【日 付】 2021年6月26日(土)
【山 域】 奥美濃
【メンバー】 山日和さん sato
【天 候】 曇り 少しの間晴れ、少しの間雨
【ルート】 坂内広瀬、黒津川林道P~黒津川~右俣(中又谷)~右俣(桧木又谷)
~天狗山~△798.8~P
車のドアを開けると、湿り気を帯びた緑の空気がふわりと入ってきて、はやる気持ちを刺激するように、鼻をくすぐった。
大きく息を吐いて外に出ると、谷間に響き渡る清らかな水の音が全身を包みこんだ。
どきどきしながら林道から見下ろした深緑に彩られた谷は、しっとり情趣に満ちあふれ、
あぁ、今日もゆたかな沢山旅が始まる、とうれしくなる。
「9年前に左俣から黒津山に向かったので、今回は右俣を遡るけど」と、
山日和さんから、黒津川沢山旅のお話があがった時、「是非お願します!」と即答していた。
白い季節の思い出の数々がこころに刻まれた坂内広瀬の奥山、アラクラ、黒津山、天狗山。
この三つのお山を繋ぐ稜線のお山から生まれた水が注がれた黒津川。
白く輝く雪稜から、この雪はどこに向かうのだろうと覗きこんだ谷を味わえるのだ。
準備を終えると、黒津川を二度遡行されている山日和さんは、考えることなく、さっと対岸に渡り、
うっすらと踏み跡の残る斜面を進んでいった。
堰堤を越えると、透き通った緑玉色のせせらぎに迎えられた。
柔らかな流れ。木々の緑もやさしい。こころ和む情景に笑みがこぼれる。
少し進むと、黒い岩壁が現れ、小さな滝がかかっていた。登れるかな、と思ったらトラロープが下がっていた。
ありがたく使わせていただく。釣り師が設置されたそうだ。
トラロープは、この先何度か越える小滝にも設置されていた。
左岸に針葉樹林マークが続いているので、薄暗い谷を思い描いていたが、いつまでも想像を覆す風景が続いた。
岸辺には広葉樹が繁り、谷は明るく、苔むした岩の間を滑り落ちる幾すじもの流れは清冽そのものだった。
いつしか谷から見上げる風景は爽やかなサワグルミの森になっていた。
曇天に浮かぶ、無数の透明な緑の羽のような葉っぱ、かすかに愁いを帯びた暗灰色の幹に見入ってしまう。
二俣に着いた。この先、谷はどう展開していくのだろう。
中又谷に入っても、サワグルミの森と清冽な流れは続いた。
次、その次と二俣を右に入ると、左岸に土に埋もれかけた石積みが残っていた。
窯跡?石積みは斜面に段状に築かれていた。ワサビ田の跡だった。
ヤブ山といわれるお山は、少し前の時代までは生業の場でもあったのだ、と今日もしみじみと思う。
谷はたおやかに広がり、より輝きを増していった。
緑の海の中を清らかに流れてゆく白い光。
水際を見ると、仲良く寄り添う純白のお花。ツルアリドオシだ。
淡い瑠璃色のミズタビラコも並んでいる。
かわいい6枚の葉っぱの上のひゅっと伸びた茎から咲いている白いお花はクルマムグラ。
ちいさなちいさなお花が告げるまっすぐな夏。目に映るもの、すべてがせつなくうつくしい。
夢のような谷の情景に、何度も立ち止まり、ため息をついてしまう。
流れが細くなると、両岸はブナとトチが目立ってきた。
最初の一滴はどこだろう。
ちいさな二俣に着く。右俣は入り口の落ち葉の中から水が噴き出していた。
左俣は少し進んだ岩の隙間から流れ落ちていた。天狗山から生まれた両方の水を味わう。
2月に稜線をラッセルしながら辿った時、無邪気に口に含んだ雪とおんなじ味だった。
あの時の雪を、わたしはまた味わっているのだなぁ、としんみりとなる。
谷の最後は大きなトチと健やかなブナの素晴らしい森。
うっすらとかかる霧の中、次々と浮かびあがるトチの巨木に言葉を失う。
空が近づき、ブナの立ち並ぶ稜線に出た。時計を見るとお昼を回っている。
「ランチ場は少し下ったところがいい。」と山日和さんがおっしゃる。
下ってみると、緑の中に、さぁ、休んでいきなさい、
といわんばかりのこじんまりとした気持ちよさ気な空間があり、ここにしようと荷物を降ろす。
頬が緩みっぱなしだったなぁ、と、深緑の森を眺め、天狗山が奏でるうつくしい音楽、物語に耳を傾け、
ゆたかな森と清冽な流れに出会えたよろこびに包まれながらの穏やかなお昼の休憩。
あともう少し、ゆっくりしたい気持ちになった時、
「ぽぽっ、ぽぽっ」と、ツツ鳥が静かに出発の時間を知らせた。
そう、まだ旅の途中なのだ。重い腰を上げる。
白い季節、ブナが並ぶつるりとした雪面を見て、よし、最後の登りだ、
とワクワクしながら足跡を刻んだ山頂直下の斜面は、背丈よりも高いササで覆われていた。
幸い密度が濃くなかったので、かき分けながらも、すっと一歩を踏み出すことが出来る。
傾斜がなくなり山頂に着いたのだと分かった。
四度目の天狗山山頂。山日和さんは何度目になるのだろう。
まっさらな雪の風景の記憶が甦る。まっさらな雪を踏みしめ思ったことが甦る。
そして、今、わさわさ茂ったササの隙間に立ち、ねずみ色の空を見上げ、
なんともいえないしあわせを感じるわたしがここにいる。
最初から最後まで頬が緩みっぱなしの沢山旅、そういう訳にはいかなかった。
これから向かう方向、こちらはササの壁になっていた。
西南西にコンパスの針を合わせ突入する。
歌うように滑らかな雪原がまぶたの裏に一瞬浮かんだが、目の前の現実に押しやられ、
ヤブの中をばきばきと音を立て進んでいく山日和さんを、見失わないよう必死で追いかけていく。
ぽん、とブナの林に飛び出し、ふうっ、と息をつく。ここからは踏み跡を辿っていく。
大きな雪庇が出来る地点は、西側の少し下がった斜面にうっすらと道が延びていた。
ふっと、緑のお山が降らせた雪、落ち葉の上に散りばめられたエゴの花に目が吸い寄せられる。
ひとつひとつの花が静かに語る真実の煌めきが、先へと急ぐ足を、暫しの間、引き留める。
△798.8からは、雑然と木の生い繁る北西の尾根に向かう。
先週から続いている左膝裏の痛みと、今日、谷の岩で打った右膝の痛みが重なり、
思うように歩けず、灌木がちょっと鬱陶しく感じる。途中から植林に変わり、歩きやすくなりほっとする。
標高450m辺りで左の尾根へ進むと、透き通った緑の風景に。
最後は爽やかな自然林を味わいながら林道に着地した。
お山の秘密の物語を追うように谷を遡り、辿り着いた稜線からは記憶に刻まれた風景のあらたな表情に出会った一日。
ひとつのお山のいろいろな表情に出会い、お山はわたしの中で深みを増していく。
そして、そこからさらに広がっていくもの、そこへと帰っていくものを感じる。
これからわたしは愛するお山のどんな物語に出会っていくのだろう。
曇天の夕方のうっすらと青い膜が張られた山村を通り抜けていく車の窓から、青い山を眺め、
山中で静かに放つ輝きを思い、今日何度目かの大きなため息をつく。
こうして、お山を味わうことが出来るしあわせをかみしめる。
sato