【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
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【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
【日 付】2011年12月10日(土)
【山 域】台高
【コース】ヘアピンP7:55---10:15図根点---12:31嘉茂助谷ノ頭---13:55花抜峠---15:15登山口---15:45ヘアピンP
【メンバー】単独
奈良の川上村から大台ケ原を経て大杉谷に下り紀北町船津に至る土倉古道の事を調べていく内に、大杉谷から船津に至る道がそれ以前にあった事を知った。寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回の式年遷宮のために大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷ほか15か所で伐採がおこなわれた。式年遷宮というのは、伊勢神宮の外宮・内宮の二つの正殿、14の別宮、65棟の殿舎などを20年ごとに建て替える行事で、1万本以上のヒノキが使われる。天明(1781~88年)の初めごろ船津よりアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)まで新墾の道を切り開き神宮御造営用材伐採の木本祭が執行され伐採が始められた。
「さて又此山にわけのぼる道幾すじもある中に、奥定太というより分け入るをば千代の古道としてあるの儀式にもこととあるときわ此道よりぞいる。」
「しからばあれど此道は、殊にいと狭く嶮しく万づに便なりければ御材の本きりつかへまつるほどよりしては、船津といふもとより、ひが谷中尾ごえといふうを分け入ることはなりぬ。されど御材を天が瀬川に流しいる時はなお千代の古道をなんこゆる。」 『遷宮物語』(宮川村史より)
木本祭の際、大杉谷の道が厳しいので、ひが谷中尾ごえでアザミ谷に向かったという事になる。「ひが谷中尾ごえ」の場所を調べるが見当がつかない。パソコンで検索するとZIPPさんのサイトが出てきた。
[attachment=1]IMG_4594.jpg[/attachment]
「ひが谷は、船津に往古川の上流部を指し、中尾とは、真砂谷と小木森谷の間の尾根を指したと思われる。」
「遷宮の年に、紀州藩の野呂介石が船津・ひが谷から『坊主揚げの道』を使って大台ケ原に登っている道だろう。」
と書かれており、すでにZIPPさんは登ったようだ。脱帽である。
ということで、ZIPPさんの後追い山行をすることにした。
大台林道を上っていくと奥坊主の尾根に雪がついている。花抜峠登山口にママチャリをデポしヘアピン駐車地にもどる。林道から真砂谷の出会いに向けて谷を下りて行く。堰堤の下に開いた穴から河原に下りる。思った以上に水深があり川底の石に足をのせながらギリギリ長靴で通過できた。
出会いから道をひろいながら上って行く。この尾根は下部からすべて自然林になっており歩きやすい。トラバースしながら歩いていくと、クラに突き当たり巻くと尾根に出た。下からつづら折れの道が上ってきておりしばらく上っていくと尾根上には三重県の境界標石も見られる。最初に見た標石番号は222なので、ZIPPさんはもっと下部から道をたどれたようだ。
トラバースしたあたりや尾根には、アガリコのように下部から枝分かれした木がたくさん残されていた。枝分かれした木をマキなどに使ったようで、人に使われてきた道であることがわかる。右からの尾根が合わさる地点には図根点がる。境界標石の道は延々と続きこのあたりから青いビニールテープがルート上に出てきて嘉茂助谷ノ頭まで続いていた。
[attachment=4]IMG_4532.jpg[/attachment]
図根点をすぎたあたりから、松の大木に何度か出会う。大木が少ないこの尾根上での松の古木は目立つ。目印の木としての意味合いもあろうが、木本祭の坊主揚げに使われた道だけに神聖な木として残されたように思った。神宮用材伐採の木本祭に坊主はそぐわないと思われるかもしれないが、明治に神仏分離が進む前は、坊主と神官の垣根はほとんど無かったので、坊主揚げの意味する坊主には坊主も神官も含まれていたように思う。
[attachment=3]IMG_4538.jpg[/attachment]
地図上ではクラが立っている地帯もやせ尾根を上手に使い難なく越えていく。このあたりからは光り輝くなぎの熊野灘がよく見える。今日は三重県側は大丈夫だなと思いながら奥坊主を見るとガスに包まれている。奈良県側から雲が来ている。
雪の着き始めた道を上っていく。P1163に着いた頃には一面真っ白だ、雲も流れてきて嘉茂助谷ノ頭も見えない。雪道を上り嘉茂助谷ノ頭に到着。ここには、宮マークの境界標石がある。戦前、大杉谷は天皇直属の帝室林野局の管理下にあったのでそれを示す標柱のようだ。ひが谷中尾は現在も下部から自然林になっている。近くに植林が多いのに、植林されずに残った背景は、戦前に中尾をどこが管理していたかがわかればはっきりする。帝室林野局の管理下にあったようにも思うのだか、憶測にすぎない。
山頂からは、熊野灘も花抜峠も見えない。大台ケ原の方向と真上の青空は見えるのだが、それ以外はガスの中なので長居は無用。来た道を戻り花抜峠の分岐から下る。途中から土倉古道を歩く。なかなかしっかりとした道だ。道が落ちたあたりで尾根に登り返し花抜峠に向かう。花抜峠近くになってようやく熊野灘が雲の間から見えてきた。
[attachment=0]IMG_4570.jpg[/attachment]
花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。岩を削り、石積で道を作りながらゆるやかに下って行く。木場道として使われたのだろうか。明治時代の息吹というか心意気を感じさせてくれる道だ。古道は登山口まで途切れることなく続き道案内をしてくれた。
[attachment=2]IMG_4586.jpg[/attachment]
今回の山行では、坊主揚げの古道と土倉古道の一部を歩いた。特に、ひが谷中尾の坊主い揚げの古道は、昔の人たちの思いが伝わる貴重な道だった。昔の人のいとなみが見える古道はそう多くない。よくぞ残っていてくれたという思いがした。貴重な山行のきっかけを作ってもらったZIPPさんには感謝するほかない。
【山 域】台高
【コース】ヘアピンP7:55---10:15図根点---12:31嘉茂助谷ノ頭---13:55花抜峠---15:15登山口---15:45ヘアピンP
【メンバー】単独
奈良の川上村から大台ケ原を経て大杉谷に下り紀北町船津に至る土倉古道の事を調べていく内に、大杉谷から船津に至る道がそれ以前にあった事を知った。寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回の式年遷宮のために大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷ほか15か所で伐採がおこなわれた。式年遷宮というのは、伊勢神宮の外宮・内宮の二つの正殿、14の別宮、65棟の殿舎などを20年ごとに建て替える行事で、1万本以上のヒノキが使われる。天明(1781~88年)の初めごろ船津よりアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)まで新墾の道を切り開き神宮御造営用材伐採の木本祭が執行され伐採が始められた。
「さて又此山にわけのぼる道幾すじもある中に、奥定太というより分け入るをば千代の古道としてあるの儀式にもこととあるときわ此道よりぞいる。」
「しからばあれど此道は、殊にいと狭く嶮しく万づに便なりければ御材の本きりつかへまつるほどよりしては、船津といふもとより、ひが谷中尾ごえといふうを分け入ることはなりぬ。されど御材を天が瀬川に流しいる時はなお千代の古道をなんこゆる。」 『遷宮物語』(宮川村史より)
木本祭の際、大杉谷の道が厳しいので、ひが谷中尾ごえでアザミ谷に向かったという事になる。「ひが谷中尾ごえ」の場所を調べるが見当がつかない。パソコンで検索するとZIPPさんのサイトが出てきた。
[attachment=1]IMG_4594.jpg[/attachment]
「ひが谷は、船津に往古川の上流部を指し、中尾とは、真砂谷と小木森谷の間の尾根を指したと思われる。」
「遷宮の年に、紀州藩の野呂介石が船津・ひが谷から『坊主揚げの道』を使って大台ケ原に登っている道だろう。」
と書かれており、すでにZIPPさんは登ったようだ。脱帽である。
ということで、ZIPPさんの後追い山行をすることにした。
大台林道を上っていくと奥坊主の尾根に雪がついている。花抜峠登山口にママチャリをデポしヘアピン駐車地にもどる。林道から真砂谷の出会いに向けて谷を下りて行く。堰堤の下に開いた穴から河原に下りる。思った以上に水深があり川底の石に足をのせながらギリギリ長靴で通過できた。
出会いから道をひろいながら上って行く。この尾根は下部からすべて自然林になっており歩きやすい。トラバースしながら歩いていくと、クラに突き当たり巻くと尾根に出た。下からつづら折れの道が上ってきておりしばらく上っていくと尾根上には三重県の境界標石も見られる。最初に見た標石番号は222なので、ZIPPさんはもっと下部から道をたどれたようだ。
トラバースしたあたりや尾根には、アガリコのように下部から枝分かれした木がたくさん残されていた。枝分かれした木をマキなどに使ったようで、人に使われてきた道であることがわかる。右からの尾根が合わさる地点には図根点がる。境界標石の道は延々と続きこのあたりから青いビニールテープがルート上に出てきて嘉茂助谷ノ頭まで続いていた。
[attachment=4]IMG_4532.jpg[/attachment]
図根点をすぎたあたりから、松の大木に何度か出会う。大木が少ないこの尾根上での松の古木は目立つ。目印の木としての意味合いもあろうが、木本祭の坊主揚げに使われた道だけに神聖な木として残されたように思った。神宮用材伐採の木本祭に坊主はそぐわないと思われるかもしれないが、明治に神仏分離が進む前は、坊主と神官の垣根はほとんど無かったので、坊主揚げの意味する坊主には坊主も神官も含まれていたように思う。
[attachment=3]IMG_4538.jpg[/attachment]
地図上ではクラが立っている地帯もやせ尾根を上手に使い難なく越えていく。このあたりからは光り輝くなぎの熊野灘がよく見える。今日は三重県側は大丈夫だなと思いながら奥坊主を見るとガスに包まれている。奈良県側から雲が来ている。
雪の着き始めた道を上っていく。P1163に着いた頃には一面真っ白だ、雲も流れてきて嘉茂助谷ノ頭も見えない。雪道を上り嘉茂助谷ノ頭に到着。ここには、宮マークの境界標石がある。戦前、大杉谷は天皇直属の帝室林野局の管理下にあったのでそれを示す標柱のようだ。ひが谷中尾は現在も下部から自然林になっている。近くに植林が多いのに、植林されずに残った背景は、戦前に中尾をどこが管理していたかがわかればはっきりする。帝室林野局の管理下にあったようにも思うのだか、憶測にすぎない。
山頂からは、熊野灘も花抜峠も見えない。大台ケ原の方向と真上の青空は見えるのだが、それ以外はガスの中なので長居は無用。来た道を戻り花抜峠の分岐から下る。途中から土倉古道を歩く。なかなかしっかりとした道だ。道が落ちたあたりで尾根に登り返し花抜峠に向かう。花抜峠近くになってようやく熊野灘が雲の間から見えてきた。
[attachment=0]IMG_4570.jpg[/attachment]
花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。岩を削り、石積で道を作りながらゆるやかに下って行く。木場道として使われたのだろうか。明治時代の息吹というか心意気を感じさせてくれる道だ。古道は登山口まで途切れることなく続き道案内をしてくれた。
[attachment=2]IMG_4586.jpg[/attachment]
今回の山行では、坊主揚げの古道と土倉古道の一部を歩いた。特に、ひが谷中尾の坊主い揚げの古道は、昔の人たちの思いが伝わる貴重な道だった。昔の人のいとなみが見える古道はそう多くない。よくぞ残っていてくれたという思いがした。貴重な山行のきっかけを作ってもらったZIPPさんには感謝するほかない。
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- 記事: 488
- 登録日時: 2011年2月20日(日) 19:48
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
わりばしさんこんばんは、行かれたのですね。
チャリをデポですか、用意がいいですね。私が歩いたのが1月でしたからこの時も雪が途中から付いてました。
でも画像は松の木ではないでしょう?
