【鈴鹿】孫太尾根の牛道 福岡野につづく道11
Posted: 2023年7月16日(日) 17:56
【日 付】2023年7月15日(土)
【山 域】鈴鹿
【コース】上平溜7:45---9:45追分---12:10孫太夫山---14:45上平溜
【メンバー】単独
治田鉱山は藤原岳周辺の銀・銅山の総称で、元禄時代に「特に南河内における採掘が繁昌し、その製錬のため江州の木立や根までも掘りつくしてしまったので、三日三夜で道をつけ福岡野まで鉱石を運び出し、伊尾熊野から木炭を買い上げて灰吹きをはじめた。」といわれている。文政6年(1823)の南河内山全図では孫太尾根について「此ノ道往古盛山之節、蛇谷ヨリ鉑石福岡野へ牛馬ニテ運石乃節切開タル古道也、大谷桃ノ木尾道ト申伝」と説明している。いずれにしても製錬する場所の無かった蛇谷や多志田谷、製錬する燃料が枯渇した南河内など、その時々の必要性に応じて孫太尾根の牛道は鉱石を運ぶ道として製錬所のある福岡野につづいていた。
一之坂から大谷林道を三之坂まで上り詰めると広い大地で、ここが福岡野だ。戦前までカラミ(製錬で出るカス)の大山が所々にあり石金山と呼ばれていたが、戦時中に再製錬のために四日市の石原産業に搬出された。上平溜に駐車する。ここに来たのは14年ぶりで、この時の山行記録「福岡野につづく道」がヤブコギネットへの初稿だった。
林道を少し上り、谷筋に下りていく道から谷を渡り尾根に上り返すと溝道があった。桃ノ木尾の牛道で、下っているので追うと道は途切れ鉱石を落とした跡があった。高低差のある場所で鉱石を落とし下部で運びなおすオトシになっている。ここが、桃ノ木尾の牛道のはじまりになる。植林の尾根を牛道は稜線を巻いたり、急な斜面は九十九折を使って難なく上って行く。自生のヒイラギの目につく尾根を上ると林道に出た。
スパッツに違和感があるので見るとヒルが潜り込んでいた。天候もガスっていてヒルにとっては最高の条件で、この日一日ヒルに悩まされることになる。再度尾根に入るが牛道は問題なく続いている。山林業者にとって溝道はジャマなようで伐採した木や枝のゴミ捨て場のようになっている。その先には岩が溝道を埋めている。14年前来たときはきれいに九十九折状に並んでいたが、草が生い茂ったり斜面が崩れたりと、岩がやたらの目立つ場所になっている。現状を見ただけでは牛道跡とは思わないだろう。上がると林道で、岩の塊は林道を通すのに発破をかけた大岩の残骸だ。
林道終点まで歩き杣道で尾根に復帰する。林道終点の尾根上まで牛道が来ているので、牛道は林道に沿って続き林道上の尾根に途中で乗るようにつけられていたのだろう。標高点500周辺のタイラは見通し良く開けており桃ノ木尾で唯一の広い平地だ。往来の激しい牛道の交差点のような役割とともに牛の泊り場として使われたように思われる。ゆるやかな尾根を上り、稜線をトラバースしながら進むと、追分で孫太尾根の登山道に合流する。桃ノ木尾へのルートにはトラロープが張られており行けないようにしてある。これでは追分にならない。
孫太尾根は昔はよく来たが、人が押し寄せるようになってから足が遠のいていたので久しぶりだ。最初の目的地ツヅラ尾を目指す。多志田谷鉱山の山神谷の鉱石を運んだ人足道が牛道に続いている。ツヅラ尾手前の稜線下にテープがあるので行ってみると、鉱山専用道路が直下まできている。地図の位置より上部まで道路が伸びている。ツヅラ尾を下るがしばらくすると寸断されていた。この尾根は本来は九十九尾で、九十九折の道が続いていたのだろう、ここまで開発が早いとは思っても見なかった、来るのが遅かった。
