【高見山地】掘坂山を廻る山路 大河内の峠路
Posted: 2025年3月12日(水) 04:47
【日 付】2025年2月15日(土)
【山 域】高見山地
【コース】大河内小8:15---9:40勢津---10:25坂内---12:50大河内小
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#16/34.526624/13 ... z0r0s0m0f1
掘坂山は古代より信仰の対象とされ、いくつかの寺院があった。南北朝時代には北畠の大河内御所や坂内御所に菩提寺や関連寺院が点在していた。山麓の大河内から勢津を経て坂内に続く山越えの道を歩くことにした。
大河内小学校より地図にある旧道を歩く。集落内の路地で車は通れないが続いている。この道は学校みちと呼ばれ勢津の児童生徒の通学路で、「数十年前まではたくさん歩いていた。」と出会ったおばあさんも言っていた。八雲八柱神社と養徳寺をぬうようにつながっている。養徳寺は応永10年(1403年)に北畠満雅が建立した寺で、入口に大日の石碑が立っていた。
道は川沿いに進む。石積みの耕地に植林したようで、地図には田んぼマークがある。石垣で守られた川沿いの道にそって石積みの田んぼは延々と続く。途中で川沿いの道と尾根を巻くようにつけられた道に分かれる。尾根沿いの道が新しい道のようなので、川沿いの旧道を進む。何カ所か崩れている場所があるものの道はつながり、植林地の田んぼ跡の石積みも旧道にそって広がっている。高い所に新道のブロックが見え、合流点は近い。浅間祭で掲げる竹の先に飾られた幣が見える。峠になっていて大日如来の石碑と地蔵が2体祀られていた。切通の峠を下るとすぐに勢津で、勢津の浅間さんのようだ。勢津は伊勢寺、与原とともに掘坂山の浅間祭礼に弊を担ぎ上げてきた集落だ。数年前より過疎化によって幣を担ぎ上げる人が集まらない事から掘坂山への幣の担ぎ上げから撤退しており、どうなったのだろうと思っていた。集落の浅間祭は今も続いており、村人の想いが伝わってくる。峠口の祠には辰砂の赤が残っている不動明王が祀られていた。
人けの少ない勢津集落を歩き地図に寺院マークのある勢津集会所による。石仏や南無阿弥陀仏の石碑は残っているが寺は無く、墓地だけが残っている。ここからガイコツ峠への道が続いている。植林用のコンクリートの道が続いているが通る人はいないようだ。この谷は水が少なく石垣の耕地には水瓶が埋められている場所もよく見かけた。大きく掘削した切通を過ぎた小さい切通の峠がガイコツ峠で、天正4年(1576年)に織田軍勢が坂内城を攻めた時に多数の戦死者がでて、その遺骨が残っていたことがらこの名がついた。
峠下には立派な石積みが3段あって建物があったようだ。それから出てくる耕作地の石積みとは作りが違う。脱穀機の残骸が残っていたので、田んぼがあったようだ。坂内城に向かう石垣も残っている。左手の平坦地に城があり、小学校跡地に坂内御所があった。ガイコツ峠の道は坂内御所に大河内第二尋常小学校があった当時は勢津の児童が戦前まで通っていた。当時は植林されていない棚田が連なる明るい道だったのだろう。歩いてきた大河内から勢津をへて坂内に至る峠路は、明治以降は児童生徒が歩く学校道で、戦国時代には大河内城と坂内城をつなぐ軍事路だった。
大河内は織田勢の侵攻進む中で北畠が最後に拠点を置いた場所で、それまで拠点が置かれた多気御所につながる「たげ道」と丹生水銀鉱山につながる「大師道」が交差する交通の要衝になる。
【山 域】高見山地
【コース】大河内小8:15---9:40勢津---10:25坂内---12:50大河内小
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#16/34.526624/13 ... z0r0s0m0f1
掘坂山は古代より信仰の対象とされ、いくつかの寺院があった。南北朝時代には北畠の大河内御所や坂内御所に菩提寺や関連寺院が点在していた。山麓の大河内から勢津を経て坂内に続く山越えの道を歩くことにした。
大河内小学校より地図にある旧道を歩く。集落内の路地で車は通れないが続いている。この道は学校みちと呼ばれ勢津の児童生徒の通学路で、「数十年前まではたくさん歩いていた。」と出会ったおばあさんも言っていた。八雲八柱神社と養徳寺をぬうようにつながっている。養徳寺は応永10年(1403年)に北畠満雅が建立した寺で、入口に大日の石碑が立っていた。
道は川沿いに進む。石積みの耕地に植林したようで、地図には田んぼマークがある。石垣で守られた川沿いの道にそって石積みの田んぼは延々と続く。途中で川沿いの道と尾根を巻くようにつけられた道に分かれる。尾根沿いの道が新しい道のようなので、川沿いの旧道を進む。何カ所か崩れている場所があるものの道はつながり、植林地の田んぼ跡の石積みも旧道にそって広がっている。高い所に新道のブロックが見え、合流点は近い。浅間祭で掲げる竹の先に飾られた幣が見える。峠になっていて大日如来の石碑と地蔵が2体祀られていた。切通の峠を下るとすぐに勢津で、勢津の浅間さんのようだ。勢津は伊勢寺、与原とともに掘坂山の浅間祭礼に弊を担ぎ上げてきた集落だ。数年前より過疎化によって幣を担ぎ上げる人が集まらない事から掘坂山への幣の担ぎ上げから撤退しており、どうなったのだろうと思っていた。集落の浅間祭は今も続いており、村人の想いが伝わってくる。峠口の祠には辰砂の赤が残っている不動明王が祀られていた。
人けの少ない勢津集落を歩き地図に寺院マークのある勢津集会所による。石仏や南無阿弥陀仏の石碑は残っているが寺は無く、墓地だけが残っている。ここからガイコツ峠への道が続いている。植林用のコンクリートの道が続いているが通る人はいないようだ。この谷は水が少なく石垣の耕地には水瓶が埋められている場所もよく見かけた。大きく掘削した切通を過ぎた小さい切通の峠がガイコツ峠で、天正4年(1576年)に織田軍勢が坂内城を攻めた時に多数の戦死者がでて、その遺骨が残っていたことがらこの名がついた。
峠下には立派な石積みが3段あって建物があったようだ。それから出てくる耕作地の石積みとは作りが違う。脱穀機の残骸が残っていたので、田んぼがあったようだ。坂内城に向かう石垣も残っている。左手の平坦地に城があり、小学校跡地に坂内御所があった。ガイコツ峠の道は坂内御所に大河内第二尋常小学校があった当時は勢津の児童が戦前まで通っていた。当時は植林されていない棚田が連なる明るい道だったのだろう。歩いてきた大河内から勢津をへて坂内に至る峠路は、明治以降は児童生徒が歩く学校道で、戦国時代には大河内城と坂内城をつなぐ軍事路だった。
大河内は織田勢の侵攻進む中で北畠が最後に拠点を置いた場所で、それまで拠点が置かれた多気御所につながる「たげ道」と丹生水銀鉱山につながる「大師道」が交差する交通の要衝になる。
大河内小学校より地図にある旧道を歩く。