【鈴鹿】孫太尾根の牛道  福岡野につづく道11

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わりばし
記事: 1767
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

【鈴鹿】孫太尾根の牛道  福岡野につづく道11

投稿記事 by わりばし »

【日 付】2023年7月15日(土)
【山 域】鈴鹿
【コース】上平溜7:45---9:45追分---12:10孫太夫山---14:45上平溜
【メンバー】単独

 治田鉱山は藤原岳周辺の銀・銅山の総称で、元禄時代に「特に南河内における採掘が繁昌し、その製錬のため江州の木立や根までも掘りつくしてしまったので、三日三夜で道をつけ福岡野まで鉱石を運び出し、伊尾熊野から木炭を買い上げて灰吹きをはじめた。」といわれている。文政6年(1823)の南河内山全図では孫太尾根について「此ノ道往古盛山之節、蛇谷ヨリ鉑石福岡野へ牛馬ニテ運石乃節切開タル古道也、大谷桃ノ木尾道ト申伝」と説明している。いずれにしても製錬する場所の無かった蛇谷や多志田谷、製錬する燃料が枯渇した南河内など、その時々の必要性に応じて孫太尾根の牛道は鉱石を運ぶ道として製錬所のある福岡野につづいていた。


孫太尾根の牛道
孫太尾根の牛道

 一之坂から大谷林道を三之坂まで上り詰めると広い大地で、ここが福岡野だ。戦前までカラミ(製錬で出るカス)の大山が所々にあり石金山と呼ばれていたが、戦時中に再製錬のために四日市の石原産業に搬出された。上平溜に駐車する。ここに来たのは14年ぶりで、この時の山行記録「福岡野につづく道」がヤブコギネットへの初稿だった。

 林道を少し上り、谷筋に下りていく道から谷を渡り尾根に上り返すと溝道があった。桃ノ木尾の牛道で、下っているので追うと道は途切れ鉱石を落とした跡があった。高低差のある場所で鉱石を落とし下部で運びなおすオトシになっている。ここが、桃ノ木尾の牛道のはじまりになる。植林の尾根を牛道は稜線を巻いたり、急な斜面は九十九折を使って難なく上って行く。自生のヒイラギの目につく尾根を上ると林道に出た。

 スパッツに違和感があるので見るとヒルが潜り込んでいた。天候もガスっていてヒルにとっては最高の条件で、この日一日ヒルに悩まされることになる。再度尾根に入るが牛道は問題なく続いている。山林業者にとって溝道はジャマなようで伐採した木や枝のゴミ捨て場のようになっている。その先には岩が溝道を埋めている。14年前来たときはきれいに九十九折状に並んでいたが、草が生い茂ったり斜面が崩れたりと、岩がやたらの目立つ場所になっている。現状を見ただけでは牛道跡とは思わないだろう。上がると林道で、岩の塊は林道を通すのに発破をかけた大岩の残骸だ。

 林道終点まで歩き杣道で尾根に復帰する。林道終点の尾根上まで牛道が来ているので、牛道は林道に沿って続き林道上の尾根に途中で乗るようにつけられていたのだろう。標高点500周辺のタイラは見通し良く開けており桃ノ木尾で唯一の広い平地だ。往来の激しい牛道の交差点のような役割とともに牛の泊り場として使われたように思われる。ゆるやかな尾根を上り、稜線をトラバースしながら進むと、追分で孫太尾根の登山道に合流する。桃ノ木尾へのルートにはトラロープが張られており行けないようにしてある。これでは追分にならない。

タイラ
タイラ

 孫太尾根は昔はよく来たが、人が押し寄せるようになってから足が遠のいていたので久しぶりだ。最初の目的地ツヅラ尾を目指す。多志田谷鉱山の山神谷の鉱石を運んだ人足道が牛道に続いている。ツヅラ尾手前の稜線下にテープがあるので行ってみると、鉱山専用道路が直下まできている。地図の位置より上部まで道路が伸びている。ツヅラ尾を下るがしばらくすると寸断されていた。この尾根は本来は九十九尾で、九十九折の道が続いていたのだろう、ここまで開発が早いとは思っても見なかった、来るのが遅かった。

