【台高】乾留工場と刻印白煉瓦
Posted: 2021年5月29日(土) 16:33
【日 付】2021年5月23日(日)
【山 域】台高
【コース】千石林道駐車場---喜平小屋谷第二工場---喜平小屋谷第三工場
【メンバー】単独
台高の山中には大正時代の乾留工場が眠っている。「鬼滅の刃」の鬼舞辻󠄀無惨が浅草六区を闊歩していた時代だ。軍事関連物資アセトンの製造を行っていた乾留工場は、大正4年に飯高の三重木材乾留会社によって操業が始まっている。第一次世界大戦開戦から1年たらずで生産が始まっておりすばやい対応だ。鈴木商店という巨大コンツェルンの存在と日英同盟を結んでいるイギリスからの技師派遣がその要因だろう。イギリス人技師は飯高のどこに居住していたのだろうか。
千石林道は井戸谷崩壊地の堰堤工事が半年前までしていたので、車止めから難なく歩くことができる。林道終点から杣道下ると喜平小屋谷出合で、対岸に蓮第二工場がある。堰堤のせいで、工場跡は縮小されているものの手びねりの土管や煉瓦にサクラビールの瓶が残されている。
出合までの杣道の斜面には磁器や貧乏徳利などが落ちているので、ここに飯場があったのだろう。それが林道工事で埋まったようで、斜面からは明治42年(1909)~大正10年(1921)まで作られていた三ツ矢印平野シャンペンサイダーの瓶も出てきた。三ツ矢サイダーミュージアムに陳列してあるのと同じ物で、宮沢賢治も飲んでいる。宮沢賢治の童話「ボラーノの広場」にも乾留工場は出てきており同じ時代を共有したのだろう。
蓮第三工場へは、喜平小屋谷をつめていく。昔はしっかりとした道があったのだが、今は微妙な感じだ。二俣になり植林に取りついた台地が乾留工場だ。ここには、二窯三火床の岩本式木材乾留炭化装置があった。窯底と窯腰に耐火煉瓦(白煉瓦)が使われており、それ以外は土石で築かれている。窯はすでに崩れており冷却装置としての無数の土管が放置されている。どこの窯も複数の会社の耐熱煉瓦を使っており、全国で需要が高まる中集められるだけ集めた感じがする。
当時高級品だった耐熱煉瓦はほとんど刻印が押されており、歴史をさかのぼる貴重な物証になる。とはいうものの煉瓦の需要の波は大きく多くの会社がすでに無く、会社名・製造地・製造年などを追うのは容易ではない。
8年前に蓮第三工場で「KINJO F.B」の耐熱煉瓦を見つけた。金城は名古屋城の事なので、全愛知県赤煉瓦工業協同組合に問い合わせたが「わからない」との回答だった。それが今年になって新しい資料が見つかり特定できた。
〇刻印 「KINJO F.B」 会社名 金城耐火煉瓦(合資)
操業時期 大正5年2月~大正7年
所在地 愛知県愛知郡千種町
会社名 金城耐火煉瓦(株)
操業時期 大正8年5月~大正10年
所在地 神奈川県橘樹郡町田村
工場は名古屋にあったようだが、株式会社になるにともない本社は町田に移ったようだ。この期間を合わせてもわずか5年しか操業していない。飯高に乾留工場が出来たのが大正4年以降なので、時期も符合する。
それ以外の刻印耐熱煉瓦についてもほぼ特定できたので、記載する。
〇刻印 「SHINAGAWA」 会社名 品川白煉瓦 <本社>
操業時期 明治8年~昭和7年
所在地 荏原郡品川町元品川宿301番地
会社名 品川白煉瓦 <大阪支店>
操業時期 明治37年8月~大正10年
所在地 南区木津三番町
会社名 品川白煉瓦 <伊部工場>
操業時期 大正7年~昭和40年
所在地 岡山県和気郡伊部町707
「SHINAGAWA」は数も多い。ただし、どの工場で作られたかは特定できていない。
〇刻印 「BIZEN INBE」 会社名 帝国窯業(株)
操業時期 大正6年11月~
所在地 岡山県和気郡伊部町久々井1807
〇刻印 「三石白煉瓦合資会社製」 操業時期 大正6年3月~大正10年
所在地 岡山県和気郡三石町
〇刻印 「YOKKAICHIBRICK」 会社名 四日市煉瓦製造所
操業時期 明治20年6月~昭和21年
所在地 三重県三重郡東阿倉川村
