【高見山地】伊勢山上をめぐる峠路 佐田峠・古城峠・遠見峠・貝坂峠
Posted: 2023年11月28日(火) 19:51
【日 付】2023年11月26日(日)
【山 域】高見山地
【コース】飯福田寺駐車場8:20---9:50小原町---11:00後山町---11:45与原町---12:30飯福田寺---14:00飯福田寺駐車場
【メンバー】単独
伊勢国司として250年間南伊勢を治めた北畠氏は多気御所(美杉)に拠点を置き、関所などの重要な所には修験寺院や御所や道場という山伏達の集まる場を設けていた。伊勢山上飯福田寺は南朝の置かれた吉野・大峯系統の修験道の中本山であった。伊勢山上は山奥の行場というイメージが強いが、里山を西に越えれば一志米を吉野や多気に運んだ搬送ルートにあたる白口峠(城口峠)で、里山を東に越えれば矢下御所(城)の谷になり軍事上重要な場所に位置している。この感覚を感じたくて伊勢山上をめぐる山旅に出かけた。
伊勢山上に駐車し裏行場に向かうと道沿いに役行者の石像に大日如来、山の神と修験界のオールスターが出迎えてくれる。達磨岩が見えこの下部の油こぼしが裏行場の入口になる。一枚岩から鎖が下りておりここを登る。登りきると首のない役行者と首のない文殊菩薩が置かれていた。大日如来像と祠に役行者の銅像を過ぎると獅子ヶ鼻で見晴らしが良く岩の上には2体の役行者が置かれている。頂上を少し下った先がわからない。この先はどう見ても切れている。よくわからないので、巻くと切れ落ちた先から鎖が垂れていた。沢に向かって下っていくと対岸に佐田峠への峠路が見えたので乗り換える。
間伐された気持ちのいいい植林を沢沿いに道は続いている。なだらかに稜線を越えるあたりに大日如来の石碑があり佐田峠のようだ。小原町へは沢沿いを下る。道のあたりは自然林で明るい。白口峠を源流に持つ中村川に出ると色づき始めた里のモミジが出迎えてくれた。
小原の里を少し歩き大日如来の石碑や石仏が集められている場所から飯福田川の谷に向けて山を越える。大日如来は太陽をあらわす修験道では中心的な仏で、峠の守りとして置かれたのだろう。こしろ(古城)峠越えは、地図に載っていない林道がいくつか伸びていてややこしかった。破線道の古道は林道になっている所があるかと思えば、林道にならずに残っている所があったりとルート取りに気を使った。峠からはZTVの看板を目印に歩くと古道を使って後山の里に下っていける。里に近づくにつれ石積みの道や石積みの耕作地跡が出てきて最後は山の神に導かれて里に着いた。
後山ではサルスベリや大イチョウの紅葉が見ごろを迎えていた。後山という地名の名付け親は役行者だそうだ。東谷に入る道の先から遠見古道に入る。谷を一直線に登り遠見峠を越えて与原の里に向かう道で、子どもたちが柚原の小学校に通うのに使った道だ。道はゆっくりと無駄なく上って行き、峠付近では水平道となって高低差を感じさせないすばらしい道がのこっている。小学生が雨の日も風の日も通う山道だけに思いを込めて整備された道だということが歩いていて伝わってくる。途中にタイヤの付いた鉄製の大八車があったが、昔はこれで荷物を運搬できた道だったようだ。遠見峠には大日如来の石碑があり神島に向かって置かれていたようだが、今は無い。林道に出てしばらくすると堀坂峠から下ってくる道に合流した。
与原の里はのどかな山里といった感じだが、おおきな倉を持った家が何件かある。多気御所をとりまく山村には不釣り合いな倉を持つ旧家がそこかしこに見かけられる。北畠氏の家臣の末裔なのだろう。石の古い道標をすぎると天台真盛宗の寺があった。天台真盛宗は本来神仏習合の色合いの濃い修験の宗派で、北畠氏と深いかかわりがあった。秋真っ盛りの与原の里から飯福田寺に向けて車道を歩き、途中から貝坂峠の古道に入る。ここも昔は小学校の通学路だったそうで、コンクリートの道が細く続いていた。この道は国学者の本居宣長が多気を経て吉野に向かうときに歩いた道で、北畠氏の家臣の末裔と自任する宣長にとっては感慨深いものがあっただろう。峠を下っていくと達磨岩が見えてきた。伊勢山上は近い。
