【台高】修行の尾根といとなみの稜線 寺谷周回
Posted: 2011年12月29日(木) 11:09
【日 付】2011年12月28日(水)
【山 域】台高
【コース】久瀬林道入口P7:30---9:17釣鐘堂跡---11:33P922---12:40寺高ノ高---久瀬林道入口P15:10
【メンバー】単独
台高に興味を持ち始めたころに県立図書館で見かけた『奥熊野の民俗』という地元の民俗誌にある「寺谷周行」という文章が気になりコピーしてファイルにとじたままになっていた。台高南部の山に登った事が無かったので山域を含めピンとこなかったのだろう。前回、坊主揚げの古道を登った際に林道から寺谷周回コースの様子も見れたので行くことにした。ヤブコギ猿人で検索するとまたもやZIPPさんのレポがヒット。しかもZIPPさんも同じ文章を読んで登ろうと思ったようだ。ということで、前回に引き続きZIPPさんの後追い山行を決行することにした。
紀北町海山の往古川は堆積した土砂を運び出す作業が続けられており、道路脇に駐車できない。久瀬谷林道入口の空地に駐車する。土砂におおわれ流れがほとんどない往古川を渡り尾根に取りつく。下草の刈られていない植林地を上って行くと朽ちた金網フェンスに突き当たった。フェンスごしに左にまいていくと古い溝道が下からの上ってきている。溝道の横には岩が意図的に集められたラインがあり、ヤブの無い岩のラインが真っ直ぐ上っている。これを使いながら上り、杣道が横切っている場所から杣道をたどった。この道は現役の杣道で、いいテンポで小尾根を上っていく。上りついた尾根には、青いペンキの腕章をつけた木が並ぶ新幹線が走っていた。ZIPPさんは、この新幹線を使ったようだ。しばらく行くと釣鐘堂跡に着いた。
ここには広い平地が広がっている。その真ん中に5mの大杉が枝を広げて鎮座している。この大きさと存在感からして、ここには寺か何かがあったと考えていいように思う。少なくともここが特別な場所であったことは間違いない。少し奥には大きく腕を広げた4.5mの大木もあった。
ここからは、岩尾根となり、最初の大岩は右に巻きながら上る。その後の大岩が尾根上に立ちはだかる場所は基本的に植林の右側を巻きながら上る。新幹線の木に向かって右から巻き上がったところがP489で、二本の太い杉があった。このあたりから番号のついた境界標石が現れだす。
平岩谷左岸の一枚岩をながめつつZIPPさんいわく「足元をスースーしながら歩く岩稜」を歩く。境界標石のある尾根だけに道はしっかりはしている。ただ、何の落ち葉かわからないがよく滑るのと、テープはほとんど無いので巻く個所は自分で判断しなければならない。巻けない場所もあるが、道はしっかりしているので慎重に行けばよい。岩稜をすぎると尾根が太くなりブナの木が多くなりはじめたあたりで老杉があらわれるとP922は間近かだ。山頂からは県境稜線の山々が雪をかぶっているのが見える。
こここから続く口坊主・奥坊主を坊主揚げと「寺谷周行」の著者は言っているが、違うように思う。
『奈良の川上村から大台ケ原を経て大杉谷に下り紀北町船津に至る土倉古道の事を調べていく内に、大杉谷から船津に至る道がそれ以前にあった事を知った。寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回の式年遷宮のために大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷ほか15か所で伐採がおこなわれた。式年遷宮というのは、伊勢神宮の外宮・内宮の二つの正殿、14の別宮、65棟の殿舎などを20年ごとに建て替える行事で、1万本以上のヒノキが使われる。天明(1781~88年)の初めごろ船津よりアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)まで新墾の道を切り開き神宮御造営用材伐採の木本祭が執行され伐採が始められた。』
(坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷の頭へ)
木本祭をとりおこなう神官(坊主)と祭の準備のための物資や生活物資をアザミ谷まで運ぶ道にしては厳しすぎる。それにアザミ谷に向かうのにわざわざ遠回りして坊主尾根を使うというのも理に合わない。前回登った八町尾根が最短でアザミ谷にたどり着けるのと歩きやすさから考えて坊主揚げの道と考えいいだろう。
ただ、この道にも多くの大木が残されており古くから使われてきたことがわかる。釣鐘堂跡や岩稜に口坊主・奥坊主もあることから修験者が修行を行った場ではないかと思う。修験者の拠点であった伊勢の朝熊山と熊野を結ぶ熊野古道から見える位置にあり、円空をはじめ多くの修験者が熊野古道を歩いていたことを考えると可能性の無い話ではない。それに関する歴史的な記録があればいいのだが・・・
