【南伊勢】廃仏毀釈と国束山・鴨社・大日山
Posted: 2025年4月15日(火) 04:54
【日 付】2025年4月12日(土)
【山 域】南伊勢
【コース】国束寺P7:50---9:35国束山---10:20弘法石---12:20鴨神社---13:20大日山---14:40国束寺P
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.450237/13 ... z0r0s0m0f1
国束寺(くづかじ)は、601年に聖徳太子が「伊勢神宮の西にある国束山山頂に十一面観音像を安置し、国土安穏を祈念せよ」との神勅に従い、鎮護国家の寺、国家安泰を祈願する寺として始まった。北畠氏の支援により、山中に六院百三十二坊を有する大寺院に発展し、文明11年(1479年)には後土御門天皇により、勅願寺となった。また弘法大師空海がこの地を訪れた際にはこの山を『胎蔵界曼荼羅の山』と称嘆なされたと伝えられている。明治の廃仏毀釈のターゲットとなり寺は規模を縮小し里に下りた。
国束寺の小さな本堂には十一面観音立像のほか、大日如来、不動明王、浅間神などが祀られている。現在の規模からすると不釣り合いな手水石など昔の面影を残している。寺の入口には天保5年(1835年)当時の國束寺の絵図の看板がある。山道に入るとこれより国束寺境内と書かれた石柱があり、昔はここからが寺の領域だったようだ。溝道に洒落た線刻の南無阿弥陀仏の石碑があり、これ以降石仏の丁石が現れる。天保15年(1844年)の物が多く、地元の集落の人たちが寄進している。八丁の丁石は大きく石質もいいので、よく見ると「中地蔵跡」と書かれており中地蔵が祀られていた場所のようだ。七丁石のあたりから献木や並木地の石柱が出てきて寄進をした人の名前が刻まれている。二丁を過ぎた水場の岩中に小さな仏像が埋め込まれている。初めて見る形で、特別な場所なのが伝わってくる。国束寺の直下の水場として使われていたもので、絵図にあった千年水だ。今はヌタ場みたいだが手入れをすればきれいな水が汲めるだろう。すぐに国束寺跡につく。丁石はここが0丁になるように置かれているが、木で作られた看板は登山口が0丁で寺跡が十七丁になり並べ方は逆になっている。
参道脇には、割れた瓦が落ちている平地が何か所もあり数多くの宿坊を持つ大寺院であったことがわかる。寺の石積みや敷石などは残っているが、石像や石柱は機械的に片付けられており風情はない。戦後、観音堂と聖天堂が戦災で焼失した大阪の四天王寺に移築されたので尚のことだろう。
山頂には白山社の立派な石組の社跡があり、昭和50年まで社があったようだ。白山神社の本地仏は十一面観音なので国束寺の奥の院のような場所になる。横には夜奈塚(ヤナヅカ)があり、胎児、赤ちゃんの健康に御利益があり、夜奈塚の砂はおねしょのお守りとして信仰されている。白山社の下には八幡社の石柱と石積みがある。国束寺は元々天台宗の寺で、神仏習合の色合いが濃い。
山頂を少し戻った鞍部から谷道で弘法石に向かう。谷を下ると破線道に合流し、ここからは道もしっかりしてきた。弘法石は玉城側の登山口になっていてコンクリートの建物の中に収められていた。国束寺に弘法大師が来たという言い伝えからきている。ヤマトタケルが剣の刃を砥いだとされる砥石(飛び石)から玉城側の参道を上り返す。真ん中の縦にへこんだ窪みが、剣を砥いだように見えなくもない。
参道は溝道が続いており杣道の谷道とは違う。十丁の石仏は幼い女の子の供養のために立てられたようだ。その先に石像の台座だけがあり、すぐそばに南無阿弥陀仏の南がわかる石仏の先が転がっていた。献木の石柱を過ぎると分岐になっている。「左 岩屋道」と書かれている。ここから大日山まで周回する方向と同じなので辿ることにした。山道が続き、玉城アスピアの分岐を過ぎると道が広くなった。実線の道で遊歩道のようになっているが、昔の道を使った山腹道で高低差なく歩きやすい。積良山(276m)をトラバースし、進むと度会側にも玉城側にもよく歩かれた溝道が何本もつながっており田丸に抜ける山越えの路だとわかる。
