【台高】れいふ道 かちんぼう 北畠具教の首
Posted: 2023年6月25日(日) 12:36
【日 付】2023年6月24日(土)
【山 域】台高
【コース】野々口林道駐車場7:35---8:10尾放峠---9:15太陽寺---10:35田引峠---12:35野々口林道駐車場
【メンバー】単独
早朝、宮前にある「れいふみち八十丁」の道標を訪ねる。ここより霊符山太陽寺への参拝道がつながっている。野々口川の出合には馬頭観音と仏像が祀られており道中の安全を祈願したのだろう。林道終点に駐車する。鉄製の橋を渡ると石積みに守られた広い平地があり、何か建物でも立っていたのだろうか。植林の杣道につけられたテープを追う。植林されているために昔からの溝道は時折顔をのぞかせるぐらいだが、参拝道がここを通っていたのは間違いなさそうだ。尾放峠に向かうトラバース道は自然につくられており昔の面影を残している。峠ではお地蔵さんが迎えてくれた。今回歩いた道がれいふ道と考えると谷筋の破線道は本当にあったのかと疑いたくなる。
大台町栗谷に向けて下っていく。ここも植林の杣道で問題なく歩けるものの昔の石積みなどが時折出てくるぐらいだ。植林地では昔の道が消えていることも多く、探しても徒労に終わることが多いので、素直に杣道を下る。不動滝への分岐を経て林道終点に向けて下りはじめると様相が変わり、九十九折の溝道につながった。植林域から下る道は歩きやすく参拝道としての年輪を感じさせてくれる。
溝道をしばらく下ると登山口で林業関係者がチエーンソーを担いで上っていった。谷口集落を過ぎ粟谷に向かう。れいふ道が通っているので、集落のはずれという感じでではなく立派な家が並んでいる。栗谷川沿いには三体の仏像が祀ってあった。太陽寺は伊勢国司北畠親卿が霊符尊神を信仰し殿堂を設立したことに始まる。霊符尊神は北極星を本体として祭っており、漁業関係者に尊崇されている。菊の紋瓦が並ぶ本堂は威厳を感じさせるもののれいふ道がにぎわった当時の姿を想像するのは難しい。
帰路は谷口集落手前で西谷林道に入り田引峠を目指す。田引越は「魚の道」(かちんぼう道)で、大紀町錦から笠木峠を経て薗に入り、江馬へ渡り天ケ瀬・栗谷を過ぎ飯高に入り高見峠を越え大和に通じている。「かちんぼう」とは徒歩荷(かちに)の担い棒で、てんびん棒の両方に竹かごを利用した。ここから運ぶ人のことをかちんぼうと呼び、集団の場合もかちんぼうと呼んだようだ。村を出るときの人数は1単位50人ぐらいを限度とし、その中で数組がグループを作って助け合った。水産物を運ぶために①動物から荷を守る②量が多いことが市場出荷上必要などの理由から生まれた仕組みのようだ。
田引越の破線道は尾根を真っ直ぐに上っており、かちんぼうがスムーズに登れるのかと地図を見て思った。ところが九十九折に無理なく道は尾根につけられており問題ない。最後は田引峠までトラバースしながら美しく続いている。峠には大日如来が祀られており田引に向かう斜面にも九十九折の道があった。
駐車地をめざして稜線ぞいに三条山を目指す。三条山からは登山道テープがたくさんつけられた尾根を下るが、方向が違う。どうやら田引に向けて下るルートが新設されたようだ。すぐに修正して稜線を歩く。テープはあるが歩く人も少なそうだ。尾放峠に着き来た道を戻った。
車で野々口林道を下り、北畠具教の首塚に寄る。天正4年(1576)の三瀬の変により北畠具教は三瀬谷館にて惨殺された。主君の名誉のためにも首を霧山城に持ち帰ろうと、首を持って美杉に向かった。尾放峠を越えここまできたが、霧山城が落城したことがわかり御所尾山の地に埋葬された。首塚からは正面に庄司峠が見える。その先に霧山城があるので、庄司峠の先に見える煙で落城を知ったのだろう。三瀬谷から北畠の祈願所である太陽寺を経て尾放越、荒滝不動を通過し庄司越で霧山城をめざしたのだろう。太陽寺を経ての尾放越の道は北畠具教の首を運んだ軍用路でもあった。太陽寺もこの時に焼失している。そして、三瀬谷館跡には北畠具教の胴塚が残された。
今回めぐった山越えは、信仰の道・さかなみち・軍用路が混在する形で時代を生き延びてきた道だ。
