【江美国境】 八草村探索と学習会に参加して

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sato
記事: 602
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

【江美国境】 八草村探索と学習会に参加して

投稿記事 by sato »

【日付】  2026年8月23日
【天候】  晴れ 猛暑の一日
【コース】 金居原=旧303号線砥谷川沿いの駐車地~八草村跡~P=坂内川上ナンノ谷砂防公園

わたしは、わたしたちは、どこからきてどこへ向かうのだろう。
生きるとは、暮らしとは、祈りとは。人間とは、人間の歴史とは。

 5月3日に行われた八草古道・久加峠の整備と交流会での深い学びから3か月半あまり後の8月23日、
八草村探索と学習会に参加させていただく機会に恵まれた。
廃村後、ご両親が建てた出作り小屋に子供の頃に住んでいらっしゃった北村政行さんが村跡をご案内してくださるという。
 先ずは金居原の合歓の里で、湖北アーカイブ研究所の吉田一郎さんに八草村の辿った歴史をレクチャーしていただく。

 八草村は、金糞岳を源とする八草川本流と土蔵岳を源とする砥谷の合流地一帯に存在した村で、
近江高時川源流尾羽梨村の奥にあった轆轤平と呼ばれた木地師集落の人びとが、
尾羽梨村の人たちに追い出され移り住んだのが始まりと考えられる。
 1693年に村として成立。杓子や足駄差しなどの白木細工を生業としていたが、炭焼きや畑作も行うように。
厳しい環境下でも人口は増えていき、村成立前の延宝2年(1674年)に18戸94人だったのが、
明和6年(1769年)には35戸140人あまりに。
しかしその後、天明、天保の大飢饉を筆頭に、何回もの飢饉に襲われ、安政4年(1857年)には10戸69人まで人口が減少。
 明治に入ると美濃紙の原料となるコウゾやミツマタの栽培も手掛け、
明治5年(1872年)川上村に合併され八草区となった時は13戸83人になったが、今度は、相次ぐ大水害に見舞われることに。
致命的だったのが、明治28年(1895年)土蔵岳東面ナンノ谷の大崩壊を起こした集中豪雨。八草村にも甚大な被害が出た。
 相次ぐ災害で村の存続は厳しくなり、大正8年(1919年)集団離村に至った。

 吉田さんのお声が胸の奥を震わす。どう考えたら、どう述べたらいいのだろう。
胸の震えに呼応するように、
「こんな山奥まで、なぜ人は住んでみようとしたのでしょう」
「しかし、やっぱり山のなかにも住まねばならぬようなわけがあったはずです」
「日本がここまでひらけてくるには、いいしれぬ人々の苦心と失敗の歴史がひそんでいるのです」
「世の中が今のようなありさまになるまでには、ずいぶんたくさんの人の、目に見えない努力がつまれているのではないでしょうか」
『ふるさとの生活』の宮本常一の言葉が頭の中をこだまするばかりだった。

 今日の参加者は15人。自己紹介の後、それぞれの車で旧303号線の八草村入り口へと向かう。
駐車地から村跡までは、草ボーボーの道跡を歩いていくと聞いていたが、北村さんが重機で整備してくださっていて、すんなりと歩ける。
ご病気を抱えながら、猛暑の中、息子さんと2日もかけて整備してくださったのだ。
5月には砥谷の林道の整備もしてくださっていた。ほんとうに頭が下がる。
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 最初に訪れたのが、八草村の記録が記された石碑。離村した方々のご家族が昭和59年に建てられた記念碑だ。
離村時の戸数は11戸で、転出先は湖北が5軒、北海道が3軒、岐阜県内が2軒、
1軒は冬のみ金居原に住み他の季節は村内に留まり炭焼きを続けたという。
 故郷という地がなく、今の実家にも思い入れのない私にとって、同じ気持ちを抱いているとは言い得ないのだが、
苦労の連続の暮らしであっても、離村後散り散りになっても、故郷への誇りと想い、同郷のよしみは消えぬという思いが、
石碑に刻まれた48人のお名前から深く感じ入る。

 八草川本流の左岸につけられた道の脇には平坦地が続いていく。
スギが立ち並んでいたり、草ヤブになっているけれど、かつてここに家があったということが見て取れる。
 丁寧に積まれた石積みも現われた。落ち葉の間にはお茶碗の欠片も落ちている。
ぎらぎらと熱く眩い太陽の光を浴びたスギが描く黒い影に、屋根から白い煙が湧き上がるちいさな木の家が浮かび上がり、
木立の向こうから小鳥のさえずりのような幼子の声が聞こえたような気がした。
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 スギ林の中で北村さんが足を止められる。富士権現社が建っていた場所だと説明してくださる。
例祭もあり、湖北流の太鼓踊りも演じられたそうだ。
そう、苦しいばかりの日々ではない。楽しみやよろこびもあったはずだ。
北村さんと吉田さんのお話を聞きながら頷く私たちの間を、どこかからやってきた心地よい風がすぅっと通り抜ける。

