【南伊勢】桧尾越の古和峠と古和越の古和峠

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わりばし
記事: 1768
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

【南伊勢】桧尾越の古和峠と古和越の古和峠

投稿記事 by わりばし »

【日 付】2024年4月6日(土)
【山 域】南伊勢
【コース】村山8:15---9:30古和峠---10:00桧尾越---12:30胡桃
【メンバー】単独

 古和河内川上流の大紀町胡桃から古和に抜ける道の探索を以前行った。今回は古和側から探索することにした。南島には竃と名のつく集落が7つあり、塩窯を持ち南北朝時代には製塩を生業とし、吉野に塩を運んだ峠路になる。ただ、太閤検地以降は製塩に必要な木を求めて居住地をかえれなくなったことから衰退し、塩竃からきている竃の地名だけ残った。古和浦付近には現在でも栃木竃、小方竃、棚橋竃、新桑竃の地名が残っている。


村山川の桜
村山川の桜

 南伊勢町村山を起点に南島側の探索を行った。桜が咲き誇る村山川沿いにあるわかば園跡地バス停に駐車する。職谷から続く破線道を目指すと登り口に地蔵と立派なコンクリートの祠があり墨で寄進をした人たちの名前が書かれていた。桧尾越の安全を願ったのだろう。祠の前には「右やま道 左くまの道」と彫られた道標があった。植林の杣道が終わると昔人が歩いた溝道が出てくる。尾根筋を外しながらゆるやかに登り、時折九十九折を使うなど歩きやすい道だ。林道が尾根に合流してからも溝道は付かず離れずで続いている。P443から続く尾根に合流する地点には「古和峠430m」のプレートがある。登ってきた村山への道と古和浦への道の分岐になっている。桧尾越の古和峠という事なのだろう。古和越の古和峠が沢伝いの道で、桧尾越の古和峠が尾根伝いの道になっている。昔はここから下る道もあったようで「右古和道 左村山道」の道標が横たわっていた。

桧尾越の地蔵
桧尾越の地蔵

 塩の道はその後魚を運ぶ道として使われ、昭和50年代に各地に鮮魚店が出来るまで続いた。運ぶ方法は、頭に竹篭を乗せたイタダキサンと呼ばれた女性たちが大正末ごろまで来ていて、その後は天秤棒のニナイ(担い)で売りに来る人や蓋付の木箱をオイネテ(背負って)売りに来る人が増えたようだ。こうした女性たちが歩いた道でもある。破線道を尾根伝いに進むと植林に変わり、ここには九鬼山林の石杭がある。以前境界稜線を歩いた際にも見たので、古和浦周辺の山は九鬼山林の所有のようだ。植林をゆるやかに境界稜線にトラバースしていくと以前歩いた桧尾越に着いた。ここから胡桃への道も尾根伝いのゆるやかな道で物を運ぶには打ってつけの道だっただろう。

村山道
村山道

 来た道をもどり、古和峠を過ぎP443からは古和浦に下る破線道が続いている。溝道もここで終わりかと稜線を歩いていると溝道が出てきた。溝道は尾根が広がりタイラになった所から南南西に下り納戸地川の右俣に降りていく尾根につけられている。ここからも古和浦に下る道があった。その先は普通の尾根道になり溝道は消える。P401を越えると林道が来ていて1台軽トラが止まっていた。長い林道を歩いて村山にもどると山の神が迎えてくれた。

村山の山の神
村山の山の神

 この後、南島側の古和越の探索に出かけた。古和川沿いの林道が古和越の道で立派な石積が対岸に続いている。昔は耕作地だったようだ。平地の少ない海辺の街にとっては貴重な場所だったのだろう。林道終点より探るが道は消えている。大正3年に現在の県道33号線(南島紀勢線)が開通していたので、早い段階から歩かれなくなったようだ。古和越の南島側は急な上りなので九十九折の道があったのだろう。古和越は桧尾越と比べると急だが、山越の距離は短いので、その時々で使い分けたのかもしれない。

古和川の石積
古和川の石積
 この二つの峠越えの道は、魚の道であり、牛の越えた道でもあった。南島町の村山や古和方面から博労が山を越え大紀町方面に子牛を売って歩いた。農家ではこの牛を育てて農耕に使い、大きくなるとまた博労に買い取ってもらったそうだ。
グー(伊勢山上住人)
記事: 2227
登録日時: 2011年2月20日(日) 10:10
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Re: 【南伊勢】桧尾越の古和峠と古和越の古和峠

投稿記事 by グー(伊勢山上住人) »

わりばしさん、こんばんは。
ボケ防止にレポを辿ってみようと地形図を開いたが・・・
難解なレポにしばし悩みました。

【南伊勢】桧尾越の古和峠と古和越の古和峠

???