南西に在る苔の辻(zippさん命名)は行かれなかったですか?良い所ですよ。嘉茂助から花抜峠への稜線もいいですね。
花抜峠~沖見峠間は土倉古道を辿りましたが地形図の破線道がそれなのでしょう?途中で嘉茂助から西に延びる尾根を越えるあたりは水平道ではないのでこの辺りから古道を離れているのかしらん?
その先は大台林道などに上書きでしょうか、筏場道も土倉古道の一部だったと記憶してますがどうだったかな?この先が楽しみですね。=TW=
この頃のヒノキというのはすでに植林されてたものなのですか?それとも原生林?奈良の川上村から大台ケ原を経て大杉谷に下り紀北町船津に至る土倉古道の事を調べていく内に、大杉谷から船津に至る道がそれ以前にあった事を知った。寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回の式年遷宮のために大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷ほか15か所で伐採がおこなわれた。式年遷宮というのは、伊勢神宮の外宮・内宮の二つの正殿、14の別宮、65棟の殿舎などを20年ごとに建て替える行事で、1万本以上のヒノキが使われる。天明(1781~88年)の初めごろ船津よりアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)まで新墾の道を切り開き神宮御造営用材伐採の木本祭が執行され伐採が始められた。
私zippさんの後追いでこの道登った事有ったと思うけどブログはよく読んでなかったみたい 、この解説見てませんでした。これって八町尾根ってやつですよね。「さて又此山にわけのぼる道幾すじもある中に、奥定太というより分け入るをば千代の古道としてあるの儀式にもこととあるときわ此道よりぞいる。」
「しからばあれど此道は、殊にいと狭く嶮しく万づに便なりければ御材の本きりつかへまつるほどよりしては、船津といふもとより、ひが谷中尾ごえといふうを分け入ることはなりぬ。されど御材を天が瀬川に流しいる時はなお千代の古道をなんこゆる。」 『遷宮物語』(宮川村史より)
木本祭の際、大杉谷の道が厳しいので、ひが谷中尾ごえでアザミ谷に向かったという事になる。「ひが谷中尾ごえ」の場所を調べるが見当がつかない。パソコンで検索するとZIPPさんのサイトが出てきた。
大台林道を上っていくと奥坊主の尾根に雪がついている。花抜峠登山口にママチャリをデポしヘアピン駐車地にもどる。林道から真砂谷の出会いに向けて谷を下りて行く。堰堤の下に開いた穴から河原に下りる。思った以上に水深があり川底の石に足をのせながらギリギリ長靴で通過できた。
チャリをデポですか、用意がいいですね。私が歩いたのが1月でしたからこの時も雪が途中から付いてました。
どこから上がったのですか~?私はこのつづら折れの道を上がった気がします。出会いから道をひろいながら上って行く。この尾根は下部からすべて自然林になっており歩きやすい。トラバースしながら歩いていくと、クラに突き当たり巻くと尾根に出た。下からつづら折れの道が上ってきておりしばらく上っていくと尾根上には三重県の境界標石も見られる。最初に見た標石番号は222なので、ZIPPさんはもっと下部から道をたどれたようだ。
記憶になかったですが写真見たら撮ってましたわ、あがりこ。トラバースしたあたりや尾根には、アガリコのように下部から枝分かれした木がたくさん残されていた。枝分かれした木をマキなどに使ったようで、人に使われてきた道であることがわかる。右からの尾根が合わさる地点には図根点がる。境界標石の道は延々と続きこのあたりから青いビニールテープがルート上に出てきて嘉茂助谷ノ頭まで続いていた。
う~ん?坊主(神官)が上がったから坊主揚げですか?奥坊主、口坊主の名前もそこが由来ですか、なんか腑に落ちないなぁ。嘉茂助周辺のなだらかな所は伐採された場所なのでしょう、この伐採はそのころのものではないのかな?嘉茂助周辺が伐採されて坊主山になっていた、そこから木材を引き揚げる(この場合下げる訳ですが)のに使った尾根、なんて発想はどうでしょう、まぁ私の様な何の知識も無いものが口を挟むところじゃないですけど。図根点をすぎたあたりから、松の大木に何度か出会う。大木が少ないこの尾根上での松の古木は目立つ。目印の木としての意味合いもあろうが、木本祭の坊主揚げに使われた道だけに神聖な木として残されたように思った。神宮用材伐採の木本祭に坊主はそぐわないと思われるかもしれないが、明治に神仏分離が進む前は、坊主と神官の垣根はほとんど無かったので、坊主揚げの意味する坊主には坊主も神官も含まれていたように思う。
でも画像は松の木ではないでしょう?
山頂からは、熊野灘も花抜峠も見えない。大台ケ原の方向と真上の青空は見えるのだが、それ以外はガスの中なので長居は無用。来た道を戻り花抜峠の分岐から下る。途中から土倉古道を歩く。なかなかしっかりとした道だ。道が落ちたあたりで尾根に登り返し花抜峠に向かう。花抜峠近くになってようやく熊野灘が雲の間から見えてきた。
南西に在る苔の辻(zippさん命名)は行かれなかったですか?良い所ですよ。嘉茂助から花抜峠への稜線もいいですね。
花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。岩を削り、石積で道を作りながらゆるやかに下って行く。木場道として使われたのだろうか。明治時代の息吹というか心意気を感じさせてくれる道だ。古道は登山口まで途切れることなく続き道案内をしてくれた。
花抜峠~沖見峠間は土倉古道を辿りましたが地形図の破線道がそれなのでしょう?途中で嘉茂助から西に延びる尾根を越えるあたりは水平道ではないのでこの辺りから古道を離れているのかしらん?
その先は大台林道などに上書きでしょうか、筏場道も土倉古道の一部だったと記憶してますがどうだったかな?この先が楽しみですね。=TW=
Trail Walker
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
わりばしさん、こんばんは~。
はじめての嘉茂助谷ノ頭に樋ヶ谷中尾を絡めましたか。
さすが、目の付けドコロがわりばしさんです(^^)。
「ひが谷は、船津に往古川の上流部を指し、中尾とは、真砂谷と小木森谷の間の尾根を指したと思われる。」
「遷宮の年に、紀州藩の野呂介石が船津・ひが谷から『坊主揚げの道』を使って大台ケ原に登っている道だろう。」
と書かれており、すでにZIPPさんは登ったようだ。脱帽である。
ということで、ZIPPさんの後追い山行をすることにした。
えっヘン!?
大杉谷界隈は、神宮の御領林だったため古い記録もあるようなのですが、古語は読んでも意味がわからなかったりします(^^;。
「坊主揚げ」をキーワードに、遷宮と野呂介石が繋がり、ちょっとした知的興奮を感じたことを覚えています。
江戸期の道がそのまま残っているわけではないでしょうが、凄いですよね。
また、後日niuyamada氏のブログで知ったのですが、明治期に松浦武四郎の後を追うように大台ケ原に登った薄木某氏が、帰路この道を船津へと降りているようです。
大台林道を上っていくと奥坊主の尾根に雪がついている。
へぇ、今回の寒波は、この稜線にも雪を付けたんですね~。ラッキー!
思った以上に水深があり川底の石に足をのせながらギリギリ長靴で通過できた。
あれ?わりばしさん、山行に長靴が常態化しておられます?(^^;。
最初に見た標石番号は222なので、ZIPPさんはもっと下部から道をたどれたようだ。
少し真砂谷に入ったところに尾根に登る道があり、道に沿うように標石がありました。
境界標石の道は延々と続きこのあたりから青いビニールテープがルート上に出てきて嘉茂助谷ノ頭まで続いていた。
早々とこの尾根にテープを付けた人がいるようです。とれヲさんが登った後ぐらいに付けられたみたい。
神宮用材伐採の木本祭に坊主はそぐわないと思われるかもしれないが、明治に神仏分離が進む前は、坊主と神官の垣根はほとんど無かったので、坊主揚げの意味する坊主には坊主も神官も含まれていたように思う。
そうか、神仏分離以前ならそう考えてもいいんですね。
雪の着き始めた道を上っていく。P1163に着いた頃には一面真っ白だ、雲も流れてきて嘉茂助谷ノ頭も見えない。
雪はラッキーだけど、ガスでしたか。そりゃぁ残念~!!