〇刻印 「IGA BATA」 会社名 伊賀耐火煉瓦(株)
操業時期 大正1年8月~昭和15年
所在地 三重県河山郡島ヶ原村
〇刻印 「CHUKYO」
会社名 中京煉瓦商会
操業時期 明治40年10月~昭和45年
所在地 愛知県東春日井郡高蔵寺村大字高蔵寺
〇刻印 「G B」 会社名 江州煉瓦(株)
操業時期 大正7年10月~昭和45年
所在地 滋賀県栗太郡物部村319
Gのつく地名は群馬ぐらいしかないので、苦労させられた。
まさか江州のGとは。
〇刻印 「KFB」
会社名 九州耐火煉瓦(株)
操業時期 大正5年7月~大正15年
所在地 福岡県遠賀郡八幡町
〇刻印 「F K」
会社名 福岡煉瓦(株)
操業時期 大正8年10月~大正12年
所在地 福岡市金屋小路町27
全国から耐熱煉瓦をかき集めてきたようだ。
刻印煉瓦の中でも最後まで特定できなかったのがある。「RENSEKISHA」で数も種類もあるのだがわからない。煉石のつく会社は愛知煉石があるのだが、ここの刻印は「AICHI.F.R」になっている。とはいうものの時代が符合する煉石のつく会社はここしかない。東北でも見つけられていることから全国規模の会社だと思うのだが、なぜが「RENSEKISHA」のみが特定できていない。
【歴史的背景】
軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。著者の早稲田大学教授小林久平は大正5年9月に飯高の三重木材乾留会社を視察している。
三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。
三重木材乾留会社の工場跡
(蓮・蓮川水系)
一工場 千石谷右岸
二工場 喜平小屋谷出合
三工場 喜平小屋谷二俣
四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部
五工場 赤嵓滝谷 三俣
(青田・木屋谷川水系)
一工場 取水ダム右岸
二工場 千秋社事務所跡
三工場 万歳橋
四工場 ワサビ谷手前
五工場 奥山谷出合
六工場 奥山谷奥の二俣
【山 域】台高
【コース】千石林道駐車場---喜平小屋谷第二工場---喜平小屋谷第三工場
【メンバー】単独
台高の山中には大正時代の乾留工場が眠っている。「鬼滅の刃」の鬼舞辻󠄀無惨が浅草六区を闊歩していた時代だ。軍事関連物資アセトンの製造を行っていた乾留工場は、大正4年に飯高の三重木材乾留会社によって操業が始まっている。第一次世界大戦開戦から1年たらずで生産が始まっておりすばやい対応だ。鈴木商店という巨大コンツェルンの存在と日英同盟を結んでいるイギリスからの技師派遣がその要因だろう。イギリス人技師は飯高のどこに居住していたのだろうか。
千石林道は井戸谷崩壊地の堰堤工事が半年前までしていたので、車止めから難なく歩くことができる。林道終点から杣道下ると喜平小屋谷出合で、対岸に蓮第二工場がある。堰堤のせいで、工場跡は縮小されているものの手びねりの土管や煉瓦にサクラビールの瓶が残されている。
出合までの杣道の斜面には磁器や貧乏徳利などが落ちているので、ここに飯場があったのだろう。それが林道工事で埋まったようで、斜面からは明治42年(1909)~大正10年(1921)まで作られていた三ツ矢印平野シャンペンサイダーの瓶も出てきた。三ツ矢サイダーミュージアムに陳列してあるのと同じ物で、宮沢賢治も飲んでいる。宮沢賢治の童話「ボラーノの広場」にも乾留工場は出てきており同じ時代を共有したのだろう。
蓮第三工場へは、喜平小屋谷をつめていく。昔はしっかりとした道があったのだが、今は微妙な感じだ。二俣になり植林に取りついた台地が乾留工場だ。ここには、二窯三火床の岩本式木材乾留炭化装置があった。窯底と窯腰に耐火煉瓦(白煉瓦)が使われており、それ以外は土石で築かれている。窯はすでに崩れており冷却装置としての無数の土管が放置されている。どこの窯も複数の会社の耐熱煉瓦を使っており、全国で需要が高まる中集められるだけ集めた感じがする。
