アオバトさん、おはようございます。
>「蓮の場合は山中の工場から人の背や肩により清瀬まで運んだ。」と搬出方法について飯高町郷土史に書かれている。
大量の土管やレンガ等の資材をどうやって運んだのだろうか
こんなにきびしいところを人の背で運んだなんて、にわかに信じられないような話ですが、
昔の人って、今では考えられないくらいすごかったのですね。
当時は千石林道は無かったから谷に近いトラバース道だったのでしょう。
大八車は使えなかったようです。
所々に痕跡が残っています。
>千石平の北西に広がる緩やかな広い斜面が開墾地で石積みと乾留工場の土管が残されている。
この開墾地、グーさんのレポを頼りに
いちばん最初に千石林道を探検しに行ったときに、立ち寄りました。雨量計があるとろですよね。
雨量計のあるのが千石平で、小谷を越えた先が開墾地です。
>CS8m滝は右岸の岩場を木の根頼りに越える。ここは何度か来ており簡単に越えたように思うのだが、今日はいやらしい。
乗越す地点にあるロープまで慎重にトラバースした。下部の足場が落ちて取りつきにくくなっている。
私はいったいどうやって乗り越えたのか。この二つ目の滝を巻くのも、赤グラ滝を巻くのもとてもコワかったです。
もういっぺん行くよと言われてももう行けないかもです。
巻き道も足場ひとつでいやらしくなりますもんね。
ここの巻きだけなら植林を使えば回避できますよ。
>赤嵓滝が見える位置で右から支谷が来ている。これが開墾地の先の水線の谷で赤嵓滝は目と鼻の先である。
赤グラ滝がすぐ先に見える二股は、とても美しいところだったように記憶しています。
この写真は、たぶんその二股で撮ったような気がするのですが、これがその右からの支谷?
左岸道って、この右俣の支谷のどこかを横断していたのでしょうか。
この支谷の1000mあたりを赤嵓滝口に向けてトラバースしています。
>第五工場から桧塚劇場に上り、
私もすっかり気に入ってます。
「わりばしさんのタイムマシンルート」と密かに呼んでます。
あらまあ素敵な名前をありがとうございます。
サディスティックミカバンドもびっくりです。
>第二劇場を過ぎたピークから南南西に伸びる急な尾根を下り開墾地経由で下山した。
下りに使われたルートは、私には急斜面のようにしか見えません。
嵓にはロープの設置してある所があり、ここなら難なく下れます。
- 下山路の嵓
わりばしさんが、この探索をされた日、私たちは奥山谷に行ってました。
帰りに、青田第一工場跡を探してみようと思ったのですが、
「取水ダム」自体がどこなのかわかりませんでした。
千秋林道沿いの取水施設はここしかないので通っているはずですが・・
- 青田第1工場の木酸液貯蔵槽跡
ワサビ谷手前第四工場跡は、木漏れ陽が一面に降り注いで、ここは何度来てもすてきでした。
第五では、こんな黒焦げが転がっていました。「KINJO」は初めて見ました。
というか今までは刻印まで気にして見ていませんでしたが、気にし始めると、やはり文字というのはインパクト強いですね。
「KINJO.F.B」が時代を特定する貴重な煉瓦です。
会社名 金城耐火煉瓦(合資)
操業時期 大正5年2月~大正7年
所在地 愛知県愛知郡千種町
会社名 金城耐火煉瓦(株)
操業時期 大正8年5月~大正10年
所在地 神奈川県橘樹郡町田村
- 蓮第4工場の飯場跡にあった「KINJO.F.B」
大正バブルの申し子のような会社で、わずか5年しか操業していません。
乾留の時代、鬼滅の刃とピッタリ重なります。