【越前】 段ノ岳 かさかさと落ち葉を踏みしめながら 在りし日の風景を思う  

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sato
記事: 565
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

【越前】 段ノ岳 かさかさと落ち葉を踏みしめながら 在りし日の風景を思う  

投稿記事 by sato »

       
【日 付】  2024年11月14日
【山 域】  越前 段ノ岳周辺
【天 候】  晴れ
【コース】  杣木俣~・565北の鞍部~大坂峠~段ノ岳~風吹峠~・667~杣木俣白山神社
【メンバー】 Kさん sato


 馬上免、古木、上温谷、小倉谷と、朝もやがかかりふんわり薄橙色に染まった田倉川沿いの集落を抜けていき、
二俣で右の芋ケ平川のほとりの瀬戸を見送り、左の田んぼが続く杣木俣川沿いの道を遡って行くと、
数件の家がぽつぽつと建つ杣木俣の集落が見えた。
「ここが杣木俣かぁ」
道路が広くなったところに車を置き、静まり返った集落を眺める。

 地図を見ていると、川の上流の最奥の村に目が吸い寄せられていく。この地に最初に暮らし始めた人達はどこから来たのだろう。
どのような経由で、何故、この地に住み着いたのだろう。今はどんな風景なのだろう。あれこれ想像してしまう。
この目で見て感じたいと思う。杣木俣は、ずっと気になっていた集落だった。山越えの「大坂」も気になっていた。
昨年の1月に、山日和さんと池田町東俣から段ノ岳周回の雪山旅に出かけ、町境の稜線から南越前町側を見下ろした時、思いはより強まった。

 杣木俣は、江戸時代に多くの木地師が住んでいた記録が残っているという。
あちこちの川の最上流の村に残る伝説と同じように、ここも、山中を渡り歩いていた木地師が定住するために作った村なのだろうか。
 集落をぐるりと囲む山並みの東と北西には、古くから足羽川上流の魚見川沿いの集落とを結ぶ山越えの道が通り、
越前と若狭、越前と京を繋ぐ道として多くの人に利用されてきたそうだ。

 東の大坂峠道は、時代の大きなうねり、転換期の歴史にも名を残している。
平安時代末期の1183年には、源平合戦で活躍した木曽義仲に加勢した平泉寺の千騎余りの僧兵が、
大野から池田に出て今庄の燧城に向かった時に、
幕末の1864年には、朝廷に尊王攘夷の志を伝えようと京へと進軍したものの行く手を阻まれてしまった水戸天狗党1000人が、
進路を変更してこの峠道を通ったのだ。
 
 今、わたし達の目に映るのは、稲がきれいに刈られた後の田んぼと人気のない家。
雨戸の閉まった家の前に立つ柿の木になった朱赤の実が、しんとした風景の中、さみしく光っている。
s-DSC_1217.jpg
「さあ、行きましょう」
 物思いにふけるその前に、地計図に「大坂」と記された、穏やかな時代、激動の時代、
様々な背景の人々のこころ模様を見つめてきた峠道に向かい歩き出す。
 
 林道から地形図で破線が引かれた植林の谷に入ると細い道が続いていた。あたりは少し前の時代まで田んぼだったのだろう。
段々に整地され石積みも見られる。
 道は、水が溜まるのかぐちゃぐちゃしていて歩きにくく、泥濘にはまらぬようそろりそろりと歩いていると、
草が出てきてあやふやになってきて、やがて朝露で濡れたススキに覆われてしまった。

「あぁ、道はもはや消えてしまったのだなぁ」
 歴史に名を残す道も、歩かれなくなったら埋もれゆく。谷筋の道はより儚い。
 微かな痕跡を探しにススキのヤブを突き進むか、尾根に逃げるか。
見上げた右岸の尾根は、色づき始めた木々が青空の下でやさしく煌めいている。服を濡らして無理して進むこともない。
引き返して登りやすそうな斜面に取り付いた。

