【高見山地】琵琶越の大日如来と白髪越の大日如来
Posted: 2025年6月24日(火) 04:31
【日 付】2025年6月21日(土)
【山 域】高見山地
【コース】旅行村8:15---11:00白髪峠---12:15不動さん---14:00旅行村
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.460322/13 ... z0r0s0m0f1
中世に北畠の領国内だった御杖と飯高を結ぶ山路はいくつかある。中世にあったのは三峰山登山道と福本登山道をつないだ神末越と白髪越、請取峠越になる。まだ歩いていない新道峠につながる琵琶越の道を御杖からたどり、白髪越を下る。
神末の旅行村に駐車する。神末越は神末の秋葉城と福本城を結ぶ道でもあったが標高の高い三峰山直下の八丁平を通る事もあり、物資輸送の中心は白髪越、請取峠越だった。琵琶越の道を歩く、現在の新道登山道を進む。シナノキ平で山の神入口の看板があるので見に行く。堰堤を越え2つの炭窯跡をすぎた所に小屋があり、その奥に大岩に注連縄がかかっている。大岩を包むように古木が根をめぐらせ大岩前には自然石の山の神がいくつか置いてあった。大岩は磐座で、行者が修行をした場所を山の神として使ったようだ。林道終点からは昔の新道が残っており、真っすぐゆるやかに道はつけられている。天保5(1834)年に神末村がこの道を作り、菅野・白髪峠を経ずに川俣(飯高)に米穀を輸送した。このことで、菅野村との相論があったと御杖村史には書かれている。
新道峠を越える山路を御杖では琵琶越と呼んでいる。峠の直下の水場を上ると新道峠の大日如来が待っている。大日如来を祀るのは修験道の盛んな山域であったことが下地にあるが、大日如来が牛の守り神という信仰がある。牛馬での物の運搬の行われた峠で牛の守り神としての道標が置かれたようだ。苔生した智拳印に手を組んだ大日如来の石仏が広々とした峠の風情を醸し出している。
稜線を歩き飯高町月出が見えてくると白髪峠の牛道は近い。稜線の月出側に牛道が現れ、九十九折のキャタピラ道につながっている。牛道が稜線に上がってくるとすぐに朽ちたブナの木のある白髪峠に着く。埋もれかけた大日如来の石仏があり、これを修正するためにスコップを持ってきた。土を掘っていくと、石仏の後ろの木の根に押されて前に傾いた状態で埋もれている。埋もれていた下部の穴を土で埋めてその上に石仏を安置した。これで大日如来に陽光が当たる。よく見ると一般的な金剛界大日如来とは異なり、智拳印ではなく、理拳印(もしくは左拳印)と呼ばれる智拳印と左右の手を逆に結ぶ印相をあらわしている。大日如来を彫ったことのない地元の石工が間違えたのだろうか。柔和な顔立ちにデフォルメされた足の組み方といい素朴な大日如来だ。
牛道は破線道とはちがいトラバースして尾根につながる。尾根に入っても牛道は稜線を上ることなくトラバースしてつながっている。溝道も深く、古くから幹線道として使われてきた道で新道とは風格が違う。九十九折や切通も交えながらしっかりつながっており、この時は楽勝と思っていた。P756の左側をトラバースしたあたりに四角い石柱が倒れている。何かなと思い起こすと、僧侶の彫られた石仏だった。石仏の先が土に埋もれ下部の四角い部分だけ顔を出していた。奥の台座の辺りを掘り返すと根っこが何重にも重なった土の下に台座が現れた。台座をスコップできれいにして、石仏を直しておいた。石仏には「山伏往来」の文字もあり修験の行者が建てた物のようだ。十年以上は倒れたままだった感じで、牛道にある石仏が長年放置されていたのはどうしてだろうと思っていた。
この先のトラバースでは溝道は消え、微妙なバリルートに変わるものの道はつながっている。巻き終えると尾根上に溝道は現れるが、伐採した木のゴミ捨て場になっていて歩けない。溝道は破線道の直線ではなく右の谷の伐採地に向けて下っており、最後は伐採時のキャタピラ道で軟着陸した。取りつき地点がこの状態では、立派な牛道があっても歩く人はおらず石仏が倒れたまま放置されていたのだろう。
下山地点の上流には「不動さん」と呼ばれている祠と不動滝があり、菅野川本流との出会いには苔生した地蔵さんが置かれていた。菅野は伊勢本街道の起点の長谷から八里で旅籠がたくさんあった宿場町で、御杖の中心地だ。それだけに菅野と飯高を結ぶ山越えの路は、物資だけでなく行者など様々な人々が歩いたことだろう。美杉の川上若宮八幡宮の神体山になる川上十三峰の中心三峰山の麓だけに修験道の色合いを深く残す山域だった。
