【台高】三重木材乾留会社とオジヤン
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【 日 付 】
【 山 域 】
【メンバー】
【 天 候 】
【 ルート 】
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【台高】三重木材乾留会社とオジヤン
【日 付】2019年9月15日(日)
【山 域】台高
【コース】千石林道駐車場8:00---10:12喜平小屋谷蓮3工場---11:56赤嵓滝谷蓮5工場---13:30桧塚劇場---15:45千石林道駐車場
【メンバー】単独
新資料が見つかったことで、新たな疑問が浮かび青田のオジヤンを訪ねることにした。オジヤンに教えてもらった事と新資料の確認をするために、私にとっては本丸と言える飯高の三重木材乾留会社の探索に出かけた。
【歴史的背景】
軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。
三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。
【三重木材乾留会社】
最大正5年9月に「木材乾留工業」著者の小林久平は三重木材乾留会社を視察している。この時に飯南の大石から粥見、宮前を経て七日市に至る紀州街道沿いに炭窯が30~50個あり大部分の窯が木酸液を採取していた。煙出口に曲がり土管をつけて、そこに冷却用に竹を7~8本差して採取する同型の窯だった。オジヤンに聞くと「炭焼窯があったのは知っているが、竹を差しているのは知らない。」との事だったのでアセトンの需要のあった当時のみ木酸液は採取されたようだ。
三重木材乾留会社の工場跡
(蓮・蓮川水系)
一工場 千石谷右岸
二工場 喜平小屋谷出合
三工場 喜平小屋谷二俣
四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部
五工場 赤嵓滝谷 三俣
(青田・木屋谷川水系)
一工場 取水ダム右岸
二工場 千秋社事務所跡
三工場 万歳橋
四工場 ワサビ谷手前
五工場 奥山谷出合
六工場 奥山谷奥の二俣
工場は乾留工場と精製工場に分かれる。乾留工場で木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。精製工場では蒸留して濃度を高め、石灰を混ぜて中和して酢酸石灰にして、搬出した。オジヤンによると、青田の場合は一工場が精製工場で
昔はコンクリートの型に木製の木枠があり、そこに八分の真鍮管で乾留工場より運んできた木酸液を注いでいた。製品の酢酸石灰はカマスに入れて大八車で運んだそうだ。重い酢酸石灰の搬出を考えると最も下流部に精製工場を設置する必要性があり、蓮の場合も一工場が精製工場と考えていいだろう。森の小倉吉右衛門が運輸部門を設け森から宮前まで輸送をしていたと「飯高郷土誌」に書かれていたので、オジヤンに聞いてみると飯高町第3代小倉信次町長の祖父だそうだ。オジヤンも飯高町最後の宮本里美町長の実兄だが。
新型の2窯3火床の岩本式木材乾留炭化装置は山中に5基設置された。岩本式木材乾留炭化装置の特徴は火床の位置と冷却に使う大量の土管にある。オジヤンによると青田の工場跡には大量の土管が放置された所は無く、通常の炭窯式の乾留工場だったようだ。
山中に残された岩本式木材乾留炭化装置の探索のために千石林道駐車場にむかった。大雨で通行止めとなっていた道がつながって一安心だ。車止めから林道終点まで行き、杣道を下ると喜平小屋谷の出合で右岸に蓮二工場がある。土管の連結部分やつながった土管にサクラビールの瓶などがあるが、上部の堰堤工事で埋められたようで窯は見つからなかった。三重木材乾留会社の乾留工場でよく見かけるサクラビールは鈴木商店系の大正時代にあったビール会社だ。少し離れた堰堤の上の広場にも耐熱レンガがあったので、岩本式木材乾留窯があった可能性もありそうだ。
谷を上り二俣の左岸にある蓮三工場に行く。岩本式木材乾留炭化装置は窯の後方に煙突がありここから土管をつないで冷却していた。最初は8寸土管15間(24cm×1m80cm)を使い次に6寸(18cm)最後に3寸3分(9.9cm)の銅管につなぎ桶に木酸液をためる構造になっている。植林の中には3種類の大量の土管が点在している。つながっている土管に沿って歩いていくと両側を石垣に囲まれた潰れた窯跡があった。土管の置かれた形状や土管の大きさから岩本式木材乾留炭化装置に間違いない。1基目の窯は確認できるのだが2基目が微妙で土管の散らばり方を見ると流されたのかもしれない。
上流部を目指して植林をつなぎながら進むが、嵓が立ってきて上に追いやられていく。1000mあたりで水平道に出会い進んで行くとテープも出て来た。瀬戸越の道で、その先の上流部に進もうとするが破線道どうりに赤嵓滝谷に下された。蓮三工場から少し上れば瀬戸越の道につながっていたことから喜平小屋谷の乾留工場の人や物資はこの道を使っていたのだろう。
赤嵓滝谷を詰めるとすぐに赤嵓滝で右岸から巻く。上っていくと蓮四工場で、左岸に土管や耐熱レンガがあるがほとんど埋もれている。岩本式木材乾留炭化装置を置くにはあまりにも場所が狭いので、炭窯式の乾留工場のように思った。
ひと上りで何度も来ている蓮五工場で、石垣に囲まれた岩本式木材乾留炭化装置が二ヶ所並列して並んでいる。岩本式木材乾留窯の特徴の窯と窯の間の火床も見られるし3種類の土管もあり、ここには二基の岩本式木材乾留炭化装置があったと考えていいだろう。乾留窯に熱をためるために煙突口をふさいだダンパーの枠があった。窯に熱が十分にたまると熱風口のダンパーを開き熱風が土管に流れ、冷却するのである。家に帰ってから気づいたのだが木酸液を運んでいた真鍮管もあった。百年の時を経て残っているとは丈夫なもんだ。左岸に飯場跡がありこれまで集めておいたビール瓶や貧乏徳利に茶わんや皿などの生活痕が残っている。ここで初めて見たのはインク瓶だ。このインクでだれに何を伝えようとしたのかと思うと感慨深いものがある。
三重木材乾留会社にあった5基の岩本式木材乾留炭化装置のうち3基は特定できた。後の2基は蓮3工場の2基目と蓮2工場なのかと思った。そして赤嵓滝谷の蓮4工場・蓮5工場の人や物資は千石平上部の開墾地から水平道で運ばれたのだろう。この道の存在はオジヤンも知っていたのでまず間違いないだろう。第1次世界大戦が終わり、アセトンの代用品が出来たことで乾留特需は一気にしぼみ、三重木材乾留会社の山林をオジヤンが勤めていた千秋社に売却したのだった。
帰りは桧塚劇場まで上り、P1353手前のコルから南に向かって下って最後は井戸谷の崩壊地に出て林道をもどった。
【山 域】台高
【コース】千石林道駐車場8:00---10:12喜平小屋谷蓮3工場---11:56赤嵓滝谷蓮5工場---13:30桧塚劇場---15:45千石林道駐車場
【メンバー】単独
新資料が見つかったことで、新たな疑問が浮かび青田のオジヤンを訪ねることにした。オジヤンに教えてもらった事と新資料の確認をするために、私にとっては本丸と言える飯高の三重木材乾留会社の探索に出かけた。