 尾根は、思った通りヤブもなく、明るい雑木林が続いていき快適に歩けた。
ゆるゆると高度を上げていき、標高500mで道を探そうとトラバースしながら谷に降りる。
谷の最後は急こう配なので、道は九十九折に作られたはずだ。ぐるりと見渡したが、道らしきものは見当たらなかった。
 落ち葉の折り重なった斜面をよじ登って到達した峠は狭い鞍部で、東俣側も道の面影はない。
祀られていると聞いたお地蔵さまも見つけられない。1月は、雪で覆われていて分からなかったので、
今日はお会い出来ると楽しみにしていたのだが、お地蔵さまも埋もれてしまったのか、麓に移されたのか。

 数々の峠を歩かれてきたKさんが「道は鞍部ではなくて尾根のどこかに登ってきているのかもしれない」とおっしゃって、
・565に登り南西に延びる尾根に入ってみると、なんと広い道が残っていた。
ドキドキしながら道を辿っていく。でも、谷に降りる道は無かった。この道は瀬戸の人々の山仕事、山越えの道だったのか。
気になったが、530mピークで引き返す。

・565から北の稜線にも道が残っていた。
坂を下っていくと、木立の間からふわりと明るい鞍部が見えた。

「ここが峠ですね。お地蔵さまも祀られている」
「えっ?」
 Kさんのうれしそうなお声に驚いて斜面を駆け下りると、そこは、緩やかに弧を描く落ち葉が敷き詰められたちいさな広場になっていて、
ゆったりとした道が左右に延びていた。
東俣側には、柔和なお顔のお地蔵さまが安置され、ちいさな石室には、昭和九年の文字が刻まれている。
まさに「とうげ」の響き、「とうげ」の佇まいに満ちた地だ。
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 トクトクと胸が高鳴る。
地形図で確認すると、杣木俣と東俣を結ぶにはこちらの方が短く、傾斜も緩やか。
そうだ、ここが大坂峠だ!
そして、この峠道は、昭和の時代まで人々が行き交っていたのだ。

 興奮と感動に包まれ、暫しお地蔵さまの前から動けず、ハッと我に返ったように一歩をかみしめながら両側の峠道に少し入り、
そのまま辿っていきたい衝動に駆られたが、今日は、紅葉の段ノ岳と、もうひとつの峠の楽しみも待っている。
峠の風景をしっかりと目に焼き付け、8月15日にコウスケさんという方が思いを込めて奉納したお地蔵さまに手を合わせ、歩みを進める。

 深い感慨は、この先も続いていった。
稜線には山仕事の道が残り、落ち葉の間からはキラリ、キラリとお茶碗やビンの欠片が覗く。
10本以上置かれた一升瓶やすり鉢の欠片も見つけた。整地されたような跡もある。
 雪の降り積もった里山歩きに魅了されているけれど、雪の無い季節に分け入ってこそ、出会えるもの、感じられるものの多さを思い知る。
峠道だけではない。山そのものが、人々の暮らしと深く関わっていたこと、山が生きる場だったことがひしひしと伝わってくる。

 広葉樹林の雰囲気も趣があった。白い季節に、600mにも満たない里山にこんなに素晴らしいところがあると感動した、
広々としたゆるやかな地形にブナ林が広がる・582周辺は、葉が緑から黄金色に移りゆくこの時期も、
うっとり夢のような風景を描いていた。
 段ノ岳山頂付近はカエデの木が多く、里山の光と影を物語るかのように、ゆかしく赤や黄に煌めいていた。
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 山頂から北西に雑木林の尾根を下ると、池田町側が植林されている斜面が多くなり、道もしっかりと続いていた。
・553から下ると、楽しみにしていたもうひとつの峠、風吹峠だ。
 ところが、あともう少しというところで道が消えてしまい、ササが出てきた。尾根芯はこの先急坂になっている。
目を凝らすと、地形図には記されていない林道が見えた。少し右に逸れ、後ろ向きで木を掴みながら車道に降りる。
 降り立った林道の、魚見側には「風吹峠」の立派な石碑が建っていた。峠には、まだ新しいお地蔵さまが祀られている。
硬くまっ平な舗装路を踏む足裏に、かつてここに杣木俣と魚見を結ぶ大切な道があったことを忘れないでほしいという、
この峠道を行き来した人びとの思いが、しんしんと響く。