【山 域】高見山地
【コース】旅行村8:15---11:00白髪峠---12:15不動さん---14:00旅行村
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.460322/13 ... z0r0s0m0f1
中世に北畠の領国内だった御杖と飯高を結ぶ山路はいくつかある。中世にあったのは三峰山登山道と福本登山道をつないだ神末越と白髪越、請取峠越になる。まだ歩いていない新道峠につながる琵琶越の道を御杖からたどり、白髪越を下る。
神末の旅行村に駐車する。神末越は神末の秋葉城と福本城を結ぶ道でもあったが標高の高い三峰山直下の八丁平を通る事もあり、物資輸送の中心は白髪越、請取峠越だった。琵琶越の道を歩く、現在の新道登山道を進む。シナノキ平で山の神入口の看板があるので見に行く。堰堤を越え2つの炭窯跡をすぎた所に小屋があり、その奥に大岩に注連縄がかかっている。大岩を包むように古木が根をめぐらせ大岩前には自然石の山の神がいくつか置いてあった。大岩は磐座で、行者が修行をした場所を山の神として使ったようだ。林道終点からは昔の新道が残っており、真っすぐゆるやかに道はつけられている。天保5(1834)年に神末村がこの道を作り、菅野・白髪峠を経ずに川俣(飯高)に米穀を輸送した。このことで、菅野村との相論があったと御杖村史には書かれている。
新道峠を越える山路を御杖では琵琶越と呼んでいる。峠の直下の水場を上ると新道峠の大日如来が待っている。大日如来を祀るのは修験道の盛んな山域であったことが下地にあるが、大日如来が牛の守り神という信仰がある。牛馬での物の運搬の行われた峠で牛の守り神としての道標が置かれたようだ。苔生した智拳印に手を組んだ大日如来の石仏が広々とした峠の風情を醸し出している。
稜線を歩き飯高町月出が見えてくると白髪峠の牛道は近い。稜線の月出側に牛道が現れ、九十九折のキャタピラ道につながっている。牛道が稜線に上がってくるとすぐに朽ちたブナの木のある白髪峠に着く。埋もれかけた大日如来の石仏があり、これを修正するためにスコップを持ってきた。土を掘っていくと、石仏の後ろの木の根に押されて前に傾いた状態で埋もれている。埋もれていた下部の穴を土で埋めてその上に石仏を安置した。これで大日如来に陽光が当たる。よく見ると一般的な金剛界大日如来とは異なり、智拳印ではなく、理拳印(もしくは左拳印)と呼ばれる智拳印と左右の手を逆に結ぶ印相をあらわしている。大日如来を彫ったことのない地元の石工が間違えたのだろうか。柔和な顔立ちにデフォルメされた足の組み方といい素朴な大日如来だ。
牛道は破線道とはちがいトラバースして尾根につながる。尾根に入っても牛道は稜線を上ることなくトラバースしてつながっている。溝道も深く、古くから幹線道として使われてきた道で新道とは風格が違う。九十九折や切通も交えながらしっかりつながっており、この時は楽勝と思っていた。P756の左側をトラバースしたあたりに四角い石柱が倒れている。何かなと思い起こすと、僧侶の彫られた石仏だった。石仏の先が土に埋もれ下部の四角い部分だけ顔を出していた。奥の台座の辺りを掘り返すと根っこが何重にも重なった土の下に台座が現れた。台座をスコップできれいにして、石仏を直しておいた。石仏には「山伏往来」の文字もあり修験の行者が建てた物のようだ。十年以上は倒れたままだった感じで、牛道にある石仏が長年放置されていたのはどうしてだろうと思っていた。
この先のトラバースでは溝道は消え、微妙なバリルートに変わるものの道はつながっている。巻き終えると尾根上に溝道は現れるが、伐採した木のゴミ捨て場になっていて歩けない。溝道は破線道の直線ではなく右の谷の伐採地に向けて下っており、最後は伐採時のキャタピラ道で軟着陸した。取りつき地点がこの状態では、立派な牛道があっても歩く人はおらず石仏が倒れたまま放置されていたのだろう。
下山地点の上流には「不動さん」と呼ばれている祠と不動滝があり、菅野川本流との出会いには苔生した地蔵さんが置かれていた。菅野は伊勢本街道の起点の長谷から八里で旅籠がたくさんあった宿場町で、御杖の中心地だ。それだけに菅野と飯高を結ぶ山越えの路は、物資だけでなく行者など様々な人々が歩いたことだろう。美杉の川上若宮八幡宮の神体山になる川上十三峰の中心三峰山の麓だけに修験道の色合いを深く残す山域だった。
【高見山地】琵琶越の大日如来と白髪越の大日如来