【歴史的背景】
軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。
三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。
【三重木材乾留会社】
最大正5年9月に「木材乾留工業」著者の小林久平は三重木材乾留会社を視察している。この時に飯南の大石から粥見、宮前を経て七日市に至る紀州街道沿いに炭窯が30~50個あり大部分の窯が木酸液を採取していた。煙出口に曲がり土管をつけて、そこに冷却用に竹を7~8本差して採取する同型の窯だった。オジヤンに聞くと「炭焼窯があったのは知っているが、竹を差しているのは知らない。」との事だったのでアセトンの需要のあった当時のみ木酸液は採取されたようだ。
三重木材乾留会社の工場跡
(蓮・蓮川水系)
一工場 千石谷右岸
二工場 喜平小屋谷出合
三工場 喜平小屋谷二俣
四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部
五工場 赤嵓滝谷 三俣
(青田・木屋谷川水系)
一工場 取水ダム右岸
二工場 千秋社事務所跡
三工場 万歳橋
四工場 ワサビ谷手前
五工場 奥山谷出合
六工場 奥山谷奥の二俣
工場は乾留工場と精製工場に分かれる。乾留工場で木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。精製工場では蒸留して濃度を高め、石灰を混ぜて中和して酢酸石灰にして、搬出した。オジヤンによると、青田の場合は一工場が精製工場で
昔はコンクリートの型に木製の木枠があり、そこに八分の真鍮管で乾留工場より運んできた木酸液を注いでいた。製品の酢酸石灰はカマスに入れて大八車で運んだそうだ。重い酢酸石灰の搬出を考えると最も下流部に精製工場を設置する必要性があり、蓮の場合も一工場が精製工場と考えていいだろう。森の小倉吉右衛門が運輸部門を設け森から宮前まで輸送をしていたと「飯高郷土誌」に書かれていたので、オジヤンに聞いてみると飯高町第3代小倉信次町長の祖父だそうだ。オジヤンも飯高町最後の宮本里美町長の実兄だが。
新型の2窯3火床の岩本式木材乾留炭化装置は山中に5基設置された。岩本式木材乾留炭化装置の特徴は火床の位置と冷却に使う大量の土管にある。オジヤンによると青田の工場跡には大量の土管が放置された所は無く、通常の炭窯式の乾留工場だったようだ。
山中に残された岩本式木材乾留炭化装置の探索のために千石林道駐車場にむかった。大雨で通行止めとなっていた道がつながって一安心だ。車止めから林道終点まで行き、杣道を下ると喜平小屋谷の出合で右岸に蓮二工場がある。土管の連結部分やつながった土管にサクラビールの瓶などがあるが、上部の堰堤工事で埋められたようで窯は見つからなかった。三重木材乾留会社の乾留工場でよく見かけるサクラビールは鈴木商店系の大正時代にあったビール会社だ。少し離れた堰堤の上の広場にも耐熱レンガがあったので、岩本式木材乾留窯があった可能性もありそうだ。
谷を上り二俣の左岸にある蓮三工場に行く。岩本式木材乾留炭化装置は窯の後方に煙突がありここから土管をつないで冷却していた。最初は8寸土管15間(24cm×1m80cm)を使い次に6寸(18cm)最後に3寸3分(9.9cm)の銅管につなぎ桶に木酸液をためる構造になっている。植林の中には3種類の大量の土管が点在している。つながっている土管に沿って歩いていくと両側を石垣に囲まれた潰れた窯跡があった。土管の置かれた形状や土管の大きさから岩本式木材乾留炭化装置に間違いない。1基目の窯は確認できるのだが2基目が微妙で土管の散らばり方を見ると流されたのかもしれない。
上流部を目指して植林をつなぎながら進むが、嵓が立ってきて上に追いやられていく。1000mあたりで水平道に出会い進んで行くとテープも出て来た。瀬戸越の道で、その先の上流部に進もうとするが破線道どうりに赤嵓滝谷に下された。蓮三工場から少し上れば瀬戸越の道につながっていたことから喜平小屋谷の乾留工場の人や物資はこの道を使っていたのだろう。
赤嵓滝谷を詰めるとすぐに赤嵓滝で右岸から巻く。上っていくと蓮四工場で、左岸に土管や耐熱レンガがあるがほとんど埋もれている。岩本式木材乾留炭化装置を置くにはあまりにも場所が狭いので、炭窯式の乾留工場のように思った。
ひと上りで何度も来ている蓮五工場で、石垣に囲まれた岩本式木材乾留炭化装置が二ヶ所並列して並んでいる。岩本式木材乾留窯の特徴の窯と窯の間の火床も見られるし3種類の土管もあり、ここには二基の岩本式木材乾留炭化装置があったと考えていいだろう。乾留窯に熱をためるために煙突口をふさいだダンパーの枠があった。窯に熱が十分にたまると熱風口のダンパーを開き熱風が土管に流れ、冷却するのである。家に帰ってから気づいたのだが木酸液を運んでいた真鍮管もあった。百年の時を経て残っているとは丈夫なもんだ。左岸に飯場跡がありこれまで集めておいたビール瓶や貧乏徳利に茶わんや皿などの生活痕が残っている。ここで初めて見たのはインク瓶だ。このインクでだれに何を伝えようとしたのかと思うと感慨深いものがある。
三重木材乾留会社にあった5基の岩本式木材乾留炭化装置のうち3基は特定できた。後の2基は蓮3工場の2基目と蓮2工場なのかと思った。そして赤嵓滝谷の蓮4工場・蓮5工場の人や物資は千石平上部の開墾地から水平道で運ばれたのだろう。この道の存在はオジヤンも知っていたのでまず間違いないだろう。第1次世界大戦が終わり、アセトンの代用品が出来たことで乾留特需は一気にしぼみ、三重木材乾留会社の山林をオジヤンが勤めていた千秋社に売却したのだった。
帰りは桧塚劇場まで上り、P1353手前のコルから南に向かって下って最後は井戸谷の崩壊地に出て林道をもどった。
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- 記事: 2231
- 登録日時: 2011年2月20日(日) 10:10
- 連絡する:
Re: 【台高】三重木材乾留会社とオジヤン
わりばしさん、こんばんは。
乾溜工場レポも完成度が高くなってきましたね。
乾留工場で木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。
長さがどれほどなのか分かりませんが、やけに細い管ですね。いくらも入らない。
何十本と束ねて背負って運んだのですか?
昔はコンクリートの型に木製の木枠があり、そこに八分の真鍮管で乾留工場より運んできた木酸液を注いでいた。
6分? 八分?
1000mあたりで水平道に出会い進んで行くとテープも出て来た。瀬戸越の道で、
その先の上流部に進もうとするが破線道どうりに赤嵓滝谷に下された。
そうですか。赤嵓滝の上流に出る道は見つかりませんでしたか。
グーは赤嵓滝が見たいので赤嵓滝を右岸から巻くルートを歩きますが、
乾溜工場で働いている人たちは安全で効率のいい道を歩くと思うのです。
いつのことか分かりませんがグーも第3工場と第4工場を繋ぐ道を探しに行こうかな?
