【野坂山地】 新緑の海の中、いにしえといまを彷徨う 寒風から抜土の近江と若狭の風景ゆらゆら巡り旅

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sato
記事: 417
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

【野坂山地】 新緑の海の中、いにしえといまを彷徨う 寒風から抜土の近江と若狭の風景ゆらゆら巡り旅

投稿記事 by sato »

【日付】  2023年5月3日(水)
【山域】  野坂山地
【天候】  晴れ
【コース】 マキノ石庭緑ケ池~・749北に突き上げる尾根~・749~イモジャ谷右俣~堀割道~白石平~抜土
     ~川原谷散策~抜土~ヤンゲン谷の西の谷左岸尾根~640mピーク~トチノキ谷~林道~ボンカ谷右岸尾根
    ~ 石庭嶽~寒風~堀割道~西山林道~P


ゴールデンウイークの前の日曜日、バーチャリさんと、マキノから大谷山寒風の山旅を楽しんだ。
その時、ふたりで掬い上げた輝きに導かれるように、9日後、わたしは、また、大谷山の麓へと向かっていた。

今日は、昭和の時代に作られた、緑ケ池という名のため池の駐車場に車を置き、大谷川に沿った廃林道から歩き始める。
マキノは、古代の製鉄の一大拠点だった歴史があり、この川の上流の谷では鉄を採取した鉄穴が見られるそうだ。
製鉄技術は朝鮮から。辺りには渡来人が暮らしていた朝来屋敷跡という地名も残っている。
そして、石庭の人々は、明治の時代まで、この川を遡り、今も残る寒風のうつくしい堀割道に出て、若狭と行き来していたという。
高島に暮らして知った歴史の断片。これからも流れていくかもしれないけれど、ふらふらと彷徨い流れ着いた地のお山と人びとの物語。

かつて、様々な人が行き交った道には、林道が出来、その林道も今は打ち捨てられ、草木が生い茂り、どこからともなく水がしみ出し、
ぐちゃぐちゃで歩きにくい。この土の下には、長い長い歴史が積み重なっているのだと思うと、ちょっとせつなくなる。
わたしは、何故、この地に暮らし、こうして引き寄せられるように山に向かい、
わたしの知らない誰かの痕跡を、お山の物語を、感じたいと思うのだろう。
草の下の泥濘にズボズボと押されているシカの足跡を長靴で踏み、ぼんやり考えながら歩いていると、左に谷が見えた。

あっ、ここだ。我に返り、対岸のひんやりとした植林の尾根に取りつく。
ガサガサと積もった湿気を含んだ杉の落ち葉と枝が発した、墨汁のような匂いが漂う斜面を適当に上へと向かっていくと、
尾根の形になり、しばらく登ると、前方に色鮮やかな緑の葉が見え、爽やかな空気に包まれた。

あれっ?標高を確認すると420m。何度も何度も仰ぎ見ているお山。
上部は自然林と分かっているけれど、こんなに早く植林を抜けるとは。道はないけれどヤブもない。
思わず笑みがこぼれ、すっとした白い雲がたなびく水色の空と、ひょろりと立つ木々の瑞々しい青葉を見上げながら、
からりと明るいゴロゴロとした石と木の根っこが出た尾根を登っていく。

標高600mになると、左斜面は植林が見られるが、尾根から右側は清々しいブナ林に。
足元の先にはイワカガミの群落が続いていく。えっ?と驚き、わぁ、とよろこびが湧き上がる。
地図を見ると、寄り道するところはありません、まっ直ぐひたすら登りなさい、
といわんばかりの急こう配のそっけない形の尾根。うっとりする風景は思い描いていなかった。

思い思いの方向に気持ちよさげに枝を伸ばしたブナの木々は、5月の爽やかな風に若葉を泳がせ、今を謳歌している。
ピンク色のイワカガミ達は、こそこそお山の楽しい内緒話をするように微かに微かに揺れている。
あまりにもうれしくて「ねぇ、ねぇ、ねぇ、なんて素敵なの」ブナの木に、イワカガミに、お山に、呼びかけてしまう。

あっちを見たり、こっちを見たり、振り返ったり、ゆらりゆらりと歩みを進めていくと、右斜面に一本の線が見えた。
か細いけれど人が作った道だ。尾根には道は残っていないのに、何故ここだけ?炭焼き窯のある谷に降りる道か。
辿ってみるが、10mほどで道は消えていた。急斜面なので無理せずに尾根に戻る。

傾斜が緩くなったと思ったら、すぅっと・749北の鞍部に立っていた。
ここから、バーチャリさんとしあわせに包まれながら歩いた道へと向かう。
どこから行こう。谷に入りかけたが気が変わり、・749から植林の尾根を下っていく。眼下に流れが見えた。
深呼吸して、ゆっくりと、はやる気持ちを抑え、ゆっくりと、しんとした透明な世界の、静かな穏やかな流れに近づいていく。

