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【高見山地】いにしへよりつづく伊勢古道

Posted: 2024年6月03日(月) 05:46
by わりばし
【日 付】2024年6月1日(土)
【山 域】高見山地
【コース】丹生俣(唐戸)8:15---9:05奥峠集落---11:00丹生俣(唐戸)
【メンバー】単独

https://maps.gsi.go.jp/#15/34.497149/13 ... z0r0s0m0f1

 北畠氏の本拠地多気より飯南町仁柿に至る櫃坂峠越は、現在は立川に沿って道がつけられており口峠集落を乗越す国道368号線になっている。立川沿いの道は伊勢参りで繁昌した江戸時代に作られた道で、それ以前は美杉町丹生俣より唐戸谷を上り花硯峠を越え立川沿いの奥峠集落に出て、奥峠を越えて古坂道で仁柿につながっていた。

 丹生俣の中俣橋より唐戸に入り元小学校の校舎を利用した農場を通り、林道に入ったあたりに駐車する。林道沿いには石垣がつながっており住居があったのかもしれない。破線道になったあたりから古道らしくなってきた。石積で道は補強されておりいい感じだ。峠が近づいてくると道が落ちた場所もあり微妙になってきたがすぐに切通になった花硯峠に着いた。鼻啜峠という名もあるようだが、本居宣長が墨をすりつくしても歌に出来なかった程美しいという伝承もある。破線道は谷筋に合流するあたりでわからなくなるが谷をそのまま下っていくと道がしっかりとしてきて林道に変わる。すると屋敷が出てきた。奥峠集落は伊勢湾台風をきっかけに廃村となり墓地の立ち寄り小屋以外の建物は無いと思っていたので驚いた。集落の対岸にある林道沿いの高台には数軒の家が残っていた。立川を渡るあたりに「右 若宮八幡宮道」の道標が立っていた。


花硯峠
花硯峠

 橋を渡り鞍部に向かい真っすぐに上っていくと奥峠でそのまま谷を下っていくと仁柿集落につながる。地図には道は無いがこれが櫃坂越の古道になる。この古道は丹(水銀)の道ともいわれている。当時水銀は、貴重な品を納める櫃(ひつ)に入れて牛馬で運んだが、急坂ともなると重い水銀の櫃は人夫によって担ぎ上げられたことから櫃坂、急坂を前に荷舁(にかき)人夫が集められたところから仁柿(にがき)と呼ばれるようになったとする歴史家もいる。丹生の水銀が奈良の大仏の金メッキの材料として運ばれた道になる。そして北畠の時代には櫃坂番所という関所が奥峠に置かれていた。

 奥峠集落の墓地には口峠にあった駕篭屋という旅籠を営んでいた村林家の墓地跡があった。石垣が広がる集落から石積みの川沿いの道を下り口峠に到着。デポしていた自転車に乗り国道を少し下った不動橋のたもとには不動明王を祀った祠が2カ所あった。この先の行者の谷には役行者と不動明王が祀られた石室がある。明和5年(1768年)に建立されており立川沿いの道が伊勢本街道として人々が行き交ったころだ。


子安地蔵院
子安地蔵院

 道の駅の先で八手俣川沿いに進むと丹生俣に入っていく。このあたりは5つの寺院があったとされる地域で、最初に子安地蔵院がある。7代当主北畠晴具が天文元年(1532年)に大正寺境内に建立した地蔵尊で500年の歴史がある。次に松月院跡があり穴太積みの石垣があり、五輪塔や和らいだお顔の石仏が何体も残されている。松月院は8代目当主北畠具教の妻の名前になる。この先の大師堂には弘法大師が祀られているが、他にもいくつかの寺院の灯篭や丁石や五輪塔などが集められている。このあたりにあったとされる本願寺や誉永寺のものなのだろう。