帰りは桧塚劇場まで上り、P1353手前のコルから南に向かって下って最後は井戸谷の崩壊地に出て林道をもどった。
ほう!わりばしさんもそんなルートを知っているんだ。
グーは歩いたことがないから一度歩きに行こうかな。
当然最初は登りで。
グー(伊勢山上住人)
天気予報が変わりませんね。
Re: 【台高】三重木材乾留会社とオジヤン
わりばしさん、こんばんは~
【歴史的背景】
軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。
三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。
わりばしさんの以前のレポを見て3月に赤倉滝谷乾溜工場跡を見にえらい所から斜面を下りて行き土管が散乱しているその場所を見てビックリしました。。
7年前くらいに奥山谷へ行く道すがらに四工場だと思うんですがその時にpiccoloさんに乾溜工場跡やでと教えてもらいましたがイマイチ、乾留工場ということを理解出来てなくて林業関係の何かかな?としか思ってませんでした。
その後何回か関連の工場跡地を通っていて六工場でまた説明をされてようやっと意味が理解出来ました。
戦争のことについては何も知識が無かったので、自分が楽しませていただいている山域でこんなことがあったんだと赤倉滝谷乾溜工場跡地を見てから戦争の事を知らなければと人生で初めて戦争の時代について調べ始めました。
4年前に川上村の土倉庄三郎さんのことを調べて明治時代にどんなことがあったのか、色々と興味が出て来た時に雨ちゃんに鈴木よねの本読んでみたらと言われ”お家さん”を読んで鈴木商店の存在を知りました。
金子直吉さんのアンテナは凄いんですね。台湾も樟脳といい、土倉さんの息子も台湾で樟脳の生産に携わっていたので何かしら関係があったのでしょうか?今回のことについて全然関係ありませんが。
赤倉滝谷乾溜工場跡で散乱しているレンガや土管を見て、どんな風になっていたのかが知りたかったので今回のレポでよくわかりました。
アセトンは無煙だったから需要があったんですね。アセトンについていろいろ調べてみて諸外国の歴史も知るきっかけになりました。
先日、zippさんの所で山の中で拾ったガラス瓶のコレクションを見せていただいてコバルト色の小瓶群に”神薬”や ”資生堂”と瓶にエンボスされていて、帰ってその瓶の事を調べたら目薬だったんです。
資生堂は以前調べて、化粧品メーカーの資生堂以外の資生堂がたくさん存在していたことにビックリしました。
山の中で乾留の仕事をしていると煙とかで目がやられたんでしょうか、炭焼き窯とか沢沿いでよく見ますもんね。
鈴鹿の上高地の所でもたくさん炭焼き窯を見ました、あの辺も鉱山がたくさんあったり、関連しているのでしょうか?
いろんな木からアセトンという兵器の材料にされる物が作られていたことに驚き、その辺の時代の化学の発達に興味が出て、和紙と蒟蒻や葡萄酒なども兵器に使われていたことを知って驚いています。
連続で上げていただいたレポで乾溜工場の真相が知ることが出来て好かったです。
【歴史的背景】
軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。
三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。
わりばしさんの以前のレポを見て3月に赤倉滝谷乾溜工場跡を見にえらい所から斜面を下りて行き土管が散乱しているその場所を見てビックリしました。。
7年前くらいに奥山谷へ行く道すがらに四工場だと思うんですがその時にpiccoloさんに乾溜工場跡やでと教えてもらいましたがイマイチ、乾留工場ということを理解出来てなくて林業関係の何かかな?としか思ってませんでした。
その後何回か関連の工場跡地を通っていて六工場でまた説明をされてようやっと意味が理解出来ました。
戦争のことについては何も知識が無かったので、自分が楽しませていただいている山域でこんなことがあったんだと赤倉滝谷乾溜工場跡地を見てから戦争の事を知らなければと人生で初めて戦争の時代について調べ始めました。
4年前に川上村の土倉庄三郎さんのことを調べて明治時代にどんなことがあったのか、色々と興味が出て来た時に雨ちゃんに鈴木よねの本読んでみたらと言われ”お家さん”を読んで鈴木商店の存在を知りました。
金子直吉さんのアンテナは凄いんですね。台湾も樟脳といい、土倉さんの息子も台湾で樟脳の生産に携わっていたので何かしら関係があったのでしょうか?今回のことについて全然関係ありませんが。
赤倉滝谷乾溜工場跡で散乱しているレンガや土管を見て、どんな風になっていたのかが知りたかったので今回のレポでよくわかりました。
アセトンは無煙だったから需要があったんですね。アセトンについていろいろ調べてみて諸外国の歴史も知るきっかけになりました。
先日、zippさんの所で山の中で拾ったガラス瓶のコレクションを見せていただいてコバルト色の小瓶群に”神薬”や ”資生堂”と瓶にエンボスされていて、帰ってその瓶の事を調べたら目薬だったんです。
資生堂は以前調べて、化粧品メーカーの資生堂以外の資生堂がたくさん存在していたことにビックリしました。
山の中で乾留の仕事をしていると煙とかで目がやられたんでしょうか、炭焼き窯とか沢沿いでよく見ますもんね。
鈴鹿の上高地の所でもたくさん炭焼き窯を見ました、あの辺も鉱山がたくさんあったり、関連しているのでしょうか?
いろんな木からアセトンという兵器の材料にされる物が作られていたことに驚き、その辺の時代の化学の発達に興味が出て、和紙と蒟蒻や葡萄酒なども兵器に使われていたことを知って驚いています。
連続で上げていただいたレポで乾溜工場の真相が知ることが出来て好かったです。
ケルト
Re: 【台高】三重木材乾留会社とオジヤン
こんばんは、グーさん。
乾溜工場レポも完成度が高くなってきましたね。
いい資料が見つかりました。
乾留工場で木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。
長さがどれほどなのか分かりませんが、やけに細い管ですね。いくらも入らない。
何十本と束ねて背負って運んだのですか?
木酸液の濃度が7~7.5%と高かったからですかね。
何十本と束ねたんでしょうね。
オジヤンに今度聞いておきます。
昔はコンクリートの型に木製の木枠があり、そこに八分の真鍮管で乾留工場より運んできた木酸液を注いでいた。
6分? 八分?
「木材乾留工業」には6分と書いてあり、オジヤンは8分と言っていました。
真鍮管を探して測ってみないとわからないですね。
1000mあたりで水平道に出会い進んで行くとテープも出て来た。瀬戸越の道で、
その先の上流部に進もうとするが破線道どうりに赤嵓滝谷に下された。
そうですか。赤嵓滝の上流に出る道は見つかりませんでしたか。
グーは赤嵓滝が見たいので赤嵓滝を右岸から巻くルートを歩きますが、
乾溜工場で働いている人たちは安全で効率のいい道を歩くと思うのです。
いつのことか分かりませんがグーも第3工場と第4工場を繋ぐ道を探しに行こうかな?
