【南伊勢】修験の風に乗って鴻坂峠をめざせ 温坊・牛草山・駱駝山
Posted: 2026年1月06日(火) 05:22
【日 付】2026年1月4日(日)
【山 域】南伊勢
【コース】8:15伊勢路---10:05温坊---10:55牛草山---12:15駱駝山---13:35鴻坂峠---14:20伊勢路
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.370539/13 ... z0r0s0m0f1
南伊勢町伊勢路には中世より獅子舞が受け継がれており、当時は獅子頭を造営し、猪頭仲間と称して堅く党を結んで行事を伝え、南北朝の動乱後には寺社も含んだ惣という自治体組織を組織していた。現在でも旧暦の1月15日頃の夜に獅子舞が奉納される多目的集会所に駐車する。
寺前堂に舞台があり歌舞伎や地芝居が戦前まで行われていた、寺前堂より林道を進むと鳥居の奥に秋葉山神社の祠がありミカンと御神酒が進ぜてあった。谷が狭まり山が深くなるのかと思ったが、急に広く開けた棚田跡が出てきた。石積は標高を上げても細かく広がり、植林になっても続いている。少しの耕作地しか確保出来ない場所でも高い石積がどこまでも続いており、植林がなければ天空に突き上げる棚田が見れたことだろう。稜線の手前まで石積みは続き、貴重な水のある谷筋を大切に使っていた昔の人の息遣いが聞こえるようだった。
急な上りの先が温坊(473m)で、広々した山頂部に観音堂が昔はあったようだが、今は自然石を固めた台座の上に石柱が残されているだけだった。当時は熊野灘からの日の出が御堂を温かく包み込んでくれたのだろう。温坊を過ぎたあたりから尾根筋を避けたトラバース道になる。前回の萱場と牛草辻をつなぐ道と同じで、高低差を抑えた牛道で、牛草山南尾根も萱場だったようだ。
行場(506m)に上らずにトラバースするあたりに石仏があり、頭は無いが丸い石が代わりに置いてある。片膝を上げ、そこに肘をついている如意輪観音で、温坊の観音堂との関係があるのだろう、行場は修験者の修行の場だけに想像を膨らませてくれる。
牛草山へは牛道のおかげでスムーズに来られたのでいっぷくして、ピストンで鴻坂の分岐に戻る。奥山(451m)を過ぎると獅子ヶ岳の風力発電群が大きく見え、岩場を超えると駱駝山(432m)で雷松跡と書いてある。西峰にも大きな嵓と岩場があり、最後は尾根筋に下りれない嵓を巻くよう越え尾根筋にトラバースしていく。東峰と西峰の2つの大きな嵓を持つ山容がフタコブラクダにみえたのだろうか。岩場は本来は苦労する所だが、テープがていねいにつけられており問題ない、南勢テクテク会の地元だけのことはある。温坊から近く、駱駝山も行場だったようだ。
茶臼山(393m)より植林に入り、微妙なアップダウンを繰り返し鴻坂峠に着くと、岩に掘られた祠に役行者の石像が待っていてくれた。鴻坂峠は、後醍醐天皇の息子の宗良親王が一時期滞在した一之瀬城と熊野灘沿いの五ヶ所城を結ぶ南朝にとっては重要な意味を持つ峠だ。戦後間もない頃まで一ノ瀬から伊勢路まで潮干狩りに行くのに、伊勢路の子どもたちが一ノ瀬の小学校の運動会に参加するために越えた生活道だった。
鴻坂峠には「弘法の足跡」という言い伝えがあり、弘法大師が諸国回遊の際に身を清め、岩の上に立って、一心に念仏を唱えているうちに、弘法大師の足と、持っていた杖の跡が、くっきりと岩に付いてしまったというものだ。如意輪観音は密教で重要視された仏で、弘法大師空海は真言密教の開祖、役行者は修験道の開祖と修験の風が吹く山域だった。
【山 域】南伊勢
【コース】8:15伊勢路---10:05温坊---10:55牛草山---12:15駱駝山---13:35鴻坂峠---14:20伊勢路
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.370539/13 ... z0r0s0m0f1
南伊勢町伊勢路には中世より獅子舞が受け継がれており、当時は獅子頭を造営し、猪頭仲間と称して堅く党を結んで行事を伝え、南北朝の動乱後には寺社も含んだ惣という自治体組織を組織していた。現在でも旧暦の1月15日頃の夜に獅子舞が奉納される多目的集会所に駐車する。
寺前堂に舞台があり歌舞伎や地芝居が戦前まで行われていた、寺前堂より林道を進むと鳥居の奥に秋葉山神社の祠がありミカンと御神酒が進ぜてあった。谷が狭まり山が深くなるのかと思ったが、急に広く開けた棚田跡が出てきた。石積は標高を上げても細かく広がり、植林になっても続いている。少しの耕作地しか確保出来ない場所でも高い石積がどこまでも続いており、植林がなければ天空に突き上げる棚田が見れたことだろう。稜線の手前まで石積みは続き、貴重な水のある谷筋を大切に使っていた昔の人の息遣いが聞こえるようだった。
急な上りの先が温坊(473m)で、広々した山頂部に観音堂が昔はあったようだが、今は自然石を固めた台座の上に石柱が残されているだけだった。当時は熊野灘からの日の出が御堂を温かく包み込んでくれたのだろう。温坊を過ぎたあたりから尾根筋を避けたトラバース道になる。前回の萱場と牛草辻をつなぐ道と同じで、高低差を抑えた牛道で、牛草山南尾根も萱場だったようだ。
行場(506m)に上らずにトラバースするあたりに石仏があり、頭は無いが丸い石が代わりに置いてある。片膝を上げ、そこに肘をついている如意輪観音で、温坊の観音堂との関係があるのだろう、行場は修験者の修行の場だけに想像を膨らませてくれる。
牛草山へは牛道のおかげでスムーズに来られたのでいっぷくして、ピストンで鴻坂の分岐に戻る。奥山(451m)を過ぎると獅子ヶ岳の風力発電群が大きく見え、岩場を超えると駱駝山(432m)で雷松跡と書いてある。西峰にも大きな嵓と岩場があり、最後は尾根筋に下りれない嵓を巻くよう越え尾根筋にトラバースしていく。東峰と西峰の2つの大きな嵓を持つ山容がフタコブラクダにみえたのだろうか。岩場は本来は苦労する所だが、テープがていねいにつけられており問題ない、南勢テクテク会の地元だけのことはある。温坊から近く、駱駝山も行場だったようだ。
茶臼山(393m)より植林に入り、微妙なアップダウンを繰り返し鴻坂峠に着くと、岩に掘られた祠に役行者の石像が待っていてくれた。鴻坂峠は、後醍醐天皇の息子の宗良親王が一時期滞在した一之瀬城と熊野灘沿いの五ヶ所城を結ぶ南朝にとっては重要な意味を持つ峠だ。戦後間もない頃まで一ノ瀬から伊勢路まで潮干狩りに行くのに、伊勢路の子どもたちが一ノ瀬の小学校の運動会に参加するために越えた生活道だった。
鴻坂峠には「弘法の足跡」という言い伝えがあり、弘法大師が諸国回遊の際に身を清め、岩の上に立って、一心に念仏を唱えているうちに、弘法大師の足と、持っていた杖の跡が、くっきりと岩に付いてしまったというものだ。如意輪観音は密教で重要視された仏で、弘法大師空海は真言密教の開祖、役行者は修験道の開祖と修験の風が吹く山域だった。
【南伊勢】修験の風に乗って鴻坂峠をめざせ 温坊・牛草山・駱駝山