松月院跡
松月院跡

 丹生俣の中心になる中俣には赤松塚がある。南北朝時代が終わりを告げる岩田川の戦いで3代当主の北畠満雅は討死し北畠氏は存亡の危機にあった。その際に足利幕府との仲介を赤松満祐が取り次ぎ、4代当主北畠教具と幕府との和解が成立した。その11年後赤松満祐は嘉吉の乱で将軍足利義教を暗殺したものの敗北。息子の赤松教康を密かに逃がし、以前に手を差し伸べたことのある北畠氏を頼った。その際に赤松教康が籠ったのが薬師堂で、北畠教具は意に反して薬師堂を攻め赤松教康を自殺に追い込んだ。この供養塔になる赤松塚が薬師堂の近くにある。中俣のおばあさんに場所を聞いて民家の裏を抜け赤松塚に行く。たくさんの小さな五輪塔が石積みの上に並び、しきみが進ぜられていた。北畠家にとっては消し去りたい出来事であろうが、600年前の無念を地元の人たちが弔ってくれている姿に感銘を受けた。また、櫃坂を越えた仁柿には、赤松教康の家臣である木所某の自害の供養塔としての仁柿の赤松塚が残されている。政治とは非常なものだが、その事象を伝えながら弔い続ける行為に日本人らしさを感じた。木所某が落ちのびようとした道も花硯峠越だ。

薬師堂
薬師堂
赤松塚
赤松塚

 国道を使うと仁柿までは遠い道のりだが丹生俣より花硯峠・奥峠を経て歩けば仁柿まで1時間半で着く。標高差を感じずに歩けるいい道だった。今は植林の中だが峠を越えるゆるやかな山道は旅人の心をいやしたことだろう。

 

【高見山地】いにしへよりつづく伊勢古道(岳の洞越)

Posted: 2024年6月09日(日) 13:40
by わりばし
【日 付】2024年6月8日(土)
【山 域】高見山地
【コース】比丘尼橋8:00---9:35小須磨峠---10:25御杖神社---11:55仏来山---12:55比丘尼橋
【メンバー】単独

https://maps.gsi.go.jp/#15/34.479498/13 ... z0r0s0m0f1

 櫃坂峠越は、美杉町丹生俣より唐戸谷を上り花硯峠を越え立川沿いの奥峠集落に出て、奥峠を越えて古坂道で仁柿につながっていた。この道は伊勢古道と言われ御杖村の御杖神社と仁柿を結ぶ最短ルートとしていにしえより歩かれておりおかげまいりにも使われていた。美杉町丹生俣より北畠の番所のあった杉峠を越え川上、比丘尼谷で小須磨峠を越えて御杖神社に至る。今回は比丘尼谷より岳の洞(学能堂山)越で御杖神社まで歩くことにした。


古道の石積
古道の石積

 坂本小屋を過ぎ比丘尼橋に駐車する。谷に入ると3カ所の壊れた堰堤があり倒木の中を越えていく。古道の石積みや滝を巻く道なども見られるが、道は残っていない。斜瀑の連瀑が出てきた。巻き道は今は無く、下土が流された急な植林の斜面に囲まれている。急な斜面を巻くよりは連瀑を上った方が安全なので、そのまま登って行く。三俣には炭焼窯跡と泊まり小屋跡の石積みがあった。破線道の谷には土砂が流れ込んで岩が谷を埋め尽くしており、稜線から大規模に山抜けしている。破線道は途中から北に向かうが、末端から安全に上れるのはこの尾根ぐらいで、よく考えられている。上っていくと人が歩いているのが見え、そこが小須磨峠だった。ここからシャクヤク狙いで学能堂山に上る人が多いようだ。学能堂山は昔は岳の洞と呼ばれており、岳の洞越は比丘尼谷と小須磨谷を結ぶ山路になる。塚原卜伝が9代北畠具教に指南した時に歩いた道だ。