人が行き来する道はあったんでしょうが
喜平小屋谷=瀬戸越
赤嵓滝谷=開墾地からの水平道
があるので、物資の搬出入には困らなかったと思います。
帰りは桧塚劇場まで上り、P1353手前のコルから南に向かって下って最後は井戸谷の崩壊地に出て林道をもどった。
ほう!わりばしさんもそんなルートを知っているんだ。
グーは歩いたことがないから一度歩きに行こうかな。
当然最初は登りで。
何度か歩いている所です。
へたをすると植林上の嵓につかまってしまいます。
天気予報が変わりませんね。
ねえ、どうしましょうね?
乾溜工場レポも完成度が高くなってきましたね。
いい資料が見つかりました。
乾留工場で木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。
長さがどれほどなのか分かりませんが、やけに細い管ですね。いくらも入らない。
何十本と束ねて背負って運んだのですか?
木酸液の濃度が7~7.5%と高かったからですかね。
何十本と束ねたんでしょうね。
オジヤンに今度聞いておきます。
昔はコンクリートの型に木製の木枠があり、そこに八分の真鍮管で乾留工場より運んできた木酸液を注いでいた。
6分? 八分?
「木材乾留工業」には6分と書いてあり、オジヤンは8分と言っていました。
真鍮管を探して測ってみないとわからないですね。
1000mあたりで水平道に出会い進んで行くとテープも出て来た。瀬戸越の道で、
その先の上流部に進もうとするが破線道どうりに赤嵓滝谷に下された。
そうですか。赤嵓滝の上流に出る道は見つかりませんでしたか。
グーは赤嵓滝が見たいので赤嵓滝を右岸から巻くルートを歩きますが、
乾溜工場で働いている人たちは安全で効率のいい道を歩くと思うのです。
いつのことか分かりませんがグーも第3工場と第4工場を繋ぐ道を探しに行こうかな?
人が行き来する道はあったんでしょうが
喜平小屋谷=瀬戸越
赤嵓滝谷=開墾地からの水平道
があるので、物資の搬出入には困らなかったと思います。
帰りは桧塚劇場まで上り、P1353手前のコルから南に向かって下って最後は井戸谷の崩壊地に出て林道をもどった。
ほう!わりばしさんもそんなルートを知っているんだ。
グーは歩いたことがないから一度歩きに行こうかな。
当然最初は登りで。
何度か歩いている所です。
へたをすると植林上の嵓につかまってしまいます。
天気予報が変わりませんね。
ねえ、どうしましょうね?
Re: 【台高】三重木材乾留会社とオジヤン
こんばんは、ケルトさん。
その後何回か関連の工場跡地を通っていて六工場でまた説明をされてようやっと意味が理解出来ました。
戦争のことについては何も知識が無かったので、自分が楽しませていただいている山域でこんなことがあったんだと赤倉滝谷乾溜工場跡地を見てから戦争の事を知らなければと人生で初めて戦争の時代について調べ始めました。
大正時代の第1次世界大戦、戦後の朝鮮戦争と日本という国は他国の戦争によって大きく発展してきた面はあるんですよね。
4年前に川上村の土倉庄三郎さんのことを調べて明治時代にどんなことがあったのか、色々と興味が出て来た時に雨ちゃんに鈴木よねの本読んでみたらと言われ”お家さん”を読んで鈴木商店の存在を知りました。
金子直吉さんのアンテナは凄いんですね。台湾も樟脳といい、土倉さんの息子も台湾で樟脳の生産に携わっていたので何かしら関係があったのでしょうか?今回のことについて全然関係ありませんが。
樟脳が当時もうかったんでしょうね。
金のある所には情報も集まるのでしょう。
先日、zippさんの所で山の中で拾ったガラス瓶のコレクションを見せていただいてコバルト色の小瓶群に”神薬”や ”資生堂”と瓶にエンボスされていて、帰ってその瓶の事を調べたら目薬だったんです。
資生堂は以前調べて、化粧品メーカーの資生堂以外の資生堂がたくさん存在していたことにビックリしました。
山の中で乾留の仕事をしていると煙とかで目がやられたんでしょうか、炭焼き窯とか沢沿いでよく見ますもんね。
目薬ですか、面白いですね。
ニキビ予防水の瓶が飯場から出たり、カゴメの海苔の佃煮の瓶が山中で見つかったり。
エンボス瓶は、より生活の背景が見えておもしろいです。
鈴鹿の上高地の所でもたくさん炭焼き窯を見ました、あの辺も鉱山がたくさんあったり、関連しているのでしょうか?
鈴鹿の神崎川沿いの鉱山とは時代は重なります。
ただこのあたりの炭焼き窯は乾留と関係ないです。
乾留の最盛期は10年未満ですし、飯高や宮川、伊勢の工場は特別だと思ってもらっていいと思います。
いろんな木からアセトンという兵器の材料にされる物が作られていたことに驚き、その辺の時代の化学の発達に興味が出て、和紙と蒟蒻や葡萄酒なども兵器に使われていたことを知って驚いています。
連続で上げていただいたレポで乾溜工場の真相が知ることが出来て好かったです。
津の海岸の防風林の松の松脂から戦時中に燃料を作ったと親父から聞いたことがありました。
その生成方法も「木材乾留工業」には載っていました。
大熊木材乾留会社の左岸の工場が岩本式木材乾留炭化装置なので、これを一度見てから蓮五工場を見ると分かりやすいです。
その後何回か関連の工場跡地を通っていて六工場でまた説明をされてようやっと意味が理解出来ました。
戦争のことについては何も知識が無かったので、自分が楽しませていただいている山域でこんなことがあったんだと赤倉滝谷乾溜工場跡地を見てから戦争の事を知らなければと人生で初めて戦争の時代について調べ始めました。
大正時代の第1次世界大戦、戦後の朝鮮戦争と日本という国は他国の戦争によって大きく発展してきた面はあるんですよね。
4年前に川上村の土倉庄三郎さんのことを調べて明治時代にどんなことがあったのか、色々と興味が出て来た時に雨ちゃんに鈴木よねの本読んでみたらと言われ”お家さん”を読んで鈴木商店の存在を知りました。
金子直吉さんのアンテナは凄いんですね。台湾も樟脳といい、土倉さんの息子も台湾で樟脳の生産に携わっていたので何かしら関係があったのでしょうか?今回のことについて全然関係ありませんが。
樟脳が当時もうかったんでしょうね。
金のある所には情報も集まるのでしょう。
先日、zippさんの所で山の中で拾ったガラス瓶のコレクションを見せていただいてコバルト色の小瓶群に”神薬”や ”資生堂”と瓶にエンボスされていて、帰ってその瓶の事を調べたら目薬だったんです。
資生堂は以前調べて、化粧品メーカーの資生堂以外の資生堂がたくさん存在していたことにビックリしました。
山の中で乾留の仕事をしていると煙とかで目がやられたんでしょうか、炭焼き窯とか沢沿いでよく見ますもんね。
目薬ですか、面白いですね。
ニキビ予防水の瓶が飯場から出たり、カゴメの海苔の佃煮の瓶が山中で見つかったり。
エンボス瓶は、より生活の背景が見えておもしろいです。
鈴鹿の上高地の所でもたくさん炭焼き窯を見ました、あの辺も鉱山がたくさんあったり、関連しているのでしょうか?