P922から寺谷の源流部を巻き黄色テープのある右の尾根を歩く。この尾根は太いので直進しそうになるが、寺谷ノ高へは途中で左折しなけれなならない。間違ってもおかしくない場所だが赤テープがつけられているのでわかる。
最初の鞍部を越えたあたりの岩井谷側の稜線より少し下に道が通っている。Niuyamadaさんのブログで木馬道だろうと紹介されていた道だ。しばらく道をたどるが、稜線から離れだしたあたりで登山道にもどる。P825の手前に広いコバがあり動物たちが遊ぶ大きなヌタ場があった。P825と寺谷ノ高の鞍部には小屋跡の石組が残っている。5m×3mの石組の中に3m×1mの炉と思われる石組が配置されている。大部分が土に埋もれてはいるがきれいなしっかりした石組だ。小屋の前を木馬道が通り、その先はつづら折れの道になっている。木馬を運ぶ時の休憩場所としてこの小屋は使われていたのだろうか。この近くに湧水があるようだが、今日は流れていなかった。
しばらく上ると寺谷ノ高に着く。ここで初めて、嘉茂助谷ノ頭と県境稜線に大台ケ原、千尋ノ高と北部台高の広く輝く山々が大パノラマとなって全貌を見せてくれる。しかも、雲ひとつない青空の下、雄大な熊野灘とリアス式海岸が手に取るように見える。この景色は何物にもかえがたい。
この尾根には古い大木の切り株がいくつか見られる。同じような時期に伐採されたようだ。それと、人とのかかわりを示すように枝割れの木が多くなってくる。
寺谷ノ高を右に巻きながら下り。P768を過ぎた鉄塔尾根を下る。テープを追って下って行くと途中で高山の鉄塔につながる巡視路に出会う。ここから次の鉄塔までは良い道だが、尾根上の地蔵さんのような大岩を巻ながらトラバースしていくあたりから怪しくなってくる。間違うことは無いと思うが、普通の巡視路と思って下るとかなり違和感があると思う。トラバースが終わり尾根に復帰すると普通の巡視路にもどり、今日歩いた寺谷周回の道を全部見せてくれる。
寺谷ノ高の稜線は、木馬道に小屋跡、古木の切り株に枝割れの木と昔の人のいとなみを感じることのできる道だった。修行の尾根といとなみの稜線という二つの顔を見せてくれた寺谷周回だった。天候にも恵まれ良い〆の山行ができた。
【山 域】台高
【コース】久瀬林道入口P7:30---9:17釣鐘堂跡---11:33P922---12:40寺高ノ高---久瀬林道入口P15:10
【メンバー】単独
台高に興味を持ち始めたころに県立図書館で見かけた『奥熊野の民俗』という地元の民俗誌にある「寺谷周行」という文章が気になりコピーしてファイルにとじたままになっていた。台高南部の山に登った事が無かったので山域を含めピンとこなかったのだろう。前回、坊主揚げの古道を登った際に林道から寺谷周回コースの様子も見れたので行くことにした。ヤブコギ猿人で検索するとまたもやZIPPさんのレポがヒット。しかもZIPPさんも同じ文章を読んで登ろうと思ったようだ。ということで、前回に引き続きZIPPさんの後追い山行を決行することにした。
紀北町海山の往古川は堆積した土砂を運び出す作業が続けられており、道路脇に駐車できない。久瀬谷林道入口の空地に駐車する。土砂におおわれ流れがほとんどない往古川を渡り尾根に取りつく。下草の刈られていない植林地を上って行くと朽ちた金網フェンスに突き当たった。フェンスごしに左にまいていくと古い溝道が下からの上ってきている。溝道の横には岩が意図的に集められたラインがあり、ヤブの無い岩のラインが真っ直ぐ上っている。これを使いながら上り、杣道が横切っている場所から杣道をたどった。この道は現役の杣道で、いいテンポで小尾根を上っていく。上りついた尾根には、青いペンキの腕章をつけた木が並ぶ新幹線が走っていた。ZIPPさんは、この新幹線を使ったようだ。しばらく行くと釣鐘堂跡に着いた。
ここには広い平地が広がっている。その真ん中に5mの大杉が枝を広げて鎮座している。この大きさと存在感からして、ここには寺か何かがあったと考えていいように思う。少なくともここが特別な場所であったことは間違いない。少し奥には大きく腕を広げた4.5mの大木もあった。
ここからは、岩尾根となり、最初の大岩は右に巻きながら上る。その後の大岩が尾根上に立ちはだかる場所は基本的に植林の右側を巻きながら上る。新幹線の木に向かって右から巻き上がったところがP489で、二本の太い杉があった。このあたりから番号のついた境界標石が現れだす。
