【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

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雨子庵
記事: 491
登録日時: 2011年10月12日(水) 19:40
お住まい: 名古屋(ときどき青田(飯高))

【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by 雨子庵 »

三重県側から桧塚(千秋峰)方面に登る際、コースによっては、炭焼き跡ではない、レンガを使ったナゾの遺構を通過することがあります。
これは大正時代にこの地で栄えた、通称『乾留』という会社の工場の跡です。
これが何なのか、誰が、ということは別の機会に紹介するとして、よく話題に出るのは場所です。
木屋谷水系では6工場までが知られており、万才橋から川沿いルートをとると、ワサビ谷手前で4工場(下から数えて4番目の工場)、奥山谷の出合いで5工場を通ります。この二つは目立つので、歩いた方はお分かりだと思います。
先日、ココで1~6工場までを紹介しましたが、zippさんから「1工場は取水堰堤の上流の滝の右岸では?」とご指摘があり、写真を頼りに早速行ってきました。
・・・答えは、ココがズバリ1工場跡でした!

川を渡渉し、そこで見たものは、4工場等と規模が違い、正に要塞でした。一人でコーフンしまくりでした。石垣がきちんと組まれており、広い平地が大きく2段あります。
下の広場には釜(窯?)跡が3箇所くらい、上の広場には1.5m×3m程度の池のような跡(石もコンクリで固めているように見える)、そして随所に例のビール瓶、三ツ矢サイダーのビン。そして、何の部品か皆目見当つかないブーメランのお化けのような鉄の部品(かなり重いです)。そしてなぜかガイシも。一人でそこにいると往時の人の姿が見えてきそうな感じでした。

別荘に帰ると、オジヤンが車で来た(けれど何でこの人はいつもこんなにタイミング良く現れるんだろう?)
『取水堰堤の上の跡に行ってきた。あれ1工場だよね』
『そうや、『窯跡』や』
『1工場跡とは言わんの?』
『まあ言う人もいるかもしれんが、ここら辺では『窯跡』と呼んでるな』
・・・確かに、いわゆる本社みたいなもんだろう。それをワザワザ1工場というのもヘンだわな・・・
『あれは乾留時代のものなの?千秋社が一時使ってたの?』
『いや乾留から後は使っていない。石垣も乾留が組んだものだろう』
『昔の記憶はあるの?』
『昔見たときは、大きな木の樽があって(今は蓋だけだけど有ったぞ!)、上に池があったな』
『そう、多分木の樽の蓋が残ってた。池もあった。あの池見たいなものは何をしてたの?』
『酢酸(木酢)に石灰(岩)を反応させて、固体にして出荷していた。そういう反応槽だろう。運搬に液体では具合悪いので、固体化させていたみたいだ』
・・・・なるほど、以前聞いた石灰山がココにつながるな。『酢酸カルシウム?』これは今度調べます・・・・
『ガイシが有ったけれど』
『千秋社がその高方に事務所を作った際、水力発電をしていた。ひょっとして発電場所がその辺で(滝が近いので)、その名残かも知れんな』

『前後の道(旧道)はたどれる?』
『下流はかなり崩れていて、たどれないだろう。上流はすぐに橋(つり橋)が架けてあって左岸に渡り上流に向かっていた。また、ココにはおそらく居住スペースも有ったのではないだろうか』

いやいやzippさん、ご助言ありがとうございました。自分にとって灯台下暗し、大発見でした。
タルの蓋。厚みは5cm以上有りました
タルの蓋。厚みは5cm以上有りました
池の跡。上部の平地に有りました。石をコンクリで固めてあります。
池の跡。上部の平地に有りました。石をコンクリで固めてあります。
ガイシ。こちらはずいぶん小さな部品(親指くらい)でした
ガイシ。こちらはずいぶん小さな部品(親指くらい)でした
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わりばし
記事: 1902
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by わりばし »