また登りに行くいい口実ができましたね(^^)。
帝室林野局の管理下にあったようにも思うのだか、憶測にすぎない。
「宮」標石は、この郡界尾根に続いてますから、御領林でなかったことは確かなんです。
来た道を戻り花抜峠の分岐から下る。途中から土倉古道を歩く。なかなかしっかりとした道だ。
沖見峠へと降りなかったのですか。
このあたりの国有林の植林が間伐され、花抜峠へ通りやすくなっているかも知れません。
花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。
地図の破線道を見ると左手方向へ進んじゃいそうですが、違うんですよね。逆方向へ向かうのです。
このあたりのヤブを漕ぐと、もれなくダニのお土産です(^^)。大丈夫でした?
岩を削り、石積で道を作りながらゆるやかに下って行く。木場道として使われたのだろうか。明治時代の息吹というか心意気を感じさせてくれる道だ。古道は登山口まで途切れることなく続き道案内をしてくれた。
これもいい道ですよね。吉野筏場から船津への山中の道を一林業家がやってのけた、土倉(ドクラ)氏は凄い林業家です。
特に、ひが谷中尾の坊主い揚げの古道は、昔の人たちの思いが伝わる貴重な道だった。昔の人のいとなみが見える古道はそう多くない。よくぞ残っていてくれたという思いがした。
ですよね~。
もうひとつ、お奨めの古道があるんですよ~(^^)。
明治期の道なんですが、岩壁を削り、橋を付け、谷部分は改修したこの道はほんま凄い道です。
いまは、忘れ去られたような尾鷲とダム湖に沈んだ奈良・東川を結ぶ道・大又から出口峠への道です。
貴重な山行のきっかけを作ってもらったZIPPさんには感謝するほかない。
いえいえ、次回オフ会の席でも、配偶者さんをお連れだし、白魚のような手でお酌して頂ければ結構ですので(^^)。
p.s.画像は松じゃなくって杉ですよ~。この辺りは、杉の巨木がたくさんあります。
zipp
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
おはようございます、TrailWalkerさん。
原生林ですね。
初期は江馬山のあたりを伐採したようですが、切りつくして源流部分まできたようです。
そうです八町尾根て言われている尾根です。
TrailWalkerさんも登っていましたか。
チャリをデポですか、用意がいいですね。私が歩いたのが1月でしたからこの時も雪が途中から付いてました。
帰りの林道は凸凹だし、ブレーキをかけ続けないとダメなんで大変でした。
真砂谷側にトラバースしすぎちゃったみたいです。
このあたりも枝分かれの木はたくさんありました。
めちゃくちゃたくさんありましたよ。
でも画像は松の木ではないでしょう?
ハハハ・・とうとう松と杉も間違うようになってしまった。
まあ、江戸時代の人の記録ですからこんなもんです。
南西に在る苔の辻(zippさん命名)は行かれなかったですか?良い所ですよ。嘉茂助から花抜峠への稜線もいいですね。
苔の辻に行くつもりだったのですが、ガスで景色もイマイチだし雪がかぶっていたので止めました。
花抜峠~沖見峠間は土倉古道を辿りましたが地形図の破線道がそれなのでしょう?途中で嘉茂助から西に延びる尾根を越えるあたりは水平道ではないのでこの辺りから古道を離れているのかしらん?
その先は大台林道などに上書きでしょうか、筏場道も土倉古道の一部だったと記憶してますがどうだったかな?この先が楽しみですね。
大台林道からずれる場所もあるみたいですが、基本は上書きだと思います。
古道探索は、雪の無い季節まで封印です。
帰りに紀伊長島の道の駅でマンボウの串焼を食べてきました。
鶏肉をもっと柔らかくした感じでした。
わりばし
この頃のヒノキというのはすでに植林されてたものなのですか?それとも原生林?奈良の川上村から大台ケ原を経て大杉谷に下り紀北町船津に至る土倉古道の事を調べていく内に、大杉谷から船津に至る道がそれ以前にあった事を知った。寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回の式年遷宮のために大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷ほか15か所で伐採がおこなわれた。式年遷宮というのは、伊勢神宮の外宮・内宮の二つの正殿、14の別宮、65棟の殿舎などを20年ごとに建て替える行事で、1万本以上のヒノキが使われる。天明(1781~88年)の初めごろ船津よりアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)まで新墾の道を切り開き神宮御造営用材伐採の木本祭が執行され伐採が始められた。
原生林ですね。
初期は江馬山のあたりを伐採したようですが、切りつくして源流部分まできたようです。
私zippさんの後追いでこの道登った事有ったと思うけどブログはよく読んでなかったみたい 、この解説見てませんでした。これって八町尾根ってやつですよね。「さて又此山にわけのぼる道幾すじもある中に、奥定太というより分け入るをば千代の古道としてあるの儀式にもこととあるときわ此道よりぞいる。」
「しからばあれど此道は、殊にいと狭く嶮しく万づに便なりければ御材の本きりつかへまつるほどよりしては、船津といふもとより、ひが谷中尾ごえといふうを分け入ることはなりぬ。されど御材を天が瀬川に流しいる時はなお千代の古道をなんこゆる。」 『遷宮物語』(宮川村史より)
木本祭の際、大杉谷の道が厳しいので、ひが谷中尾ごえでアザミ谷に向かったという事になる。「ひが谷中尾ごえ」の場所を調べるが見当がつかない。パソコンで検索するとZIPPさんのサイトが出てきた。
そうです八町尾根て言われている尾根です。
TrailWalkerさんも登っていましたか。
大台林道を上っていくと奥坊主の尾根に雪がついている。花抜峠登山口にママチャリをデポしヘアピン駐車地にもどる。林道から真砂谷の出会いに向けて谷を下りて行く。堰堤の下に開いた穴から河原に下りる。思った以上に水深があり川底の石に足をのせながらギリギリ長靴で通過できた。
チャリをデポですか、用意がいいですね。私が歩いたのが1月でしたからこの時も雪が途中から付いてました。
帰りの林道は凸凹だし、ブレーキをかけ続けないとダメなんで大変でした。
どこから上がったのですか~?私はこのつづら折れの道を上がった気がします。出会いから道をひろいながら上って行く。この尾根は下部からすべて自然林になっており歩きやすい。トラバースしながら歩いていくと、クラに突き当たり巻くと尾根に出た。下からつづら折れの道が上ってきておりしばらく上っていくと尾根上には三重県の境界標石も見られる。最初に見た標石番号は222なので、ZIPPさんはもっと下部から道をたどれたようだ。
真砂谷側にトラバースしすぎちゃったみたいです。
このあたりも枝分かれの木はたくさんありました。
記憶になかったですが写真見たら撮ってましたわ、あがりこ。トラバースしたあたりや尾根には、アガリコのように下部から枝分かれした木がたくさん残されていた。枝分かれした木をマキなどに使ったようで、人に使われてきた道であることがわかる。右からの尾根が合わさる地点には図根点がる。境界標石の道は延々と続きこのあたりから青いビニールテープがルート上に出てきて嘉茂助谷ノ頭まで続いていた。
めちゃくちゃたくさんありましたよ。
う~ん?坊主(神官)が上がったから坊主揚げですか?奥坊主、口坊主の名前もそこが由来ですか、なんか腑に落ちないなぁ。嘉茂助周辺のなだらかな所は伐採された場所なのでしょう、この伐採はそのころのものではないのかな?嘉茂助周辺が伐採されて坊主山になっていた、そこから木材を引き揚げる(この場合下げる訳ですが)のに使った尾根、なんて発想はどうでしょう、まぁ私の様な何の知識も無いものが口を挟むところじゃないですけど。図根点をすぎたあたりから、松の大木に何度か出会う。大木が少ないこの尾根上での松の古木は目立つ。目印の木としての意味合いもあろうが、木本祭の坊主揚げに使われた道だけに神聖な木として残されたように思った。神宮用材伐採の木本祭に坊主はそぐわないと思われるかもしれないが、明治に神仏分離が進む前は、坊主と神官の垣根はほとんど無かったので、坊主揚げの意味する坊主には坊主も神官も含まれていたように思う。
でも画像は松の木ではないでしょう?
ハハハ・・とうとう松と杉も間違うようになってしまった。
まあ、江戸時代の人の記録ですからこんなもんです。
山頂からは、熊野灘も花抜峠も見えない。大台ケ原の方向と真上の青空は見えるのだが、それ以外はガスの中なので長居は無用。来た道を戻り花抜峠の分岐から下る。途中から土倉古道を歩く。なかなかしっかりとした道だ。道が落ちたあたりで尾根に登り返し花抜峠に向かう。花抜峠近くになってようやく熊野灘が雲の間から見えてきた。
南西に在る苔の辻(zippさん命名)は行かれなかったですか?良い所ですよ。嘉茂助から花抜峠への稜線もいいですね。
苔の辻に行くつもりだったのですが、ガスで景色もイマイチだし雪がかぶっていたので止めました。
花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。岩を削り、石積で道を作りながらゆるやかに下って行く。木場道として使われたのだろうか。明治時代の息吹というか心意気を感じさせてくれる道だ。古道は登山口まで途切れることなく続き道案内をしてくれた。
花抜峠~沖見峠間は土倉古道を辿りましたが地形図の破線道がそれなのでしょう?途中で嘉茂助から西に延びる尾根を越えるあたりは水平道ではないのでこの辺りから古道を離れているのかしらん?