 集落はこのあたりまでだったのだろうか。引き返してお地蔵さまが祀られているという村の入り口へと向かう。
入り口は右岸。それぞれ歩きやすいところを探して渡渉する。
 お地蔵さまは、△981.6から延びる尾根の末端に祀られていた。
ここが村の入り口だったのか。ここにお地蔵さまが祀られていたのか。
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 7年前の2月、八草川のもの悲しい川音を聞きながら雪の積もった旧303号線を歩き、
川の合流地少し手前で橋を渡り、ここに立ち、ひと息ついて白く輝く金糞岳を目指した。
こんもりとした雪が斜面に作られた畑の跡を浮かび上がらせ、ここに集落が存在していたという事実を無言で物語っていた。
お地蔵さまは雪で埋もれていて全く気づかなかった。
 「ありがとうございます」
久加峠を復元する会に出会い、北村さんの生きた言葉に触れながら歩いて見て村の歴史を学ぶことができ、
お地蔵さまにも出会え、ありがたい気持ちでいっぱいになる。

 北村さんのお家は砥谷だが、このあたりでも畑作されていたと教えていただく。
作っていたのは、そばやひえ、あわ。毎日のご飯は、鍋の底にお米を敷き、あわやひえを上に乗せて炊いていたとおっしゃる。
お米は、山仕事に出かけるお兄さん用。そばはそばがきで。
 ふっと、インドの田舎で滞在した家の朝ご飯の風景が蘇る。女の子やお母さんは水なのに男の子だけ牛乳を飲んでいた。
少し前の時代まで、家族皆そろって毎日お腹いっぱい食べるのは難しいという現実があり、今も世界のあちこちでこのような現実は続いている。
食べ過ぎた、これは要らない、と言えるのはしあわせなことなのだな、としみじみと思う。

 川を渡り、駐車地へと戻っていく。駐車地近くの右岸に北村さんのお家があり、
ここから坂内川上の学校へ自転車で通っていらっしゃったそうだ。
「よくパンクしてお父さんに怒られた」とお笑いになる北村さんのお顔は、かけがえのない人間の深い物語を物語っていた。

 ここから希望者は、ナンノ谷砂防公園へ移動する。
今はバイクのモトクロス場にもなっているが、大災害が起きた地である。
 わたしがナンノ谷大崩壊の歴史を知ったのは、山の帰りにこの砂防公園に寄り、
大きな茶色いモニュメントに刻まれた文を読んだことからだった。
 1895年の夏、1週間に渡り降り続いた集中豪雨により、8月5日、△1067.6大ダワの北東斜面で大規模な崩壊が発生。
土石流は、出作り小屋4軒を飲み込み、4人の命を奪い、坂内川をせきとめてしまう。
土砂の天然ダムは6日後に決壊し、さらに出作り小屋2軒を流し、下流で大きな洪水を起こし23戸を流出させた。
明治時代、この地でこんなにも怖ろしい災害が起きたのだ。
 坂内村は、この年から北海道への開拓移住が始まったという。八草村も廃村後3軒が移住している。
ゆたかな暮らしをもとめて新天地へと旅立った人びとのその後はどのようなものだったのだろう。

 過ぎ去った時と移りゆく風景。埋もれていく、忘れ去られていく確かな真実。
土石流でえぐられた斜面は緑で覆われ穏やかな光を放ち、末端はモトクロスのコース、
土砂で天然ダムとなった河原は公園として整備され、ライダーが集まったり、地元の方々がバーベキューをしたりして楽しむ場に。
今日も、ライダー達が洗車をしたり、おしゃべりに興じている。
 
 目から失せれば心からも失せる・・・。帰り支度を始めたライダーの姿を眺めながら、何かの本で得た言葉が浮かんでくる。
でも、みなさまのお顔を見て、いや、と思う。
 土地は、歴史や人びとの記憶を宿している。今、ここに生きるわたしたちもさまざまな記憶を受け継いできた存在。
誰かの、どこかの記憶を受け継いでいる。そしてその記憶は語ることにより、誰かの、どこかの記憶となり続いていくのだ。

「川上の人は、中尾峠を越えて奥川並に行っていた」
最後に川上村ご出身の方からまた生きた言葉をいただいた。
穏やかな流れ、数々の炭焼き窯跡、ササヤブの峠・・・神又谷と中ツ又谷を巡る沢山旅で出会った風景が色鮮やかに蘇る。
山とともに生きた人の面影をしみじみと感じた旅だった。
やはり川上の人にとって大切な地だったのだということを思い知る。