こんばんは、雨子庵さん。

『昔見たときは、大きな木の樽があって(今は蓋だけだけど有ったぞ!)、上に池があったな』
『そう、多分木の樽の蓋が残ってた。池もあった。あの池見たいなものは何をしてたの?』
『酢酸(木酢)に石灰(岩)を反応させて、固体にして出荷していた。そういう反応槽だろう。運搬に液体では具合悪いので、固体化させていたみたいだ』
・・・・なるほど、以前聞いた石灰山がココにつながるな。『酢酸カルシウム?』これは今度調べます・・・・

やっぱり酢酸石灰(酢酸カルシウム)でしたか。 :ugeek:

乾留工場の時期は第1次世界大戦の時期で、火薬用のアセトンが強烈な需要を持っていました。
それまでは有煙火薬しかなく、戦場は煙だらけで先が見えない状況だったようです。
それが、アセトンを使う無煙火薬の発明により戦術は大きく変わったようで、当時の最新兵器を作る材料がアセトンです。

このアセトンと酢酸石灰の原料は同じです。
酢酸石灰の最大の輸出国アメリカが大戦を受けて儲かるアセトン製造に大きく舵を切って酢酸石灰の輸出を制限しました。
そのため世界的に酢酸石灰不足がおこり日本全国に乾留工場が出来たようです。

ただ、大戦が終わり酢酸石灰の輸出をアメリカが再開したのと、アセトンの代用品が開発されたことにより酢酸石灰の需要は急激になくなり
大戦を契機に日本全国に出来た乾留工場も姿を消していきます。

宮沢賢治の童話「ポランの広場」の中にも閉鎖した乾留工場が出てきます。

こうした時代背景の中に、飯高の乾留工場の盛衰があります。

zippさんの話を聞きながら私なりに調べた結果ですが、資料を見る限りでは大きくは外れていないと思います。

zippさんも同じような考えだと思います。

それにしても、酢酸石灰まで行きつけたのは大きいです。 :D

また、石灰山のことも教えてください。

                                      わりばし
雨子庵
記事: 491
登録日時: 2011年10月12日(水) 19:40
お住まい: 名古屋(ときどき青田(飯高))

Re: 【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by 雨子庵 »

わりばしさん、こんばんわ。雨子庵です。

乾留工場の時期は第1次世界大戦の時期で、火薬用のアセトンが強烈な需要を持っていました。
それまでは有煙火薬しかなく、戦場は煙だらけで先が見えない状況だったようです。
それが、アセトンを使う無煙火薬の発明により戦術は大きく変わったようで、当時の最新兵器を作る材料がアセトンです。

このアセトンと酢酸石灰の原料は同じです。
酢酸石灰の最大の輸出国アメリカが大戦を受けて儲かるアセトン製造に大きく舵を切って酢酸石灰の輸出を制限しました。
そのため世界的に酢酸石灰不足がおこり日本全国に乾留工場が出来たようです。


青田の人たちは、『乾留は火薬を作っていた』と常々おっしゃってました。
私の知識不足で、木酢=火薬(?)が全然リンクせず、ほったらかしでした。
なんとなく(ボンヤリですが)見えてきました。

こうした時代背景の中に、飯高の乾留工場の盛衰があります。

そうですね、その衰のときに間髪をいれず、野田醤油(キッコーマン)が樽の材料確保で購入し、『千秋社』に至ってるわけですね。

また、石灰山のことも教えてください。

たしかマナコ谷の手前辺りの山なんで、先回わりばしさん歩いてますよ、キット。

雨子庵




                                  
zipp
記事: 1165
登録日時: 2011年3月09日(水) 22:49

Re: 【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by zipp »



 雨子庵主さん、こんばんは。

先日、ココで1~6工場までを紹介しましたが、zippさんから「1工場は取水堰堤の上流の滝の右岸では?」とご指摘があり、写真を頼りに早速行ってきました。
・・・答えは、ココがズバリ1工場跡でした!


