って人の背で運んだようだ。とはいうものの1年で山中に11か所の乾留工場を作り生産にこぎつけたのだから、右岸の瀬戸越につながる道も当然使われたと思う。ただ、鈴木商店が開墾地を作った経緯を考えると左岸道が主力の運搬路として活用されたと考えるのが自然だと思う。
当時の賃金体系を見ると、危険を伴なう筏流しの日雇い賃金が30銭、乾留工場が1円、手車引き(乾留関連)2円20銭が相場になっており破格の賃金であったことがわかる。
第五工場から桧塚劇場に上り、第二劇場を過ぎたピークから南南西に伸びる急な尾根を下り開墾地経由で下山した。