入山受付で飯福田寺のお坊さんに裏行場の首のない石像のことを聞くと、「風化によるもの」だそうだ。なおも「風化ということは、その石像がもろかったということか。」と聞くと寄進者が持ってくる石像なので様々な物があるのだろうとの事だった。表行場にもいくつか同じような石像があるとの事だった。最初に首のない石像を見たときは明治に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのかと思ったが、そうではなかった。
飯福田寺は701年に役行者が山の岩窟で百日間修行を行ったことにより開かれ、北畠氏の祈祷寺として全盛を極めた。岩屋本堂には役行者が祀られている。表行場には寄進されたたくさんの石像が置かれているが、その中でも役行者の数は群を抜いている。行場には鎖で強引に下ろす場所もあるが、山登りの自分の感覚を信じ順路と迂回路を使い分けた。この日も沢靴だったので、足裏の感覚が伝わりやすく充分に遊ばせてもらった。
全ての行場を過ぎ下向道を下ると薬師堂が見えてきた。そこには何もない平地があり白山比咩神社跡と書かれた杭が打たれ、その先には百段は優に超える立派な階段の参道がのびていた。七白山のひとつであった飯福田寺の白山比咩神社で、神仏習合の象徴のような場所だ。明治の廃仏毀釈の嵐を受け、飯福田寺から白山比咩神社ははがされ七白山の内のどこかの白山比咩神社に合祀されたようだ。
伊勢山上を取り巻く山路と里をめぐり、修験道の残り香と北畠氏の影を強く感じた。450年の時を経てこうした感覚を味わえるとは思ってもみなかった。
【山 域】高見山地
【コース】飯福田寺駐車場8:20---9:50小原町---11:00後山町---11:45与原町---12:30飯福田寺---14:00飯福田寺駐車場
【メンバー】単独
伊勢国司として250年間南伊勢を治めた北畠氏は多気御所(美杉)に拠点を置き、関所などの重要な所には修験寺院や御所や道場という山伏達の集まる場を設けていた。伊勢山上飯福田寺は南朝の置かれた吉野・大峯系統の修験道の中本山であった。伊勢山上は山奥の行場というイメージが強いが、里山を西に越えれば一志米を吉野や多気に運んだ搬送ルートにあたる白口峠(城口峠)で、里山を東に越えれば矢下御所(城)の谷になり軍事上重要な場所に位置している。この感覚を感じたくて伊勢山上をめぐる山旅に出かけた。
伊勢山上に駐車し裏行場に向かうと道沿いに役行者の石像に大日如来、山の神と修験界のオールスターが出迎えてくれる。達磨岩が見えこの下部の油こぼしが裏行場の入口になる。一枚岩から鎖が下りておりここを登る。登りきると首のない役行者と首のない文殊菩薩が置かれていた。大日如来像と祠に役行者の銅像を過ぎると獅子ヶ鼻で見晴らしが良く岩の上には2体の役行者が置かれている。頂上を少し下った先がわからない。この先はどう見ても切れている。よくわからないので、巻くと切れ落ちた先から鎖が垂れていた。沢に向かって下っていくと対岸に佐田峠への峠路が見えたので乗り換える。
間伐された気持ちのいいい植林を沢沿いに道は続いている。なだらかに稜線を越えるあたりに大日如来の石碑があり佐田峠のようだ。小原町へは沢沿いを下る。道のあたりは自然林で明るい。白口峠を源流に持つ中村川に出ると色づき始めた里のモミジが出迎えてくれた。