 やっぱりそうでしたか!
 千秋社は、菅谷側にも膨大な植林地を持っているので、菅谷の何処かに工場が眠ってるのかもしれないと思っていましたが、乾溜工場は木屋谷沿いばかりだったのですね。

川を渡渉し、そこで見たものは、4工場等と規模が違い、正に要塞でした。
 ですよね。規模が違い構造が違います。

『そう、多分木の樽の蓋が残ってた。池もあった。あの池見たいなものは何をしてたの?』
『酢酸(木酢)に石灰(岩)を反応させて、固体にして出荷していた。そういう反応槽だろう。運搬に液体では具合悪いので、固体化させていたみたいだ』

 五つの工場から、生成された原料を持ち寄って、ここで製品がつくられてたわけなんですね。
だから、ここの構造が他の工場の窯とはちがっていたのだと納得しました。ある意味本社工場ですね。

 蓮側にも乾溜工場が六カ所あったと云われていて、現在四カ所確認済みで、一ヵ所乾溜工場跡とは決めかねている大きな遺構が残っていました。
このレポで、その遺構が蓮側の「本社工場」であることが確認できましたヨ(^^)。
 場所は、探してみてくださいね(^^)。

いやいやzippさん、ご助言ありがとうございました。自分にとって灯台下暗し、大発見でした。
 いえいえ、雨子庵主さんのおかげで、古い貴重な情報を介せて大変ありがたく思ってます。

 この蓮・青田で乾溜工場用経営していた「神戸・鈴木」なるモノ、何者かご存知ないでしょうか?大きな資本の主だと思われますが。
ウワサ話でもいいんですが。
旧宮川村には、乾溜工場が三工場あったらしいです。耐火煉瓦は飯高と同じような会社のものを使ってます。ここの経営者は名鉄系だと聞き及んでいます。

 乾溜工場のことを調べ初めた頃、大正期に飯高の山・山村がイスラエルの建国と少なからずもリンクしているのに驚いたことを覚えています(^^)。
   zipp
biwaco
記事: 1528
登録日時: 2011年2月22日(火) 16:56
お住まい: 滋賀県近江八幡市

Re: 【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by biwaco »

雨子庵さん、横入りゴメン~
台高にも日本資本主義の歴史遺跡があちこちに残ってるんですね(@_@。

zippおいちゃん、おひさしぶり~
先日、池木屋界隈を歩いてまいりました。ほんまに久しぶりの台高でした。
 この蓮・青田で乾溜工場用経営していた「神戸・鈴木」なるモノ、何者かご存知ないでしょうか?大きな資本の主だと思われますが。
ウワサ話でもいいんですが。
「神戸・鈴木」なるモノ…ですが、とっくにご存知かもしれませんが、こんな情報がありました。
http://news.livedoor.com/article/detail/5651066/
 乾溜工場のことを調べ初めた頃、大正期に飯高の山・山村がイスラエルの建国と少なからずもリンクしているのに驚いたことを覚えています(^^)。
へ~、ユダヤ人の隠れ里だったとか…(?_?)

                ~biwa爺
zipp
記事: 1165
登録日時: 2011年3月09日(水) 22:49

Re: 【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by zipp »


 biwacoさん、おひさにこんばんは!

 情報ありがとう!

 げぇ!後々の日商岩井なんですか!(今はまた名称が変わってるようだけど、こちらの方がわたしの世代にはよくわかります)
それに台湾銀行ねぇ~。

 台高の原生林の山が、当時の世界情勢とビビットに反応していたというのは、興味深いですね~。

   zipp
雨子庵
記事: 491
登録日時: 2011年10月12日(水) 19:40
お住まい: 名古屋(ときどき青田(飯高))

Re: 【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by 雨子庵 »

biwa爺、じゃなかった、biwakoさん、こんばんわ。
横入り、大歓迎です。

「神戸・鈴木」なるモノ…ですが、とっくにご存知かもしれませんが、こんな情報がありました。
http://news.livedoor.com/article/detail/5651066/


ビンゴですよ~。何せ記録が残っていないので、山の方の記憶頼りですが・・・。

詳細はzippさんへのレスで書いてみますね。
神戸に行きたくなりました。

雨子庵
雨子庵
記事: 491
登録日時: 2011年10月12日(水) 19:40
お住まい: 名古屋(ときどき青田(飯高))

