【南伊勢】西廻海運寄港地の方座浦と定ノ鼻
Posted: 2025年11月17日(月) 05:31
【日 付】2025年11月15日(土)
【山 域】南伊勢
【コース】方座浦8:30---9:00浅間山---11:30定ノ鼻---13:15飛鳥神社---14:45方座浦
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.251896/13 ... z0r0s0m0f1
幕命を受けた河村瑞賢が寛文12(1672)年に西廻海運を開き、南伊勢の方座浦は伊勢唯一の寄港地に選ばれ幕末まで大いに賑わった。方座浦は定ノ鼻と音瀬ノ鼻という岬の奥にあり、廻漕船はこの岬を目印に方座浦に寄港した。
墓地の掃除をしているおじいさんと話すと寄港地だったことは知らないという。南海トラフの巨大津波が周期的に押し寄せ、すべての記録や記憶を押し流したようだ。方座浦浅間祭は前夜祭(よいやみ)、港での水垢離、浅間山への幣の担ぎ上げと昔の形を残している。前夜祭では、7~8mの真竹に大幣・小幣の飾りつけを行い、飾りつけの作法・手順・技術は先達より伝授され、書物等の類は無い。方座浦浅間祭は津波などによる災害に対する村の安全や村人の幸福を祈願して200年以上続いている。
神崎浦に抜ける旧道を上ると自然石が階段状に削られており、浅間山の登り口だ。担ぎ上げる道はヤブの無い岩尾根に作られており、岩の上に担ぎ手が履いていた地下足袋のゴム底が落ちていた。方座浦が見渡せる場所に小さな竹枝の幣が二本立てられており、尾根が安定すると鳥居の先に小幣と大幣が見え浅間山だ。大正期に立てられた鳥居からは祭りの日のみ女人禁制になり、日の丸扇で飾り立てられた大小の竹幣を地面にふれないように男たちが抱え山頂の祠までいっきに駆け上がる。方座浦から見える場所に小幣を立て、石積みに囲まれた祠横には大幣を立て、名残の日の丸扇の骨がいくつも散乱していた。石積み裏には古い祠が2つ片付けてあり、何年かごとに建て替えるようだ。
旧道を峠まで歩き定ノ鼻への尾根道に入る、飛鳥神社に向かう道で方座浦のおじいさんも「飛鳥さん」と呼んでこの道の事を知っていた。中電のケーブルが続く破線道と分かれて尾根を進むと方座浦の高(157.9)でkitayamaさんのプレートが掛かっている。展望のない尾根道に日が差すのは半島が細くなるあたりで両側が切り立ち気を使う。尾根が広がりだすとウバメガシの大木が現れる。ここまでのウバメガシは通常の太さのアガリコになっていたが半島の先端は手つかずのまま残されていた。危うい斜面から岬の定ノ鼻に行くと、先端の岩礁帯が見えた。海から見れば特徴のある岬なのだろうが上からではわからない。江戸時代には定ノ鼻を見印に多くの廻漕船が方座浦に寄港し、夜間入港する時は方座浦から小方竈へ入るところの灯篭を目印に入港すると座礁せずにスムーズに港にはいれたそうだ。この灯篭も伊勢湾台風の時に消失してしまった。
半島を方座浦の高まで戻り、東北東に伸びる尾根に乗り飛鳥池につながる北尾根を下るとシダヤブに阻まれたが、獣道にしたがい事なきを得た。飛鳥池には大病を患った人が白蛇に出会い病気から回復したという話や飛鳥池の龍が吉津湾の天空にあらわれた時は漁師は仕事を休むという言い伝えがあり、地元の漁業者たちは大漁を祈り飛鳥神社を祀っている。
池の周りがヤブで歩きにくいので飛鳥浜を歩き北端にある飛鳥神社に行く。石積みに囲まれた鮮やかな朱色の社で、新しく建て替えられた感じだ、今でも漁師からの信仰は篤いようだ。
飛鳥浜からは弁天島が見え奥が吉津湾になる、南北朝時代北畠氏とともに南朝方で戦った吉津党の薬師城が神崎浦にあり南伊勢の熊野灘沿いの拠点だった。定ノ鼻は、神崎浦に向かう目印でもあり、航海上の位置づけは高かった。河村瑞賢は東宮の出身で北畠氏の家臣の末裔だと自認している。
社裏の尾根をシダヤブを避けながら破線道に出て方座浦に戻った。歴史書に残されている寄港地方座浦の事を地元の人は知らず、方座浦浅間祭は200年以上の歴史をつむいできた、大津波の影響の大きさを感じた山旅だった。
