【高見山地】山菜闇天あとの田引越と三条山
Posted: 2024年4月02日(火) 04:35
【日 付】2024年3月31日(土)
【山 域】高見山地
【コース】小田9:45---11:55田引峠---13:45小田
【メンバー】単独
グーさんの別荘で山菜闇天を楽しんだ後、田引小学校跡地に向かう。この日は、八柱神社の祭礼の日で、駐車場所をグーさんに教えてもらった。飯高名物のとっとき味噌は廃校利用の作業場で作っていた。大台の粟谷から田引峠を経て田引に抜ける田引越の探索を行う。古和浦から吉野に塩を運んだ道であり、南伊勢から魚を運んだかちんぽうの道でもある。昔からよく使われた峠道だ。粟谷から峠までは歩いているので、田引から峠までを歩くことにした。八柱神社の裏山には北畠氏の家臣田引氏が築城した田引城がある。
赤い橋を渡り田引越の林道を進むと薬師堂に人が集まっている。こちらでも祭礼の準備をしていて、掃除や補修を小田集落の人達がしていた。
元々は神仏習合の寺で、明治の廃仏毀釈で取り壊されたために本尊を薬師堂に移して祀り、現在は田引の禅源寺の境外仏堂になっている。歴史は古く南北朝時代ぐらいから続いているとの事で本尊の薬師如来像は室町時代の終わりの頃の作だ。薬壺を持った薬師如来の光背には薬師如来を表すバイの種子(サンスクリット語)が彫られている。両側に日光菩薩と月光菩薩が脇侍としてひかえている。この三体を一木から作ったとの言い伝えが残っている。周りには如来を守る十二神将が置かれている。どの像も、落ち着いた面持ちで歴史を感じさせてくれる。これだけの立派な薬師三尊が戸数十数戸の集落のお堂にあるとは思いもよらなかった。話をしていると杓子もあると裏に連れて行ってくれた。見ると長さ170cm最大幅34cmの木製の大杓子で、飯高町郷土誌に載っていた物だ。安永9年(1790年)小椋善六と墨で書かれており。生業の繁栄を願って奉納したのだろう。ただ、案内してくれた方は田引に小椋と言う苗字は無いとのことだった。
仕事をしてみえる小田集落の人達にお礼を言って先を急ぐ。林道が杣道に変わったあたりで炭焼窯跡が出てきた。滝を巻きながら破線道を進んでいくと谷先の両側が土の壁となって立ちはだかり、間の谷から水が流れている。これがグーさんの言っていた壁だろう。壁を登ってもその先がどうなっているかわからないし、もろそうだ。谷を登るのが安全なようだ。沢靴なので何の躊躇もなく進むと、簡単に越えられた。この先にも窯跡が出てきたので、田引越は炭焼きの杣道としても使われていたのだろう。滝が出てきたので尾根筋を見ると歩けそうだ。急な植林の斜面を両手両足を使いながら登って行く。かなり急なのだが、境界杭が出てきた。木がまばらにしか生えていない岩尾根が出てきた。嫌な感じだが、周りの斜面は落ちたような斜面で話にならない。ここを行くしかないようで、木の根と岩を慎重に確保しながら通り抜けた。破線道が峠近くで湾曲する地点の右岸尾根を登り、稜線を少し下ると田引峠に着いた。尾根に取りつくまでは窯跡があったので、尾根のどこかで谷筋にトラバースしていく道が昔はあったのだろう。田引峠には石積みの祠に素朴な感じの大日如来が祀られている。
三条山に向かう。山頂手前に尾放峠の分岐があり、山頂を越えた鞍部から登山道に入る。登山道にはテープが続いており迷うことはない。大鯛川沿いに下ると杉木立の中に石垣跡があり、「木地屋敷」と呼ばれていた場所だ。三軒の家がありみんな小椋姓だった。薬師堂に大杓子を奉納した小椋善六は、近江の筒井神社の安永3年(1780年)の「氏子台駈帳」に「勢州飯高郡川俣谷田引山杓子小屋小椋善六、銭二百文」と記載されている。ここで、大杓子を作っていたのかと思うと杉木立から生活の息吹を感じずにはいられなかった。