Re: 【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by 雨子庵 »

zippさん、こんばんわ。雨子庵です。

 この蓮・青田で乾溜工場用経営していた「神戸・鈴木」なるモノ、何者かご存知ないでしょうか?大きな資本の主だと思われますが。ウワサ話でもいいんですが。

biwa爺が書いてくれましたが、おそらくそれが正解です。
昔山の人と飲んでいる際の炉辺語りに、『乾留』に話が及ぶと、『鈴木よね』『神戸』『台湾銀行』とうタームが頻出しました。曰く、「乾留は神戸の鈴木よねという女性が経営していた。そこは大金持ちで台湾銀行に影響を及ぼすくらい力があった、云々」みたいな感じでした。いかんせん、山の中で記録が残っていなく、山の人たちの親から子への伝承というかたちで、なおかつ今の自分たちの生活に直接影響も無いことなので、こういう風に歪曲してしまったのかも知れません。ウィキなどを見ていただければ、神戸の鈴木商店は、台湾銀行からの借金でつぶれたということが分かると思います。山の人たちの口からは、上記3つの言葉しか出ていませんが、biwa爺の『鈴木商店』が正解でしょう。隆盛の時期もちょうどかぶります。

  千秋社は、菅谷側にも膨大な植林地を持っているので、菅谷の何処かに工場が眠ってるのかもしれないと思っていましたが、乾溜工場は木屋谷沿いばかりだったのですね。

なぜか菅谷には無いみたいですね。ただし、千秋社の宿舎は桂谷の出合にはありました。そしてさらには、ハカノ谷の出合にはそれこそ『墓』(木地師の?)が有ったと聞いています。

 蓮側にも乾溜工場が六カ所あったと云われていて、現在四カ所確認済みで、一ヵ所乾溜工場跡とは決めかねている大きな遺構が残っていました。
このレポで、その遺構が蓮側の「本社工場」であることが確認できましたヨ(^^)。
 場所は、探してみてくださいね(^^)。


ヘェ~良く探しましたね。って言うかそんなつれないこと言わないでくださいよ。
今度教えてくださいね(超下手)。

 いえいえ、雨子庵主さんのおかげで、古い貴重な情報を介せて大変ありがたく思ってます。

まあ、正確にはオジヤンを始め、そこで暮らす人々のおかげなんですけどね。
それらをドンドン引き出さないと・・・。
オジヤンからしたら『窯跡(1工場)』はなんでもない、そこにあるものなんで、今まであまり言わなかったみたい。
皆さん、頭の中に膨大な資料があるんですね。それらをわれわれが引きだす係りになれれば・・・。いつもその前に酔っ払ってしまって・・・。

旧宮川村には、乾溜工場が三工場あったらしいです。耐火煉瓦は飯高と同じような会社のものを使ってます。ここの経営者は名鉄系だと聞き及んでいます。

耐火レンガは、その刻印からおそらく『品川白レンガ』と考えています。検索してみてチョ。
わりばしさんの言うとおり、日本の広範囲で流行ったんですね、キット。私は、この青田に特殊な世界があるのだとばかり思っていました。
名鉄系・・・これも興味深いな。

 乾溜工場のことを調べ初めた頃、大正期に飯高の山・山村がイスラエルの建国と少なからずもリンクしているのに驚いたことを覚えています(^^)。

おっ、いきなり『ムー』みたいな話が出てきましたが、これも面白そう・・・。

最後に。
私の話のほとんどが、まずは山の人から耳から聞いたものであることをご承知ください。
中には裏づけするものが無い場合も有りますので。もちろん、より確実と考えられることのみ書いているつもりですが・・・。
なにかありましたら、biwakoさんのように知識提供をお願いします。

雨子庵
zipp
記事: 1165
登録日時: 2011年3月09日(水) 22:49

Re: 【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by zipp »