孫太尾根の牛道は残っている。標高785mトラバース道や標高834m(草木)迂回路は牛道をそのまま使っている。平らな尾根はそのまま使い、高低差のある稜線は迂回するなど牛道の特徴がよく出ている。草木の迂回路は以前は浮石が多かったが、今は歩く人も多く快適だった。多志田谷に下る人足道のある孫太夫尾を過ぎ、多志田山の迂回路に入る。しっかりとした感じで道が続いているが途中で道が落ちていてやもなく巻き上がり登山道で多志田山に着いた。
県境稜線に沿って下りきると迂回路の合流地点に着いた。ここから尾根上に溝道が残っている。しばらく進むと多志田山の迂回路方面が見えてきた。途中で大規模に山抜けしており通れない。以前は細々と迂回路はつながっており牛道の痕跡を追うことが出来たが、難しくなった。県境稜線の牛道は蛇谷側につけられており、掘割に着いた。掘割は青川側に下ると南河内鉱山に滋賀県側に下ると蛇谷鉱山につながる峠になっている。この先にも道標のある峠があり同じようにつながっている。ここにある小高い山が孫太夫山で、ここまで牛道はつながっていた。わらむしろを使った叺(かます)に鉱石を詰め、牛は30貫(約113kg)の荷を背負えたようだ。
孫太夫というのは新町新田の創始者東松孫太夫からきている。孫太尾根の牛道と深い関わりがあったようで、牛道の最終地点の山(孫太夫山)と多志田谷に下る人足道の尾根(孫太夫尾)に名前がつけられている。巨大な尾根には略称の孫太尾根としているのがおもしろい。
桃ノ木尾から追分を経て孫太尾根、多志田山を青川側に迂回して県境稜線につながり孫太夫山まで牛道はつながっていた。江戸時代の牛道が残っていることも驚きだが、桃ノ木尾から追分までの牛道がすばらしい。牛は急な坂道でも荷を背負ったまま上り下りできるので峠道に適している。特に桃ノ木尾のように急激に高度を下げる場所では牛道を上手につけることにより牛の力を引き出せる。桃ノ木尾の牛道はその特徴をよく表しており、映画「もののけ姫」でタタラ場に牛の隊列が物を運んでいる光景が自然と浮かび上がってくる。江戸時代に大谷桃ノ木尾道と呼ばれただけの存在感があった。
【山 域】鈴鹿
【コース】上平溜7:45---9:45追分---12:10孫太夫山---14:45上平溜
【メンバー】単独
治田鉱山は藤原岳周辺の銀・銅山の総称で、元禄時代に「特に南河内における採掘が繁昌し、その製錬のため江州の木立や根までも掘りつくしてしまったので、三日三夜で道をつけ福岡野まで鉱石を運び出し、伊尾熊野から木炭を買い上げて灰吹きをはじめた。」といわれている。文政6年(1823)の南河内山全図では孫太尾根について「此ノ道往古盛山之節、蛇谷ヨリ鉑石福岡野へ牛馬ニテ運石乃節切開タル古道也、大谷桃ノ木尾道ト申伝」と説明している。いずれにしても製錬する場所の無かった蛇谷や多志田谷、製錬する燃料が枯渇した南河内など、その時々の必要性に応じて孫太尾根の牛道は鉱石を運ぶ道として製錬所のある福岡野につづいていた。
一之坂から大谷林道を三之坂まで上り詰めると広い大地で、ここが福岡野だ。戦前までカラミ(製錬で出るカス)の大山が所々にあり石金山と呼ばれていたが、戦時中に再製錬のために四日市の石原産業に搬出された。上平溜に駐車する。ここに来たのは14年ぶりで、この時の山行記録「福岡野につづく道」がヤブコギネットへの初稿だった。
林道を少し上り、谷筋に下りていく道から谷を渡り尾根に上り返すと溝道があった。桃ノ木尾の牛道で、下っているので追うと道は途切れ鉱石を落とした跡があった。高低差のある場所で鉱石を落とし下部で運びなおすオトシになっている。ここが、桃ノ木尾の牛道のはじまりになる。植林の尾根を牛道は稜線を巻いたり、急な斜面は九十九折を使って難なく上って行く。自生のヒイラギの目につく尾根を上ると林道に出た。