比丘尼谷の斜瀑
比丘尼谷の斜瀑

 道のない比丘尼谷と違い、登山道として使われている小須磨谷は快適そのものでゆるやかに上村に向かって下っていく。三峰山を源流に持つ名張川の支流神末川には立派な石積みが残されており生活道として使われていたようだ。集落には蔵を持つ立派な家が何軒かあり豊かな土地だったようだ。目的地の御杖神社は伊勢神宮が現在地へ遷る以前に一時的に祀られたという伝承を持つ元伊勢のひとつで歴史は古い。途中で散歩をしている二組の地元の御夫婦に話を聞いた。神末は、三峰山を神末峠や新道峠で越えた飯高との結びつきが強く嫁いだり嫁がれたりという事が珍しくないようだ。三峰山方面で炭焼きをしていた家が多かった。それに比べて美杉村川上とのつながりは薄く、川上八幡宮に岳の洞越で向かうことも無かったようだ。川上八幡宮は戦いの神で、参ると鉄砲の球が当たらないと戦時下ではかなり遠くから参拝者がいたのだが不思議だ。

炭窯跡と小屋跡の石積
炭窯跡と小屋跡の石積

 巡礼のひとつで、神様と仏様を交互にお参りする「隔夜参り」という行がある。伊勢本街道の場合、伊勢神宮と長谷寺を交互にお参りした。修行僧や俗人で千回二千回もあったといい。仁柿の両泉寺には隔夜千回向・廣誉深入大徳の石碑があり、奥峠には廣誉道円の隔夜供養碑がある。伊勢古道は隔夜参りの道でもある。 

御杖神社
御杖神社

 フキを採ったりしながら小須磨峠にもどり。比丘尼谷を下るのは大変なので、仏来山(848m)より尾根通しで下ることにした。地図には比丘尼橋から稜線付近まで林道が書かれている。木が伐採された場所に向かって下っていくと草むらに出た。林道があった名残はあるものの九十九折の部分は落ちておりただの斜面になっている。尾根筋にそって下っていくと駐車地に軟着陸できた。

食行身禄の生誕碑
食行身禄の生誕碑

 帰りに伊勢古道の相地集落にある食行身禄の生誕碑を見に行った。「江戸八百八町講中八万人」と言われた富士講の中心人物で、生家の前を通った隔夜参りの行者の姿が身禄の思想の原体験ではないかと思った。

【高見山地】いにしへよりつづく伊勢古道(相地と非浦の大日如来)

Posted: 2024年6月17日(月) 05:43
by わりばし
【日 付】2024年6月16日(日)
【山 域】高見山地
【コース】相地9:40---10:30大日さん 11:10非浦---12:10大日さん
【メンバー】単独

https://maps.gsi.go.jp/#16/34.475801/13 ... z0r0s0m0f1

 修験道は、日本古来の山岳信仰と密教・道教が習合したもので、神々は仏の化身という教えで、修験者はそれまで浅間大明神であった富士山を大日如来と位置づけ祀った。三重の津以南にも「浅間さん」と呼ばれる民間信仰がある。修験道の影響の強かった北畠氏の領地及び関係の強かった地域と重なる。

 伊勢古道の相地は、「江戸八百八町講中八万人」と言われた富士講の中心人物食行身禄の生まれた集落で、ここにも浅間さんがある。大日如来を祀ること、7月はじめごろに祭事を行なうこと、その際に高所に竹弊を上げるのは伊勢志摩の浅間行事と同じだが、富士参りの言い伝えが無く、行事を「大日ごもり」「大日参り」と呼んでいる。

 さまざまな資料を調べても場所がはっきりしない。高巖寺の住職に聞くと、「一度行ったことはあるがどこなのかわからない。」との事だった。相地で畑仕事をしているおじいさんに聞くと区長さんを紹介してくれた。大日参りは、4~5年前に途絶えて今はしていないとの事だった。祠までの道はあるようで、沢筋を進み右に巻くようにして進んだ源頭にあるとのことだった。公民館より平成15年の大日参りの写真を持ってきて見せてくれた。その時に尾根に高く伸びる松の大木が目印だと教えてくれた。大日参りは食行身禄の影響かとたずねると、「この行事はその前からあったので違う。」とのことだった。五穀豊穣を願って続けられてきたようだ。