 
 雨子庵主さん、こんばんは。
面白いですね~、一挙に乾溜が見えてきました(^^)。
鈴木商店=鈴木コンツェルン!、面白いですね~。

 飯高郷土史を読み返すと、神戸の「鈴木たま」になってたり、乾溜工場が、青田・蓮(千石)それぞれ5工場になってますが。
間違いなく、この飯高で乾溜工場を経営していたのは、鈴木商店ですね。
その系列の日本火薬株式会社、現日本化薬会社の系列になるのかな?三井・三菱をしのぎ、当時日本最大のコンツェルンだったんですね。
道理で、遺構から系列会社のサクラビールを含め、ビール瓶やら白鹿の一升瓶までザクザクでるし、イギリス人技師をこんな山中に招聘していたというのも納得です。

ヘェ~良く探しましたね。って言うかそんなつれないこと言わないでくださいよ。
今度教えてくださいね(超下手)。

 探す楽しみを奪ちゃいけないかと思うよ(^^)。
ヤブ山歩きは、知的興奮をともなってナンボ!でしょ(^^)。

それらをドンドン引き出さないと・・・。
オジヤンからしたら『窯跡(1工場)』はなんでもない、そこにあるものなんで、今まであまり言わなかったみたい。
皆さん、頭の中に膨大な資料があるんですね。それらをわれわれが引きだす係りになれれば・・・。[/q_yab
 はい、改めて質問書を送付したりして(^^;、お願いね>雨子庵さん。

耐火レンガは、その刻印からおそらく『品川白レンガ』と考えています。
 乾溜工場でしようしている耐火煉瓦は、品川ばかりでなく、色んな各地のレンガを使用しています。
工場で使用しているものでどれも同じなのは、ここヤブの管理人さんトコの常滑焼の煙突だけです(^^;。

 乾溜工場も歴史の表舞台に立たなかった施設だけど、鈴木商店も表舞台に立った会社にも拘らず、あまりにも他の財閥に比べて知られてない会社なんですね。いまでも鈴木商店の興した企業は身近にあるにもかかわらずにね。

 いやぁ、ヤブ山歩きは面白い!!
   zipp
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わりばし
記事: 1902
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、雨子庵さん。

乾留工場の時期は第1次世界大戦の時期で、火薬用のアセトンが強烈な需要を持っていました。
それまでは有煙火薬しかなく、戦場は煙だらけで先が見えない状況だったようです。
それが、アセトンを使う無煙火薬の発明により戦術は大きく変わったようで、当時の最新兵器を作る材料がアセトンです。

このアセトンと酢酸石灰の原料は同じです。
酢酸石灰の最大の輸出国アメリカが大戦を受けて儲かるアセトン製造に大きく舵を切って酢酸石灰の輸出を制限しました。
そのため世界的に酢酸石灰不足がおこり日本全国に乾留工場が出来たようです。


青田の人たちは、『乾留は火薬を作っていた』と常々おっしゃってました。
私の知識不足で、木酢=火薬(?)が全然リンクせず、ほったらかしでした。
なんとなく(ボンヤリですが)見えてきました。

『乾留は火薬を作っていた』というのは貴重な言葉ですね。
ここで、酢酸石灰を作りどこかで再び乾留して無煙火薬の材料のアセトンを作ったてことです。

酢酸カルシウム(さくさんカルシウム、calcium acetate)は示性式 (CH3COO)2Ca 若しくは Ca(CH3COO)2 で表される酢酸とカルシウムの塩。CAS登録番号は [5473-26-0]。無水物と一水和物がよく知られるが、無水物は吸湿性が強いため、通常取り扱われるのは一水和物である。一水和物はわずかに吸湿性がある白色の結晶あるいは結晶性粉末で、無臭またはわずかな酢酸臭がある。水に易溶、エタノールに難溶。水溶液は加水分解して微アルカリ性を示す。400℃で分解し、アセトンと炭酸カルシウムになる。実験室的方法として、400℃以上で酢酸カルシウムを乾留することでアセトンが得られる。『ウィキペディア(Wikipedia)』


biwa爺さんの「鈴木商店」はzippさんから「鈴木・某」と聞いても結びつかなかったんですが、あの有名な鈴木商店だったんですね。
小学館の「漫画日本の歴史」の金融恐慌の欄に大きくえがかれていたのを小学校の時に読みました。
NHKの「その時歴史が動いた」にも取り上げているんだ。
http://www.pideo.net/video/youku/d4c857143c286f50/
第1次世界大戦にほんろうされた大正時代の盛衰を象徴する出来事です。
飯高の人たちもこの荒波にのまれていったんですね。