どんな人がどんな思いで山を越えたのか。思いはめぐる。
【山 域】台高
【コース】野々口林道駐車場7:35---8:10尾放峠---9:15太陽寺---10:35田引峠---12:35野々口林道駐車場
【メンバー】単独
早朝、宮前にある「れいふみち八十丁」の道標を訪ねる。ここより霊符山太陽寺への参拝道がつながっている。野々口川の出合には馬頭観音と仏像が祀られており道中の安全を祈願したのだろう。林道終点に駐車する。鉄製の橋を渡ると石積みに守られた広い平地があり、何か建物でも立っていたのだろうか。植林の杣道につけられたテープを追う。植林されているために昔からの溝道は時折顔をのぞかせるぐらいだが、参拝道がここを通っていたのは間違いなさそうだ。尾放峠に向かうトラバース道は自然につくられており昔の面影を残している。峠ではお地蔵さんが迎えてくれた。今回歩いた道がれいふ道と考えると谷筋の破線道は本当にあったのかと疑いたくなる。
大台町栗谷に向けて下っていく。ここも植林の杣道で問題なく歩けるものの昔の石積みなどが時折出てくるぐらいだ。植林地では昔の道が消えていることも多く、探しても徒労に終わることが多いので、素直に杣道を下る。不動滝への分岐を経て林道終点に向けて下りはじめると様相が変わり、九十九折の溝道につながった。植林域から下る道は歩きやすく参拝道としての年輪を感じさせてくれる。
溝道をしばらく下ると登山口で林業関係者がチエーンソーを担いで上っていった。谷口集落を過ぎ粟谷に向かう。れいふ道が通っているので、集落のはずれという感じでではなく立派な家が並んでいる。栗谷川沿いには三体の仏像が祀ってあった。太陽寺は伊勢国司北畠親卿が霊符尊神を信仰し殿堂を設立したことに始まる。霊符尊神は北極星を本体として祭っており、漁業関係者に尊崇されている。菊の紋瓦が並ぶ本堂は威厳を感じさせるもののれいふ道がにぎわった当時の姿を想像するのは難しい。
帰路は谷口集落手前で西谷林道に入り田引峠を目指す。田引越は「魚の道」(かちんぼう道)で、大紀町錦から笠木峠を経て薗に入り、江馬へ渡り天ケ瀬・栗谷を過ぎ飯高に入り高見峠を越え大和に通じている。「かちんぼう」とは徒歩荷(かちに)の担い棒で、てんびん棒の両方に竹かごを利用した。ここから運ぶ人のことをかちんぼうと呼び、集団の場合もかちんぼうと呼んだようだ。村を出るときの人数は1単位50人ぐらいを限度とし、その中で数組がグループを作って助け合った。水産物を運ぶために①動物から荷を守る②量が多いことが市場出荷上必要などの理由から生まれた仕組みのようだ。
田引越の破線道は尾根を真っ直ぐに上っており、かちんぼうがスムーズに登れるのかと地図を見て思った。ところが九十九折に無理なく道は尾根につけられており問題ない。最後は田引峠までトラバースしながら美しく続いている。峠には大日如来が祀られており田引に向かう斜面にも九十九折の道があった。
駐車地をめざして稜線ぞいに三条山を目指す。三条山からは登山道テープがたくさんつけられた尾根を下るが、方向が違う。どうやら田引に向けて下るルートが新設されたようだ。すぐに修正して稜線を歩く。テープはあるが歩く人も少なそうだ。尾放峠に着き来た道を戻った。
車で野々口林道を下り、北畠具教の首塚に寄る。天正4年(1576)の三瀬の変により北畠具教は三瀬谷館にて惨殺された。主君の名誉のためにも首を霧山城に持ち帰ろうと、首を持って美杉に向かった。尾放峠を越えここまできたが、霧山城が落城したことがわかり御所尾山の地に埋葬された。首塚からは正面に庄司峠が見える。その先に霧山城があるので、庄司峠の先に見える煙で落城を知ったのだろう。三瀬谷から北畠の祈願所である太陽寺を経て尾放越、荒滝不動を通過し庄司越で霧山城をめざしたのだろう。太陽寺を経ての尾放越の道は北畠具教の首を運んだ軍用路でもあった。太陽寺もこの時に焼失している。そして、三瀬谷館跡には北畠具教の胴塚が残された。
今回めぐった山越えは、信仰の道・さかなみち・軍用路が混在する形で時代を生き延びてきた道だ。
どんな人がどんな思いで山を越えたのか。思いはめぐる。
「れいふみち八十丁」の道標を訪ねる。ここより霊符山太陽寺への参拝道がつながっている。