 名残惜しいが閉会の時間となる。
歩いて見て聞いて、今日も深い学びの一日だった。
掬い上げた記憶を、生きた言葉を、わたしも誰かに伝えたい。物語を共有したい。
愛車に乗り込む前、ふっと空を見上げたら、むかしも今もこの先も煌々と世界を照らす太陽ときゅっと目が合った。


  <記念碑の碑文>
  江濃の山波累々として重畳たりと雖も人跡を拒まず
  往古此の地に熊谷、佐波、長谷川、牧野、山本の五家居を構え
  藤井神社を鎮めて八草村を興したり
  徳川中期明和年代、参拾余の軒数在りて住人百四拾名に及ぶ盛期在り
  生業は大河内谷(池ノ谷)二後ノ谷(八草川)の全域に亘る
  大垣藩北山筋に当たり村高拾九石九斗五升七合
  内畑高拾八石弐升五合此反別弐町六反参畝弐拾八歩
  屋敷高壱石九斗参升弐合此反別壱反六畝参歩の一村落たり
  明治四十二年当時戸口拾五軒百五人住みたり
  然るにこの八草の里にも消長無しと謂うに非ず
  村人共に星を読み霜を凌ぎて継承せし事参百有余年
  遂に墳墓の地に惜別せんと志向せり
  大正八年ここに意を決し新たなる伸展を念じ
  村内打ち揃いてこの地を離散せり
  人倫恒に重んずれば故郷の山亦忘れ難く
  茲に籠渓山友徳寺川上地区内の村人協助のもと
  我等が先祖の遺霊を供養し
  兼ねて離村の記念として此の碑を為すに至れり
                      昭和五十九年九月吉日

sato


 

 
















 

 
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わりばし
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登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
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Re: 【江美国境】 八草村探索と学習会に参加して

投稿記事 by わりばし »

おはようございます。satoさん。

 八草村は、金糞岳を源とする八草川本流と土蔵岳を源とする砥谷の合流地一帯に存在した村で、
近江高時川源流尾羽梨村の奥にあった轆轤平と呼ばれた木地師集落の人びとが、
尾羽梨村の人たちに追い出され移り住んだのが始まりと考えられる。
 1693年に村として成立。杓子や足駄差しなどの白木細工を生業としていたが、炭焼きや畑作も行うように。

木が少なくなって村ともめたのかな?

杓子や足駄差し、炭などは金居原に運んだんでしょうね。
奥美濃とのつながりがありますからね。


厳しい環境下でも人口は増えていき、村成立前の延宝2年(1674年)に18戸94人だったのが、
明和6年(1769年)には35戸140人あまりに。
しかしその後、天明、天保の大飢饉を筆頭に、何回もの飢饉に襲われ、安政4年(1857年)には10戸69人まで人口が減少。
 明治に入ると美濃紙の原料となるコウゾやミツマタの栽培も手掛け、
明治5年(1872年)川上村に合併され八草区となった時は13戸83人になったが、今度は、相次ぐ大水害に見舞われることに。
致命的だったのが、明治28年(1895年)土蔵岳東面ナンノ谷の大崩壊を起こした集中豪雨。八草村にも甚大な被害が出た。
 相次ぐ災害で村の存続は厳しくなり、大正8年(1919年)集団離村に至った。

しがみついてでも生きるしかなかった時代から
他の食い扶持が見込める時代になっていったのでしょうね。


 八草川本流の左岸につけられた道の脇には平坦地が続いていく。
スギが立ち並んでいたり、草ヤブになっているけれど、かつてここに家があったということが見て取れる。
 丁寧に積まれた石積みも現われた。落ち葉の間にはお茶碗の欠片も落ちている。
ぎらぎらと熱く眩い太陽の光を浴びたスギが描く黒い影に、屋根から白い煙が湧き上がるちいさな木の家が浮かび上がり、
木立の向こうから小鳥のさえずりのような幼子の声が聞こえたような気がした。

石積みは残ってましたか?

 スギ林の中で北村さんが足を止められる。富士権現社が建っていた場所だと説明してくださる。
例祭もあり、湖北流の太鼓踊りも演じられたそうだ。

「浅間さん」かな?
太鼓も雨乞祈願のかんこ踊りでしょうね。
私の住んでいる所では今でもお盆にかんこ踊りが続いています。


 北村さんのお家は砥谷だが、このあたりでも畑作されていたと教えていただく。
作っていたのは、そばやひえ、あわ。毎日のご飯は、鍋の底にお米を敷き、あわやひえを上に乗せて炊いていたとおっしゃる。
お米は、山仕事に出かけるお兄さん用。そばはそばがきで。
 ふっと、インドの田舎で滞在した家の朝ご飯の風景が蘇る。女の子やお母さんは水なのに男の子だけ牛乳を飲んでいた。
少し前の時代まで、家族皆そろって毎日お腹いっぱい食べるのは難しいという現実があり、今も世界のあちこちでこのような現実は続いている。
食べ過ぎた、これは要らない、と言えるのはしあわせなことなのだな、としみじみと思う。