大日山に向けて方向を変えるあたりが的山で、車で上ってこれるのでここに向けて遊歩道は伸びている。地図にある鴨社が気になり見に行く。玉城側の整備された道を下ると大木が残されたエリアがあり直接下っていくと鴨神社だった。白木輝く神明造りの社で一重の玉垣に囲まれており、きれいに掃除もされている。山中にこんな物があるとは驚いた。氷室洞窟の標識がるので見に行くと三本の杉の大木に守られた埋まりかけの穴にしめ縄がかけてあった。昔の溝道で登山道に戻るろうとするとコンクリートの神宮杭がある。伊勢神宮が管轄している神社で、どうりでお金がかけてあるはずだ。伊勢神宮の摂社で、神宮125社の中では最難所と言える神社になる。分岐にあった岩屋道の岩屋は氷室洞窟の事のようだ。
上り返すとすぐに的山のトラバース道で普通の山道になってホッとする。的山南峰からは桜の花咲く大日山がどっしりと構えていた。鞍部からは岩坂峠に向かう溝道が上ってきている。大日山の上りが意外に急で、ロープのおかげで助かった。山頂には大日如来の社と役行者の祠があった。大日如来には、よだれかけがたくさんかけられており収まらない物は社にも掛けられている。胎児、赤ちゃんの健康に御利益があった夜奈塚が国束山を去り、こちらに信仰が移ったようだ。昔はもっと大きな社だったようで大日と書かれた鬼瓦とたくさんの瓦が隣の社跡の石積みに片付けられていた。よく見ると浅間祭の弊が木にくくってあるが先の紙が無いので昔のものだろう。役行者の祠には新しいしめ縄がかけられ大峰山の石柱もあり、修験の色合いを残している。
浅間祭りの弊を担ぎ上げた溝道を下り花吹雪舞う植林の杣道に入る。途中に「浅間山第二祭礼所」と刻まれた石碑があり、紙のついた弊が木に掲げてあった。大日山は牧戸集落の浅間祭の祭礼所だったものの、高齢化の波で祭礼所を麓に近いここに移したようだ。参道を下り長い車道歩きの末に駐車地にもどった。
国束寺は廃仏毀釈で葬り去られた感がある。その代わりに神宮の西の守りとして鴨神社を珍重したように思う。廃仏毀釈の嵐の中を大日山の大日如来は里の人々に守られながら残った事に温かいものを感じた。
【山 域】南伊勢
【コース】国束寺P7:50---9:35国束山---10:20弘法石---12:20鴨神社---13:20大日山---14:40国束寺P
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.450237/13 ... z0r0s0m0f1
国束寺(くづかじ)は、601年に聖徳太子が「伊勢神宮の西にある国束山山頂に十一面観音像を安置し、国土安穏を祈念せよ」との神勅に従い、鎮護国家の寺、国家安泰を祈願する寺として始まった。北畠氏の支援により、山中に六院百三十二坊を有する大寺院に発展し、文明11年(1479年)には後土御門天皇により、勅願寺となった。また弘法大師空海がこの地を訪れた際にはこの山を『胎蔵界曼荼羅の山』と称嘆なされたと伝えられている。明治の廃仏毀釈のターゲットとなり寺は規模を縮小し里に下りた。
国束寺の小さな本堂には十一面観音立像のほか、大日如来、不動明王、浅間神などが祀られている。現在の規模からすると不釣り合いな手水石など昔の面影を残している。寺の入口には天保5年(1835年)当時の國束寺の絵図の看板がある。山道に入るとこれより国束寺境内と書かれた石柱があり、昔はここからが寺の領域だったようだ。溝道に洒落た線刻の南無阿弥陀仏の石碑があり、これ以降石仏の丁石が現れる。天保15年(1844年)の物が多く、地元の集落の人たちが寄進している。八丁の丁石は大きく石質もいいので、よく見ると「中地蔵跡」と書かれており中地蔵が祀られていた場所のようだ。七丁石のあたりから献木や並木地の石柱が出てきて寄進をした人の名前が刻まれている。二丁を過ぎた水場の岩中に小さな仏像が埋め込まれている。初めて見る形で、特別な場所なのが伝わってくる。国束寺の直下の水場として使われていたもので、絵図にあった千年水だ。今はヌタ場みたいだが手入れをすればきれいな水が汲めるだろう。すぐに国束寺跡につく。丁石はここが0丁になるように置かれているが、木で作られた看板は登山口が0丁で寺跡が十七丁になり並べ方は逆になっている。