 孫太尾根の牛道は残っている。標高785mトラバース道や標高834m(草木)迂回路は牛道をそのまま使っている。平らな尾根はそのまま使い、高低差のある稜線は迂回するなど牛道の特徴がよく出ている。草木の迂回路は以前は浮石が多かったが、今は歩く人も多く快適だった。多志田谷に下る人足道のある孫太夫尾を過ぎ、多志田山の迂回路に入る。しっかりとした感じで道が続いているが途中で道が落ちていてやもなく巻き上がり登山道で多志田山に着いた。


多志田山の迂回路
多志田山の迂回路

 県境稜線に沿って下りきると迂回路の合流地点に着いた。ここから尾根上に溝道が残っている。しばらく進むと多志田山の迂回路方面が見えてきた。途中で大規模に山抜けしており通れない。以前は細々と迂回路はつながっており牛道の痕跡を追うことが出来たが、難しくなった。県境稜線の牛道は蛇谷側につけられており、掘割に着いた。掘割は青川側に下ると南河内鉱山に滋賀県側に下ると蛇谷鉱山につながる峠になっている。この先にも道標のある峠があり同じようにつながっている。ここにある小高い山が孫太夫山で、ここまで牛道はつながっていた。わらむしろを使った叺(かます)に鉱石を詰め、牛は30貫(約113kg)の荷を背負えたようだ。

県境稜線の牛道
県境稜線の牛道

 孫太夫というのは新町新田の創始者東松孫太夫からきている。孫太尾根の牛道と深い関わりがあったようで、牛道の最終地点の山(孫太夫山)と多志田谷に下る人足道の尾根(孫太夫尾)に名前がつけられている。巨大な尾根には略称の孫太尾根としているのがおもしろい。

孫太夫山
孫太夫山

 桃ノ木尾から追分を経て孫太尾根、多志田山を青川側に迂回して県境稜線につながり孫太夫山まで牛道はつながっていた。江戸時代の牛道が残っていることも驚きだが、桃ノ木尾から追分までの牛道がすばらしい。牛は急な坂道でも荷を背負ったまま上り下りできるので峠道に適している。特に桃ノ木尾のように急激に高度を下げる場所では牛道を上手につけることにより牛の力を引き出せる。桃ノ木尾の牛道はその特徴をよく表しており、映画「もののけ姫」でタタラ場に牛の隊列が物を運んでいる光景が自然と浮かび上がってくる。江戸時代に大谷桃ノ木尾道と呼ばれただけの存在感があった。


sato
記事: 422
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【鈴鹿】孫太尾根の牛道  福岡野につづく道11

投稿記事 by sato »

わりばしさま

こんばんは。
毎日、暑いですね。免疫力が落ちているのか、ひと月前ぐらいから体調を崩してばかりです。
猛暑の三連休、沢登りを愉しまれたのかな、と思いましたが、鉱山道の探索でしたか。

私も学生の頃から、鉱山の歴史に興味を持ち続けています。産業、文化、そして戦争の歴史とともにある鉱物。
むかしむかしから少し前の時代まで、日本のあちこちに鉱山が存在し、
周辺には仕事を求めやって来た人達が中心となった町や集落も存在したのですね。
山登りに出かけた先で鉱山跡に出会っては、あれこれ思いを巡らせています。
アルプスの山中にも鉱山跡がありますね。こんな別天地まで鉱物を求めに来たのですね。

鈴鹿の鉱山は、関西に暮らし始めて知りました。
治田鉱山は、青川上流の南河内山、多志田川上流の多志田山、近江側の蛇谷山など藤原岳周辺の銀銅山の総称なのですね。
青川から治田峠へと、土砂崩れ、土石流でがらりと変わってしまった風景を眺め、
いろいろな思いに駆られながら歩いた日のことを思い出しました。孫太尾根の牛道?ドキドキしながら読ませていただきました。

江戸時代、治田鉱山は、鉱石製錬に使う木炭を得るために、江州の木立や木の根までも堀りつくしてしまうほど繁栄を極めていたのですね。
製錬出来なくなり、三日三夜で麓まで道をつけて鉱石を運び出したとは。福岡野は、大谷林道の溜池の手前でしょうか。
・202の先から取りつく尾根が桃ノ木尾でしょうか。九十九折の道が続いていくすばらしい道だったのですね。
昔の道は、地形を考え上手く利用して作られているなぁ、としみじみと感じます。標高500m付近の平地は牛の泊まり場ですか。なるほど。
「山林業者にとって溝道はジャマなようで伐採した木や枝のゴミ捨て場のようになっている」
山と人の関係の移り変わりというものを考えてしまいます。
孫太尾根との合流地点追分に張られたトラロープは、今は、登山道としての孫太尾根しか道ではありません、
という意味なのですね・・・。