相地の大日さん
相地の大日さん

 ドシャ谷入口には「太一」と「五穀豊穣」と彫られた常夜灯があり、ここが参道の入口だ。堰堤を越えて道は続いている。しばらく谷沿いの道を進み途中から右の広い尾根に乗って谷を巻いていく。この辺りまで道は追えるのだが、植林が広がりどこが大日参りの道なのかわからない。とりあえず、稜線まで上って尾根づたいに探索することにした。稜線上には自然林が残っており松もある。ドシャ谷の源頭にあたる急登を上ると大日如来の祠があった。目印の松が奥にひかえ、首がとれた大日如来と新しい大日如来の2体がある。広く開けた斜面上にありいい所だ。最後の大日参りの時の竹弊もあった。平成15年の大日参りの時には松の木の最上部に竹弊をつけている写真が残されている。本来は里から竹弊が見えるように設置していたようだ。

非浦の大日さん
非浦の大日さん

 下山し、対岸の非浦(日浦)に向かう。ここにも浅間さんがある。バイクを修理している人がいたので聞くと「ここ数年は登らなくなり途絶えている。」との事だった。「道は無いが家の裏の堰堤の右側の斜面を上ればよい。」と言っていた。茶畑と堰堤を越えて尾根に取りつくと急だった。取り合えず稜線まで出て尾根を上っていくがそれらしきものはない。引き返してP498まで下ることにした。頂上に立派な祠があり、胎蔵界大日如来が祀ってあった。少し下った所にも同じような祠があり、地元の人が薬師如来と呼ぶ智拳印大日如来が祀られていた。地元では山を「浅間さん」と呼び祠を「大日さん」「薬師さん」と呼んでおり、非浦、中村、宮ノ木、中野の合同の浅間さんとなっていた。胎蔵界大日如来と智拳印大日如来で両部曼荼羅の形式をとっており掘坂山と同じで真言密教の影響だろう。

非浦の薬師さん
非浦の薬師さん

 相地と非浦の浅間さんは、浅間さんの影響も受けているが、それ以前の修験道の色合いを濃く残していた。長谷寺と伊勢神宮を最短でつなぐ伊勢古道沿いにあったためだろう。

隔夜千回向・廣誉深入大徳の石碑
隔夜千回向・廣誉深入大徳の石碑
廣誉道円の隔夜供養碑
廣誉道円の隔夜供養碑

 巡礼のひとつで、神様と仏様を交互にお参りする「隔夜参り」という行がある。伊勢本街道の場合、伊勢神宮と長谷寺を交互にお参りした。修行僧や俗人で千回二千回もあったといい。仁柿の両泉寺には隔夜千回向・廣誉深入大徳の石碑があり、奥峠には廣誉道円の隔夜供養碑がある。早朝この石碑を見に両泉寺を訪れた。現在は浄土宗だが、平安後期(800年前)の不動明王立像が残されており元々は密教寺院であったことがわかる。廣誉深入大徳の石碑がわからないのでお寺の方に聞くと本堂前にある苔むした石像で、これは聞かねばわからない。その後口峠に車を置いて奥峠に向かう。伊勢古道の櫃坂峠の場所で北畠の番所があった所だ。以前来たときは、大きな杣道の切通しという感じで隔夜供養碑には気づかなかった。奥峠集落から峠に着くが見当たらない。少し上った峠を見下ろす場所に廣誉道円の隔夜供養碑があった。明治の廃仏毀釈以降、隔夜参りは見向きもされなくなり放置されたままになっている。郷土史からも消された感が強いが、伊勢古道の意味がわかる貴重な歴史遺産だと思う。