【台高】乾留工場と刻印白煉瓦

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わりばし
記事: 1753
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

【台高】乾留工場と刻印白煉瓦

投稿記事 by わりばし »

【日 付】2021年5月23日(日)
【山 域】台高
【コース】千石林道駐車場---喜平小屋谷第二工場---喜平小屋谷第三工場
【メンバー】単独

 台高の山中には大正時代の乾留工場が眠っている。「鬼滅の刃」の鬼舞辻󠄀無惨が浅草六区を闊歩していた時代だ。軍事関連物資アセトンの製造を行っていた乾留工場は、大正4年に飯高の三重木材乾留会社によって操業が始まっている。第一次世界大戦開戦から1年たらずで生産が始まっておりすばやい対応だ。鈴木商店という巨大コンツェルンの存在と日英同盟を結んでいるイギリスからの技師派遣がその要因だろう。イギリス人技師は飯高のどこに居住していたのだろうか。

 千石林道は井戸谷崩壊地の堰堤工事が半年前までしていたので、車止めから難なく歩くことができる。林道終点から杣道下ると喜平小屋谷出合で、対岸に蓮第二工場がある。堰堤のせいで、工場跡は縮小されているものの手びねりの土管や煉瓦にサクラビールの瓶が残されている。

 出合までの杣道の斜面には磁器や貧乏徳利などが落ちているので、ここに飯場があったのだろう。それが林道工事で埋まったようで、斜面からは明治42年(1909)~大正10年(1921)まで作られていた三ツ矢印平野シャンペンサイダーの瓶も出てきた。三ツ矢サイダーミュージアムに陳列してあるのと同じ物で、宮沢賢治も飲んでいる。宮沢賢治の童話「ボラーノの広場」にも乾留工場は出てきており同じ時代を共有したのだろう。

 蓮第三工場へは、喜平小屋谷をつめていく。昔はしっかりとした道があったのだが、今は微妙な感じだ。二俣になり植林に取りついた台地が乾留工場だ。ここには、二窯三火床の岩本式木材乾留炭化装置があった。窯底と窯腰に耐火煉瓦(白煉瓦)が使われており、それ以外は土石で築かれている。窯はすでに崩れており冷却装置としての無数の土管が放置されている。どこの窯も複数の会社の耐熱煉瓦を使っており、全国で需要が高まる中集められるだけ集めた感じがする。

 当時高級品だった耐熱煉瓦はほとんど刻印が押されており、歴史をさかのぼる貴重な物証になる。とはいうものの煉瓦の需要の波は大きく多くの会社がすでに無く、会社名・製造地・製造年などを追うのは容易ではない。

 8年前に蓮第三工場で「KINJO F.B」の耐熱煉瓦を見つけた。金城は名古屋城の事なので、全愛知県赤煉瓦工業協同組合に問い合わせたが「わからない」との回答だった。それが今年になって新しい資料が見つかり特定できた。

 〇刻印 「KINJO F.B」
P5290010.JPG
会社名   金城耐火煉瓦(合資)
操業時期  大正5年2月~大正7年
所在地   愛知県愛知郡千種町

会社名   金城耐火煉瓦(株)
操業時期  大正8年5月~大正10年
所在地   神奈川県橘樹郡町田村

 工場は名古屋にあったようだが、株式会社になるにともない本社は町田に移ったようだ。この期間を合わせてもわずか5年しか操業していない。飯高に乾留工場が出来たのが大正4年以降なので、時期も符合する。

それ以外の刻印耐熱煉瓦についてもほぼ特定できたので、記載する。

 〇刻印 「SHINAGAWA」
P5290016.JPG
会社名   品川白煉瓦 <本社>
操業時期  明治8年~昭和7年
所在地   荏原郡品川町元品川宿301番地
 
会社名   品川白煉瓦 <大阪支店>
操業時期  明治37年8月~大正10年
所在地   南区木津三番町

会社名   品川白煉瓦 <伊部工場>
操業時期  大正7年~昭和40年
所在地   岡山県和気郡伊部町707

「SHINAGAWA」は数も多い。ただし、どの工場で作られたかは特定できていない。

 〇刻印 「BIZEN INBE」
P5290011.JPG
会社名   帝国窯業(株)
操業時期  大正6年11月~
所在地   岡山県和気郡伊部町久々井1807