ツヅラ尾、孫太夫尾、孫太尾根から延びる尾根には、それぞれ名前が付いていたのですね。
人とのかかわりの深かった山域ですものね。そして、それぞれの名前に込められた意味がある。
でも、その意味は、時代の流れとともに、変化したり、消えてしまったり。
こうして書き記していただき、ひとつひとつの尾根に思いを馳せることができます。
県境稜線の近江側につけられた道も牛道だったのですね。
孫太尾根の孫太はどういう意味なのだろうと思いつつ、そのままでした。
麓の新町新田の創始者東松孫太夫という人物の名前が由来なのですね。

わりばしさんの孫太尾根探索記から、いろいろなことを考えさせられました。
孫太尾根は、お花の尾根という印象ですが、深い歴史が刻まれた尾根なのですね。
藤原岳一帯の山中には、数千人もの人々が、あちこちから生きるために集まり、様々な思いを胸に鉱山業に従事していたのですね。
産出された鉱物は、その時代の産業や文化の土台となったのですね。
ひとつのお山には、ほんとうにたくさんの物語があるのですね。

そう、「福岡野につづく道11」ということは、今回は、福岡野につづく道の11回目の探索なのでしょうか。
わりばしさんは、14年前に「福岡野につづく道1」をお書きになられ、ヤブこぎネットに初投稿されたのですね。
1から10も、とても興味があります。
レポのページの貼り付け、可能でしたら是非お願いいたします。

sato
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わりばし
記事: 1767
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【鈴鹿】孫太尾根の牛道  福岡野につづく道11

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、satoさん。

私も学生の頃から、鉱山の歴史に興味を持ち続けています。産業、文化、そして戦争の歴史とともにある鉱物。
むかしむかしから少し前の時代まで、日本のあちこちに鉱山が存在し、
周辺には仕事を求めやって来た人達が中心となった町や集落も存在したのですね。
山登りに出かけた先で鉱山跡に出会っては、あれこれ思いを巡らせています。
アルプスの山中にも鉱山跡がありますね。こんな別天地まで鉱物を求めに来たのですね。

山と鉱石との関係は切っても切り離せないです。
山伏にしても鉱脈を探すことが当初の目的だったように
深山に人を分け入らせた大きな理由のひとつです。


鈴鹿の鉱山は、関西に暮らし始めて知りました。
治田鉱山は、青川上流の南河内山、多志田川上流の多志田山、近江側の蛇谷山など藤原岳周辺の銀銅山の総称なのですね。
青川から治田峠へと、土砂崩れ、土石流でがらりと変わってしまった風景を眺め、
いろいろな思いに駆られながら歩いた日のことを思い出しました。孫太尾根の牛道?ドキドキしながら読ませていただきました。

銚子谷の崩壊で土石流が流れ込み風景が一変しました。
福岡野シリーズ番外3「治田鉱山遺跡が消える」に詳しく書いてあります。


江戸時代、治田鉱山は、鉱石製錬に使う木炭を得るために、江州の木立や木の根までも堀りつくしてしまうほど繁栄を極めていたのですね。
製錬出来なくなり、三日三夜で麓まで道をつけて鉱石を運び出したとは。福岡野は、大谷林道の溜池の手前でしょうか。
・202の先から取りつく尾根が桃ノ木尾でしょうか。九十九折の道が続いていくすばらしい道だったのですね。
昔の道は、地形を考え上手く利用して作られているなぁ、としみじみと感じます。標高500m付近の平地は牛の泊まり場ですか。なるほど。

福岡野は大谷林道の溜池の手前の平地で、桃ノ木尾は・202の先から取りつく尾根です。
溝道はしっかり残っていますし、牛道の始まりのオトシの場所もわかりますよ。


桃ノ木尾の牛道
桃ノ木尾の牛道

「山林業者にとって溝道はジャマなようで伐採した木や枝のゴミ捨て場のようになっている」
山と人の関係の移り変わりというものを考えてしまいます。
孫太尾根との合流地点追分に張られたトラロープは、今は、登山道としての孫太尾根しか道ではありません、
という意味なのですね・・・。

