【日付】 2026年2月26日
【山域】 敦賀半島 立石周辺
【天候】 曇り
【メンバー】 Kさん sato
何年前になるのだろう。
緑の葉っぱを枝いっぱいに繁らせた木々の、いのちのエネルギーに圧倒される初夏のころのある日、
Kさんの敦賀半島先端の東に位置する立石集落と西側の白木集落とを結んだ峠道の探索にご一緒させていただいた。
立石も白木も少し前の時代まで陸の孤島で、街への交通手段は舟。原発建設によって道路が開通した。
ふるい5万地形図には、ふたつの集落を結んだ山越えの道が記され、峠には、サビ峠という名前が付いていて、
峠東側の大きく開けた谷には田んぼの印が記されている。
原発が建ち、東は敦賀原発、西はもんじゅ、北は日本海、南は蠑螺ケ岳へと延びる半島を横断する尾根と、
四方を壁に囲まれてしまったような山中に、集落を結んだふるい道があり、峠の名は、何とも不思議な響きの「サビ峠」。
サビトウゲ・・・どんなところなのだろう。胸が高鳴った。
峠へは、どのようなルートを取ればいいのだろう。南の壁は、浦底集落から蠑螺ケ岳までは道がある。
蠑螺ケ岳登山道を登り、標高650mから敦賀市と美浜町の境界尾根を少し辿り・426の尾根を北上して向かうことにした。
登山道を外れると、やはり灌木とイバラのヤブだった。バキバキ、チクチク、手強い。思うように進めない。
べったりと汗をかき、顔に木くずをつけて、やっと辿り着いたサビ峠は、ひょろひょろとした常緑樹が繁る広い尾根の、
ここが峠?と思うような地味な鞍部だった。
すっかりと木々に埋もれてしまった峠と峠道。忘れ去られてしまった、でも、確かにあった峠道。
目を凝らすと一本の線が浮かんできて、じわりと感動に包まれた。
この日の旅は、ワクワクドキドキのちいさな探検としてこころに刻まれ、ふっとした時、べたりとした汗の感触と共に、
ぱぁっと思い出し、追憶にひたっている。
今年の2月、Kさんから「今度は海岸沿いの道跡から田んぼの跡を目指してみませんか」とお誘いをいただいた。
サビ峠の探索以来、田んぼの跡が気になっていた。
増永廸男さんも、この田んぼへの道に興味を持たれ歩かれていた。
『夜明けの霧の山』(2007年発行)に、こう書かれている。
「古い道は、半島の東の角の立石から、西の角の白木にも続いていて、今回の日本原電の増設予定地はその道のなかほど、
立石よりのところとなるらしい。古い地図には山あいの沢を囲んで「田んぼ」の印が記入されている。おそらくは小さな棚田であったのだろう。
・・・地名辞典によると、古文書で見る立石でも田の開発は元禄3年(1690)からで、明治の初めには11町歩を数えたとある。
古い地図を眺めるうちに、昔ひとが歩いていた道を捜してみたくなる」
そして実際、断崖の上の道の跡を辿っていくと、原発敷地を囲む薄いグリーン色のフェンスが現れ、フェンスの外側に沿って道は延びていき、
峠状に尾根を越え山あいの谷間におりていき、谷あいで棚田の古い石垣を見つけた、と書かれている。
わたしもいつか辿りたいと思っていた。二つ返事でご一緒させていただくことに。
お約束した日は、曇り空。
灰色の海を眺めながら車を走らせ、敦賀半島を北上していく。浦底から先は初めての地だ。
敦賀原発の建物が現れる。入り口に、何か起きた時のためなのだろう、救急車が止まっているのが見えて、ここはこういうところなのだ、
とキュッとからだがこわばる。トンネルを抜けると立石集落。 ほんとうに原発のすぐ隣で生活しているのだとびっくりしてしまう。
港に車を置かせていただき、2.5万地形図にも記されている海岸沿いの破線道に入る。
思ったよりもしっかりとした道で、崖になったところは石を積んで補強されていて、田んぼへと通う大切な道だったことが偲ばれる。
生きるために、耕作可能な地を求め田畑を広げていった人間の歴史に思いを馳せながら歩いていると、
薄いグリーン色と黒いフェンスが目の前に現れた。
増永廸男さんが書かれている通り、薄いグリーン色のフェンスは斜面を下りてきてふるい道に沿って延びているが、
その前で黒いフェンスが道を塞いでいる。
手持ちの2・5万地形図は、田んぼがあった谷まで破線が記されているが、
地理院地図を見ると、その手前から敦賀原発3号機、4号機の建設地で海岸も埋立てられていて、どこまで行けるのか気にはなったけれど、