そんなに前じゃないのに、戦後は戦前を否定する所から始まっちゃったので
私達も大きな勘違いをしているのかもしれません。

 坂内村は、この年から北海道への開拓移住が始まったという。八草村も廃村後3軒が移住している。
ゆたかな暮らしをもとめて新天地へと旅立った人びとのその後はどのようなものだったのだろう。

「ホハレ峠」を読むと考えさせられますね。

「川上の人は、中尾峠を越えて奥川並に行っていた」
最後に川上村ご出身の方からまた生きた言葉をいただいた。
穏やかな流れ、数々の炭焼き窯跡、ササヤブの峠・・・神又谷と中ツ又谷を巡る沢山旅で出会った風景が色鮮やかに蘇る。
山とともに生きた人の面影をしみじみと感じた旅だった。
やはり川上の人にとって大切な地だったのだということを思い知る。

永遠に続くと思われた山越えが当たり前だった時代が
自動車が浸透するなかで一挙に変わりました。
車道が抜けなければドン付きの集落となり衰退していく。
この変化は山村のくらしにとっては大きかったと思います。

                           わりばし 

 
sato
記事: 602
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【江美国境】 八草村探索と学習会に参加して

投稿記事 by sato »

わりばしさま

こんばんは。
やっと猛暑から解放されたと思ったら雨の日々ですね。
前回の久加峠に続き、今回もコメントありがとうございます。
八草村は、10代の頃、宮本常一の『ふるさとの生活』を読んで知りました。
私にとって、山とともに生きた(生きる)人の暮らしに思いを巡らせるようになった原点の村です。
と言っても、訪れる機会には恵まれず数十年。
このあたりかなと思いながら歩くことができたのは、ご縁に導かれ、近江の地に暮らすようになった10年くらい前です。

今回、出作り小屋に住んでいらっしゃった北村政行さんに、村跡をご案内していただき、村の形を感じ取ることができ、
出作りの暮らしもお聞きすることができ、感慨無量でした。ほんとうに深い学びの一日でした。

八草村を興した人びとは、尾羽梨村の奥に住んでいた木地師と伝えられていますが、
諸国の山の7合目より上の木を自由に伐採できる権利を保証された木地師は、村人との軋轢もあったのでしょうね。
何らかの理由で、尾羽梨村の人たちに集落を焼かれ、追い出されたとか。
経済基盤は近江圏で、八草の人たちが川上村や広瀬村に行く時は「美濃に行く」と言い、
金居原、杉野、木ノ本に行く時は「下に行く」と言ったそうです。
離村に至った経緯は、厳しい自然環境、度重なる災害、
そして、わりばしさんがおっしゃるように、「しがみついてでも生きるしかなかった時代から他の食い扶持が見込める時代への推移」
やはり貨幣経済の浸透も大きかったと思います。
丁寧に整地された土地、うつくしく積まれた石積みを見ていると、一生懸命に生きた人たちの姿が浮かび、
それでも去らざるを得なかった人たちの思いも感じ、いろいろ考えさせられました。

富士権現社は、後年藤井権現社と言われるようになり、離村時には川上の八幡神社に合祀されたそうです。
太鼓踊りは、雨ごいや虫送り、疫病祓いを目的に、日本各地で行われてきた伝統芸能なのですね。
わりばしさんのお住まいの地区でも行われているのですね。
どのように踊るのでしょうか。いろいろな地域と比べると面白いのでしょうね。

『ホハレ峠』読み返しました。
あらためて廣瀬ゆきえさんの生き様、この時代の山村の女性の一生について考えさせられました。
一括りにできるものではないのですが。

時は移りゆく。世の中も移りゆく。
自然災害、林業などの基幹産業の衰退、ダム建設などによる強制移動、生活の不便さ・・・。
様々な要因が重なり、人口流出が進み、やがて住民がいなくなってしまう。
便利な世の中になるにしたがい村が消えてゆくのですね。
便利さに埋もれている私が、ああだ、こうだと言うのは、おこがましいのですが。
でも、歩いて見て聞いて感じて学びとったことは、こころの深いところにずしりと根付き、
木々が枝を伸ばしていくように思考が広がっていきますね。
これからも、歩いて見ていろいろ感じて考えていきたいです。

わりばしさんの探索記からも教えていただくことがいろいろあります。
旅は、まだまだ続いていくのでしょうね。


sato
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