鈴鹿の神崎川沿いの鉱山とは時代は重なります。
ただこのあたりの炭焼き窯は乾留と関係ないです。
乾留の最盛期は10年未満ですし、飯高や宮川、伊勢の工場は特別だと思ってもらっていいと思います。
いろんな木からアセトンという兵器の材料にされる物が作られていたことに驚き、その辺の時代の化学の発達に興味が出て、和紙と蒟蒻や葡萄酒なども兵器に使われていたことを知って驚いています。
連続で上げていただいたレポで乾溜工場の真相が知ることが出来て好かったです。
津の海岸の防風林の松の松脂から戦時中に燃料を作ったと親父から聞いたことがありました。
その生成方法も「木材乾留工業」には載っていました。
大熊木材乾留会社の左岸の工場が岩本式木材乾留炭化装置なので、これを一度見てから蓮五工場を見ると分かりやすいです。
Re: 【台高】三重木材乾留会社とオジヤン
わりばしさん まいど
あめちゃんです
ふぅっ、改めて熟読させたいただきました。
大作です。
新資料が見つかったことで、新たな疑問が浮かび青田のオジヤンを訪ねることにした。オジヤンに教えてもらった事と新資料の確認をするために、私にとっては本丸と言える飯高の三重木材乾留会社の探索に出かけた。
オジヤンを改めて紹介するまでもないですが、訪問してくださりありがとうございます。
ましら(猿)のごとく縦横無尽に千秋界隈を歩かれていたお方、
黙って座ればピタリと答える・・・自分が生まれる前のことでも、あたかも眼前で繰り広げられるように
・・・最近、本題に入るまで多少時間はかかりますが・・・
貴重な貴重な生き字引です
軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。
私は山を歩くためには、「三工場」「四工場」「五工場」「六工場」という言葉が必要でした。地元の人と、どこに行ったか会話するときの地名だからです。
そのあと、ノブチャンから「飯高郷土誌」もらって、「ふんふん」と読んでました。
戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。
よぉく見つけましたね。素晴らしい。
・・・私、教えていただいた検索で未だヒットせず、です
三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。
この話も、山の人たちと呑んでる時にフツーに聞いていました
(蓮・蓮川水系)
一工場 千石谷右岸
二工場 喜平小屋谷出合
三工場 喜平小屋谷二俣
四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部
五工場 赤嵓滝谷 三俣
(青田・木屋谷川水系)
一工場 取水ダム右岸
二工場 千秋社事務所跡
三工場 万歳橋
四工場 ワサビ谷手前
五工場 奥山谷出合
六工場 奥山谷奥の二俣
青田側の二工場は正確には、千秋事務所跡の対岸(木屋谷川左岸)と聞いています。その辺から昔は吊り橋があったそうです
工場は乾留工場と精製工場に分かれる。乾留工場で木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。精製工場では蒸留して濃度を高め、石灰を混ぜて中和して酢酸石灰にして、搬出した。オジヤンによると、青田の場合は一工場が精製工場で昔はコンクリートの型に木製の木枠があり、そこに八分の真鍮管で乾留工場より運んできた木酸液を注いでいた。製品の酢酸石灰はカマスに入れて大八車で運んだそうだ。重い酢酸石灰の搬出を考えると最も下流部に精製工場を設置する必要性が
あり、蓮の場合も一工場が精製工場と考えていいだろう。
オジヤンによると、石灰の採石場も一工場の近くにあるそうです。
一工場には(どちらも)明らかに木枠を組んだ反応槽(火をたいた跡か)がありますよね。
オジヤンによると、青田一工場跡で、木で作ったフタも見たことがあるそうです
オジヤンも飯高町最後の宮本里美町長の実兄だが。
山の神に参加したとき、お会いしましたよね
新型の2窯3火床の岩本式木材乾留炭化装置は山中に5基設置された。岩本式木材乾留炭化装置の特徴は火床の位置と冷却に使う大量の土管にある。オジヤンによると青田の工場跡には大量の土管が放置された所は無く、通常の炭窯式の乾留工場だったようだ。
確かに青田側の土管は破片ばかりでナゾが解けた気が・・・
乾留窯に熱をためるために煙突口をふさいだダンパーの枠があった。窯に熱が十分にたまると熱風口のダンパーを開き熱風が土管に流れ、冷却するのである。
工場跡で金属製品見つけるのはすごいなぁ
家に帰ってから気づいたのだが木酸液を運んでいた真鍮管もあった。
宝物
百年の時を経て残っているとは丈夫なもんだ。左岸に飯場跡がありこれまで集めておいたビール瓶や貧乏徳利に茶わんや皿などの生活痕が残っている。ここで初めて見たのはインク瓶だ。このインクでだれに何を伝えようとしたのかと思うと感慨深いものがある
ガラスはいいですよね、腐らないしきれいだし
私も意味不明の形状結構持ってます
第1次世界大戦が終わり、アセトンの代用品が出来たことで乾留特需は一気にしぼみ、三重木材乾留会社の山林をオジヤンが勤めていた千秋社に売却したのだった。
千秋社・・・愛読者の方、キッコーマンのことです。
醤油樽を作るために木が必要だったのです
私が、●●工場の言葉を知ったころ、悲しいかなここまで調べることはできませんでした。感服いたします。
青田に暮らしていた人たちのためにも、なんか、なんか、教えてあげたいですね・・・
あめちゃん
あめちゃんです
ふぅっ、改めて熟読させたいただきました。
大作です。
新資料が見つかったことで、新たな疑問が浮かび青田のオジヤンを訪ねることにした。オジヤンに教えてもらった事と新資料の確認をするために、私にとっては本丸と言える飯高の三重木材乾留会社の探索に出かけた。
オジヤンを改めて紹介するまでもないですが、訪問してくださりありがとうございます。
ましら(猿)のごとく縦横無尽に千秋界隈を歩かれていたお方、
黙って座ればピタリと答える・・・自分が生まれる前のことでも、あたかも眼前で繰り広げられるように
・・・最近、本題に入るまで多少時間はかかりますが・・・
貴重な貴重な生き字引です
軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。
私は山を歩くためには、「三工場」「四工場」「五工場」「六工場」という言葉が必要でした。地元の人と、どこに行ったか会話するときの地名だからです。