                                                                わりばし
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通風山
管理人
記事: 953
登録日時: 2011年2月11日(金) 08:12
お住まい: 愛知県常滑市

Re: 【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by 通風山 »

雨子庵さん、おはようございます。
zipp氏の「常滑」という餌に釣られてきましたよ~。
雨子庵 さんが書きました:耐火レンガは、その刻印からおそらく『品川白レンガ』と考えています。検索してみてチョ。
zipp さんが書きました:乾溜工場でしようしている耐火煉瓦は、品川ばかりでなく、色んな各地のレンガを使用しています。
工場で使用しているものでどれも同じなのは、ここヤブの管理人さんトコの常滑焼の煙突だけです(^^;。
みなさんの記述を読むと、第一次世界大戦の頃の話になってますね~。
その頃の常滑といいますと、名鉄常滑線は既に名古屋まで開通していますが、まだまだ流通の基盤は「ダンベ船」と呼ばれる帆掛け舟による、常滑港からの海上輸送で、常滑で焼いた陶器などを、今では考えられない話ですが、日本全国に海上輸送していたようです。
窯業という生産業で財を成した者も多かったようですが、それに伴う流通業でも廻船問屋という商売もずいぶん繁盛したようです。
常滑港は漁港ではなかったのです。

ちょうど産業的には土管が主流になってきつつある時期でして、特に化学薬品を使う工業には、酸に強いというキャッチフレーズで相当売り込んでいたようです。
松阪などの伊勢湾に面した地域は常滑の海運業者にとってみれば、大きな川を渡るぐらいの感覚ではなかったでしょうか。
乾溜工場の建設資材にもかなり常滑が関わっていたのかもしれませんね。
耐火レンガについても、煙突についても、常滑の産業として地域内で自給自足していたようですし、煉瓦会社も数件あったようです。
土管が転がっていたり、煙突がレンガで組んであるのであれば、実に常滑臭いですね。

常滑が窯業でバカスカ儲かっていたのは明治後期から昭和10年ぐらいまでだと思います。
古き良き時代ですね。
大正期の常滑港
大正期の常滑港
p29_3.jpg (27.78 KiB) 閲覧された回数 5604 回
   つう
通風山
雨子庵
記事: 491
登録日時: 2011年10月12日(水) 19:40
お住まい: 名古屋(ときどき青田(飯高))

Re: 【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by 雨子庵 »

こんばんわ、zippさん。雨子庵です。

ヘェ~良く探しましたね。って言うかそんなつれないこと言わないでくださいよ。
今度教えてくださいね(超下手)。
 探す楽しみを奪ちゃいけないかと思うよ(^^)。
ヤブ山歩きは、知的興奮をともなってナンボ!でしょ(^^)。


ムニャムニャ・・・・。まあそうなんですが、クイズもヒントが出てからが楽しかったりしますよね。
地図などはございますか・・・(手をスリスリ :roll:

それらをドンドン引き出さないと・・・。
オジヤンからしたら『窯跡(1工場)』はなんでもない、そこにあるものなんで、今まであまり言わなかったみたい。
皆さん、頭の中に膨大な資料があるんですね。それらをわれわれが引きだす係りになれれば・・・。
 はい、改めて質問書を送付したりして(^^;、お願いね>雨子庵さん。


私がネィティブでないので、最初、山の人の言葉の理解力がナカナカでしたが、最近はヒアリングもできるようになりました。
もしくはその質問書をそのままノブチャンたちに渡そうかな・・・。 

雨子庵
雨子庵
記事: 491
登録日時: 2011年10月12日(水) 19:40
お住まい: 名古屋(ときどき青田(飯高))

Re: 【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by 雨子庵 »