 〇刻印 「三石白煉瓦合資会社製」
P5290017.JPG
操業時期  大正6年3月~大正10年
所在地   岡山県和気郡三石町

 〇刻印 「YOKKAICHIBRICK」
P5290015.JPG
会社名   四日市煉瓦製造所
操業時期  明治20年6月~昭和21年
所在地   三重県三重郡東阿倉川村

 〇刻印 「IGA BATA」
P5290018.JPG
会社名   伊賀耐火煉瓦(株)
操業時期  大正1年8月~昭和15年
所在地   三重県河山郡島ヶ原村

 〇刻印 「CHUKYO」
会社名   中京煉瓦商会
操業時期  明治40年10月~昭和45年
所在地   愛知県東春日井郡高蔵寺村大字高蔵寺

 〇刻印 「G B」
P5290013.JPG
会社名   江州煉瓦(株)
操業時期  大正7年10月~昭和45年
所在地   滋賀県栗太郡物部村319

Gのつく地名は群馬ぐらいしかないので、苦労させられた。
まさか江州のGとは。

 〇刻印 「KFB」
会社名   九州耐火煉瓦(株)
操業時期  大正5年7月~大正15年
所在地   福岡県遠賀郡八幡町

 〇刻印 「F K」
会社名   福岡煉瓦(株)
操業時期  大正8年10月~大正12年
所在地   福岡市金屋小路町27

全国から耐熱煉瓦をかき集めてきたようだ。

 刻印煉瓦の中でも最後まで特定できなかったのがある。「RENSEKISHA」で数も種類もあるのだがわからない。煉石のつく会社は愛知煉石があるのだが、ここの刻印は「AICHI.F.R」になっている。とはいうものの時代が符合する煉石のつく会社はここしかない。東北でも見つけられていることから全国規模の会社だと思うのだが、なぜが「RENSEKISHA」のみが特定できていない。

P5250008.JPG
【歴史的背景】
 軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。著者の早稲田大学教授小林久平は大正5年9月に飯高の三重木材乾留会社を視察している。
 三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。


三重木材乾留会社の工場跡
(蓮・蓮川水系)
 一工場 千石谷右岸
 二工場 喜平小屋谷出合
 三工場 喜平小屋谷二俣
 四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部
 五工場 赤嵓滝谷 三俣
(青田・木屋谷川水系)
 一工場 取水ダム右岸
 二工場 千秋社事務所跡
 三工場 万歳橋
 四工場 ワサビ谷手前
 五工場 奥山谷出合
 六工場 奥山谷奥の二俣
グー(伊勢山上住人)
記事: 2223
登録日時: 2011年2月20日(日) 10:10
連絡する:

Re: 【台高】乾留工場と刻印白煉瓦

投稿記事 by グー(伊勢山上住人) »

P5297538-1.jpg


わりばしさん、おはよう。
すっかり釣り人のようで、なかなかレポが上がってこないですね。

【台高】乾留工場と刻印白煉瓦

一連のレポは「乾溜歴史博物館」に展示されるのでしょうね。
それとも「わりばし記念館」かな?こうなるとわりばしさんの死後ですね。

 〇刻印 「CHUKYO」
会社名   中京煉瓦商会
操業時期  明治40年10月~昭和45年
所在地   愛知県東春日井郡高蔵寺村大字高蔵寺


画像が無いですね。
わりばし邸のエントランスには敷かれていないのですか?
また探し出して、ドッコイショと担いでこないといけないですね。

なぜが「RENSEKISHA」のみが特定できていない。

ひょっこりと資料が出てくるのを待ちましょう。

(蓮・蓮川水系)
 三工場 喜平小屋谷二俣
 四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部


わりばしさんは赤嵓滝谷左岸に道があったが崩れ落ちたと言ってますが、
グーは第3工場と第4工場を繋ぐ道が右岸にあったのではないかと思っています。
そんな道を探索していたら観光名所の赤嵓滝が見物できないですが。