白髪峠の牛道も同様にゴミ捨て場になっていました。
使われていない牛道の宿命のようです。
追分という地名があるのにもったいないと思ってしまいます。


追分
追分

ツヅラ尾、孫太夫尾、孫太尾根から延びる尾根には、それぞれ名前が付いていたのですね。
人とのかかわりの深かった山域ですものね。そして、それぞれの名前に込められた意味がある。
でも、その意味は、時代の流れとともに、変化したり、消えてしまったり。
こうして書き記していただき、ひとつひとつの尾根に思いを馳せることができます。
県境稜線の近江側につけられた道も牛道だったのですね。
孫太尾根の孫太はどういう意味なのだろうと思いつつ、そのままでした。
麓の新町新田の創始者東松孫太夫という人物の名前が由来なのですね。

出口幸雄さんという方が地名を掘り起こされたので
治田鉱山の南河内山、多志田山、新町西北地域についてはすべての尾根と谷の地名がわかっています。

ツヅラ尾
ツヅラ尾

わりばしさんの孫太尾根探索記から、いろいろなことを考えさせられました。
孫太尾根は、お花の尾根という印象ですが、深い歴史が刻まれた尾根なのですね。
藤原岳一帯の山中には、数千人もの人々が、あちこちから生きるために集まり、様々な思いを胸に鉱山業に従事していたのですね。
産出された鉱物は、その時代の産業や文化の土台となったのですね。
ひとつのお山には、ほんとうにたくさんの物語があるのですね。

治田鉱山の登場人物はおもしろいですよ。

千姫(家康の孫で秀吉の子の嫁であった千姫が桑名藩に輿入れしたときの化粧代として治田鉱山が桑名藩に譲渡された。)

岡田家(イオングループの創業家。輿入れの際桑名藩の役人として治田に移り住む。)

大野郡右衛門(忠臣蔵の舞台の赤穂藩の家老の息子。藩取りつぶし後一攫千金を狙って山を掘ったが失敗。治田には浅野家の家宝が残されている。)

大岡越前(山田奉行所に赴任していた時に治田鉱山関連の山の訴訟を担当。)

五代アイ(大阪商工会議所初代会頭五代友厚の娘。)

いろんな人が鉱山の魔力に引き寄せられて登場します。


そう、「福岡野につづく道11」ということは、今回は、福岡野につづく道の11回目の探索なのでしょうか。
わりばしさんは、14年前に「福岡野につづく道1」をお書きになられ、ヤブこぎネットに初投稿されたのですね。
1から10も、とても興味があります。
レポのページの貼り付け、可能でしたら是非お願いいたします。

初めて調べなおしました。
番外を含めて13本のレポ書いてますねえ。
お暇なときに読んでみてください。


【 福岡野につづく道シリーズ 】

福岡野につづく道
     http://old.yabukogi.net/forum/25771.html#25771
福岡野につづく道2
     http://old.yabukogi.net/forum/26100.html#26100
福岡野につづく道3
     http://old.yabukogi.net/forum/26474.html#26474
福岡野につづく道4 佐治兵衛鋪見つけたぞ
     http://old.yabukogi.net/patio/read.cgi? ... past&no=62
福岡野につづく道5 新説多志田道と幻の多志田滝
     http://old.yabukogi.net/patio/read.cgi? ... past&no=91
福岡野につづく道6 藤原岳羽瀬尾探索
     https://yabukogi.net/viewtopic.php?f=4&t=230
福岡野につづく道7 藤原岳南東斜面「羽瀬尾」を探る
     https://yabukogi.net/viewtopic.php?f=4&t=449
福岡野につづく道8 大谷道を発見
     https://yabukogi.net/viewtopic.php?f=4&t=572
福岡野につづく道9 大谷道を結ぶ       
     viewtopic.php?f=4&t=907&sid=933d3ff2c50 ... 9a29ca6847
福岡野につづく道10多志田谷を探る
     viewtopic.php?t=1514


番外1  牛道にみちびかれてオフ会へ
       http://old.yabukogi.net/patio/read.cgi? ... ast&no=136 

番外2  治田鉱山の名所めぐり
http://old.yabukogi.net/patio/read.cgi? ... ast&no=336

番外3  治田鉱山遺跡が消える
https://yabukogi.net/viewtopic.php?p=15486#p15486

宮指路
記事: 1008
登録日時: 2011年2月27日(日) 21:13

Re: 【鈴鹿】孫太尾根の牛道  福岡野につづく道11

投稿記事 by 宮指路 »