林道終点を通りすぎ小尾根を越えると小田集落だった。
【山 域】高見山地
【コース】小田9:45---11:55田引峠---13:45小田
【メンバー】単独
グーさんの別荘で山菜闇天を楽しんだ後、田引小学校跡地に向かう。この日は、八柱神社の祭礼の日で、駐車場所をグーさんに教えてもらった。飯高名物のとっとき味噌は廃校利用の作業場で作っていた。大台の粟谷から田引峠を経て田引に抜ける田引越の探索を行う。古和浦から吉野に塩を運んだ道であり、南伊勢から魚を運んだかちんぽうの道でもある。昔からよく使われた峠道だ。粟谷から峠までは歩いているので、田引から峠までを歩くことにした。八柱神社の裏山には北畠氏の家臣田引氏が築城した田引城がある。
赤い橋を渡り田引越の林道を進むと薬師堂に人が集まっている。こちらでも祭礼の準備をしていて、掃除や補修を小田集落の人達がしていた。
元々は神仏習合の寺で、明治の廃仏毀釈で取り壊されたために本尊を薬師堂に移して祀り、現在は田引の禅源寺の境外仏堂になっている。歴史は古く南北朝時代ぐらいから続いているとの事で本尊の薬師如来像は室町時代の終わりの頃の作だ。薬壺を持った薬師如来の光背には薬師如来を表すバイの種子(サンスクリット語)が彫られている。両側に日光菩薩と月光菩薩が脇侍としてひかえている。この三体を一木から作ったとの言い伝えが残っている。周りには如来を守る十二神将が置かれている。どの像も、落ち着いた面持ちで歴史を感じさせてくれる。これだけの立派な薬師三尊が戸数十数戸の集落のお堂にあるとは思いもよらなかった。話をしていると杓子もあると裏に連れて行ってくれた。見ると長さ170cm最大幅34cmの木製の大杓子で、飯高町郷土誌に載っていた物だ。安永9年(1790年)小椋善六と墨で書かれており。生業の繁栄を願って奉納したのだろう。ただ、案内してくれた方は田引に小椋と言う苗字は無いとのことだった。
仕事をしてみえる小田集落の人達にお礼を言って先を急ぐ。林道が杣道に変わったあたりで炭焼窯跡が出てきた。滝を巻きながら破線道を進んでいくと谷先の両側が土の壁となって立ちはだかり、間の谷から水が流れている。これがグーさんの言っていた壁だろう。壁を登ってもその先がどうなっているかわからないし、もろそうだ。谷を登るのが安全なようだ。沢靴なので何の躊躇もなく進むと、簡単に越えられた。この先にも窯跡が出てきたので、田引越は炭焼きの杣道としても使われていたのだろう。滝が出てきたので尾根筋を見ると歩けそうだ。急な植林の斜面を両手両足を使いながら登って行く。かなり急なのだが、境界杭が出てきた。木がまばらにしか生えていない岩尾根が出てきた。嫌な感じだが、周りの斜面は落ちたような斜面で話にならない。ここを行くしかないようで、木の根と岩を慎重に確保しながら通り抜けた。破線道が峠近くで湾曲する地点の右岸尾根を登り、稜線を少し下ると田引峠に着いた。尾根に取りつくまでは窯跡があったので、尾根のどこかで谷筋にトラバースしていく道が昔はあったのだろう。田引峠には石積みの祠に素朴な感じの大日如来が祀られている。
三条山に向かう。山頂手前に尾放峠の分岐があり、山頂を越えた鞍部から登山道に入る。登山道にはテープが続いており迷うことはない。大鯛川沿いに下ると杉木立の中に石垣跡があり、「木地屋敷」と呼ばれていた場所だ。三軒の家がありみんな小椋姓だった。薬師堂に大杓子を奉納した小椋善六は、近江の筒井神社の安永3年(1780年)の「氏子台駈帳」に「勢州飯高郡川俣谷田引山杓子小屋小椋善六、銭二百文」と記載されている。ここで、大杓子を作っていたのかと思うと杉木立から生活の息吹を感じずにはいられなかった。
林道終点を通りすぎ小尾根を越えると小田集落だった。