参道脇には、割れた瓦が落ちている平地が何か所もあり数多くの宿坊を持つ大寺院であったことがわかる。寺の石積みや敷石などは残っているが、石像や石柱は機械的に片付けられており風情はない。戦後、観音堂と聖天堂が戦災で焼失した大阪の四天王寺に移築されたので尚のことだろう。
山頂には白山社の立派な石組の社跡があり、昭和50年まで社があったようだ。白山神社の本地仏は十一面観音なので国束寺の奥の院のような場所になる。横には夜奈塚(ヤナヅカ)があり、胎児、赤ちゃんの健康に御利益があり、夜奈塚の砂はおねしょのお守りとして信仰されている。白山社の下には八幡社の石柱と石積みがある。国束寺は元々天台宗の寺で、神仏習合の色合いが濃い。
山頂を少し戻った鞍部から谷道で弘法石に向かう。谷を下ると破線道に合流し、ここからは道もしっかりしてきた。弘法石は玉城側の登山口になっていてコンクリートの建物の中に収められていた。国束寺に弘法大師が来たという言い伝えからきている。ヤマトタケルが剣の刃を砥いだとされる砥石(飛び石)から玉城側の参道を上り返す。真ん中の縦にへこんだ窪みが、剣を砥いだように見えなくもない。
参道は溝道が続いており杣道の谷道とは違う。十丁の石仏は幼い女の子の供養のために立てられたようだ。その先に石像の台座だけがあり、すぐそばに南無阿弥陀仏の南がわかる石仏の先が転がっていた。献木の石柱を過ぎると分岐になっている。「左 岩屋道」と書かれている。ここから大日山まで周回する方向と同じなので辿ることにした。山道が続き、玉城アスピアの分岐を過ぎると道が広くなった。実線の道で遊歩道のようになっているが、昔の道を使った山腹道で高低差なく歩きやすい。積良山(276m)をトラバースし、進むと度会側にも玉城側にもよく歩かれた溝道が何本もつながっており田丸に抜ける山越えの路だとわかる。
大日山に向けて方向を変えるあたりが的山で、車で上ってこれるのでここに向けて遊歩道は伸びている。地図にある鴨社が気になり見に行く。玉城側の整備された道を下ると大木が残されたエリアがあり直接下っていくと鴨神社だった。白木輝く神明造りの社で一重の玉垣に囲まれており、きれいに掃除もされている。山中にこんな物があるとは驚いた。氷室洞窟の標識がるので見に行くと三本の杉の大木に守られた埋まりかけの穴にしめ縄がかけてあった。昔の溝道で登山道に戻るろうとするとコンクリートの神宮杭がある。伊勢神宮が管轄している神社で、どうりでお金がかけてあるはずだ。伊勢神宮の摂社で、神宮125社の中では最難所と言える神社になる。分岐にあった岩屋道の岩屋は氷室洞窟の事のようだ。
上り返すとすぐに的山のトラバース道で普通の山道になってホッとする。的山南峰からは桜の花咲く大日山がどっしりと構えていた。鞍部からは岩坂峠に向かう溝道が上ってきている。大日山の上りが意外に急で、ロープのおかげで助かった。山頂には大日如来の社と役行者の祠があった。大日如来には、よだれかけがたくさんかけられており収まらない物は社にも掛けられている。胎児、赤ちゃんの健康に御利益があった夜奈塚が国束山を去り、こちらに信仰が移ったようだ。昔はもっと大きな社だったようで大日と書かれた鬼瓦とたくさんの瓦が隣の社跡の石積みに片付けられていた。よく見ると浅間祭の弊が木にくくってあるが先の紙が無いので昔のものだろう。役行者の祠には新しいしめ縄がかけられ大峰山の石柱もあり、修験の色合いを残している。
浅間祭りの弊を担ぎ上げた溝道を下り花吹雪舞う植林の杣道に入る。途中に「浅間山第二祭礼所」と刻まれた石碑があり、紙のついた弊が木に掲げてあった。大日山は牧戸集落の浅間祭の祭礼所だったものの、高齢化の波で祭礼所を麓に近いここに移したようだ。参道を下り長い車道歩きの末に駐車地にもどった。
国束寺は廃仏毀釈で葬り去られた感がある。その代わりに神宮の西の守りとして鴨神社を珍重したように思う。廃仏毀釈の嵐の中を大日山の大日如来は里の人々に守られながら残った事に温かいものを感じた。
国束山・鴨社・大日山