わりばしさん、こんにちは

10年くらい前にわりばしさんのレポに触発されて、黒川静夫さんの「治田金銀銅山の今昔」という本を読んで大いに興味が沸いたものでした。

その本に青川~檜谷~六ショウ谷~仙右衛門敷~一本杉~七曲のことが手書きの地図で詳しく書かれていたので増々興味が沸きこのコースを辿ってみたものです。

私はその時、七曲りがその広さからてっきり牛道だと思いましたが、ここは「人足道だよ」と教わりましたね。


 
林道を少し上り、谷筋に下りていく道から谷を渡り尾根に上り返すと溝道があった。桃ノ木尾の牛道で、下っているので追うと道は途切れ鉱石を落とした跡があった。高低差のある場所で鉱石を落とし下部で運びなおすオトシになっている。ここが、桃ノ木尾の牛道のはじまりになる。植林の尾根を牛道は稜線を巻いたり、急な斜面は九十九折を使って難なく上って行く。自生のヒイラギの目につく尾根を上ると林道に出た。
桃ノ木尾は辿ったことがないので秋にも行ってみようと思います。



 
スパッツに違和感があるので見るとヒルが潜り込んでいた。天候もガスっていてヒルにとっては最高の条件で、この日一日ヒルに悩まされることになる。

この時期、ヒルの心配をしていたら鈴鹿は歩けません。


再度尾根に入るが牛道は問題なく続いている。山林業者にとって溝道はジャマなようで伐採した木や枝のゴミ捨て場のようになっている。その先には岩が溝道を埋めている。14年前来たときはきれいに九十九折状に並んでいたが、草が生い茂ったり斜面が崩れたりと、岩がやたらの目立つ場所になっている。現状を見ただけでは牛道跡とは思わないだろう。上がると林道で、岩の塊は林道を通すのに発破をかけた大岩の残骸だ。

治田鉱山跡の鉱口はそのほとんどが埋もれてしまいましたが、牛道も同じ運命にあるようです。



 
孫太尾根の牛道は残っている。標高785mトラバース道や標高834m(草木)迂回路は牛道をそのまま使っている。平らな尾根はそのまま使い、高低差のある稜線は迂回するなど牛道の特徴がよく出ている。草木の迂回路は以前は浮石が多かったが、今は歩く人も多く快適だった。


孫田尾根のセツブンソウは絶滅寸前と思い込んでいましたが、結構ネットに上がったいたのでこの春に見に行きました。

その時草木まで行って帰りに下山路の標識があったのでありがたく使わせてもらいました。

県境稜線に沿って下りきると迂回路の合流地点に着いた。ここから尾根上に溝道が残っている。しばらく進むと多志田山の迂回路方面が見えてきた。途中で大規模に山抜けしており通れない。以前は細々と迂回路はつながっており牛道の痕跡を追うことが出来たが、難しくなった。県境稜線の牛道は蛇谷側につけられており、掘割に着いた。掘割は青川側に下ると南河内鉱山に滋賀県側に下ると蛇谷鉱山につながる峠になっている。

蛇谷ではその昔、金が採れたという話もあったそうです。金の採掘場は秘密になっていて一部の者しか知らなかったようです。

この先にも道標のある峠があり同じようにつながっている。ここにある小高い山が孫太夫山で、ここまで牛道はつながっていた。わらむしろを使った叺(かます)に鉱石を詰め、牛は30貫(約113kg)の荷を背負えたようだ。


昨日、たまたま「もののけ姫」の再放送があったので、烏帽子様(女頭領)一行ともののけ姫が一戦を構えた時に牛が荷物を背負って牛道を歩く情景を懐かしく見ていました。


治田鉱山の記録を本にしたらきっと一冊の本になりますね。



                                       宮指路



  
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わりばし
記事: 1767
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【鈴鹿】孫太尾根の牛道  福岡野につづく道11

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、宮指路さん。

10年くらい前にわりばしさんのレポに触発されて、黒川静夫さんの「治田金銀銅山の今昔」という本を読んで大いに興味が沸いたものでした。
その本に青川~檜谷~六ショウ谷~仙右衛門敷~一本杉~七曲のことが手書きの地図で詳しく書かれていたので増々興味が沸きこのコースを辿ってみたものです。
私はその時、七曲りがその広さからてっきり牛道だと思いましたが、ここは「人足道だよ」と教わりましたね。