 峠からもしばらく片側植林が続いていったが、尾根が広くなったあたりから自然林となり、午後の暖かな陽射しを受け、
黄金色に輝く静謐なブナ林へと入っていった。さわさわ、さわさわ、過ぎゆく秋を歌うブナの透明な声に包まれる。
 ・667も一面のブナ。頭上を見上げ、わぁ、と口を開き、そのまま固まってしまう。
集落の裏山には、こんなにもうつくしい世界が静かに繰り広げられているのだ。

 ブナの林は、下りの南東尾根の標高450m分岐あたりまで続いていった。
分岐からは、ユキツバキやユズリハでヤブっぽくなった左の尾根に進み、杣木俣の白山神社へと向かう。
 あと標高差で200m。緑の葉を払いながら、しんみりと風景を味わっていたが、点々と湿ったクマの大きな糞が落ちているのを見てしまい、
ざわざわした気分に。後ろが気になり何度も振り返ってしまう。植林に入り、神社の屋根が見えて、ホッと胸をなでおろす。

 往昔、池田町から杣木俣一円は曽博郷と呼ばれていて、杣木俣の白山神社は曽博郷の総社で、
池田町側の氏子達は大坂峠を越えて参詣していたという。生活、文化、習慣と深く結びつき、大切な場であった神社も、
今は、石段は苔むし、拝殿は早くも雪囲いされ、もの寂しさを募らせている。

 木の鳥居を出るとやわらかな光に包まれた。
しんとした集落が、青い空から降り注ぐ午後の陽光で、あたたかくさみしく光っている。
田んぼでは、サルの集団が落穂拾いをしていた。
 親子のサルをぼんやり見ていると、にぎやかだった頃の風景が浮かんできて、
雨戸の閉まった家の奥から、キャッキャッと、かくれんぼをして遊んでいるちびっこ達の笑い声が聞こえてきたような気がした。


 *帰宅して、スタンフォード大学の地図を確認すると、大坂道は、ひとつ北の谷を遡り、お地蔵さまが祀られていた鞍部を越え、
東俣側は山腹を縫いながら谷に延びていました。1/25000も1/50000地形図も間違っていたことが分かりました。

sato
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わりばし
記事: 1902
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【越前】 段ノ岳 かさかさと落ち葉を踏みしめながら 在りし日の風景を思う  

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、satoさん。

 杣木俣は、江戸時代に多くの木地師が住んでいた記録が残っているという。
あちこちの川の最上流の村に残る伝説と同じように、ここも、山中を渡り歩いていた木地師が定住するために作った村なのだろうか。

福井は蛭谷系の木地師が多いですね。
何を作っていたのかな?

 
 今、わたし達の目に映るのは、稲がきれいに刈られた後の田んぼと人気のない家。
雨戸の閉まった家の前に立つ柿の木になった朱赤の実が、しんとした風景の中、さみしく光っている。

集落で昔の話を聞こうとしても住んでいる家が少なくて苦労します。

「あぁ、道はもはや消えてしまったのだなぁ」
 歴史に名を残す道も、歩かれなくなったら埋もれゆく。谷筋の道はより儚い。
 微かな痕跡を探しにススキのヤブを突き進むか、尾根に逃げるか。
見上げた右岸の尾根は、色づき始めた木々が青空の下でやさしく煌めいている。服を濡らして無理して進むこともない。
引き返して登りやすそうな斜面に取り付いた。

谷筋は水の流れがあるので人が手をかけないと自然に戻っちゃいますね。

今日はお会い出来ると楽しみにしていたのだが、お地蔵さまも埋もれてしまったのか、麓に移されたのか。
「ここが峠ですね。お地蔵さまも祀られている」
「えっ?」
 Kさんのうれしそうなお声に驚いて斜面を駆け下りると、そこは、緩やかに弧を描く落ち葉が敷き詰められたちいさな広場になっていて、
ゆったりとした道が左右に延びていた。
東俣側には、柔和なお顔のお地蔵さまが安置され、ちいさな石室には、昭和九年の文字が刻まれている。
まさに「とうげ」の響き、「とうげ」の佇まいに満ちた地だ。