祠の前には「右やま道 左くまの道」と彫られた道標があった。

ほほう! 村山から古和へ行くのに小方竈経由だと峠を2つ越す必要があるから
峠1つ越えればいいルートに熊野方面へ行くメインの街道があったのですね。
累積標高差は同じぐらいだと思うけど、歩きやすい道が付けやすかったのかな。

P443から続く尾根に合流する地点には「古和峠430m」のプレートがある。

この記述を「古和峠まで430m」と読んでしまって、頭を痛めていました。
「ここは古和峠。標高430m」のプレートだったのですね。
一旦思い込むと頭の切り替えがなかなかできない老害グーなのです。

昔はここから下る道もあったようで「右古和道 左村山道」の道標が横たわっていた。

「くまの道」に繋がる「右古和道」の道標でしょう。

溝道は尾根が広がりタイラになった所から南南西に下り納戸地川の右俣に降りていく尾根につけられている。

これが「くまの道」メインルートではないでしょうか?

 この後、南島側の古和越の探索に出かけた。

疲れを知らない足ですね。


           グー(伊勢山上住人)
skywalk
記事: 522
登録日時: 2011年3月07日(月) 21:33

Re: 【南伊勢】桧尾越の古和峠と古和越の古和峠

投稿記事 by skywalk »

わりばしさん、こんばんは。
今度の峠シリーズは南伊勢ですか。同じ三重県内とはいえ賢島と紀伊長島間は普段全く疎遠な地域で殆んど真空地帯のようなところです。だから全然分かりません。地図を開いてみると古和浦は一番西で紀伊長島に近いところなんですね。南伊勢はリヤス式海岸が連なり深い入り江にはそれぞれ漁港があって一本の国道で繋がっているようですけど。昔はどうだったのでしょう。

塩窯を持ち南北朝時代には製塩を生業とし、吉野に塩を運んだ峠路になる。
こんな場所で製塩ですか。随分昔の話ですね。塩は人間が生きるには必須の品ですからローマの時代から貨幣代わりに使われていたくらいだから分からなくもないけど徳川の時代には赤穂藩や吉良藩で大規模な塩田で効率的に作られるようになると競争力を失ったのでしょうね。

海上には破線で囲まれた海域にハマチ養殖やらタイ養殖などと書かれているが、現在もそういうものを養殖しているのかな。私も魚は嫌いじゃないけど最近は魚離れが叫ばれているわりに値段が高くあまり口に入らなくなりました。豚肉や鶏肉のほうが安いからそちらがメインになってしまいました。肉類は国産にしても輸入物にしても餌の飼料は輸入物だから円安の影響で高くなりそうなものだけど魚の方が高くなったのはどういう理由なのだろう。どちらにしても漁業の衰退は目に余るものがあってこの地域の人たちも将来に不安を感じていると思うのだけどどうなるのだろう。変わらないのは毎年咲き誇る桜くらいのものか。

耕地が殆どないこれら漁村では水産物と米などの農作物の交易は必須だったろうけど交通手段が限られる昔は峠越えの交易は大変だったろうと忍ばれる。そういった古の苦労を忍びつつ歩く峠越えの旅。何とも風情があるというか、今時そんな旅を続ける人はいるかしら。お遍路参りをする人より少ないんじゃないかな。これもある意味贅沢な話だ。貧乏性の私には真似できそうにないからこういったレポで味あわせてもらおう。
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わりばし
記事: 1768
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【南伊勢】桧尾越の古和峠と古和越の古和峠

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、グーさん

ボケ防止にレポを辿ってみ。ようと地形図を開いたが・・・
難解なレポにしばし悩みました。


マニアックなレポにお付き合い有難うございます。 :mrgreen:

