【南伊勢】桧尾越の古和峠と古和越の古和峠
Posted: 2024年4月07日(日) 19:13
【日 付】2024年4月6日(土)
【山 域】南伊勢
【コース】村山8:15---9:30古和峠---10:00桧尾越---12:30胡桃
【メンバー】単独
古和河内川上流の大紀町胡桃から古和に抜ける道の探索を以前行った。今回は古和側から探索することにした。南島には竃と名のつく集落が7つあり、塩窯を持ち南北朝時代には製塩を生業とし、吉野に塩を運んだ峠路になる。ただ、太閤検地以降は製塩に必要な木を求めて居住地をかえれなくなったことから衰退し、塩竃からきている竃の地名だけ残った。古和浦付近には現在でも栃木竃、小方竃、棚橋竃、新桑竃の地名が残っている。
南伊勢町村山を起点に南島側の探索を行った。桜が咲き誇る村山川沿いにあるわかば園跡地バス停に駐車する。職谷から続く破線道を目指すと登り口に地蔵と立派なコンクリートの祠があり墨で寄進をした人たちの名前が書かれていた。桧尾越の安全を願ったのだろう。祠の前には「右やま道 左くまの道」と彫られた道標があった。植林の杣道が終わると昔人が歩いた溝道が出てくる。尾根筋を外しながらゆるやかに登り、時折九十九折を使うなど歩きやすい道だ。林道が尾根に合流してからも溝道は付かず離れずで続いている。P443から続く尾根に合流する地点には「古和峠430m」のプレートがある。登ってきた村山への道と古和浦への道の分岐になっている。桧尾越の古和峠という事なのだろう。古和越の古和峠が沢伝いの道で、桧尾越の古和峠が尾根伝いの道になっている。昔はここから下る道もあったようで「右古和道 左村山道」の道標が横たわっていた。
塩の道はその後魚を運ぶ道として使われ、昭和50年代に各地に鮮魚店が出来るまで続いた。運ぶ方法は、頭に竹篭を乗せたイタダキサンと呼ばれた女性たちが大正末ごろまで来ていて、その後は天秤棒のニナイ(担い)で売りに来る人や蓋付の木箱をオイネテ(背負って)売りに来る人が増えたようだ。こうした女性たちが歩いた道でもある。破線道を尾根伝いに進むと植林に変わり、ここには九鬼山林の石杭がある。以前境界稜線を歩いた際にも見たので、古和浦周辺の山は九鬼山林の所有のようだ。植林をゆるやかに境界稜線にトラバースしていくと以前歩いた桧尾越に着いた。ここから胡桃への道も尾根伝いのゆるやかな道で物を運ぶには打ってつけの道だっただろう。
来た道をもどり、古和峠を過ぎP443からは古和浦に下る破線道が続いている。溝道もここで終わりかと稜線を歩いていると溝道が出てきた。溝道は尾根が広がりタイラになった所から南南西に下り納戸地川の右俣に降りていく尾根につけられている。ここからも古和浦に下る道があった。その先は普通の尾根道になり溝道は消える。P401を越えると林道が来ていて1台軽トラが止まっていた。長い林道を歩いて村山にもどると山の神が迎えてくれた。
この後、南島側の古和越の探索に出かけた。古和川沿いの林道が古和越の道で立派な石積が対岸に続いている。昔は耕作地だったようだ。平地の少ない海辺の街にとっては貴重な場所だったのだろう。林道終点より探るが道は消えている。大正3年に現在の県道33号線(南島紀勢線)が開通していたので、早い段階から歩かれなくなったようだ。古和越の南島側は急な上りなので九十九折の道があったのだろう。古和越は桧尾越と比べると急だが、山越の距離は短いので、その時々で使い分けたのかもしれない。
この二つの峠越えの道は、魚の道であり、牛の越えた道でもあった。南島町の村山や古和方面から博労が山を越え大紀町方面に子牛を売って歩いた。農家ではこの牛を育てて農耕に使い、大きくなるとまた博労に買い取ってもらったそうだ。