良かったですね。
自転車で三多気に戻る途中に江後の大日如来を探しに行って、空振りしました。
この地に至るかどうかで山歩きの充実度は違います。


 深い感慨は、この先も続いていった。
稜線には山仕事の道が残り、落ち葉の間からはキラリ、キラリとお茶碗やビンの欠片が覗く。
10本以上置かれた一升瓶やすり鉢の欠片も見つけた。整地されたような跡もある。
 雪の降り積もった里山歩きに魅了されているけれど、雪の無い季節に分け入ってこそ、出会えるもの、感じられるものの多さを思い知る。
峠道だけではない。山そのものが、人々の暮らしと深く関わっていたこと、山が生きる場だったことがひしひしと伝わってくる。

高度経済成長期まではこんな生活がずーっと続いていたんですもんね。 
 
 往昔、池田町から杣木俣一円は曽博郷と呼ばれていて、杣木俣の白山神社は曽博郷の総社で、
池田町側の氏子達は大坂峠を越えて参詣していたという。生活、文化、習慣と深く結びつき、大切な場であった神社も、
今は、石段は苔むし、拝殿は早くも雪囲いされ、もの寂しさを募らせている。

白山神社は木地師との結びつきも強いので、こうして衰退していった白山神社もおおいのだろうな?

 *帰宅して、スタンフォード大学の地図を確認すると、大坂道は、ひとつ北の谷を遡り、お地蔵さまが祀られていた鞍部を越え、
東俣側は山腹を縫いながら谷に延びていました。1/25000も1/50000地形図も間違っていたことが分かりました。

私も今回の探索ではスタンフォード大学の地図を参考にしました。
お疲れさまでした。

                                 わりばし
sato
記事: 565
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【越前】 段ノ岳 かさかさと落ち葉を踏みしめながら 在りし日の風景を思う  

投稿記事 by sato »

わりばしさま

こんばんは。
先週末からいきなり寒くなり、朝、布団から出るのが辛くなってきましたが、わりばしさんは、変わらず早起きですね。
朝の貴重なお時間に、コメントをありがとうございます。

平安時代、政争に敗れ近江国の蛭谷に隠棲していた惟喬親王から、ろくろの技術を伝授された人たちによって生まれた木地師。
山の7合目以上の木を自由に伐ることができる権利を保障するとされる文書を持ち、山から山を自由に渡り歩き、やがて定住するように。
氏子登録するようになった江戸時代から明治まで、蛭谷筒井公文所に残る32冊の氏子狩帳には5万人もの名が、
君ヶ畑高松御所に残る48冊の氏子駆帳には8000人の名が記されているそうです。

木地師の足跡を残す地名は、各地の山の麓に残っていますね。福井で、パッと浮かぶのが六呂師。
高島では、木地山が知られています。
福井県では、今立郡から南条郡にかけての山地に木地師が多く住んでいたそうです。
鯖江周辺では古くから漆器作りがさかんで、木地を作る木地師の存在は欠かせなかったのですね。

私も、集落の歴史や暮らしに興味があり、生きた言葉をお聞きしたいなぁと思うのですが、
ひっそり静まり返った集落が多く、なかなかお話をお聞きすることができません。
山の暮らしの歴史も、道も、どんどんと忘れ去られていくのでしょうね。
今の私たちの暮らし、社会は、名も無き人びとの歴史が積み重なった上にあるということを忘れたくないな、と思います。
仕事場の朽木出身の84歳のおばちゃんから、子供の頃や奉公に出ていた頃の話をよく聞くのですが、
一生懸命に生きて働いてきた人達がいて、今の便利な暮らしがあるのだと、しみじみと感じます。
高度経済成長期から暮らしはガラリと変わっていったのですね。

地図を見ていると、いくつもの山越えの道が浮かんできます。山に入ると、仕事道の跡にもよく出会います。
「道なき山」とか「マイナーな山」とか言ったりしますが、少し前の時代までは、
様々な背景の人びとが山中を行き交っていたのですね。