祠の前には「右やま道 左くまの道」と彫られた道標があった。

ほほう! 村山から古和へ行くのに小方竈経由だと峠を2つ越す必要があるから
峠1つ越えればいいルートに熊野方面へ行くメインの街道があったのですね。
累積標高差は同じぐらいだと思うけど、歩きやすい道が付けやすかったのかな。


村山からの道は今回登った道がメインの道で、よく歩かれていた感じです。
牛を連れて歩いたのを今でも想像出来るいい道です。


桧尾越の道
桧尾越の道

P443から続く尾根に合流する地点には「古和峠430m」のプレートがある。

この記述を「古和峠まで430m」と読んでしまって、頭を痛めていました。
「ここは古和峠。標高430m」のプレートだったのですね。
一旦思い込むと頭の切り替えがなかなかできない老害グーなのです。


桧尾越の古和峠の事は知らなかったので、最初は驚きました。
地元の「南勢テクテク会」のプレートなので間違いないと思います。


南勢テクテク会のプレート
南勢テクテク会のプレート

昔はここから下る道もあったようで「右古和道 左村山道」の道標が横たわっていた。

「くまの道」に繋がる「右古和道」の道標でしょう。

熊野脇道街道につながる道だったんでしょうね。
古和に下る道がいくつもある所を見ると古和はやはりこの地域の中心地だったんですね。


溝道は尾根が広がりタイラになった所から南南西に下り納戸地川の右俣に降りていく尾根につけられている。

これが「くまの道」メインルートではないでしょうか?

最後に古和に下っていく道ですので古和の街には一番近い山道です。
メインルートかもしれません。
木のテープにこんな名前が書かれてあったのですが、わかります?
軍手道かな?


軍手道
軍手道

 この後、南島側の古和越の探索に出かけた。

疲れを知らない足ですね。

破線道の所まで行って、時間がかかりそうなので引き返しました。 :lol:
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わりばし
記事: 1768
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【南伊勢】桧尾越の古和峠と古和越の古和峠

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、skywalkeさん。

今度の峠シリーズは南伊勢ですか。同じ三重県内とはいえ賢島と紀伊長島間は普段全く疎遠な地域で殆んど真空地帯のようなところです。だから全然分かりません。地図を開いてみると古和浦は一番西で紀伊長島に近いところなんですね。南伊勢はリヤス式海岸が連なり深い入り江にはそれぞれ漁港があって一本の国道で繋がっているようですけど。昔はどうだったのでしょう。

海をながめる山登りではいい場所もたくさんありますので、是非。
昔は海での交易が盛んな地域で江戸時代の豪商河村 瑞賢はこのあたりの出です。
河村 瑞賢も北畠の家臣筋を自称していたそうです。


古和浦
古和浦

塩窯を持ち南北朝時代には製塩を生業とし、吉野に塩を運んだ峠路になる。

こんな場所で製塩ですか。随分昔の話ですね。塩は人間が生きるには必須の品ですからローマの時代から貨幣代わりに使われていたくらいだから分からなくもないけど徳川の時代には赤穂藩や吉良藩で大規模な塩田で効率的に作られるようになると競争力を失ったのでしょうね。

南北朝時代には南朝方の支配地で安定して塩を作れる場所がここぐらいしか無かったようです。
太閤検地による移住の制限で、焼窯に使う木を求めての移住が出来なくなり、衰退していったようです。


古和越の石積
古和越の石積

耕地が殆どないこれら漁村では水産物と米などの農作物の交易は必須だったろうけど交通手段が限られる昔は峠越えの交易は大変だったろうと忍ばれる。そういった古の苦労を忍びつつ歩く峠越えの旅。何とも風情があるというか、今時そんな旅を続ける人はいるかしら。お遍路参りをする人より少ないんじゃないかな。これもある意味贅沢な話だ。貧乏性の私には真似できそうにないからこういったレポで味あわせてもらおう。

古和のあたりは昔から人の住んでいた場所ですので、歴史も古いです。
ただ歴史的資料は何度かの大津波でほぼ無くなっています。
古和のお寺の天保飢饉供養碑なんかは斬新なデザインですばらしく片田舎の碑には見えません。

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