【山 域】南伊勢
【コース】村山8:15---9:30古和峠---10:00桧尾越---12:30胡桃
【メンバー】単独
古和河内川上流の大紀町胡桃から古和に抜ける道の探索を以前行った。今回は古和側から探索することにした。南島には竃と名のつく集落が7つあり、塩窯を持ち南北朝時代には製塩を生業とし、吉野に塩を運んだ峠路になる。ただ、太閤検地以降は製塩に必要な木を求めて居住地をかえれなくなったことから衰退し、塩竃からきている竃の地名だけ残った。古和浦付近には現在でも栃木竃、小方竃、棚橋竃、新桑竃の地名が残っている。
南伊勢町村山を起点に南島側の探索を行った。桜が咲き誇る村山川沿いにあるわかば園跡地バス停に駐車する。職谷から続く破線道を目指すと登り口に地蔵と立派なコンクリートの祠があり墨で寄進をした人たちの名前が書かれていた。桧尾越の安全を願ったのだろう。祠の前には「右やま道 左くまの道」と彫られた道標があった。植林の杣道が終わると昔人が歩いた溝道が出てくる。尾根筋を外しながらゆるやかに登り、時折九十九折を使うなど歩きやすい道だ。林道が尾根に合流してからも溝道は付かず離れずで続いている。P443から続く尾根に合流する地点には「古和峠430m」のプレートがある。登ってきた村山への道と古和浦への道の分岐になっている。桧尾越の古和峠という事なのだろう。古和越の古和峠が沢伝いの道で、桧尾越の古和峠が尾根伝いの道になっている。昔はここから下る道もあったようで「右古和道 左村山道」の道標が横たわっていた。
塩の道はその後魚を運ぶ道として使われ、昭和50年代に各地に鮮魚店が出来るまで続いた。運ぶ方法は、頭に竹篭を乗せたイタダキサンと呼ばれた女性たちが大正末ごろまで来ていて、その後は天秤棒のニナイ(担い)で売りに来る人や蓋付の木箱をオイネテ(背負って)売りに来る人が増えたようだ。こうした女性たちが歩いた道でもある。破線道を尾根伝いに進むと植林に変わり、ここには九鬼山林の石杭がある。以前境界稜線を歩いた際にも見たので、古和浦周辺の山は九鬼山林の所有のようだ。植林をゆるやかに境界稜線にトラバースしていくと以前歩いた桧尾越に着いた。ここから胡桃への道も尾根伝いのゆるやかな道で物を運ぶには打ってつけの道だっただろう。
来た道をもどり、古和峠を過ぎP443からは古和浦に下る破線道が続いている。溝道もここで終わりかと稜線を歩いていると溝道が出てきた。溝道は尾根が広がりタイラになった所から南南西に下り納戸地川の右俣に降りていく尾根につけられている。ここからも古和浦に下る道があった。その先は普通の尾根道になり溝道は消える。P401を越えると林道が来ていて1台軽トラが止まっていた。長い林道を歩いて村山にもどると山の神が迎えてくれた。
この後、南島側の古和越の探索に出かけた。古和川沿いの林道が古和越の道で立派な石積が対岸に続いている。昔は耕作地だったようだ。平地の少ない海辺の街にとっては貴重な場所だったのだろう。林道終点より探るが道は消えている。大正3年に現在の県道33号線(南島紀勢線)が開通していたので、早い段階から歩かれなくなったようだ。古和越の南島側は急な上りなので九十九折の道があったのだろう。古和越は桧尾越と比べると急だが、山越の距離は短いので、その時々で使い分けたのかもしれない。
この二つの峠越えの道は、魚の道であり、牛の越えた道でもあった。南島町の村山や古和方面から博労が山を越え大紀町方面に子牛を売って歩いた。農家ではこの牛を育てて農耕に使い、大きくなるとまた博労に買い取ってもらったそうだ。
【南伊勢】桧尾越の古和峠と古和越の古和峠