わりばしさんは、北畠氏にまつわる古道探索の旅を続けていらっしゃいますね。
土地勘がなく、地理院地図で、どこかなとウロウロ探してばかりですが、興味深いです。
民話も好きなので、『美杉村のはなし』も読んでみたくなりました。


sato
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山日和
記事: 3846
登録日時: 2011年2月20日(日) 10:12
お住まい: 大阪府箕面市

Re: 【越前】 段ノ岳 かさかさと落ち葉を踏みしめながら 在りし日の風景を思う  

投稿記事 by 山日和 »

satoさん、こんばんは。

 馬上免、古木、上温谷、小倉谷と、朝もやがかかりふんわり薄橙色に染まった田倉川沿いの集落を抜けていき、二俣で右の芋ケ平川のほとりの瀬戸を見送り、左の田んぼが続く杣木俣川沿いの道を遡って行くと、数件の家がぽつぽつと建つ杣木俣の集落が見えた。

芋ヶ平へ何度も通った道ですが、広い谷間に続く道は閉塞感がない明るい道で、山に向かう緊張感を和らげてくれました。
杣木俣は一度だけ下山後に入口まで見に行っただけで、ちゃんと観察したことがありません。

昨年の1月に、山日和さんと池田町東俣から段ノ岳周回の雪山旅に出かけ、町境の稜線から南越前町側を見下ろした時、思いはより強まった。

午後の逆光に照らされて輝く杣木俣川の流れが印象に残っています。次はあっちからと思ってました。

 東の大坂峠道は、時代の大きなうねり、転換期の歴史にも名を残している。

芋ヶ平の方からも池田町へ抜ける「宅良坂」という峠越えの道があったようです。
馬上免という地名が残るように、田倉川沿いの道は交通の要衝だったようですね。
「田倉」と「宅良」。読みは同じですが、この違いはなんなんでしょう。

幕末の1864年には、朝廷に尊王攘夷の志を伝えようと京へと進軍したものの行く手を阻まれてしまった水戸天狗党1000人が、進路を変更してこの峠道を通ったのだ。

冬の蝿帽子峠を越えて大野へ入れず若王子峠を越え、さらにこの大坂を越えたのに悲しい最後を迎えてしまったんですね。当時の貧弱な衣類と装備で信じられない思いです。
 
「あぁ、道はもはや消えてしまったのだなぁ」
 歴史に名を残す道も、歩かれなくなったら埋もれゆく。谷筋の道はより儚い。

消えたのか、他に道があったのか。

 落ち葉の折り重なった斜面をよじ登って到達した峠は狭い鞍部で、東俣側も道の面影はない。
祀られていると聞いたお地蔵さまも見つけられない。1月は、雪で覆われていて分からなかったので、今日はお会い出来ると楽しみにしていたのだが、お地蔵さまも埋もれてしまったのか、麓に移されたのか。


私が見た記録はそれほど古いものではなかったので、お地蔵さまは必ずあるはず・・・

 数々の峠を歩かれてきたKさんが「道は鞍部ではなくて尾根のどこかに登ってきているのかもしれない」とおっしゃって、
・565に登り南西に延びる尾根に入ってみると、なんと広い道が残っていた。


とにかく歩きやすいところに道は付けられているものだから、よくありがちなことですね。

・565から北の稜線にも道が残っていた。
坂を下っていくと、木立の間からふわりと明るい鞍部が見えた。

「ここが峠ですね。お地蔵さまも祀られている」
「えっ?」
 Kさんのうれしそうなお声に驚いて斜面を駆け下りると、そこは、緩やかに弧を描く落ち葉が敷き詰められたちいさな広場になっていて、ゆったりとした道が左右に延びていた。
東俣側には、柔和なお顔のお地蔵さまが安置され、ちいさな石室には、昭和九年の文字が刻まれている。
まさに「とうげ」の響き、「とうげ」の佇まいに満ちた地だ。
 トクトクと胸が高鳴る。
地形図で確認すると、杣木俣と東俣を結ぶにはこちらの方が短く、傾斜も緩やか。
そうだ、ここが大坂峠だ!
そして、この峠道は、昭和の時代まで人々が行き交っていたのだ。