わりばしさん、こんばんわ。雨子庵です。

『乾留は火薬を作っていた』というのは貴重な言葉ですね。
ここで、酢酸石灰を作りどこかで再び乾留して無煙火薬の材料のアセトンを作ったてことです。

酢酸カルシウム(さくさんカルシウム、calcium acetate)は示性式 (CH3COO)2Ca 若しくは Ca(CH3COO)2 で表される酢酸とカルシウムの塩。CAS登録番号は [5473-26-0]。無水物と一水和物がよく知られるが、無水物は吸湿性が強いため、通常取り扱われるのは一水和物である。一水和物はわずかに吸湿性がある白色の結晶あるいは結晶性粉末で、無臭またはわずかな酢酸臭がある。水に易溶、エタノールに難溶。水溶液は加水分解して微アルカリ性を示す。400℃で分解し、アセトンと炭酸カルシウムになる。実験室的方法として、400℃以上で酢酸カルシウムを乾留することでアセトンが得られる。『ウィキペディア(Wikipedia)』


わりばしさんは、この文章を日本語として読めるのですか!一応化学(専攻は生物)もカジッた身ですが、かじった部分はとっくに消化され、排出されたみたいです。文字が頭でグルグル回り始めました、ウ~ン :oops:

博学なわりばしさん。『乾留』の簡単なイラストを描いてくれませんか?ココで火が燃えている、ココから木酢がポタポタ出てる、みたいな。
イメージは炭焼き窯でいいんでしょうか?

NHKの「その時歴史が動いた」にも取り上げているんだ。
http://www.pideo.net/video/youku/d4c857143c286f50/
第1次世界大戦にほんろうされた大正時代の盛衰を象徴する出来事です。


ギョエ~、こんなストレートな番組があったんだ。やるな某国営放送。
そして随分昔になりますが、オジヤンからも『この前鈴木よねのことテレビでやっとったな』と聞いたことがあります。

飯高の人たちもこの荒波にのまれていったんですね。

ただ青田の人たちに関して言えばそうでもなかったみたい。
上流に工場があって、別々の生活が成立していた感じです。
『乾留』が撤退したあとは、村の人たちでレンガを拾いに行き、自分たちの家で再利用したそうですよ。

雨子庵
                                                         
雨子庵
記事: 491
登録日時: 2011年10月12日(水) 19:40
お住まい: 名古屋(ときどき青田(飯高))

Re: 【台高】桧塚(千秋峰)が見てきた歴史①(2以降は・・?)

投稿記事 by 雨子庵 »

通風山さんこんばんわ、そしてオヒサです。雨子庵です。

興味深い横入り、ありがとうございます。

ちょうど産業的には土管が主流になってきつつある時期でして、特に化学薬品を使う工業には、酸に強いというキャッチフレーズで相当売り込んでいたようです。
松阪などの伊勢湾に面した地域は常滑の海運業者にとってみれば、大きな川を渡るぐらいの感覚ではなかったでしょうか。
乾溜工場の建設資材にもかなり常滑が関わっていたのかもしれませんね。
耐火レンガについても、煙突についても、常滑の産業として地域内で自給自足していたようですし、煉瓦会社も数件あったようです。
土管が転がっていたり、煙突がレンガで組んであるのであれば、実に常滑臭いですね。


私最初、工場(山の中の)跡の土管を見て、飲み水の確保用だと思ってました。良く考えたら(良く考えなくても)そんなのは、木の樋とかですわな。『酸に強いは常滑土管』ということで、土管は木を焼いた後にできる木酢が通る樋だったのかな(わりばしさんここのところも)。半分土に埋もれてますが、ぶっちゃけデザインは今と同じなんでしょうね。レンガも茶色の今風のものも多数ありますからこれも常滑産でしょうね、キット。
常滑~松坂。これは対岸のお得意様。『乾留』は正に上得意ですよね。とはいえ、最後は歩荷。あの頃に生まれなくて良かったとこれについては思いました。ただその後の山奥の工場で飲むビールはおいしそう・・・。

ヒョットしたら青田の人はビールなど見たこと無い時代だったのかも知れません。これは青田の人の悪口を言ってるのでは無く、それぐらい『乾留』は当時の異文化が入り込んでいたのではないだろうかと言う風に私は考えているのです。

なにか、また側面が埋まりそうなネタの提供お願いします。

雨子庵
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