平岩谷左岸の一枚岩をながめつつZIPPさんいわく「足元をスースーしながら歩く岩稜」を歩く。境界標石のある尾根だけに道はしっかりはしている。ただ、何の落ち葉かわからないがよく滑るのと、テープはほとんど無いので巻く個所は自分で判断しなければならない。巻けない場所もあるが、道はしっかりしているので慎重に行けばよい。岩稜をすぎると尾根が太くなりブナの木が多くなりはじめたあたりで老杉があらわれるとP922は間近かだ。山頂からは県境稜線の山々が雪をかぶっているのが見える。
こここから続く口坊主・奥坊主を坊主揚げと「寺谷周行」の著者は言っているが、違うように思う。
『奈良の川上村から大台ケ原を経て大杉谷に下り紀北町船津に至る土倉古道の事を調べていく内に、大杉谷から船津に至る道がそれ以前にあった事を知った。寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回の式年遷宮のために大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷ほか15か所で伐採がおこなわれた。式年遷宮というのは、伊勢神宮の外宮・内宮の二つの正殿、14の別宮、65棟の殿舎などを20年ごとに建て替える行事で、1万本以上のヒノキが使われる。天明(1781~88年)の初めごろ船津よりアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)まで新墾の道を切り開き神宮御造営用材伐採の木本祭が執行され伐採が始められた。』
(坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷の頭へ)
木本祭をとりおこなう神官(坊主)と祭の準備のための物資や生活物資をアザミ谷まで運ぶ道にしては厳しすぎる。それにアザミ谷に向かうのにわざわざ遠回りして坊主尾根を使うというのも理に合わない。前回登った八町尾根が最短でアザミ谷にたどり着けるのと歩きやすさから考えて坊主揚げの道と考えいいだろう。
ただ、この道にも多くの大木が残されており古くから使われてきたことがわかる。釣鐘堂跡や岩稜に口坊主・奥坊主もあることから修験者が修行を行った場ではないかと思う。修験者の拠点であった伊勢の朝熊山と熊野を結ぶ熊野古道から見える位置にあり、円空をはじめ多くの修験者が熊野古道を歩いていたことを考えると可能性の無い話ではない。それに関する歴史的な記録があればいいのだが・・・
P922から寺谷の源流部を巻き黄色テープのある右の尾根を歩く。この尾根は太いので直進しそうになるが、寺谷ノ高へは途中で左折しなけれなならない。間違ってもおかしくない場所だが赤テープがつけられているのでわかる。
最初の鞍部を越えたあたりの岩井谷側の稜線より少し下に道が通っている。Niuyamadaさんのブログで木馬道だろうと紹介されていた道だ。しばらく道をたどるが、稜線から離れだしたあたりで登山道にもどる。P825の手前に広いコバがあり動物たちが遊ぶ大きなヌタ場があった。P825と寺谷ノ高の鞍部には小屋跡の石組が残っている。5m×3mの石組の中に3m×1mの炉と思われる石組が配置されている。大部分が土に埋もれてはいるがきれいなしっかりした石組だ。小屋の前を木馬道が通り、その先はつづら折れの道になっている。木馬を運ぶ時の休憩場所としてこの小屋は使われていたのだろうか。この近くに湧水があるようだが、今日は流れていなかった。
しばらく上ると寺谷ノ高に着く。ここで初めて、嘉茂助谷ノ頭と県境稜線に大台ケ原、千尋ノ高と北部台高の広く輝く山々が大パノラマとなって全貌を見せてくれる。しかも、雲ひとつない青空の下、雄大な熊野灘とリアス式海岸が手に取るように見える。この景色は何物にもかえがたい。
この尾根には古い大木の切り株がいくつか見られる。同じような時期に伐採されたようだ。それと、人とのかかわりを示すように枝割れの木が多くなってくる。
寺谷ノ高を右に巻きながら下り。P768を過ぎた鉄塔尾根を下る。テープを追って下って行くと途中で高山の鉄塔につながる巡視路に出会う。ここから次の鉄塔までは良い道だが、尾根上の地蔵さんのような大岩を巻ながらトラバースしていくあたりから怪しくなってくる。間違うことは無いと思うが、普通の巡視路と思って下るとかなり違和感があると思う。トラバースが終わり尾根に復帰すると普通の巡視路にもどり、今日歩いた寺谷周回の道を全部見せてくれる。
寺谷ノ高の稜線は、木馬道に小屋跡、古木の切り株に枝割れの木と昔の人のいとなみを感じることのできる道だった。修行の尾根といとなみの稜線という二つの顔を見せてくれた寺谷周回だった。天候にも恵まれ良い〆の山行ができた。
久瀬谷林道入口の空地に駐車する。土砂におおわれ流れがほとんどない往古川を渡り尾根に取りつく。下草の刈られていない植林地を上って行くと朽ちた金網フェンスに突き当たった。