ついに見つけましたね!! :D
ここは去年峠だと思って探した場所より北側だったんですね。
ノーマークで通り過ぎてしまったのか雪に埋もれていたのか。

 深い感慨は、この先も続いていった。
稜線には山仕事の道が残り、落ち葉の間からはキラリ、キラリとお茶碗やビンの欠片が覗く。
10本以上置かれた一升瓶やすり鉢の欠片も見つけた。整地されたような跡もある。
 雪の降り積もった里山歩きに魅了されているけれど、雪の無い季節に分け入ってこそ、出会えるもの、感じられるものの多さを思い知る。
峠道だけではない。山そのものが、人々の暮らしと深く関わっていたこと、山が生きる場だったことがひしひしと伝わってくる。

そうでしたか。やっぱり稜線上も道があるんですね。まあ池田町側は植林が迫ってるから仕事道があっても不思議はないけど。
雪山も楽しいけれど、無雪期にはまた違う発見がありますね。

広々としたゆるやかな地形にブナ林が広がる・582周辺は、葉が緑から黄金色に移りゆくこの時期も、うっとり夢のような風景を描いていた。

ここは去年のランチ場。ゆったりとした実にいいブナ林でした。

 段ノ岳山頂付近はカエデの木が多く、里山の光と影を物語るかのように、ゆかしく赤や黄に煌めいていた。

コナラ系統の雑木林だとおもってたけどカエデが多かったんですね。

 山頂から北西に雑木林の尾根を下ると、池田町側が植林されている斜面が多くなり、道もしっかりと続いていた。

こちらにもしっかりとした道がありましたか。

 降り立った林道の、魚見側には「風吹峠」の立派な石碑が建っていた。峠には、まだ新しいお地蔵さまが祀られている。
硬くまっ平な舗装路を踏む足裏に、かつてここに杣木俣と魚見を結ぶ大切な道があったことを忘れないでほしいという、この峠道を行き来した人びとの思いが、しんしんと響く。

この峠は写真で見て知ってましたが、車で抜けられました?

 峠からもしばらく片側植林が続いていったが、尾根が広くなったあたりから自然林となり、午後の暖かな陽射しを受け、黄金色に輝く静謐なブナ林へと入っていった。さわさわ、さわさわ、過ぎゆく秋を歌うブナの透明な声に包まれる。
 ・667も一面のブナ。頭上を見上げ、わぁ、と口を開き、そのまま固まってしまう。
集落の裏山には、こんなにもうつくしい世界が静かに繰り広げられているのだ。

おおっ、素晴らしい。こっち側のブナ林は想像してませんでした。いいですねえ。
段ノ岳から金粕手前のP775mまでも繋いでみたいですね。

分岐からは、ユキツバキやユズリハでヤブっぽくなった左の尾根に進み、杣木俣の白山神社へと向かう。

下山の尾根もそれほど歩きにくくなかったようでよかったですね。

 往昔、池田町から杣木俣一円は曽博郷と呼ばれていて、杣木俣の白山神社は曽博郷の総社で、
池田町側の氏子達は大坂峠を越えて参詣していたという。生活、文化、習慣と深く結びつき、大切な場であった神社も、今は、石段は苔むし、拝殿は早くも雪囲いされ、もの寂しさを募らせている。

ソバク又という地名があるけど、曽博というのはどういう意味があるんでしょう?

 親子のサルをぼんやり見ていると、にぎやかだった頃の風景が浮かんできて、
雨戸の閉まった家の奥から、キャッキャッと、かくれんぼをして遊んでいるちびっこ達の笑い声が聞こえてきたような気がした。

ひと気のなくなった集落跡。廃屋なのかどうかわからないけど、時の移ろいを感じますね。


 *帰宅して、スタンフォード大学の地図を確認すると、大坂道は、ひとつ北の谷を遡り、お地蔵さまが祀られていた鞍部を越え、東俣側は山腹を縫いながら谷に延びていました。1/25000も1/50000地形図も間違っていたことが分かりました。