               グー(伊勢山上住人)
アオバ*ト
記事: 283
登録日時: 2019年9月23日(月) 08:40

Re: 【台高】乾留工場と刻印白煉瓦

投稿記事 by アオバ*ト »

 わりばしさん、こんばんは。
ごぶさたしてます、アオバ*トです。

研究論文みたいですね。すごいです。
そして、この煉瓦すべて、
わりばしさんのコレクションとなったのですね。
ますます、すごい。

きのう(5月30日)の早朝、このわりばしさんの新しいレポに気がついて、
あ、今日帰りに通るから、私も寄り道しよっと思って、
第二工場跡へ行くと、なんか前回立ち寄った時よりも掘り起こされた感があって、
ん、わりばしさんのシワザ?(野蛮な表現ですみません)と思いました。
私も4種類くらい見つけて、1コ持ち上げてみて、
ムリムリムリ、持って帰れんと思いました。
16224619583570  煉瓦 - コピー.jpg
こんな形のヤツ、二つくらいありましたが、これは何でこんな形してるんでしょうね。

乾留工場跡巡り、わりばしさんや雨ちゃんのおかげで、
私もすっかりハマってしまって、蓮と青田どちらも
第一工場跡以外は行ってみました。
赤グラ滝谷の第五工場跡は、下からも上のタイムマシン乗り場からも行ってみたのですが、
とてもすてきな場所でした。

 アオバ*ト
アバター
わりばし
記事: 1753
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【台高】乾留工場と刻印白煉瓦

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、グーさん。

すっかり釣り人のようで、なかなかレポが上がってこないですね。

あらまあ、バレていましたか。 :mrgreen:

【台高】乾留工場と刻印白煉瓦

一連のレポは「乾溜歴史博物館」に展示されるのでしょうね。
それとも「わりばし記念館」かな?こうなるとわりばしさんの死後ですね。


何かの形で残さないとと思って
場違いにも山のフォーラムにあげてます。
通さん、ありがとうございます。


 〇刻印 「CHUKYO」
会社名   中京煉瓦商会
操業時期  明治40年10月~昭和45年
所在地   愛知県東春日井郡高蔵寺村大字高蔵寺


画像が無いですね。
わりばし邸のエントランスには敷かれていないのですか?
また探し出して、ドッコイショと担いでこないといけないですね。
P5290019.JPG
画像はありますよ。
画像の枚数制限でのせられなかっただけです。 :lol:

〇刻印 「KFB」
P5290021.JPG
会社名   九州耐火煉瓦(株)
操業時期  大正5年7月~大正15年
所在地   福岡県遠賀郡八幡町

 〇刻印 「F K」
P5290014.JPG
会社名   福岡煉瓦(株)
操業時期  大正8年10月~大正12年
所在地   福岡市金屋小路町27


なぜが「RENSEKISHA」のみが特定できていない。

ひょっこりと資料が出てくるのを待ちましょう。
P5250009.JPG
不思議です。大きな会社だと思うんですが・・・

(蓮・蓮川水系)
 三工場 喜平小屋谷二俣
 四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部


わりばしさんは赤嵓滝谷左岸に道があったが崩れ落ちたと言ってますが、
グーは第3工場と第4工場を繋ぐ道が右岸にあったのではないかと思っています。
そんな道を探索していたら観光名所の赤嵓滝が見物できないですが。


宿題が残っているんで、今度行ってきます。


              
アバター
わりばし
記事: 1753
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【台高】乾留工場と刻印白煉瓦

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、アオバトさん。

研究論文みたいですね。すごいです。
そして、この煉瓦すべて、
わりばしさんのコレクションとなったのですね。
ますます、すごい。

生き証人の青田のオジヤンにいろいろ聞いてきた事もあり
どこかに記録しておかないといけないと思い
無理やり山のフォーラムに載せさせてもらってます。

P6020003.JPG

きのう(5月30日)の早朝、このわりばしさんの新しいレポに気がついて、
あ、今日帰りに通るから、私も寄り道しよっと思って、
第二工場跡へ行くと、なんか前回立ち寄った時よりも掘り起こされた感があって、
ん、わりばしさんのシワザ?(野蛮な表現ですみません)と思いました。
私も4種類くらい見つけて、1コ持ち上げてみて、
ムリムリムリ、持って帰れんと思いました。