その先は大台林道などに上書きでしょうか、筏場道も土倉古道の一部だったと記憶してますがどうだったかな?この先が楽しみですね。
大台林道からずれる場所もあるみたいですが、基本は上書きだと思います。
古道探索は、雪の無い季節まで封印です。
帰りに紀伊長島の道の駅でマンボウの串焼を食べてきました。
鶏肉をもっと柔らかくした感じでした。
わりばし
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
ちょっと、コメント(^^;
[quote] 奈良の川上村から大台ケ原を経て大杉谷に下り紀北町船津に至る土倉古道の事を調べていく内に、大杉谷から船津に至る道がそれ以前にあった事を知った。寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回の式年遷宮のために大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷ほか15か所で伐採がおこなわれた。式年遷宮というのは、伊勢神宮の外宮・内宮の二つの正殿、14の別宮、65棟の殿舎などを20年ごとに建て替える行事で、1万本以上のヒノキが使われる。天明(1781~88年)の初めごろ船津よりアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)まで新墾の道を切り開き神宮御造営用材伐採の木本祭が執行され伐採が始められた。[/quote]
この頃のヒノキというのはすでに植林されてたものなのですか?それとも原生林?
原生林ですね。
初期は江馬山のあたりを伐採したようですが、切りつくして源流部分まできたようです。
この桧の原生林、いまも残っている所が、僅かだけどあるんですよ。見事なまっすぐ伸びた桧が、林立して残っている。
神宮の御用材でも伐採されず、国有林の伐採にも免れて残っているのです。
[quote] トラバースしたあたりや尾根には、アガリコのように下部から枝分かれした木がたくさん残されていた。枝分かれした木をマキなどに使ったようで、人に使われてきた道であることがわかる。右からの尾根が合わさる地点には図根点がる。境界標石の道は延々と続きこのあたりから青いビニールテープがルート上に出てきて嘉茂助谷ノ頭まで続いていた。 [/quote]
記憶になかったですが写真見たら撮ってましたわ、あがりこ。
めちゃくちゃたくさんありましたよ。
中尾の道沿いでは見なかったけど、このあたり炭焼き窯跡多いから、炭用として切られたんでしょうね。
[quote]坊主揚げの意味する坊主には坊主も神官も含まれていたように思う。 [/quote]
う~ん?坊主(神官)が上がったから坊主揚げですか?奥坊主、口坊主の名前もそこが由来ですか、なんか腑に落ちないなぁ。嘉茂助周辺のなだらかな所は伐採された場所なのでしょう、この伐採はそのころのものではないのかな?嘉茂助周辺が伐採されて坊主山になっていた、そこから木材を引き揚げる(この場合下げる訳ですが)のに使った尾根、なんて発想はどうでしょう、まぁ私の様な何の知識も無いものが口を挟むところじゃないですけど。
でも画像は松の木ではないでしょう?
まあ、江戸時代の人の記録ですからこんなもんです。
神官=坊主をあげる道だったから坊主揚げですよ。
この道を造るために駆り出された住民は、思ったでしょう。なんで坊主を登らせるためにこんな道を造らなかんのや!と(^^;。
宮標石より旧海山町側は、戦後の伐採だろうと思います。
口坊主・奥坊主の名前の由来は、山の形容からだと思うけど、もしかしたらこの坊主揚げの道から連想して名づけられたかもしれません。
また、野呂介石が、富士山も遠望できる二本鼻と云っている山が、双耳峰の嘉茂助谷ノ頭のことでしょう。
[quote] 花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。岩を削り、石積で道を作りながらゆるやかに下って行く。木場道として使われたのだろうか。明治時代の息吹というか心意気を感じさせてくれる道だ。古道は登山口まで途切れることなく続き道案内をしてくれた。[/quote]
花抜峠~沖見峠間は土倉古道を辿りましたが地形図の破線道がそれなのでしょう?途中で嘉茂助から西に延びる尾根を越えるあたりは水平道ではないのでこの辺りから古道を離れているのかしらん?
その先は大台林道などに上書きでしょうか、筏場道も土倉古道の一部だったと記憶してますがどうだったかな?この先が楽しみですね。
大台林道からずれる場所もあるみたいですが、基本は上書きだと思います。
とれヲさんが云っているのは、花抜峠から嘉茂助の稜線を南に巻いて、苔の辻から堂倉谷に降りる破線道のことを云っているのかな?もしそうなら、これは土倉古道じゃないですよ。
現在の大台林道から花抜峠、沖見峠、堂倉谷、大台辻、筏場へ続くのが土倉道です。
ちなみに、地形図の破線道は間違っている箇所も多く、沖見峠から大台林道に抜ける部分は、苔の辻からの破線道と重なるのです。
そのあたりの林道上には、古い石積みされた小広場があります。もしかしたら、木本祭したのはここかも?と思ったりもします。他を探索してないのですけど。
zipp
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
おはようございます、ZIPPさん。
「ひが谷は、船津に往古川の上流部を指し、中尾とは、真砂谷と小木森谷の間の尾根を指したと思われる。」
「遷宮の年に、紀州藩の野呂介石が船津・ひが谷から『坊主揚げの道』を使って大台ケ原に登っている道だろう。」
と書かれており、すでにZIPPさんは登ったようだ。脱帽である。
ということで、ZIPPさんの後追い山行をすることにした。
えっヘン!?
大杉谷界隈は、神宮の御領林だったため古い記録もあるようなのですが、古語は読んでも意味がわからなかったりします(^^;。
「坊主揚げ」をキーワードに、遷宮と野呂介石が繋がり、ちょっとした知的興奮を感じたことを覚えています。
江戸期の道がそのまま残っているわけではないでしょうが、凄いですよね。
また、後日niuyamada氏のブログで知ったのですが、明治期に松浦武四郎の後を追うように大台ケ原に登った薄木某氏が、帰路この道を船津へと降りているようです。
御杣山は記録が残っているので、思いを巡らせれれていいですね。
遷宮のための大杉谷源流部の伐採により日本狼が徐々に絶滅に向かっていったようです。
宮川村史には、江戸時代の狼の被害状況も含めて詳しく書かれています。
大台林道を上っていくと奥坊主の尾根に雪がついている。
へぇ、今回の寒波は、この稜線にも雪を付けたんですね~。ラッキー!
ラッキーなのでしょうが、初めての山域だったので、嫌だなと思いながら見ていました。
思った以上に水深があり川底の石に足をのせながらギリギリ長靴で通過できた。
あれ?わりばしさん、山行に長靴が常態化しておられます?(^^;。
長靴は楽なので手放せなくなりました。
これからは、雪の季節ですのでドタ靴の復活です。
境界標石の道は延々と続きこのあたりから青いビニールテープがルート上に出てきて嘉茂助谷ノ頭まで続いていた。
早々とこの尾根にテープを付けた人がいるようです。とれヲさんが登った後ぐらいに付けられたみたい。
下りを意識してか、けっこうな数ついていました。
雪の着き始めた道を上っていく。P1163に着いた頃には一面真っ白だ、雲も流れてきて嘉茂助谷ノ頭も見えない。
雪はラッキーだけど、ガスでしたか。そりゃぁ残念~!!
また登りに行くいい口実ができましたね(^^)。
希望としては、ぽかぽか陽気の雪山がいいですね。
帝室林野局の管理下にあったようにも思うのだか、憶測にすぎない。
「宮」標石は、この郡界尾根に続いてますから、御領林でなかったことは確かなんです。
そうなんですか。謎は深まるばかり・・
来た道を戻り花抜峠の分岐から下る。途中から土倉古道を歩く。なかなかしっかりとした道だ。
沖見峠へと降りなかったのですか。
このあたりの国有林の植林が間伐され、花抜峠へ通りやすくなっているかも知れません。
それも考えていたのですが、初めての山域なので余裕を持って歩きたかったのと展望が無かったので素直に下りました。
花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。
地図の破線道を見ると左手方向へ進んじゃいそうですが、違うんですよね。逆方向へ向かうのです。
このあたりのヤブを漕ぐと、もれなくダニのお土産です(^^)。大丈夫でした?
大丈夫でした。
というより、ダニもヒルにもやられたことが無いんですよ。
岩を削り、石積で道を作りながらゆるやかに下って行く。木場道として使われたのだろうか。明治時代の息吹というか心意気を感じさせてくれる道だ。古道は登山口まで途切れることなく続き道案内をしてくれた。
これもいい道ですよね。吉野筏場から船津への山中の道を一林業家がやってのけた、土倉(ドクラ)氏は凄い林業家です。
今の吉野式植林方法を考案したのも土倉氏のようです。
ただ、自由民権運動や教育への投資・子どもたちの事業の失敗によって財産はかなり消えたようです。
後さき考えずに信じた道を突き進む、時代が大きく動いている時の勢いを感じさせてくれる道でもあります。
特に、ひが谷中尾の坊主い揚げの古道は、昔の人たちの思いが伝わる貴重な道だった。昔の人のいとなみが見える古道はそう多くない。よくぞ残っていてくれたという思いがした。
ですよね~。
もうひとつ、お奨めの古道があるんですよ~(^^)。
明治期の道なんですが、岩壁を削り、橋を付け、谷部分は改修したこの道はほんま凄い道です。
いまは、忘れ去られたような尾鷲とダム湖に沈んだ奈良・東川を結ぶ道・大又から出口峠への道です。
北山索道にからむ道ですね。
貴重な山行のきっかけを作ってもらったZIPPさんには感謝するほかない。
いえいえ、次回オフ会の席でも、配偶者さんをお連れだし、白魚のような手でお酌して頂ければ結構ですので(^^)。
[/color]
つれあいは、オフ会場に到着できないでしょうね。
山登りでは幼稚園児に負けてましたから。
p.s.画像は松じゃなくって杉ですよ~。この辺りは、杉の巨木がたくさんあります。[/quote]
ハハハ・・そうですね杉ですね。
花粉症で毎年お世話に」なってるのに~
わりばし
「ひが谷は、船津に往古川の上流部を指し、中尾とは、真砂谷と小木森谷の間の尾根を指したと思われる。」
「遷宮の年に、紀州藩の野呂介石が船津・ひが谷から『坊主揚げの道』を使って大台ケ原に登っている道だろう。」
と書かれており、すでにZIPPさんは登ったようだ。脱帽である。
ということで、ZIPPさんの後追い山行をすることにした。
えっヘン!?