10年前になりますか。
七曲りも主要な人足道ですから当時はにぎわったんでしょうね。
南河内山の鉱石はここを運びました。


上平溜の祠
上平溜の祠

 
林道を少し上り、谷筋に下りていく道から谷を渡り尾根に上り返すと溝道があった。桃ノ木尾の牛道で、下っているので追うと道は途切れ鉱石を落とした跡があった。高低差のある場所で鉱石を落とし下部で運びなおすオトシになっている。ここが、桃ノ木尾の牛道のはじまりになる。植林の尾根を牛道は稜線を巻いたり、急な斜面は九十九折を使って難なく上って行く。自生のヒイラギの目につく尾根を上ると林道に出た。
桃ノ木尾は辿ったことがないので秋にも行ってみようと思います。

是非行ってみてください。
牛道出発点のオトシから歩くのがおすすめです。


オトシ場
オトシ場

 
スパッツに違和感があるので見るとヒルが潜り込んでいた。天候もガスっていてヒルにとっては最高の条件で、この日一日ヒルに悩まされることになる。

この時期、ヒルの心配をしていたら鈴鹿は歩けません。

この時は酷くて40匹ぐらいにからまれました。 :mrgreen:
学生時代なんかほとんどいなかったのに。

再度尾根に入るが牛道は問題なく続いている。山林業者にとって溝道はジャマなようで伐採した木や枝のゴミ捨て場のようになっている。その先には岩が溝道を埋めている。14年前来たときはきれいに九十九折状に並んでいたが、草が生い茂ったり斜面が崩れたりと、岩がやたらの目立つ場所になっている。現状を見ただけでは牛道跡とは思わないだろう。上がると林道で、岩の塊は林道を通すのに発破をかけた大岩の残骸だ。
治田鉱山跡の鉱口はそのほとんどが埋もれてしまいましたが、牛道も同じ運命にあるようです。

坑口も崖の途中にあるものは残っていますが
かなり消えましたね。
巨大な大通洞坑と隧道が埋もれたのには驚きました。
牛道は尾根上のは残っています。
厄介者扱いですが・・
:roll:

目印のモミの木
目印のモミの木

 
孫太尾根の牛道は残っている。標高785mトラバース道や標高834m(草木)迂回路は牛道をそのまま使っている。平らな尾根はそのまま使い、高低差のある稜線は迂回するなど牛道の特徴がよく出ている。草木の迂回路は以前は浮石が多かったが、今は歩く人も多く快適だった。
孫田尾根のセツブンソウは絶滅寸前と思い込んでいましたが、結構ネットに上がったいたのでこの春に見に行きました。

昔はセツブンソウは普通に見かけました。アワコバイモもあったなあ。

その時草木まで行って帰りに下山路の標識があったのでありがたく使わせてもらいました。

やっぱり牛道は歩きやすいでしょう。
よく考えられています。

県境稜線に沿って下りきると迂回路の合流地点に着いた。ここから尾根上に溝道が残っている。しばらく進むと多志田山の迂回路方面が見えてきた。途中で大規模に山抜けしており通れない。以前は細々と迂回路はつながっており牛道の痕跡を追うことが出来たが、難しくなった。県境稜線の牛道は蛇谷側につけられており、掘割に着いた。掘割は青川側に下ると南河内鉱山に滋賀県側に下ると蛇谷鉱山につながる峠になっている。

蛇谷ではその昔、金が採れたという話もあったそうです。金の採掘場は秘密になっていて一部の者しか知らなかったようです。

蛇谷は銀ですね。
銀が取れなくなって銅に移行していきました。
銀の地表に出ていた鉱脈が蛇に見えたのでしょう。

この先にも道標のある峠があり同じようにつながっている。ここにある小高い山が孫太夫山で、ここまで牛道はつながっていた。わらむしろを使った叺(かます)に鉱石を詰め、牛は30貫(約113kg)の荷を背負えたようだ。

昨日、たまたま「もののけ姫」の再放送があったので、烏帽子様(女頭領)一行ともののけ姫が一戦を構えた時に牛が荷物を背負って牛道を歩く情景を懐かしく見ていました。

このシーンはインパクトがありますね。
タタラ場は福岡野ですか。


治田鉱山の記録を本にしたらきっと一冊の本になりますね。

本は無理ですが、何かの形にはしたいと思っています。

                                    
sato
記事: 422
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【鈴鹿】孫太尾根の牛道  福岡野につづく道11