なるほど、そういうことでしたか。satoさんは後で確認するのが好きですね。 :mrgreen:

                山日和
sato
記事: 565
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【越前】 段ノ岳 かさかさと落ち葉を踏みしめながら 在りし日の風景を思う  

投稿記事 by sato »

山日和さま

こんばんは。
遅ればせながら退院おめでとうございます。日常生活に戻り、しあわせを感じながらも、
思うように動けないゆえ、戸惑いもあることと思います。
山に行きたくても行けない我慢の時にコメントをありがとうございます。

段ノ岳は、昨年の1月にご一緒したお山、歩きながらいろいろ思い出していました。

田倉川に沿った道は、山日和さんのお好きな雪の金草岳に向かう時に通りますね。
芋ケ平は、『秘境奥美濃の山旅』を読んで知りました。
「蓮如上人遺跡」のある谷が合わさる地点に集落があったのですね。ここも木地師が開いた村と伝えられています。
「イモガダイラ」という地名は、金草岳周辺では古くから鉱物が採掘されていて、
「鋳物師原(イモジガハラ)」と呼ばれていたのが「イモガダイラ」となり「芋ケ平」と書くようになったと、
『越前若狭続 山々のルーツ』に書かれています。

宅良坂は、芋ケ平と東俣を結ぶ峠ですね。ここも、山日和さんと、雪の季節に通りましたね。
東俣には、かつて関所があったそうです。宅良坂、大坂は、様々な背景の人びとが行き来してきた峠道だったのですね。
田倉川は、宅良が由来なのでしょうね。
「馬上免」も面白い地名ですね。むかし、仏田、神田を馬上免田と呼んでいたそうです。
小倉谷の慈眼寺は、最盛期には7つの伽藍が建ち並び、塔頭は17寺、全国の末寺は1200寺を数えたそうです。
このあたりは慈眼寺の領田だったのかもしれませんね。
「曽博」とはどういう意味なのでしょう。
地名は、何かの意味があって付けられたもの。ひとつの地名から、いろいろな風景、歴史が見えてきます。

私は、高校生の頃、幕末という時代に興味があったというか、激動の時代に生きた人びとの生き様に思いを巡らせていました。
水戸天狗党の人びとのこころをそこまで駆り立てたもの、そしてその結末を思うと、歴史というものの残酷さを感じてしまいます。
この史実があり、今の世の中があるのですね。

大坂峠のお地蔵さまは、そう、山日和さんからお聞きしていました。
地形図に「大坂」と記されているので、ここが峠だと信じて疑いませんでした。

・582周辺の緩やかな地形とブナの木々が織りなす風景は、新緑や紅葉の季節も素敵だろうなぁ、と思っていました。
段ノ岳山頂付近は、カエデの木が多く、赤や黄にうつくしく彩られていて、紅葉を愛でながらお昼の休憩を楽しみました。
風吹峠の林道は、南越前町のホームページで確認すると、
森林の管理と整備、観光、産業の更なる発展を目指して平成16年から整備が始まり、令和元年に開通とのことでした。

下山の尾根は、標高450mの分岐までは、健やかなブナ林でした。神社への尾根も、ちょっとヤブがうるさいなぁというくらいです。

戻って来た杣木俣の集落は、降り注ぐ午後の陽射しで眩しいくらいに明るく、その明るさに、よりさみしさを感じました。
川沿いに続いている田んぼは、どなたかがまとめて引き受けているのだと思います。

私は、歩いて出会った風景から、いろいろなことが知りたくなり、あれこれ調べるのが好きなのですね。
あぁ~見落としていたぁ、気づかなかったぁ、と思うことも多々あるのですが、これも、次への旅へと繋がっていきます。
越前の峠は、上杉喜寿さんの『越前若狭 峠のルーツ』に詳しく書かれていますね。
スタンフォード大学の地図もよく見るのですが、大坂は、地形図にはっきりと記されているので確認しませんでした。

段ノ岳から・775まで、是非繋ぎましょう!
この冬、また、越前の里山歩きをご一緒出来る日を楽しみにしております。
あっ、先ずは、愛する若狭のお山でしょうか。

sato
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