あらまあバレました。
ほとんどは土の中に埋もれているでしょ。
ここも二窯三火床の岩本式木材乾留炭化装置があったと思うのですが
半分以上は堰堤工事で消えちゃいましたね。


P6020002.JPG

こんな形のヤツ、二つくらいありましたが、これは何でこんな形してるんでしょうね。

窯底と窯腰の丸く仕上げる部分に使ったんでしょうね。
「BIZEN INBE」のもあったでしょ。


乾留工場跡巡り、わりばしさんや雨ちゃんのおかげで、
私もすっかりハマってしまって、蓮と青田どちらも
第一工場跡以外は行ってみました。
赤グラ滝谷の第五工場跡は、下からも上のタイムマシン乗り場からも行ってみたのですが、
とてもすてきな場所でした。

第一工場跡はどちらも規模が大きいので行ってみてください。
石積みからして違いますよ。


宮沢賢治の飲んだ三ツ矢印平野シャンペンサイダー
宮沢賢治の飲んだ三ツ矢印平野シャンペンサイダー

大正時代は、コロナならぬスペイン風邪、関東大震災、バブルに不況と今の時代に重なる所が多い気がします。
乾留工場の最盛期は、大正4年からわずか5年ぐらい
第一次世界大戦が始まりスペイン風邪が広まりつつある頃です
この後、不況が続き関東大震災も追い打ちをかけます。
そして、不況の末に金融恐慌が起こり第二次世界大戦に突き進んでいきます。
 
アオバ*ト
記事: 283
登録日時: 2019年9月23日(月) 08:40

Re: 【台高】乾留工場と刻印白煉瓦

投稿記事 by アオバ*ト »

 わりばしさん、こんばんは。
レス返ありがとうございます。

窯底と窯腰の丸く仕上げる部分に使ったんでしょうね。
「BIZEN INBE」のもあったでしょ。


なるほど、扇型の煉瓦はそんな使われ方したんですね。
二つあったうちのもう一つは写真とってなくて、刻印を覚えていないのですが、
ふつうの形のは、「SHINAGAWA」と「BIZEN INBE」と「RENSEKISHA」の3つありました。
この3つは多いのですね。他の工場跡でも見かけました。


第一工場跡はどちらも規模が大きいので行ってみてください。
石積みからして違いますよ。

そうなんですね。また行ってみます。


出合までの杣道の斜面には磁器や貧乏徳利などが落ちているので、ここに飯場があったのだろう。それが林道工事で埋まったようで、斜面からは明治42年(1909)~大正10年(1921)まで作られていた三ツ矢印平野シャンペンサイダーの瓶も出てきた。三ツ矢サイダーミュージアムに陳列してあるのと同じ物で、宮沢賢治も飲んでいる。宮沢賢治の童話「ボラーノの広場」にも乾留工場は出てきており同じ時代を共有したのだろう。

サイダーの瓶、底の刻印が洒落てますね。
宮沢賢治が愛飲してた頃は高級飲料だったのですね。


イギリス人技師は飯高のどこに居住していたのだろうか。

空想が広がりますね。
以前のレポでインク瓶のことも書かれていたと思うのですが、
インク瓶なんてのも、想像力かきたてられますね。


大正時代は、コロナならぬスペイン風邪、関東大震災、バブルに不況と今の時代に重なる所が多い気がします。
乾留工場の最盛期は、大正4年からわずか5年ぐらい
第一次世界大戦が始まりスペイン風邪が広まりつつある頃です
この後、不況が続き関東大震災も追い打ちをかけます。
そして、不況の末に金融恐慌が起こり第二次世界大戦に突き進んでいきます。


わりばしさんは、歴史の先生のようです。
私は近代史、苦手でした。もうちょっと勉強していれば、
もっと世の中の仕組みや成り立ちかたをちゃんと理解できる大人になれただろうなぁ、なんて、今になって思います。