そのあと、ノブチャンから「飯高郷土誌」もらって、「ふんふん」と読んでました。
戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。
よぉく見つけましたね。素晴らしい。
・・・私、教えていただいた検索で未だヒットせず、です
三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。
この話も、山の人たちと呑んでる時にフツーに聞いていました
(蓮・蓮川水系)
一工場 千石谷右岸
二工場 喜平小屋谷出合
三工場 喜平小屋谷二俣
四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部
五工場 赤嵓滝谷 三俣
(青田・木屋谷川水系)
一工場 取水ダム右岸
二工場 千秋社事務所跡
三工場 万歳橋
四工場 ワサビ谷手前
五工場 奥山谷出合
六工場 奥山谷奥の二俣
青田側の二工場は正確には、千秋事務所跡の対岸(木屋谷川左岸)と聞いています。その辺から昔は吊り橋があったそうです
工場は乾留工場と精製工場に分かれる。乾留工場で木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。精製工場では蒸留して濃度を高め、石灰を混ぜて中和して酢酸石灰にして、搬出した。オジヤンによると、青田の場合は一工場が精製工場で昔はコンクリートの型に木製の木枠があり、そこに八分の真鍮管で乾留工場より運んできた木酸液を注いでいた。製品の酢酸石灰はカマスに入れて大八車で運んだそうだ。重い酢酸石灰の搬出を考えると最も下流部に精製工場を設置する必要性が
あり、蓮の場合も一工場が精製工場と考えていいだろう。
オジヤンによると、石灰の採石場も一工場の近くにあるそうです。
一工場には(どちらも)明らかに木枠を組んだ反応槽(火をたいた跡か)がありますよね。
オジヤンによると、青田一工場跡で、木で作ったフタも見たことがあるそうです
オジヤンも飯高町最後の宮本里美町長の実兄だが。
山の神に参加したとき、お会いしましたよね
新型の2窯3火床の岩本式木材乾留炭化装置は山中に5基設置された。岩本式木材乾留炭化装置の特徴は火床の位置と冷却に使う大量の土管にある。オジヤンによると青田の工場跡には大量の土管が放置された所は無く、通常の炭窯式の乾留工場だったようだ。
確かに青田側の土管は破片ばかりでナゾが解けた気が・・・
乾留窯に熱をためるために煙突口をふさいだダンパーの枠があった。窯に熱が十分にたまると熱風口のダンパーを開き熱風が土管に流れ、冷却するのである。
工場跡で金属製品見つけるのはすごいなぁ
家に帰ってから気づいたのだが木酸液を運んでいた真鍮管もあった。
宝物
百年の時を経て残っているとは丈夫なもんだ。左岸に飯場跡がありこれまで集めておいたビール瓶や貧乏徳利に茶わんや皿などの生活痕が残っている。ここで初めて見たのはインク瓶だ。このインクでだれに何を伝えようとしたのかと思うと感慨深いものがある
ガラスはいいですよね、腐らないしきれいだし
私も意味不明の形状結構持ってます
第1次世界大戦が終わり、アセトンの代用品が出来たことで乾留特需は一気にしぼみ、三重木材乾留会社の山林をオジヤンが勤めていた千秋社に売却したのだった。
千秋社・・・愛読者の方、キッコーマンのことです。
醤油樽を作るために木が必要だったのです
私が、●●工場の言葉を知ったころ、悲しいかなここまで調べることはできませんでした。感服いたします。
青田に暮らしていた人たちのためにも、なんか、なんか、教えてあげたいですね・・・
あめちゃん
Re: 【台高】三重木材乾留会社とオジヤン
おはようございます、雨子庵さん。
新資料が見つかったことで、新たな疑問が浮かび青田のオジヤンを訪ねることにした。オジヤンに教えてもらった事と新資料の確認をするために、私にとっては本丸と言える飯高の三重木材乾留会社の探索に出かけた。
オジヤンを改めて紹介するまでもないですが、訪問してくださりありがとうございます。
ましら(猿)のごとく縦横無尽に千秋界隈を歩かれていたお方、
黙って座ればピタリと答える・・・自分が生まれる前のことでも、あたかも眼前で繰り広げられるように
・・・最近、本題に入るまで多少時間はかかりますが・・・
貴重な貴重な生き字引です
雨子庵さんにレスしてもらって良かったです。
私が知らないオジヤン情報が宝箱のように入っています。
軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。
私は山を歩くためには、「三工場」「四工場」「五工場」「六工場」という言葉が必要でした。地元の人と、どこに行ったか会話するときの地名だからです。
そのあと、ノブチャンから「飯高郷土誌」もらって、「ふんふん」と読んでました。
なんと貴重な「飯高郷土誌」持ってるんだ。
三重木材乾留会社から千秋社は直接山林を買ったので、そのまま地名として残ったんだ。
どうりで痕跡も少ないのに場所が確定できるはずだ。
戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。
よぉく見つけましたね。素晴らしい。
・・・私、教えていただいた検索で未だヒットせず、です
J-STAGEという論文公開サイトで「小林久平 講義」と検索すると出てきます。
工業化学雑誌(大正6年1月号)の「我国に於ける木材乾留炭化装置に就て」という講義文が見れます。
乾留炭化装置の概要です。
三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。
この話も、山の人たちと呑んでる時にフツーに聞いていました
鳥羽水族館の場所に鈴木商店傘下の鳥羽造船所があったので
三重には地の利があったのでしょう。
(蓮・蓮川水系)
一工場 千石谷右岸
二工場 喜平小屋谷出合
三工場 喜平小屋谷二俣
四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部
五工場 赤嵓滝谷 三俣
(青田・木屋谷川水系)
一工場 取水ダム右岸
二工場 千秋社事務所跡
三工場 万歳橋
四工場 ワサビ谷手前
五工場 奥山谷出合
六工場 奥山谷奥の二俣
青田側の二工場は正確には、千秋事務所跡の対岸(木屋谷川左岸)と聞いています。その辺から昔は吊り橋があったそうです
対岸から見る分にはそれらしき場所はわからなかったなあ。
植林のなのかな?