先端をまわったあたりで通行止めになるとは思わなかった。
仕方ない。田んぼの跡の探索は諦めて、もうひとつある田んぼへの道の探索に向かう。
立石のお寺から灯台が立つ尾根の鞍部を越えて、今は敦賀原発となった田んぼへと向かう道も、ふるい5万地形図に記されている。
歩いてきた道を戻り、灯台への整備された道を登っていく。レトロな石造りのかわいい立石岬灯台の裏から常緑樹の尾根を南下する。
薄っすらと残る踏み跡を辿っているうちに峠に着いていた。
脇には、石仏を祀っていたような石囲いが残っていた。道跡も見られる。あぁ、ここは村人が行き来した峠なのだ、と胸が熱くなる。
何か機械音がする。西側の斜面を覗き込むと、すぐ下に原発の建物が。
道跡や峠は、むかしを懐かしむような空気に包まれているのに、すぐ隣には、記憶とか脈々と続いてきた歴史とか、
そういうものを全く打ち消してしまう異次元の世界が存在している。こういう現実をどう解釈したらいいのだろう。ちょっと戸惑ってしまう。
ここから西には下れないので、立石のお寺へと下っていくと、薄っすらとした道跡は明瞭になっていく。
石の階段まで現れる。ここは田んぼへと通う峠道だったのだと確信する。
駐車地に戻り集落を眺める。
陸の孤島だった立石だが、中世の頃の文献にも地名が出てくるくらい、ふるくから人びとが住んでいたという。
日本全土で電気も車も無い時代、海と山と田んぼがある立石は、こんなところに、と思うような地ではなかったのかもしれない。
まだ午前中。水島へと延びる半島を探索することにする。
猪ケ池という大きな池が気になっていたが、水位が海水面よりも高くて淡水で、海跡湖かどうかも分かっていない不思議な池で、
四季を通じて野鳥が飛来する野鳥の楽園地なのだと知る。
東側の海岸に沿って、波に磨かれてまあるくなったおおきな石がごろごろと散らばる雑木林の中を先端へと向かっていく。
漬物石を積み重ねたようなものが見える。まあるい石で作った炭焼き窯だった。
海岸に炭焼き窯?不思議な気もしたが、半島は常緑樹の森。
ふるくから人が入り、炭焼きや柴刈りが繰り返されてきたのだなぁ、としみじみとした思いに包まれる。
先端は岩浜で、水島は泳いでいけるくらいの距離にあった。
青空が広がる暖かで穏やかな日だったら、波打ち際の岩に腰かけて、ぼぉっと景色を眺めていたくなるような開放的な地だった。
帰りは尾根を歩く。地形図にはないが、GPSを見ると・19あたりに「鹿島神社」と記されていて、確認してみたかった。
果たして、そこにはちいさなお社が建っていた。柱だけになった鳥居もある。
扁額の真ん中には「鹿島神社」両側には、浦底、色浜と書かれている。浦底と色浜の人々が鹿島大明神さまをお祀りした神社だった。
地形図の半島先端に記された明神崎は、鹿島明神さまを指していたのだ。
お社のまわりは鬱蒼と緑の葉を繁らせた大きな木が並び、むかしから大切にされてきた聖なる地の空気を感じる。
半島背骨の尾根は、くねくね登ったり下ったりヤブに邪魔をされたり、すすっとは歩けない。
くねくねくね。あっ、あぶない。足元の枝にひっかかり転びそうになりながら緑の森を歩いていると、
いつしかわたしの前に、「あっ」とか「わぁ」とか呟きながら歩く子供の頃のわたしの姿が浮かんでいた。
小学生の時、学校の帰り道、いつもと違う道をドキドキしながら歩いたり、
休みの日、ひとりで自転車を漕いで薄暗い雑木林を抜けた先まで出かけたり、
部屋の片隅で、地図帳の1ページ1ページを眺めては、山名を探して線を引いたり、
川を上流へと指でなぞっていったりして遊んだ日々のことが、ひとつまたひとつと蘇ってくる。
未知の地を彷徨い、目に飛び込んできたものに驚き、見入り、何なのだろうと首を傾げ・・。
こういう遊びが、わたしは、ちいさな頃から好きだったのだなぁ、とあらためて思う。
子供の頃のわたしを追っているうちに、猪ケ池に戻っていた。
不思議な池を眺めながら、今日出会った未知の風景の数々を振り返る。湧き上がった感情を振り返る。
ちいさな山旅から広がっていくもの繋がっていくものを感じる。
バタバタと鳥が飛び立った。
「わぁ」とちょっとびっくりして、どこに行くのかな、と目で追いながら、
いくつになっても、わたしは、「あっ」とか「わぁ」とか言いながら、未知への旅を続けるのだろうな、と思う。
sato