【山 域】南伊勢
【コース】方座浦8:30---9:00浅間山---11:30定ノ鼻---13:15飛鳥神社---14:45方座浦
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.251896/13 ... z0r0s0m0f1
幕命を受けた河村瑞賢が寛文12(1672)年に西廻海運を開き、南伊勢の方座浦は伊勢唯一の寄港地に選ばれ幕末まで大いに賑わった。方座浦は定ノ鼻と音瀬ノ鼻という岬の奥にあり、廻漕船はこの岬を目印に方座浦に寄港した。
墓地の掃除をしているおじいさんと話すと寄港地だったことは知らないという。南海トラフの巨大津波が周期的に押し寄せ、すべての記録や記憶を押し流したようだ。方座浦浅間祭は前夜祭(よいやみ)、港での水垢離、浅間山への幣の担ぎ上げと昔の形を残している。前夜祭では、7~8mの真竹に大幣・小幣の飾りつけを行い、飾りつけの作法・手順・技術は先達より伝授され、書物等の類は無い。方座浦浅間祭は津波などによる災害に対する村の安全や村人の幸福を祈願して200年以上続いている。
神崎浦に抜ける旧道を上ると自然石が階段状に削られており、浅間山の登り口だ。担ぎ上げる道はヤブの無い岩尾根に作られており、岩の上に担ぎ手が履いていた地下足袋のゴム底が落ちていた。方座浦が見渡せる場所に小さな竹枝の幣が二本立てられており、尾根が安定すると鳥居の先に小幣と大幣が見え浅間山だ。大正期に立てられた鳥居からは祭りの日のみ女人禁制になり、日の丸扇で飾り立てられた大小の竹幣を地面にふれないように男たちが抱え山頂の祠までいっきに駆け上がる。方座浦から見える場所に小幣を立て、石積みに囲まれた祠横には大幣を立て、名残の日の丸扇の骨がいくつも散乱していた。石積み裏には古い祠が2つ片付けてあり、何年かごとに建て替えるようだ。
旧道を峠まで歩き定ノ鼻への尾根道に入る、飛鳥神社に向かう道で方座浦のおじいさんも「飛鳥さん」と呼んでこの道の事を知っていた。中電のケーブルが続く破線道と分かれて尾根を進むと方座浦の高(157.9)でkitayamaさんのプレートが掛かっている。展望のない尾根道に日が差すのは半島が細くなるあたりで両側が切り立ち気を使う。尾根が広がりだすとウバメガシの大木が現れる。ここまでのウバメガシは通常の太さのアガリコになっていたが半島の先端は手つかずのまま残されていた。危うい斜面から岬の定ノ鼻に行くと、先端の岩礁帯が見えた。海から見れば特徴のある岬なのだろうが上からではわからない。江戸時代には定ノ鼻を見印に多くの廻漕船が方座浦に寄港し、夜間入港する時は方座浦から小方竈へ入るところの灯篭を目印に入港すると座礁せずにスムーズに港にはいれたそうだ。この灯篭も伊勢湾台風の時に消失してしまった。
半島を方座浦の高まで戻り、東北東に伸びる尾根に乗り飛鳥池につながる北尾根を下るとシダヤブに阻まれたが、獣道にしたがい事なきを得た。飛鳥池には大病を患った人が白蛇に出会い病気から回復したという話や飛鳥池の龍が吉津湾の天空にあらわれた時は漁師は仕事を休むという言い伝えがあり、地元の漁業者たちは大漁を祈り飛鳥神社を祀っている。
池の周りがヤブで歩きにくいので飛鳥浜を歩き北端にある飛鳥神社に行く。石積みに囲まれた鮮やかな朱色の社で、新しく建て替えられた感じだ、今でも漁師からの信仰は篤いようだ。
飛鳥浜からは弁天島が見え奥が吉津湾になる、南北朝時代北畠氏とともに南朝方で戦った吉津党の薬師城が神崎浦にあり南伊勢の熊野灘沿いの拠点だった。定ノ鼻は、神崎浦に向かう目印でもあり、航海上の位置づけは高かった。河村瑞賢は東宮の出身で北畠氏の家臣の末裔だと自認している。
社裏の尾根をシダヤブを避けながら破線道に出て方座浦に戻った。歴史書に残されている寄港地方座浦の事を地元の人は知らず、方座浦浅間祭は200年以上の歴史をつむいできた、大津波の影響の大きさを感じた山旅だった。