小原の里を少し歩き大日如来の石碑や石仏が集められている場所から飯福田川の谷に向けて山を越える。大日如来は太陽をあらわす修験道では中心的な仏で、峠の守りとして置かれたのだろう。こしろ(古城)峠越えは、地図に載っていない林道がいくつか伸びていてややこしかった。破線道の古道は林道になっている所があるかと思えば、林道にならずに残っている所があったりとルート取りに気を使った。峠からはZTVの看板を目印に歩くと古道を使って後山の里に下っていける。里に近づくにつれ石積みの道や石積みの耕作地跡が出てきて最後は山の神に導かれて里に着いた。
後山ではサルスベリや大イチョウの紅葉が見ごろを迎えていた。後山という地名の名付け親は役行者だそうだ。東谷に入る道の先から遠見古道に入る。谷を一直線に登り遠見峠を越えて与原の里に向かう道で、子どもたちが柚原の小学校に通うのに使った道だ。道はゆっくりと無駄なく上って行き、峠付近では水平道となって高低差を感じさせないすばらしい道がのこっている。小学生が雨の日も風の日も通う山道だけに思いを込めて整備された道だということが歩いていて伝わってくる。途中にタイヤの付いた鉄製の大八車があったが、昔はこれで荷物を運搬できた道だったようだ。遠見峠には大日如来の石碑があり神島に向かって置かれていたようだが、今は無い。林道に出てしばらくすると堀坂峠から下ってくる道に合流した。
与原の里はのどかな山里といった感じだが、おおきな倉を持った家が何件かある。多気御所をとりまく山村には不釣り合いな倉を持つ旧家がそこかしこに見かけられる。北畠氏の家臣の末裔なのだろう。石の古い道標をすぎると天台真盛宗の寺があった。天台真盛宗は本来神仏習合の色合いの濃い修験の宗派で、北畠氏と深いかかわりがあった。秋真っ盛りの与原の里から飯福田寺に向けて車道を歩き、途中から貝坂峠の古道に入る。ここも昔は小学校の通学路だったそうで、コンクリートの道が細く続いていた。この道は国学者の本居宣長が多気を経て吉野に向かうときに歩いた道で、北畠氏の家臣の末裔と自任する宣長にとっては感慨深いものがあっただろう。峠を下っていくと達磨岩が見えてきた。伊勢山上は近い。
入山受付で飯福田寺のお坊さんに裏行場の首のない石像のことを聞くと、「風化によるもの」だそうだ。なおも「風化ということは、その石像がもろかったということか。」と聞くと寄進者が持ってくる石像なので様々な物があるのだろうとの事だった。表行場にもいくつか同じような石像があるとの事だった。最初に首のない石像を見たときは明治に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのかと思ったが、そうではなかった。
飯福田寺は701年に役行者が山の岩窟で百日間修行を行ったことにより開かれ、北畠氏の祈祷寺として全盛を極めた。岩屋本堂には役行者が祀られている。表行場には寄進されたたくさんの石像が置かれているが、その中でも役行者の数は群を抜いている。行場には鎖で強引に下ろす場所もあるが、山登りの自分の感覚を信じ順路と迂回路を使い分けた。この日も沢靴だったので、足裏の感覚が伝わりやすく充分に遊ばせてもらった。
全ての行場を過ぎ下向道を下ると薬師堂が見えてきた。そこには何もない平地があり白山比咩神社跡と書かれた杭が打たれ、その先には百段は優に超える立派な階段の参道がのびていた。七白山のひとつであった飯福田寺の白山比咩神社で、神仏習合の象徴のような場所だ。明治の廃仏毀釈の嵐を受け、飯福田寺から白山比咩神社ははがされ七白山の内のどこかの白山比咩神社に合祀されたようだ。
伊勢山上を取り巻く山路と里をめぐり、修験道の残り香と北畠氏の影を強く感じた。450年の時を経てこうした感覚を味わえるとは思ってもみなかった。