工場は乾留工場と精製工場に分かれる。乾留工場で木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。精製工場では蒸留して濃度を高め、石灰を混ぜて中和して酢酸石灰にして、搬出した。オジヤンによると、青田の場合は一工場が精製工場で昔はコンクリートの型に木製の木枠があり、そこに八分の真鍮管で乾留工場より運んできた木酸液を注いでいた。製品の酢酸石灰はカマスに入れて大八車で運んだそうだ。重い酢酸石灰の搬出を考えると最も下流部に精製工場を設置する必要性が
あり、蓮の場合も一工場が精製工場と考えていいだろう。
オジヤンによると、石灰の採石場も一工場の近くにあるそうです。
一工場には(どちらも)明らかに木枠を組んだ反応槽(火をたいた跡か)がありますよね。
オジヤンによると、青田一工場跡で、木で作ったフタも見たことがあるそうです
石灰も自前で調達していたのか・・スゴイ。
また採石場の場所を聞いといてくださいな。
オジヤンも飯高町最後の宮本里美町長の実兄だが。
山の神に参加したとき、お会いしましたよね
忘れていましたが、思い出しました。
新型の2窯3火床の岩本式木材乾留炭化装置は山中に5基設置された。岩本式木材乾留炭化装置の特徴は火床の位置と冷却に使う大量の土管にある。オジヤンによると青田の工場跡には大量の土管が放置された所は無く、通常の炭窯式の乾留工場だったようだ。
確かに青田側の土管は破片ばかりでナゾが解けた気が・・・
このあたりの記述は三重大にあった「木材乾留工業」小林久平(昭和5年)に書いてあります。
乾留窯に熱をためるために煙突口をふさいだダンパーの枠があった。窯に熱が十分にたまると熱風口のダンパーを開き熱風が土管に流れ、冷却するのである。
工場跡で金属製品見つけるのはすごいなぁ
ダンパー部分は頑丈にできているようで、大熊乾留工場跡や蓮第4工場にもあります。
家に帰ってから気づいたのだが木酸液を運んでいた真鍮管もあった。
宝物
この時は、「なんや棒か」と思って捨てたんですが
帰って資料を読んでビックリ。
昨日探しにいきましたが、落葉に埋もれ見つかりませんでした。
百年の時を経て残っているとは丈夫なもんだ。左岸に飯場跡がありこれまで集めておいたビール瓶や貧乏徳利に茶わんや皿などの生活痕が残っている。ここで初めて見たのはインク瓶だ。このインクでだれに何を伝えようとしたのかと思うと感慨深いものがある
ガラスはいいですよね、腐らないしきれいだし
私も意味不明の形状結構持ってます
真鍮管を探して歩いていたら
蓮第4工場の飯場跡を見つけました。
あまり人は来ていない感じで、カブトビールの完品もありました。
飯場の大きさからして第4工場もそれなりの規模だったようです。
今は土砂に埋もれてその痕跡は少ししか残っていませんが・・
第1次世界大戦が終わり、アセトンの代用品が出来たことで乾留特需は一気にしぼみ、三重木材乾留会社の山林をオジヤンが勤めていた千秋社に売却したのだった。
千秋社・・・愛読者の方、キッコーマンのことです。
醤油樽を作るために木が必要だったのです
私が、●●工場の言葉を知ったころ、悲しいかなここまで調べることはできませんでした。感服いたします。
青田に暮らしていた人たちのためにも、なんか、なんか、教えてあげたいですね・・・
講義文を読んで思い当たる所があれば
また、教えてください。
新資料が見つかったことで、新たな疑問が浮かび青田のオジヤンを訪ねることにした。オジヤンに教えてもらった事と新資料の確認をするために、私にとっては本丸と言える飯高の三重木材乾留会社の探索に出かけた。
オジヤンを改めて紹介するまでもないですが、訪問してくださりありがとうございます。
ましら(猿)のごとく縦横無尽に千秋界隈を歩かれていたお方、
黙って座ればピタリと答える・・・自分が生まれる前のことでも、あたかも眼前で繰り広げられるように
・・・最近、本題に入るまで多少時間はかかりますが・・・
貴重な貴重な生き字引です
雨子庵さんにレスしてもらって良かったです。
私が知らないオジヤン情報が宝箱のように入っています。
軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。
私は山を歩くためには、「三工場」「四工場」「五工場」「六工場」という言葉が必要でした。地元の人と、どこに行ったか会話するときの地名だからです。
そのあと、ノブチャンから「飯高郷土誌」もらって、「ふんふん」と読んでました。
なんと貴重な「飯高郷土誌」持ってるんだ。
三重木材乾留会社から千秋社は直接山林を買ったので、そのまま地名として残ったんだ。
どうりで痕跡も少ないのに場所が確定できるはずだ。
戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。
よぉく見つけましたね。素晴らしい。
・・・私、教えていただいた検索で未だヒットせず、です
J-STAGEという論文公開サイトで「小林久平 講義」と検索すると出てきます。
工業化学雑誌(大正6年1月号)の「我国に於ける木材乾留炭化装置に就て」という講義文が見れます。
乾留炭化装置の概要です。
三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。
この話も、山の人たちと呑んでる時にフツーに聞いていました
鳥羽水族館の場所に鈴木商店傘下の鳥羽造船所があったので
三重には地の利があったのでしょう。
(蓮・蓮川水系)
一工場 千石谷右岸
二工場 喜平小屋谷出合
三工場 喜平小屋谷二俣
四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部
五工場 赤嵓滝谷 三俣
(青田・木屋谷川水系)
一工場 取水ダム右岸
二工場 千秋社事務所跡
三工場 万歳橋
四工場 ワサビ谷手前
五工場 奥山谷出合
六工場 奥山谷奥の二俣
青田側の二工場は正確には、千秋事務所跡の対岸(木屋谷川左岸)と聞いています。その辺から昔は吊り橋があったそうです
対岸から見る分にはそれらしき場所はわからなかったなあ。
植林のなのかな?
工場は乾留工場と精製工場に分かれる。乾留工場で木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。精製工場では蒸留して濃度を高め、石灰を混ぜて中和して酢酸石灰にして、搬出した。オジヤンによると、青田の場合は一工場が精製工場で昔はコンクリートの型に木製の木枠があり、そこに八分の真鍮管で乾留工場より運んできた木酸液を注いでいた。製品の酢酸石灰はカマスに入れて大八車で運んだそうだ。重い酢酸石灰の搬出を考えると最も下流部に精製工場を設置する必要性が
あり、蓮の場合も一工場が精製工場と考えていいだろう。
オジヤンによると、石灰の採石場も一工場の近くにあるそうです。
一工場には(どちらも)明らかに木枠を組んだ反応槽(火をたいた跡か)がありますよね。
オジヤンによると、青田一工場跡で、木で作ったフタも見たことがあるそうです
石灰も自前で調達していたのか・・スゴイ。
また採石場の場所を聞いといてくださいな。
オジヤンも飯高町最後の宮本里美町長の実兄だが。
山の神に参加したとき、お会いしましたよね
忘れていましたが、思い出しました。
新型の2窯3火床の岩本式木材乾留炭化装置は山中に5基設置された。岩本式木材乾留炭化装置の特徴は火床の位置と冷却に使う大量の土管にある。オジヤンによると青田の工場跡には大量の土管が放置された所は無く、通常の炭窯式の乾留工場だったようだ。
確かに青田側の土管は破片ばかりでナゾが解けた気が・・・
このあたりの記述は三重大にあった「木材乾留工業」小林久平(昭和5年)に書いてあります。
乾留窯に熱をためるために煙突口をふさいだダンパーの枠があった。窯に熱が十分にたまると熱風口のダンパーを開き熱風が土管に流れ、冷却するのである。
工場跡で金属製品見つけるのはすごいなぁ