投稿記事 by sato »

わりばしさま

こんにちは。
「福岡野につづく道」と番外編を載せてくださりありがとうございます。
うれしくて、順番に開いていきました。治田鉱山を深く歩き、じっくりと見て、耳を傾け、調べ上げ、考察し、
文章にまとめることを続けられたわりばしさんの「旅」に心を打たれました。
「見るということは、いたって簡単な行為であるが、その見方には無限のひろがりと深さがある」
「多くの人がいま忘れ去ろうとしていることをもう一度ほりおこしてみたいのは、あるいはその中に、
重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである」
頭の中を、宮本常一の言葉が響き渡りました。
やぶこぎの方々からのコメントも味わい深いですね。刺激になりますね。
ゆっくり、味わいながら読ませてください。

人間の歴史と共にある鉱物。山と鉱石は切っても切り離せない関係。
治田鉱山もいろんな人が鉱山の魔力に引き寄せられ登場したのですね。
信念を貫き通した五代アイの生き様には惹きつけられます。
黒川静夫さんの『伊勢治田金銀銅山の今昔』は、私も読みたいと思ったのですが、古本でも在庫無しで、
滋賀の図書館にも置いていません。
山を歩き、知りたくなったことが出て来た時、こんな本があるのだと知っても、絶版になっている場合が多いです。

山師といえば『黒部の山賊』の中に出てくる話も面白いです。山賊も。
ふっと、思い出し、本棚から引っ張り出し、読みふけってしまいました。

「福岡野につづく道」も、いつでも手に取ることが出来る形になってほしいなぁ、と思います。

sato
アバター
わりばし
記事: 1767
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【鈴鹿】孫太尾根の牛道  福岡野につづく道11

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、satoさん。

「福岡野につづく道」と番外編を載せてくださりありがとうございます。
うれしくて、順番に開いていきました。治田鉱山を深く歩き、じっくりと見て、耳を傾け、調べ上げ、考察し、
文章にまとめることを続けられたわりばしさんの「旅」に心を打たれました。

いえいえ、ありがとうございます。
satoさんのことばがなければ再び見ることの無かったレポもあったので
いいきっかけになりました。
まあ、飽きもせず同じような所歩いていますね。
:mrgreen:

「見るということは、いたって簡単な行為であるが、その見方には無限のひろがりと深さがある」
「多くの人がいま忘れ去ろうとしていることをもう一度ほりおこしてみたいのは、あるいはその中に、
重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである」
頭の中を、宮本常一の言葉が響き渡りました。

宮本常一はよく読みますが、この言葉は知らんかった。
赤松啓介も好きですが・・ :lol:

やぶこぎの方々からのコメントも味わい深いですね。刺激になりますね。
ゆっくり、味わいながら読ませてください。

当時のヤブコギは百花繚乱といった感じで
多くの刺激をもらいました。
ヤブコギがなければここまでしつこく歩かなかっただろうな。


人間の歴史と共にある鉱物。山と鉱石は切っても切り離せない関係。
治田鉱山もいろんな人が鉱山の魔力に引き寄せられ登場したのですね。

いい鉱脈に当たっても長くは続かず
大部分の人が損をして撤退しています。
人生をかけたバクチですね。


蛇谷への道
蛇谷への道

信念を貫き通した五代アイの生き様には惹きつけられます。

もっと肩の力を抜いて生きれば良かったのにと私は思ってしまいます。
お手伝いさんを通じてしか地元の人と話をしなかったようです。


黒川静夫さんの『伊勢治田金銀銅山の今昔』は、私も読みたいと思ったのですが、古本でも在庫無しで、
滋賀の図書館にも置いていません。
山を歩き、知りたくなったことが出て来た時、こんな本があるのだと知っても、絶版になっている場合が多いです。

松阪工業の教員をしながらの労作です。
昔の高校教員には、こういう学者肌の人がいたんだなあ。
治田鉱山の集大成のような本です。
三重県立図書館、松阪市立図書館にあります。
私は、全部コピーしました。


「福岡野につづく道」も、いつでも手に取ることが出来る形になってほしいなぁ、と思います。

なんらかの形でまとめたいと思っています。

宮指路
記事: 1008
登録日時: 2011年2月27日(日) 21:13

Re: 【鈴鹿】孫太尾根の牛道  福岡野につづく道11

投稿記事 by 宮指路 »