当時高級品だった耐熱煉瓦はほとんど刻印が押されており、歴史をさかのぼる貴重な物証になる。とはいうものの煉瓦の需要の波は大きく多くの会社がすでに無く、会社名・製造地・製造年などを追うのは容易ではない。
8年前に蓮第三工場で「KINJO F.B」の耐熱煉瓦を見つけた。金城は名古屋城の事なので、全愛知県赤煉瓦工業協同組合に問い合わせたが「わからない」との回答だった。それが今年になって新しい資料が見つかり特定できた。
〇刻印 「KINJO F.B」 会社名 金城耐火煉瓦(合資)
操業時期 大正5年2月~大正7年
所在地 愛知県愛知郡千種町
会社名 金城耐火煉瓦(株)
操業時期 大正8年5月~大正10年
所在地 神奈川県橘樹郡町田村
工場は名古屋にあったようだが、株式会社になるにともない本社は町田に移ったようだ。この期間を合わせてもわずか5年しか操業していない。飯高に乾留工場が出来たのが大正4年以降なので、時期も符合する。
それ以外の刻印耐熱煉瓦についてもほぼ特定できたので、記載する。
〇刻印 「SHINAGAWA」 会社名 品川白煉瓦 <本社>
操業時期 明治8年~昭和7年
所在地 荏原郡品川町元品川宿301番地
会社名 品川白煉瓦 <大阪支店>
操業時期 明治37年8月~大正10年
所在地 南区木津三番町
会社名 品川白煉瓦 <伊部工場>
操業時期 大正7年~昭和40年
所在地 岡山県和気郡伊部町707
「SHINAGAWA」は数も多い。ただし、どの工場で作られたかは特定できていない。
〇刻印 「BIZEN INBE」 会社名 帝国窯業(株)
操業時期 大正6年11月~
所在地 岡山県和気郡伊部町久々井1807
〇刻印 「三石白煉瓦合資会社製」 操業時期 大正6年3月~大正10年
所在地 岡山県和気郡三石町
〇刻印 「YOKKAICHIBRICK」 会社名 四日市煉瓦製造所
操業時期 明治20年6月~昭和21年
所在地 三重県三重郡東阿倉川村
〇刻印 「IGA BATA」 会社名 伊賀耐火煉瓦(株)
操業時期 大正1年8月~昭和15年
所在地 三重県河山郡島ヶ原村
〇刻印 「CHUKYO」
会社名 中京煉瓦商会
操業時期 明治40年10月~昭和45年
所在地 愛知県東春日井郡高蔵寺村大字高蔵寺
〇刻印 「G B」 会社名 江州煉瓦(株)
操業時期 大正7年10月~昭和45年
所在地 滋賀県栗太郡物部村319
Gのつく地名は群馬ぐらいしかないので、苦労させられた。
まさか江州のGとは。
〇刻印 「KFB」
会社名 九州耐火煉瓦(株)
操業時期 大正5年7月~大正15年
所在地 福岡県遠賀郡八幡町
〇刻印 「F K」
会社名 福岡煉瓦(株)
操業時期 大正8年10月~大正12年
所在地 福岡市金屋小路町27
全国から耐熱煉瓦をかき集めてきたようだ。
刻印煉瓦の中でも最後まで特定できなかったのがある。「RENSEKISHA」で数も種類もあるのだがわからない。煉石のつく会社は愛知煉石があるのだが、ここの刻印は「AICHI.F.R」になっている。とはいうものの時代が符合する煉石のつく会社はここしかない。東北でも見つけられていることから全国規模の会社だと思うのだが、なぜが「RENSEKISHA」のみが特定できていない。
【歴史的背景】
軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。著者の早稲田大学教授小林久平は大正5年9月に飯高の三重木材乾留会社を視察している。
三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。
三重木材乾留会社の工場跡
(蓮・蓮川水系)
一工場 千石谷右岸
二工場 喜平小屋谷出合
三工場 喜平小屋谷二俣
四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部
五工場 赤嵓滝谷 三俣
(青田・木屋谷川水系)
一工場 取水ダム右岸
二工場 千秋社事務所跡
三工場 万歳橋
四工場 ワサビ谷手前
五工場 奥山谷出合
六工場 奥山谷奥の二俣