大杉谷界隈は、神宮の御領林だったため古い記録もあるようなのですが、古語は読んでも意味がわからなかったりします(^^;。
「坊主揚げ」をキーワードに、遷宮と野呂介石が繋がり、ちょっとした知的興奮を感じたことを覚えています。
江戸期の道がそのまま残っているわけではないでしょうが、凄いですよね。
また、後日niuyamada氏のブログで知ったのですが、明治期に松浦武四郎の後を追うように大台ケ原に登った薄木某氏が、帰路この道を船津へと降りているようです。
御杣山は記録が残っているので、思いを巡らせれれていいですね。
遷宮のための大杉谷源流部の伐採により日本狼が徐々に絶滅に向かっていったようです。
宮川村史には、江戸時代の狼の被害状況も含めて詳しく書かれています。
大台林道を上っていくと奥坊主の尾根に雪がついている。
へぇ、今回の寒波は、この稜線にも雪を付けたんですね~。ラッキー!
ラッキーなのでしょうが、初めての山域だったので、嫌だなと思いながら見ていました。
思った以上に水深があり川底の石に足をのせながらギリギリ長靴で通過できた。
あれ?わりばしさん、山行に長靴が常態化しておられます?(^^;。
長靴は楽なので手放せなくなりました。
これからは、雪の季節ですのでドタ靴の復活です。
境界標石の道は延々と続きこのあたりから青いビニールテープがルート上に出てきて嘉茂助谷ノ頭まで続いていた。
早々とこの尾根にテープを付けた人がいるようです。とれヲさんが登った後ぐらいに付けられたみたい。
下りを意識してか、けっこうな数ついていました。
雪の着き始めた道を上っていく。P1163に着いた頃には一面真っ白だ、雲も流れてきて嘉茂助谷ノ頭も見えない。
雪はラッキーだけど、ガスでしたか。そりゃぁ残念~!!
また登りに行くいい口実ができましたね(^^)。
希望としては、ぽかぽか陽気の雪山がいいですね。
帝室林野局の管理下にあったようにも思うのだか、憶測にすぎない。
「宮」標石は、この郡界尾根に続いてますから、御領林でなかったことは確かなんです。
そうなんですか。謎は深まるばかり・・
来た道を戻り花抜峠の分岐から下る。途中から土倉古道を歩く。なかなかしっかりとした道だ。
沖見峠へと降りなかったのですか。
このあたりの国有林の植林が間伐され、花抜峠へ通りやすくなっているかも知れません。
それも考えていたのですが、初めての山域なので余裕を持って歩きたかったのと展望が無かったので素直に下りました。
花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。
地図の破線道を見ると左手方向へ進んじゃいそうですが、違うんですよね。逆方向へ向かうのです。
このあたりのヤブを漕ぐと、もれなくダニのお土産です(^^)。大丈夫でした?
大丈夫でした。
というより、ダニもヒルにもやられたことが無いんですよ。
岩を削り、石積で道を作りながらゆるやかに下って行く。木場道として使われたのだろうか。明治時代の息吹というか心意気を感じさせてくれる道だ。古道は登山口まで途切れることなく続き道案内をしてくれた。
これもいい道ですよね。吉野筏場から船津への山中の道を一林業家がやってのけた、土倉(ドクラ)氏は凄い林業家です。
今の吉野式植林方法を考案したのも土倉氏のようです。
ただ、自由民権運動や教育への投資・子どもたちの事業の失敗によって財産はかなり消えたようです。
後さき考えずに信じた道を突き進む、時代が大きく動いている時の勢いを感じさせてくれる道でもあります。
特に、ひが谷中尾の坊主い揚げの古道は、昔の人たちの思いが伝わる貴重な道だった。昔の人のいとなみが見える古道はそう多くない。よくぞ残っていてくれたという思いがした。
ですよね~。
もうひとつ、お奨めの古道があるんですよ~(^^)。
明治期の道なんですが、岩壁を削り、橋を付け、谷部分は改修したこの道はほんま凄い道です。
いまは、忘れ去られたような尾鷲とダム湖に沈んだ奈良・東川を結ぶ道・大又から出口峠への道です。
北山索道にからむ道ですね。
貴重な山行のきっかけを作ってもらったZIPPさんには感謝するほかない。
いえいえ、次回オフ会の席でも、配偶者さんをお連れだし、白魚のような手でお酌して頂ければ結構ですので(^^)。
[/color]
つれあいは、オフ会場に到着できないでしょうね。
山登りでは幼稚園児に負けてましたから。
p.s.画像は松じゃなくって杉ですよ~。この辺りは、杉の巨木がたくさんあります。[/quote]
ハハハ・・そうですね杉ですね。
花粉症で毎年お世話に」なってるのに~
わりばし
最後に編集したユーザー わりばし [ 2011年12月16日(金) 07:03 ], 累計 1 回
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
おはようございます、好い会話が続いているので緑ちゃんも参戦だワン。
使用マップは61年版で大台林道から分かれての花抜峠までは二本線で描かれた林道だ。
コノ道から加茂助谷の頭、堂倉高、沖見高と千尋峠へと歩いてるよ。冬晴れのいま時期が好いです。
ヨメの白指でお酌させるが好いと思うよ、ついでに緑ちゃんにもね
おめおめと戻ってきました、仲間とやってみようだワン。
コノ尾根道緑ちゃんにも歩ける思いますか 最近気弱になってるんだよな
緑ちゃんのマップに書かれてるとおりだワン
長島にお肴買いに行く、チョッと覗いてこようだわん、コレがスケベー古道いいますよね、黄道かな?
[attachment=0]優れもの.jpg[/attachment]
好い年末年始をです。
緑水
好いですね、わりばしさんの古道講座は尾鷲道まできましたか。緑ちゃんzippおっちゃんの後追いしてたからホドホド判りますよ。【日 付】2011年12月10日(土)
【山 域】台高
【コース】ヘアピンP7:55---10:15図根点---12:31嘉茂助谷ノ頭---13:55花抜峠---15:15登山口---15:45ヘアピンP
【メンバー】単独
奈良の川上村から大台ケ原を経て大杉谷に下り紀北町船津に至る土倉古道の事を調べていく内に、
大杉谷から船津に至る道がそれ以前にあった事を知った。
寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回の式年遷宮のために大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷ほか15か所で伐採がおこなわれた。
式年遷宮というのは、伊勢神宮の外宮・内宮の二つの正殿、14の別宮、65棟の殿舎などを20年ごとに建て替える行事で、1万本以上のヒノキが使われる。
天明(1781~88年)の初めごろ船津よりアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)まで新墾の道を切り開き神宮御造営用材伐採の木本祭が執行され伐採が始められた。
使用マップは61年版で大台林道から分かれての花抜峠までは二本線で描かれた林道だ。
コノ道から加茂助谷の頭、堂倉高、沖見高と千尋峠へと歩いてるよ。冬晴れのいま時期が好いです。
おっちゃんはスゴイ人だよ実践者だし、いま武四郎の異名を持つ人なんだから。おっちゃんなんて気安く呼ぶなんてもってのほかだワン。と書かれており、すでにZIPPさんは登ったようだ。脱帽である。
ということで、ZIPPさんの後追い山行をすることにした。
ヨメの白指でお酌させるが好いと思うよ、ついでに緑ちゃんにもね
コノ道楽に上がれそうですね、緑ちゃんやろうと思いながら忘れてたワン、ボヘに出てたからかも。出会いから道をひろいながら上って行く。この尾根は下部からすべて自然林になっており歩きやすい。
トラバースしながら歩いていくと、クラに突き当たり巻くと尾根に出た。
下からつづら折れの道が上ってきておりしばらく上っていくと尾根上には三重県の境界標石も見られる。
最初に見た標石番号は222なので、ZIPPさんはもっと下部から道をたどれたようだ。
おめおめと戻ってきました、仲間とやってみようだワン。
チョッとは入口がわかりにくいですね。あのズック仙人さんも迷った所だから。時間に余裕がですよね花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。
岩を削り、石積で道を作りながらゆるやかに下って行く。木場道として使われたのだろうか。明治時代の息吹というか心意気を感じさせてくれる道だ。
古道は登山口まで途切れることなく続き道案内をしてくれた。
八町滝もマップに書いてあるワン。TWさん おはようさん
私zippさんの後追いでこの道登った事有ったと思うけどブログはよく読んでなかったみたい 、この解説見てませんでした。これって八町尾根ってやつですよね。
コノ尾根道緑ちゃんにも歩ける思いますか 最近気弱になってるんだよな
zipp博士が出てきたどー。
とれヲさんが云っているのは、花抜峠から嘉茂助の稜線を南に巻いて、苔の辻から堂倉谷に降りる破線道のことを云っているのかな?もしそうなら、これは土倉古道じゃないですよ。
現在の大台林道から花抜峠、沖見峠、堂倉谷、大台辻、筏場へ続くのが土倉道です。
ちなみに、地形図の破線道は間違っている箇所も多く、沖見峠から大台林道に抜ける部分は、苔の辻からの破線道と重なるのです。
そのあたりの林道上には、古い石積みされた小広場があります。もしかしたら、木本祭したのはここかも?と思ったりもします。他を探索してないのですけど。
緑ちゃんのマップに書かれてるとおりだワン
zipp武知ろうの見識はスゴイ「坊主揚げ」をキーワードに、遷宮と野呂介石が繋がり、ちょっとした知的興奮を感じたことを覚えています。
江戸期の道がそのまま残っているわけではないでしょうが、凄いですよね。
また、後日niuyamada氏のブログで知ったのですが、明治期に松浦武四郎の後を追うように大台ケ原に登った薄木某氏が、帰路この道を船津へと降りているようです。
コノレポでソレ行けなんてのが居るだろうな、テープはそのままにしておいてね。早々とこの尾根にテープを付けた人がいるようです。とれヲさんが登った後ぐらいに付けられたみたい。
このあたりの国有林の植林が間伐され、花抜峠へ通りやすくなっているかも知れません。
コレもzippさんレポ上げてたね、後追い補強よろしくです。もうひとつ、お奨めの古道があるんですよ~(^^)。
明治期の道なんですが、岩壁を削り、橋を付け、谷部分は改修したこの道はほんま凄い道です。
いまは、忘れ去られたような尾鷲とダム湖に沈んだ奈良・東川を結ぶ道・大又から出口峠への道です。
長島にお肴買いに行く、チョッと覗いてこようだわん、コレがスケベー古道いいますよね、黄道かな?