 アオバ*ト
アバター
わりばし
記事: 1753
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【台高】乾留工場と刻印白煉瓦

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、アオバトさん。

窯底と窯腰の丸く仕上げる部分に使ったんでしょうね。
「BIZEN INBE」のもあったでしょ。


なるほど、扇型の煉瓦はそんな使われ方したんですね。
二つあったうちのもう一つは写真とってなくて、刻印を覚えていないのですが、
ふつうの形のは、「SHINAGAWA」と「BIZEN INBE」と「RENSEKISHA」の3つありました。
この3つは多いのですね。他の工場跡でも見かけました。

「RENSEKI」は煉石と書きます。
煉石も煉瓦もレンガの事なのですが、漢字のイメージでは煉石の方が的を得ている気がします。
瓦じゃないですよね。


P6060008.JPG

第一工場跡はどちらも規模が大きいので行ってみてください。
石積みからして違いますよ。


そうなんですね。また行ってみます。

青田の第一工場跡には、製品の酢酸石灰を作った当時の石灰が残ってますよ。

出合までの杣道の斜面には磁器や貧乏徳利などが落ちているので、ここに飯場があったのだろう。それが林道工事で埋まったようで、斜面からは明治42年(1909)~大正10年(1921)まで作られていた三ツ矢印平野シャンペンサイダーの瓶も出てきた。三ツ矢サイダーミュージアムに陳列してあるのと同じ物で、宮沢賢治も飲んでいる。宮沢賢治の童話「ボラーノの広場」にも乾留工場は出てきており同じ時代を共有したのだろう。

サイダーの瓶、底の刻印が洒落てますね。
宮沢賢治が愛飲してた頃は高級飲料だったのですね。

「平野の湯」と呼ばれる炭酸泉に砂糖を加えていたようです。
都会ならわかりますが、台高の山奥の飯場で高価なサイダーやビールを飲んでいたんですね。
金回りが良かったんでしょう。


イギリス人技師は飯高のどこに居住していたのだろうか。

空想が広がりますね。
以前のレポでインク瓶のことも書かれていたと思うのですが、
インク瓶なんてのも、想像力かきたてられますね。

いいたかBOOKJAZZカフェによく通っていますが・・
この屋敷が千秋社の管理人さんが住んでいた住居で
三重木材乾留会社から千秋社に山林まるごと売却した経緯を考えると
ここにイギリス人技師が居住していたかもしれませんね。


いいたかBOOKJAZZカフェ
いいたかBOOKJAZZカフェ
アオバ*ト
記事: 283
登録日時: 2019年9月23日(月) 08:40

Re: 【台高】乾留工場と刻印白煉瓦

投稿記事 by アオバ*ト »

 わりばしさん、こんばんは。
再びレス返、ありがとうございます。

「RENSEKI」は煉石と書きます。
煉石も煉瓦もレンガの事なのですが、漢字のイメージでは煉石の方が的を得ている気がします。
瓦じゃないですよね。

そう言われれば、そうかな。
でもどちらの表記も好きですね。いずれもカタカナよりずっと味があります。

「平野の湯」と呼ばれる炭酸泉に砂糖を加えていたようです。
都会ならわかりますが、台高の山奥の飯場で高価なサイダーやビールを飲んでいたんですね。
金回りが良かったんでしょう。


これも、そう言われればそうですね。こんな山奥でハイカラな高級飲料。
このお仕事、束の間でも、とても儲かったんですね。
イギリス人技師が、このハイカラな高級飲料を自国の味わいと好んで、広めたのでしょうか。

いいたかBOOKJAZZカフェによく通っていますが・・
この屋敷が千秋社の管理人さんが住んでいた住居で
三重木材乾留会社から千秋社に山林まるごと売却した経緯を考えると
ここにイギリス人技師が居住していたかもしれませんね。


へえ~、そうなんですね。
外国の方は、こんな町屋造りが好きですよね。
山歩きから派生して出会う文化的な様々な事象に思いを巡らすのは、ほんとに楽しいですね。
また機会あれば、教えてください。

 アオバ*ト
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