スパッツに違和感があるので見るとヒルが潜り込んでいた。天候もガスっていてヒルにとっては最高の条件で、この日一日ヒルに悩まされることになる。再度尾根に入るが牛道は問題なく続いている。山林業者にとって溝道はジャマなようで伐採した木や枝のゴミ捨て場のようになっている。その先には岩が溝道を埋めている。14年前来たときはきれいに九十九折状に並んでいたが、草が生い茂ったり斜面が崩れたりと、岩がやたらの目立つ場所になっている。現状を見ただけでは牛道跡とは思わないだろう。上がると林道で、岩の塊は林道を通すのに発破をかけた大岩の残骸だ。
林道終点まで歩き杣道で尾根に復帰する。林道終点の尾根上まで牛道が来ているので、牛道は林道に沿って続き林道上の尾根に途中で乗るようにつけられていたのだろう。標高点500周辺のタイラは見通し良く開けており桃ノ木尾で唯一の広い平地だ。往来の激しい牛道の交差点のような役割とともに牛の泊り場として使われたように思われる。ゆるやかな尾根を上り、稜線をトラバースしながら進むと、追分で孫太尾根の登山道に合流する。桃ノ木尾へのルートにはトラロープが張られており行けないようにしてある。これでは追分にならない。
孫太尾根は昔はよく来たが、人が押し寄せるようになってから足が遠のいていたので久しぶりだ。最初の目的地ツヅラ尾を目指す。多志田谷鉱山の山神谷の鉱石を運んだ人足道が牛道に続いている。ツヅラ尾手前の稜線下にテープがあるので行ってみると、鉱山専用道路が直下まできている。地図の位置より上部まで道路が伸びている。ツヅラ尾を下るがしばらくすると寸断されていた。この尾根は本来は九十九尾で、九十九折の道が続いていたのだろう、ここまで開発が早いとは思っても見なかった、来るのが遅かった。
孫太尾根の牛道は残っている。標高785mトラバース道や標高834m(草木)迂回路は牛道をそのまま使っている。平らな尾根はそのまま使い、高低差のある稜線は迂回するなど牛道の特徴がよく出ている。草木の迂回路は以前は浮石が多かったが、今は歩く人も多く快適だった。多志田谷に下る人足道のある孫太夫尾を過ぎ、多志田山の迂回路に入る。しっかりとした感じで道が続いているが途中で道が落ちていてやもなく巻き上がり登山道で多志田山に着いた。
県境稜線に沿って下りきると迂回路の合流地点に着いた。ここから尾根上に溝道が残っている。しばらく進むと多志田山の迂回路方面が見えてきた。途中で大規模に山抜けしており通れない。以前は細々と迂回路はつながっており牛道の痕跡を追うことが出来たが、難しくなった。県境稜線の牛道は蛇谷側につけられており、掘割に着いた。掘割は青川側に下ると南河内鉱山に滋賀県側に下ると蛇谷鉱山につながる峠になっている。この先にも道標のある峠があり同じようにつながっている。ここにある小高い山が孫太夫山で、ここまで牛道はつながっていた。わらむしろを使った叺(かます)に鉱石を詰め、牛は30貫(約113kg)の荷を背負えたようだ。
孫太夫というのは新町新田の創始者東松孫太夫からきている。孫太尾根の牛道と深い関わりがあったようで、牛道の最終地点の山(孫太夫山)と多志田谷に下る人足道の尾根(孫太夫尾)に名前がつけられている。巨大な尾根には略称の孫太尾根としているのがおもしろい。
桃ノ木尾から追分を経て孫太尾根、多志田山を青川側に迂回して県境稜線につながり孫太夫山まで牛道はつながっていた。江戸時代の牛道が残っていることも驚きだが、桃ノ木尾から追分までの牛道がすばらしい。牛は急な坂道でも荷を背負ったまま上り下りできるので峠道に適している。特に桃ノ木尾のように急激に高度を下げる場所では牛道を上手につけることにより牛の力を引き出せる。桃ノ木尾の牛道はその特徴をよく表しており、映画「もののけ姫」でタタラ場に牛の隊列が物を運んでいる光景が自然と浮かび上がってくる。江戸時代に大谷桃ノ木尾道と呼ばれただけの存在感があった。