[attachment=0]優れもの.jpg[/attachment]
好い年末年始をです。
緑水
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- ● カエルちゃん持ち込んだ湯沸しストーブ、マッタリに好いよ。燗がつくね(^^)
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- 登録日時: 2011年2月20日(日) 19:48
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
わりばしさん横レスすみません。
zippさん解説どうも
zippさん解説どうも
やはりそれで正解なんですか、たしかにあの尾根なら楽に登れたのでしょう。口坊主・奥坊主はzippさんまだ登ってないですか?わりばしさんが先制するかな?神官=坊主をあげる道だったから坊主揚げですよ。
この道を造るために駆り出された住民は、思ったでしょう。なんで坊主を登らせるためにこんな道を造らなかんのや!と(^^;。
宮標石より旧海山町側は、戦後の伐採だろうと思います。
口坊主・奥坊主の名前の由来は、山の形容からだと思うけど、もしかしたらこの坊主揚げの道から連想して名づけられたかもしれません。
私が言うのは沖見峠を通る破線です、この部分が水平道を外れてるますよね、このままトラバースで大台林道に合流かな?=TW=とれヲさんが云っているのは、花抜峠から嘉茂助の稜線を南に巻いて、苔の辻から堂倉谷に降りる破線道のことを云っているのかな?もしそうなら、これは土倉古道じゃないですよ。
現在の大台林道から花抜峠、沖見峠、堂倉谷、大台辻、筏場へ続くのが土倉道です。
ちなみに、地形図の破線道は間違っている箇所も多く、沖見峠から大台林道に抜ける部分は、苔の辻からの破線道と重なるのです。
そのあたりの林道上には、古い石積みされた小広場があります。もしかしたら、木本祭したのはここかも?と思ったりもします。他を探索してないのですけど。
Trail Walker
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
ども、とれヲさん。
私が言うのは沖見峠を通る破線です、この部分が水平道を外れてるますよね、このままトラバースで大台林道に合流かな?
はい、上でもちょっと触れていますが、地形図の沖見峠から大台林道へ降りる破線道は間違ってます。
苔の辻から大台林道に降りるあたりまで山腹を巻きながら続いているのです。
奥坊主・口坊主はまだだよ。う~ん、なかなか気合が入らないんよね(^^;。
とれヲさんが云っているのは、花抜峠から嘉茂助の稜線を南に巻いて、苔の辻から堂倉谷に降りる破線道のことを云っているのかな?もしそうなら、これは土倉古道じゃないですよ。
現在の大台林道から花抜峠、沖見峠、堂倉谷、大台辻、筏場へ続くのが土倉道です。
ちなみに、地形図の破線道は間違っている箇所も多く、沖見峠から大台林道に抜ける部分は、苔の辻からの破線道と重なるのです。
そのあたりの林道上には、古い石積みされた小広場があります。もしかしたら、木本祭したのはここかも?と思ったりもします。他を探索してないのですけど。
私が言うのは沖見峠を通る破線です、この部分が水平道を外れてるますよね、このままトラバースで大台林道に合流かな?
はい、上でもちょっと触れていますが、地形図の沖見峠から大台林道へ降りる破線道は間違ってます。
苔の辻から大台林道に降りるあたりまで山腹を巻きながら続いているのです。
奥坊主・口坊主はまだだよ。う~ん、なかなか気合が入らないんよね(^^;。
zipp
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
おはようございます、ZIPPさん。
[quote] 奈良の川上村から大台ケ原を経て大杉谷に下り紀北町船津に至る土倉古道の事を調べていく内に、大杉谷から船津に至る道がそれ以前にあった事を知った。寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回の式年遷宮のために大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷ほか15か所で伐採がおこなわれた。式年遷宮というのは、伊勢神宮の外宮・内宮の二つの正殿、14の別宮、65棟の殿舎などを20年ごとに建て替える行事で、1万本以上のヒノキが使われる。天明(1781~88年)の初めごろ船津よりアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)まで新墾の道を切り開き神宮御造営用材伐採の木本祭が執行され伐採が始められた。[/quote]
この頃のヒノキというのはすでに植林されてたものなのですか?それとも原生林?
原生林ですね。
初期は江馬山のあたりを伐採したようですが、切りつくして源流部分まできたようです。
この桧の原生林、いまも残っている所が、僅かだけどあるんですよ。見事なまっすぐ伸びた桧が、林立して残っている。
神宮の御用材でも伐採されず、国有林の伐採にも免れて残っているのです。
そんな場所があるんですか。
なぜ残されたのかが気になります。
[quote] トラバースしたあたりや尾根には、アガリコのように下部から枝分かれした木がたくさん残されていた。枝分かれした木をマキなどに使ったようで、人に使われてきた道であることがわかる。右からの尾根が合わさる地点には図根点がる。境界標石の道は延々と続きこのあたりから青いビニールテープがルート上に出てきて嘉茂助谷ノ頭まで続いていた。 [/quote]
記憶になかったですが写真見たら撮ってましたわ、あがりこ。
めちゃくちゃたくさんありましたよ。
中尾の道沿いでは見なかったけど、このあたり炭焼き窯跡多いから、炭用として切られたんでしょうね。
いや、中尾の道沿いにも尾根が広くなるあたりにありましたよ。 [quote]坊主揚げの意味する坊主には坊主も神官も含まれていたように思う。 [/quote]
う~ん?坊主(神官)が上がったから坊主揚げですか?奥坊主、口坊主の名前もそこが由来ですか、なんか腑に落ちないなぁ。嘉茂助周辺のなだらかな所は伐採された場所なのでしょう、この伐採はそのころのものではないのかな?嘉茂助周辺が伐採されて坊主山になっていた、そこから木材を引き揚げる(この場合下げる訳ですが)のに使った尾根、なんて発想はどうでしょう、まぁ私の様な何の知識も無いものが口を挟むところじゃないですけど。
でも画像は松の木ではないでしょう?
まあ、江戸時代の人の記録ですからこんなもんです。
神官=坊主をあげる道だったから坊主揚げですよ。
この道を造るために駆り出された住民は、思ったでしょう。なんで坊主を登らせるためにこんな道を造らなかんのや!と(^^;。
宮標石より旧海山町側は、戦後の伐採だろうと思います。
口坊主・奥坊主の名前の由来は、山の形容からだと思うけど、もしかしたらこの坊主揚げの道から連想して名づけられたかもしれません。
また、野呂介石が、富士山も遠望できる二本鼻と云っている山が、双耳峰の嘉茂助谷ノ頭のことでしょう。
私もそう思います。
[attachment=1]IMG_4555.jpg[/attachment]
[quote] 花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。岩を削り、石積で道を作りながらゆるやかに下って行く。木場道として使われたのだろうか。明治時代の息吹というか心意気を感じさせてくれる道だ。古道は登山口まで途切れることなく続き道案内をしてくれた。[/quote]
花抜峠~沖見峠間は土倉古道を辿りましたが地形図の破線道がそれなのでしょう?途中で嘉茂助から西に延びる尾根を越えるあたりは水平道ではないのでこの辺りから古道を離れているのかしらん?
その先は大台林道などに上書きでしょうか、筏場道も土倉古道の一部だったと記憶してますがどうだったかな?この先が楽しみですね。
大台林道からずれる場所もあるみたいですが、基本は上書きだと思います。
とれヲさんが云っているのは、花抜峠から嘉茂助の稜線を南に巻いて、苔の辻から堂倉谷に降りる破線道のことを云っているのかな?もしそうなら、これは土倉古道じゃないですよ。
現在の大台林道から花抜峠、沖見峠、堂倉谷、大台辻、筏場へ続くのが土倉道です。
ちなみに、地形図の破線道は間違っている箇所も多く、沖見峠から大台林道に抜ける部分は、苔の辻からの破線道と重なるのです。
そのあたりの林道上には、古い石積みされた小広場があります。もしかしたら、木本祭したのはここかも?と思ったりもします。他を探索してないのですけど。
木本祭には祭壇や且神饌幄舎、修祓所、装束着換所、潔斎場などの建物が必要だったので、ある程度広い場所だったと思います。
堂倉小屋のあたりも怪しいなと思っています。
雪の無い時期の宿題にしておきます。
[quote] 奈良の川上村から大台ケ原を経て大杉谷に下り紀北町船津に至る土倉古道の事を調べていく内に、大杉谷から船津に至る道がそれ以前にあった事を知った。寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回の式年遷宮のために大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷ほか15か所で伐採がおこなわれた。式年遷宮というのは、伊勢神宮の外宮・内宮の二つの正殿、14の別宮、65棟の殿舎などを20年ごとに建て替える行事で、1万本以上のヒノキが使われる。天明(1781~88年)の初めごろ船津よりアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)まで新墾の道を切り開き神宮御造営用材伐採の木本祭が執行され伐採が始められた。[/quote]
この頃のヒノキというのはすでに植林されてたものなのですか?それとも原生林?