ダンパー部分は頑丈にできているようで、大熊乾留工場跡や蓮第4工場にもあります。
家に帰ってから気づいたのだが木酸液を運んでいた真鍮管もあった。
宝物
この時は、「なんや棒か」と思って捨てたんですが
帰って資料を読んでビックリ。
昨日探しにいきましたが、落葉に埋もれ見つかりませんでした。
百年の時を経て残っているとは丈夫なもんだ。左岸に飯場跡がありこれまで集めておいたビール瓶や貧乏徳利に茶わんや皿などの生活痕が残っている。ここで初めて見たのはインク瓶だ。このインクでだれに何を伝えようとしたのかと思うと感慨深いものがある
ガラスはいいですよね、腐らないしきれいだし
私も意味不明の形状結構持ってます
真鍮管を探して歩いていたら
蓮第4工場の飯場跡を見つけました。
あまり人は来ていない感じで、カブトビールの完品もありました。
飯場の大きさからして第4工場もそれなりの規模だったようです。
今は土砂に埋もれてその痕跡は少ししか残っていませんが・・
第1次世界大戦が終わり、アセトンの代用品が出来たことで乾留特需は一気にしぼみ、三重木材乾留会社の山林をオジヤンが勤めていた千秋社に売却したのだった。
千秋社・・・愛読者の方、キッコーマンのことです。
醤油樽を作るために木が必要だったのです
私が、●●工場の言葉を知ったころ、悲しいかなここまで調べることはできませんでした。感服いたします。
青田に暮らしていた人たちのためにも、なんか、なんか、教えてあげたいですね・・・
講義文を読んで思い当たる所があれば
また、教えてください。
Re: 【台高】三重木材乾留会社とオジヤン
山の帰りに木屋谷川取水ダムの右岸にある青田一工場に寄った。オジヤンに話を聞いてから一工場の確認をしていない。遅ればせながらの探索になる。
工場は乾留工場と精製工場に分かれる。乾留工場で木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。精製工場では蒸留して濃度を高め、石灰を混ぜて中和して酢酸石灰にして、搬出した。オジヤンによると、青田の場合は一工場が精製工場で昔はコンクリートの型に木製の木枠があり、そこに8分(2.4cm)の真鍮管で乾留工場より運んできた木酸液を注いでいた。製品の酢酸石灰はカマスに入れて大八車で運んだそうだ。
取水口の右岸には、巨大な石垣に守られた上下2つの広大な平地が残っている。上の平地にある木酸液の貯蔵槽跡に行く。よく見ると石灰岩の白いかけらがたくさん落ちている。オジヤンによると酢酸石灰の材料の石灰は近くの石灰山から運んできて作ったとの事だったので、その名残だろう。貯蔵槽にもはや木枠は無くコンクリートと言うより石盤で囲まれた跡があった。石灰が見当たらないので、苔をはいでみると石灰の山だった。そればかりか木酸液を乾留工場から運んだ真鍮管も出て来た。オジヤンの言うとうり精製工場の痕跡が1世紀の時空を超えてしっかり残っていた。
真鍮管は直径6分というのは、大正5年9月に早稲田大学小林久平教授が三重木材乾留工場を訪れた時の視察記録に書かれている数字で、8分はオジヤンの証言だ。家に帰ってから測ってみると直径は2.4cmで、オジヤンの証言どうりだった。百聞は一見にしかずだ。それにしてもオジヤンこんな数字までよく覚えていたもんだ。
臭いものには蓋をする日本の歴史の中で第1次世界大戦当時の数少ない産業遺産が台高の山には眠っている。コロナで闇鍋は中止だけど、オジヤンの元気なうちにいろんな話を聞かせてほしいなとあらためて思った。
-
- 記事: 2231
- 登録日時: 2011年2月20日(日) 10:10
- 連絡する:
Re: 【台高】三重木材乾留会社とオジヤン
わりばしさん、おはよう。お久しぶり。
やっと半年間の漁期も終わりますね。
木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。
そんな細いものに入れて運ぶのは非効率だと思うのだけど。
一升瓶ぐらいの真鍮管は作れないのだろうか?
精製工場の痕跡が1世紀の時空を超えてしっかり残っていた。
次回、滝を見に行くときに寄ってみます。ヒルがいないといいけど。
直径は2.4cmで、オジヤンの証言どうりだった。百聞は一見にしかずだ。
はい。すっきりしました。
コロナで闇鍋は中止だけど、オジヤンの元気なうちにいろんな話を聞かせてほしいなとあらためて思った。
来年は闇鍋をやりたいですね。
乾溜工場跡の探索もこれにて終了ですか?
グー(伊勢山上住人)
やっと半年間の漁期も終わりますね。
木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。
そんな細いものに入れて運ぶのは非効率だと思うのだけど。
一升瓶ぐらいの真鍮管は作れないのだろうか?
精製工場の痕跡が1世紀の時空を超えてしっかり残っていた。
次回、滝を見に行くときに寄ってみます。ヒルがいないといいけど。
直径は2.4cmで、オジヤンの証言どうりだった。百聞は一見にしかずだ。
はい。すっきりしました。
コロナで闇鍋は中止だけど、オジヤンの元気なうちにいろんな話を聞かせてほしいなとあらためて思った。
来年は闇鍋をやりたいですね。
乾溜工場跡の探索もこれにて終了ですか?
グー(伊勢山上住人)
Re: 【台高】三重木材乾留会社とオジヤン
おはようございます、グーさん。
お久しぶり。
やっと半年間の漁期も終わりますね。
台高で尺も出たので今シーズンは終わりです。
木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。
そんな細いものに入れて運ぶのは非効率だと思うのだけど。
一升瓶ぐらいの真鍮管は作れないのだろうか?
酸の濃度が高いんでしょうね。
貯蔵槽も木枠と真鍮で出来ていたんですから。
精製工場の痕跡が1世紀の時空を超えてしっかり残っていた。
次回、滝を見に行くときに寄ってみます。ヒルがいないといいけど。
ヒルは大丈夫ですよ。
大正時代にユニオンビールを製造していた日本麦酒鑛泉のビール瓶もありました。
この瓶は初めて見ました。
直径は2.4cmで、オジヤンの証言どうりだった。百聞は一見にしかずだ。
はい。すっきりしました。
オジヤンが山に入った時期には乾留工場はやっていなかったのに
よくぞこんな細かい所まで覚えていてくれました。
すばらしい。
コロナで闇鍋は中止だけど、オジヤンの元気なうちにいろんな話を聞かせてほしいなとあらためて思った。
来年は闇鍋をやりたいですね。
乾溜工場跡の探索もこれにて終了ですか?
今年はまだダメですね・・異常気象のせい
秋になると乾留工場に行きたくなります。
わりばし
お久しぶり。
やっと半年間の漁期も終わりますね。
台高で尺も出たので今シーズンは終わりです。
木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。
そんな細いものに入れて運ぶのは非効率だと思うのだけど。
一升瓶ぐらいの真鍮管は作れないのだろうか?
酸の濃度が高いんでしょうね。
貯蔵槽も木枠と真鍮で出来ていたんですから。
精製工場の痕跡が1世紀の時空を超えてしっかり残っていた。
次回、滝を見に行くときに寄ってみます。ヒルがいないといいけど。
ヒルは大丈夫ですよ。
大正時代にユニオンビールを製造していた日本麦酒鑛泉のビール瓶もありました。
この瓶は初めて見ました。
直径は2.4cmで、オジヤンの証言どうりだった。百聞は一見にしかずだ。
はい。すっきりしました。
オジヤンが山に入った時期には乾留工場はやっていなかったのに
よくぞこんな細かい所まで覚えていてくれました。
すばらしい。
コロナで闇鍋は中止だけど、オジヤンの元気なうちにいろんな話を聞かせてほしいなとあらためて思った。
来年は闇鍋をやりたいですね。
乾溜工場跡の探索もこれにて終了ですか?
今年はまだダメですね・・異常気象のせい
秋になると乾留工場に行きたくなります。
わりばし