治田鉱山跡ファンの皆さん、こんにちは
やぶこぎの方々からのコメントも味わい深いですね。刺激になりますね。
ゆっくり、味わいながら読ませてください。
当時のヤブコギは百花繚乱といった感じで
多くの刺激をもらいました。
ヤブコギがなければここまでしつこく歩かなかっただろうな。


当時はあきたぬきさんも含め私のその一翼を担った感じでした。

人間の歴史と共にある鉱物。山と鉱石は切っても切り離せない関係。
治田鉱山もいろんな人が鉱山の魔力に引き寄せられ登場したのですね。
欲にまみれた人たちが金の魔力に取り付かれて引き寄せられた場所です。


いい鉱脈に当たっても長くは続かず
大部分の人が損をして撤退しています。
人生をかけたバクチですね。
信念を貫き通した五代アイの生き様には惹きつけられます。


五代アイはかつての大阪の豪商五代友厚の娘で治田鉱山が閉山しようとした晩年に最後に大きな資産を叩いて三鉱谷の入口に大通洞杭という大きな坑道を作ったにですがほとんど成果を上げられずに閉山してしまいました。


黒川静夫さんの『伊勢治田金銀銅山の今昔』は、私も読みたいと思ったのですが、古本でも在庫無しで
滋賀の図書館にも置いていません。
山を歩き、知りたくなったことが出て来た時、こんな本があるのだと知っても、絶版になっている場合が多いです。
松阪工業の教員をしながらの労作です。
昔の高校教員には、こういう学者肌の人がいたんだなあ。
治田鉱山の集大成のような本です。
三重県立図書館、松阪市立図書館にあります。
私は、全部コピーしました。




私も当時四日市の図書館から借りて読み漁ったものです。
黒川さんは友人を連れて腰にロープを巻いてさながら洞窟探検のように命がけで坑道を探ったと書かれていました。

その本の中にはっきり描かれていた檜谷~仙右衛門敷~七曲りが印象的で、その跡を追ったものです。
以前は私のレポもたくさん残っていましたが、いつの間にやら下記のレポしか見つかりませんでした。


青川~檜谷~治田峠 - やぶこぎネット (yabukogi.net)
DSCF1169.JPG
DSCF1168.JPG


                                             宮指路
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わりばし
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登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
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Re: 【鈴鹿】孫太尾根の牛道  福岡野につづく道11

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、宮指路さん。

治田鉱山跡ファンの皆さん、こんにちは

ファンって何処にいるのやら。 :mrgreen:
やぶこぎの方々からのコメントも味わい深いですね。刺激になりますね。
ゆっくり、味わいながら読ませてください。
当時のヤブコギは百花繚乱といった感じで
多くの刺激をもらいました。
ヤブコギがなければここまでしつこく歩かなかっただろうな。


当時はあきたぬきさんも含め私のその一翼を担った感じでした。

御池の池探しに巨木探しとヤブコギにはいくつかブームがありましたね。
今や観光地のオハイもここが発信源でした。


黒川静夫さんの『伊勢治田金銀銅山の今昔』は、私も読みたいと思ったのですが、古本でも在庫無しで
滋賀の図書館にも置いていません。
山を歩き、知りたくなったことが出て来た時、こんな本があるのだと知っても、絶版になっている場合が多いです。
松阪工業の教員をしながらの労作です。
昔の高校教員には、こういう学者肌の人がいたんだなあ。
治田鉱山の集大成のような本です。
三重県立図書館、松阪市立図書館にあります。
私は、全部コピーしました。


私も当時四日市の図書館から借りて読み漁ったものです。
黒川さんは友人を連れて腰にロープを巻いてさながら洞窟探検のように命がけで坑道を探ったと書かれていました。

宮指路さんも読まれましたか。
知的好奇心のあるすばらしい皆さんです。
:lol:

その本の中にはっきり描かれていた檜谷~仙右衛門敷~七曲りが印象的で、その跡を追ったものです。
以前は私のレポもたくさん残っていましたが、いつの間にやら下記のレポしか見つかりませんでした。

もう1本レポ見つかりましたよ。

治田鉱山ともののけ姫 viewtopic.php?t=3649

青川~檜谷~治田峠  https://yabukogi.net/viewtopic.php?t=1160

三光谷にあった天聖世音像と石碑が東村の墓地に移されていたので貼っておきますね。

P7150108.JPG
P7150106.JPG
P7150109.JPG
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