原生林ですね。
初期は江馬山のあたりを伐採したようですが、切りつくして源流部分まできたようです。
この桧の原生林、いまも残っている所が、僅かだけどあるんですよ。見事なまっすぐ伸びた桧が、林立して残っている。
神宮の御用材でも伐採されず、国有林の伐採にも免れて残っているのです。
そんな場所があるんですか。
なぜ残されたのかが気になります。
[quote] トラバースしたあたりや尾根には、アガリコのように下部から枝分かれした木がたくさん残されていた。枝分かれした木をマキなどに使ったようで、人に使われてきた道であることがわかる。右からの尾根が合わさる地点には図根点がる。境界標石の道は延々と続きこのあたりから青いビニールテープがルート上に出てきて嘉茂助谷ノ頭まで続いていた。 [/quote]
記憶になかったですが写真見たら撮ってましたわ、あがりこ。
めちゃくちゃたくさんありましたよ。
中尾の道沿いでは見なかったけど、このあたり炭焼き窯跡多いから、炭用として切られたんでしょうね。
いや、中尾の道沿いにも尾根が広くなるあたりにありましたよ。 [quote]坊主揚げの意味する坊主には坊主も神官も含まれていたように思う。 [/quote]
う~ん?坊主(神官)が上がったから坊主揚げですか?奥坊主、口坊主の名前もそこが由来ですか、なんか腑に落ちないなぁ。嘉茂助周辺のなだらかな所は伐採された場所なのでしょう、この伐採はそのころのものではないのかな?嘉茂助周辺が伐採されて坊主山になっていた、そこから木材を引き揚げる(この場合下げる訳ですが)のに使った尾根、なんて発想はどうでしょう、まぁ私の様な何の知識も無いものが口を挟むところじゃないですけど。
でも画像は松の木ではないでしょう?
まあ、江戸時代の人の記録ですからこんなもんです。
神官=坊主をあげる道だったから坊主揚げですよ。
この道を造るために駆り出された住民は、思ったでしょう。なんで坊主を登らせるためにこんな道を造らなかんのや!と(^^;。
宮標石より旧海山町側は、戦後の伐採だろうと思います。
口坊主・奥坊主の名前の由来は、山の形容からだと思うけど、もしかしたらこの坊主揚げの道から連想して名づけられたかもしれません。
また、野呂介石が、富士山も遠望できる二本鼻と云っている山が、双耳峰の嘉茂助谷ノ頭のことでしょう。
私もそう思います。
[attachment=1]IMG_4555.jpg[/attachment]
[quote] 花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。岩を削り、石積で道を作りながらゆるやかに下って行く。木場道として使われたのだろうか。明治時代の息吹というか心意気を感じさせてくれる道だ。古道は登山口まで途切れることなく続き道案内をしてくれた。[/quote]
花抜峠~沖見峠間は土倉古道を辿りましたが地形図の破線道がそれなのでしょう?途中で嘉茂助から西に延びる尾根を越えるあたりは水平道ではないのでこの辺りから古道を離れているのかしらん?
その先は大台林道などに上書きでしょうか、筏場道も土倉古道の一部だったと記憶してますがどうだったかな?この先が楽しみですね。
大台林道からずれる場所もあるみたいですが、基本は上書きだと思います。
とれヲさんが云っているのは、花抜峠から嘉茂助の稜線を南に巻いて、苔の辻から堂倉谷に降りる破線道のことを云っているのかな?もしそうなら、これは土倉古道じゃないですよ。
現在の大台林道から花抜峠、沖見峠、堂倉谷、大台辻、筏場へ続くのが土倉道です。
ちなみに、地形図の破線道は間違っている箇所も多く、沖見峠から大台林道に抜ける部分は、苔の辻からの破線道と重なるのです。
そのあたりの林道上には、古い石積みされた小広場があります。もしかしたら、木本祭したのはここかも?と思ったりもします。他を探索してないのですけど。
木本祭には祭壇や且神饌幄舎、修祓所、装束着換所、潔斎場などの建物が必要だったので、ある程度広い場所だったと思います。
堂倉小屋のあたりも怪しいなと思っています。
雪の無い時期の宿題にしておきます。
最後に編集したユーザー わりばし [ 2011年12月16日(金) 07:32 ], 累計 2 回
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
おはようございます、緑水さん。
奈良の川上村から大台ケ原を経て大杉谷に下り紀北町船津に至る土倉古道の事を調べていく内に、
大杉谷から船津に至る道がそれ以前にあった事を知った。
寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回の式年遷宮のために大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷ほか15か所で伐採がおこなわれた。
式年遷宮というのは、伊勢神宮の外宮・内宮の二つの正殿、14の別宮、65棟の殿舎などを20年ごとに建て替える行事で、1万本以上のヒノキが使われる。
天明(1781~88年)の初めごろ船津よりアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)まで新墾の道を切り開き神宮御造営用材伐採の木本祭が執行され伐採が始められた。
[/quote]
好いですね、わりばしさんの古道講座は尾鷲道まできましたか。緑ちゃんzippおっちゃんの後追いしてたからホドホド判りますよ。
使用マップは61年版で大台林道から分かれての花抜峠までは二本線で描かれた林道だ。
コノ道から加茂助谷の頭、堂倉高、沖見高と千尋峠へと歩いてるよ。冬晴れのいま時期が好いです。
冬晴れのこの時期がいいんですね。
よい時に行きました。
ヨメの白指でお酌させるが好いと思うよ、ついでに緑ちゃんにもね
ハハハ・・
おめおめと戻ってきました、仲間とやってみようだワン。
古道に上がっちゃえば、とれもいい道です。
真砂谷の出合から尾根芯に取りつけば古道に出会えます。
上りが長いですから時間的に余裕があったほうがいいでしょう。
コノ尾根道緑ちゃんにも歩ける思いますか 最近気弱になってるんだよな
林道からは小木森滝が良く見えます。
この尾根は長いので、時間的に余裕が必要です。
迷いやすい尾根はありますが、標柱が下部から青テープは途中からしっかりありますので、下りでも迷うことは無いと思います。
長島にお肴買いに行く、チョッと覗いてこようだわん、コレがスケベー古道いいますよね、黄道かな?
さんま寿司おいしかったですよ。
ZIPPさんの後追いもいいもんです。
好い年末年始をです。
こちらこそ、好い年末をお過ごしください。
今年は第九は無しですか?
奈良の川上村から大台ケ原を経て大杉谷に下り紀北町船津に至る土倉古道の事を調べていく内に、
大杉谷から船津に至る道がそれ以前にあった事を知った。
寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回の式年遷宮のために大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷ほか15か所で伐採がおこなわれた。
式年遷宮というのは、伊勢神宮の外宮・内宮の二つの正殿、14の別宮、65棟の殿舎などを20年ごとに建て替える行事で、1万本以上のヒノキが使われる。
天明(1781~88年)の初めごろ船津よりアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)まで新墾の道を切り開き神宮御造営用材伐採の木本祭が執行され伐採が始められた。
[/quote]
好いですね、わりばしさんの古道講座は尾鷲道まできましたか。緑ちゃんzippおっちゃんの後追いしてたからホドホド判りますよ。
使用マップは61年版で大台林道から分かれての花抜峠までは二本線で描かれた林道だ。
コノ道から加茂助谷の頭、堂倉高、沖見高と千尋峠へと歩いてるよ。冬晴れのいま時期が好いです。
冬晴れのこの時期がいいんですね。
よい時に行きました。
おっちゃんはスゴイ人だよ実践者だし、いま武四郎の異名を持つ人なんだから。おっちゃんなんて気安く呼ぶなんてもってのほかだワン。と書かれており、すでにZIPPさんは登ったようだ。脱帽である。
ということで、ZIPPさんの後追い山行をすることにした。
ヨメの白指でお酌させるが好いと思うよ、ついでに緑ちゃんにもね
ハハハ・・
コノ道楽に上がれそうですね、緑ちゃんやろうと思いながら忘れてたワン、ボヘに出てたからかも。出会いから道をひろいながら上って行く。この尾根は下部からすべて自然林になっており歩きやすい。
トラバースしながら歩いていくと、クラに突き当たり巻くと尾根に出た。
下からつづら折れの道が上ってきておりしばらく上っていくと尾根上には三重県の境界標石も見られる。
最初に見た標石番号は222なので、ZIPPさんはもっと下部から道をたどれたようだ。
おめおめと戻ってきました、仲間とやってみようだワン。
古道に上がっちゃえば、とれもいい道です。
チョッとは入口がわかりにくいですね。あのズック仙人さんも迷った所だから。時間に余裕がですよね花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。
岩を削り、石積で道を作りながらゆるやかに下って行く。木場道として使われたのだろうか。明治時代の息吹というか心意気を感じさせてくれる道だ。
古道は登山口まで途切れることなく続き道案内をしてくれた。
真砂谷の出合から尾根芯に取りつけば古道に出会えます。
上りが長いですから時間的に余裕があったほうがいいでしょう。
八町滝もマップに書いてあるワン。TWさん おはようさん
私zippさんの後追いでこの道登った事有ったと思うけどブログはよく読んでなかったみたい 、この解説見てませんでした。これって八町尾根ってやつですよね。
コノ尾根道緑ちゃんにも歩ける思いますか 最近気弱になってるんだよな
林道からは小木森滝が良く見えます。
この尾根は長いので、時間的に余裕が必要です。
迷いやすい尾根はありますが、標柱が下部から青テープは途中からしっかりありますので、下りでも迷うことは無いと思います。
コレもzippさんレポ上げてたね、後追い補強よろしくです。もうひとつ、お奨めの古道があるんですよ~(^^)。
明治期の道なんですが、岩壁を削り、橋を付け、谷部分は改修したこの道はほんま凄い道です。
いまは、忘れ去られたような尾鷲とダム湖に沈んだ奈良・東川を結ぶ道・大又から出口峠への道です。
長島にお肴買いに行く、チョッと覗いてこようだわん、コレがスケベー古道いいますよね、黄道かな?
さんま寿司おいしかったですよ。
ZIPPさんの後追いもいいもんです。
好い年末年始をです。
こちらこそ、好い年末をお過ごしください。
今年は第九は無しですか?
最後に編集したユーザー わりばし [ 2011年12月17日(土) 12:00 ], 累計 1 回
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
わりなしさん おはようございます。冬晴れの好いお天気だね、雪雲はどこに流れ込むんだ奥美濃に1m積もっておくれだよ。
春先の方が日が長いから好いけど、花粉がね 。緑ちゃん花粉症治ったみたいだよ。
雑木林でマッタリ泊して、次の日に花抜峠から加茂助から逆周りも好いよ。緑チャンは下山路を確保してからの山行が信条なんだよ。
一時期ここがホットスポットになりましたろ。
山遊記 レポ お楽しみに
好い年末年始をです。
年越し参りは遷宮にあわせて三年間は行くの。初のぼりは鼓ケ岳だよ、日本の復興を祈ろうです。
緑水
好いですね、わりばしさんの古道講座は尾鷲道まできましたか。コノ道から加茂助谷の頭、堂倉高、沖見高と千尋峠へと歩いてるよ。冬晴れのいま時期が好いです。わりばし さんが書きました:天明(1781~88年)の初めごろ船津よりアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)まで新墾の道を切り開き神宮御造営用材伐採の木本祭が執行され伐採が始められた。
冬晴れのこの時期がいいんですね。
よい時に行きました。
春先の方が日が長いから好いけど、花粉がね 。緑ちゃん花粉症治ったみたいだよ。
行くこと決定、出発まマチマチだけどチンタラ出かけて20日に登るわ。出会いから道をひろいながら上って行く。この尾根は下部からすべて自然林になっており歩きやすい。
トラバースしながら歩いていくと、クラに突き当たり巻くと尾根に出た。
下からつづら折れの道が上ってきておりしばらく上っていくと尾根上には三重県の境界標石も見られる。
古道に上がっちゃえば、とれもいい道です。
二度行ってるからマアいいだろう、最後が電光になってたヤブが蔓延ったかな・花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。
チョッとは入口がわかりにくいですね。あのズック仙人さんも迷った所だから。時間に余裕がですよね
登り5時間と見てますよ。11時からがプシュリンコお昼だワン。気持ち乗れば山頂パスして一周するつもりだ。が時間見合いのピストン下山もありだな。真砂谷の出合から尾根芯に取りつけば古道に出会えます。
上りが長いですから時間的に余裕があったほうがいいでしょう。
雑木林でマッタリ泊して、次の日に花抜峠から加茂助から逆周りも好いよ。緑チャンは下山路を確保してからの山行が信条なんだよ。
ありがとうございます、林道から見る坊主尾根はスゲー景観ダモンネ。お連れはネット調べてビビッてますがな。林道からは小木森滝が良く見えます。
迷いやすい尾根はありますが、標柱が下部から青テープは途中からしっかりありますので、下りでも迷うことは無いと思います。
一時期ここがホットスポットになりましたろ。
コレ絶対にお奨めだよ、ハズレはないね。ハズレはお天気だけだよ。さんま寿司おいしかったですよ。
ZIPPさんの後追いもいいもんです。
山遊記 レポ お楽しみに
好い年末年始をです。
第九なんかにウツツ抜かしてるヒマはないのさ。冬休み亮太朗とスキーだし。こちらこそ、好い年末をお過ごしください。
今年は第九は無しですか?
年越し参りは遷宮にあわせて三年間は行くの。初のぼりは鼓ケ岳だよ、日本の復興を祈ろうです。
緑水
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
こんにちは、緑水さん。
好いですね、わりばしさんの古道講座は尾鷲道まできましたか。コノ道から加茂助谷の頭、堂倉高、沖見高と千尋峠へと歩いてるよ。冬晴れのいま時期が好いです。
春先の方が日が長いから好いけど、花粉がね 。緑ちゃん花粉症治ったみたいだよ。
そうですね。私は花粉症真っ盛りなので、やっぱり今の時期がよさそうです。
天気が良いといいですね。
電光って溝道のことですか?ヤブはたいしたことなかったです。
雑木林でマッタリ泊して、次の日に花抜峠から加茂助から逆周りも好いよ。緑チャンは下山路を確保してからの山行が信条なんだよ。
下山路の確保は台高では特に気を使います。
マッタリ泊というのもいいですね。
一時期ここがホットスポットになりましたろ。
ホットスポットの時期があったんですか。坊主尾根がきれいに見えると迫力でしょうね。
山遊記 レポ お楽しみに
レポを楽しみにしています。
好い年末年始をです。
年越し参りは遷宮にあわせて三年間は行くの。初のぼりは鼓ケ岳だよ、日本の復興を祈ろうです。[/quote]
いろいろな楽しみがあっていいですね。
山行はいい日和になるといいですね。
好いですね、わりばしさんの古道講座は尾鷲道まできましたか。コノ道から加茂助谷の頭、堂倉高、沖見高と千尋峠へと歩いてるよ。冬晴れのいま時期が好いです。
春先の方が日が長いから好いけど、花粉がね 。緑ちゃん花粉症治ったみたいだよ。
そうですね。私は花粉症真っ盛りなので、やっぱり今の時期がよさそうです。
行くこと決定、出発まマチマチだけどチンタラ出かけて20日に登るわ。出会いから道をひろいながら上って行く。この尾根は下部からすべて自然林になっており歩きやすい。
トラバースしながら歩いていくと、クラに突き当たり巻くと尾根に出た。
下からつづら折れの道が上ってきておりしばらく上っていくと尾根上には三重県の境界標石も見られる。
古道に上がっちゃえば、とれもいい道です。
天気が良いといいですね。
二度行ってるからマアいいだろう、最後が電光になってたヤブが蔓延ったかな・花抜峠からの下り口がわからなかったので、地図の破線方向にヤブをかき分けていくと土倉古道に出た。
チョッとは入口がわかりにくいですね。あのズック仙人さんも迷った所だから。時間に余裕がですよね
電光って溝道のことですか?ヤブはたいしたことなかったです。
登り5時間と見てますよ。11時からがプシュリンコお昼だワン。気持ち乗れば山頂パスして一周するつもりだ。が時間見合いのピストン下山もありだな。真砂谷の出合から尾根芯に取りつけば古道に出会えます。
上りが長いですから時間的に余裕があったほうがいいでしょう。
雑木林でマッタリ泊して、次の日に花抜峠から加茂助から逆周りも好いよ。緑チャンは下山路を確保してからの山行が信条なんだよ。
下山路の確保は台高では特に気を使います。
マッタリ泊というのもいいですね。
ありがとうございます、林道から見る坊主尾根はスゲー景観ダモンネ。お連れはネット調べてビビッてますがな。林道からは小木森滝が良く見えます。
迷いやすい尾根はありますが、標柱が下部から青テープは途中からしっかりありますので、下りでも迷うことは無いと思います。
一時期ここがホットスポットになりましたろ。
ホットスポットの時期があったんですか。坊主尾根がきれいに見えると迫力でしょうね。
コレ絶対にお奨めだよ、ハズレはないね。ハズレはお天気だけだよ。さんま寿司おいしかったですよ。
ZIPPさんの後追いもいいもんです。
山遊記 レポ お楽しみに
レポを楽しみにしています。
好い年末年始をです。
第九なんかにウツツ抜かしてるヒマはないのさ。冬休み亮太朗とスキーだし。こちらこそ、好い年末をお過ごしください。
今年は第九は無しですか?
年越し参りは遷宮にあわせて三年間は行くの。初のぼりは鼓ケ岳だよ、日本の復興を祈ろうです。[/quote]
いろいろな楽しみがあっていいですね。
山行はいい日和になるといいですね。
最後に編集したユーザー わりばし [ 2011年12月18日(日) 18:49 ], 累計 1 回
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- 記事: 488
- 登録日時: 2011年2月20日(日) 19:48
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
こんばんは。
お~これはチャンスだよ、坊主尾根から嘉茂助、わりばしさん先を譲りますから情報お願い
そうでした、わたし大台ヶ原から嘉茂助に行ったとき苔の辻から大台林道に下るときに石積のある道見てたの思い出しました、写真やっと見つけましたので置いておきます。はい、上でもちょっと触れていますが、地形図の沖見峠から大台林道へ降りる破線道は間違ってます。
苔の辻から大台林道に降りるあたりまで山腹を巻きながら続いているのです。
奥坊主・口坊主はまだだよ。う~ん、なかなか気合が入らないんよね(^^;。
お~これはチャンスだよ、坊主尾根から嘉茂助、わりばしさん先を譲りますから情報お願い
Trail Walker
Re: 【台高】坊主揚げの古道を歩き雪の嘉茂助谷ノ頭へ
おはようございます、TrailWalkerさん。
なるほど、また探索の参考にさせてもらいます。
お~これはチャンスだよ、坊主尾根から嘉茂助、わりばしさん先を譲りますから情報お願い [/quote]
エー先輩からどうぞ。
私は基本的に見晴らしのいい所に絶対登りたいというタイプじゃないんですよ。
奥坊主・口坊主に寺跡があるのなら別ですが、そんな記録もなさそうだし。
寺跡といわれているのは坊主尾根のもっと下部ですから。
今こそ寛平ちゃんの力の見せ所ですよ。
わりばし
そうでした、わたし大台ヶ原から嘉茂助に行ったとき苔の辻から大台林道に下るときに石積のある道見てたの思い出しました、写真やっと見つけましたので置いておきます。はい、上でもちょっと触れていますが、地形図の沖見峠から大台林道へ降りる破線道は間違ってます。
苔の辻から大台林道に降りるあたりまで山腹を巻きながら続いているのです。
なるほど、また探索の参考にさせてもらいます。
奥坊主・口坊主はまだだよ。う~ん、なかなか気合が入らないんよね(^^;。
お~これはチャンスだよ、坊主尾根から嘉茂助、わりばしさん先を譲りますから情報お願い [/quote]
エー先輩からどうぞ。
私は基本的に見晴らしのいい所に絶対登りたいというタイプじゃないんですよ。
奥坊主・口坊主に寺跡があるのなら別ですが、そんな記録もなさそうだし。
寺跡といわれているのは坊主尾根のもっと下部ですから。
今こそ寛平ちゃんの力の見せ所ですよ。
わりばし