河川争奪によってマキノを流れる百瀬川(天井川になっているけれど)の上流となった川原谷の右俣の、
イモジャ谷右俣の標高700m二俣。そこは、どこまでも静謐で透明な、山と人が織りなしたうつくしい世界が展開している。
絶妙な線を描く谷には、優美に立ち並ぶブナの木々。左俣の入り口には土に埋もれた炭焼き窯跡が。
そして谷にはさまれたブナの小尾根には、イワカガミに飾られた堀割道がやわらかに浮かんでいる。
道や炭焼き窯は、人間の目的のために作られたものだけど、お山と人のこころが見事に融けあうと、
こんなにも妙なる世界を描き出すのだ。谷に降り立ち、手のひらを握りしめ、今日も感動をかみしめる。

この堀割道も、石庭と若狭を結ぶ交易の道であり、山仕事の道であった、いにしえの道。
堀割は深いところでは背丈を超え、絶妙な勾配で九十九折に尾根を縫っていき、
人びとの切実な思いのこもった道だったことが、しみじみと感じる。
傍らには、9日前は、つぼみだったイワカガミが咲き並び、ブナの木の無数の若葉からこぼれ落ちた光を受け、きらきらと輝いている。
いろいろな思いを抱えた人々が歩いた道を、同じようにいろいろな思いを抱えたわたしが、ゆっくりと登っていく。

ブナの森を抜けると灌木帯に。空が迫り、近江と若狭の国境稜線に出た。
周辺は、石灰岩がゴロゴロと露出する草原地で、白石平と呼ばれている。稜線も、西は近江坂、北は粟柄越を結ぶ重要な道だった。
昭和16年まで、近江の石庭と若狭の松屋の村人が、毎年、田植えの終わった時期に、ここ白石平に集まり、道普請したという。
眩い緑の雲谷山の向こうに青い海が見える。若狭湾だ。
振り返ると、青い海をちょっと薄めたような色の、近江の人びとが「うみ」と呼ぶ琵琶湖が、眼下におおきく広がる。
穏やかに光る海とうみ。ふたつのうみを、かわるがわる眺めながら、その煌めきに、変わりゆく時の中の、変わらぬ光と影を見る。

9日前は、稜線を北上したが、今日は西へと向かう。
寒風から抜土という名の峠にかけての尾根と谷とブナの森が描き出す風景は、四季折々味わい深い。
やっぱり、まっすぐに歩けない。ふっと物語を感じて、ゆらゆらと彷徨ってしまう。
抜土の手前で道はふたつに分れる。国境の右の道に進み、車道が横切る峠に出る。

急峻な川原谷と粟柄谷の源頭は、たおやかなやさしい地形が広がり、車道が通る前の風景を想像してしまう。
ずっと気になっている若狭側を歩き回りたい気持ちに駆られたが、車道を西に少し進み、川原谷源頭の薄暗い杉林に入る。
ちょこっと歩くと、眩い光の中に飛び出た。
DSC_0134_1.JPG
百瀬川源流域のやわらかな地形に導かれるように、ある年の萌え出づる春の頃、近江坂の途中から、ここから下ってみようと、
シャクナゲが行く手を遮るヤブ尾根に入り、広い谷に降り立った。そこは幾筋もの小川が流れる光溢れる湿原地。
牧歌的な風景が広がっていた。谷のまわりは植林地になっていて、整地された地面に暮らしの匂いを感じた。
思いもがけない風景に出会えたよろこびと謎に包まれ、夢見心地で源流へと歩いていった。

その日出会った風景が忘れられず、後日、図書館でマキノの村誌を借りて読み、百瀬川上流域(川原谷上流)には、
かつて集落が点在し、田んぼも広がっていたことを知った。
マキノ森西の北西の△680.3原山南の鞍部、原山峠の辺りには人家があり、
イモジャ谷を下った川原谷で隠し田を営んでいたという歴史はその前に知ったが、その上流にも集落があり、
道は抜土へと続き、近江坂へと繋がっていたのだ。

歩いて出会った風景が、出会って知った歴史のひとかけらが、こころの中で光を放ち、次、また次の山旅へといざなう。
旅から旅へゆらゆら漂い、そして今日、過ゆく春と来たる夏の光に包まれ、いにしえの道を東から辿り、
今は長閑な湿原地となった、かつての水無村に、また足を踏み入れていたのだった。

長靴を履いてきたので、思うままに広い谷間を散策する。
さらさらと流れる小川を眺めていると、原山の田んぼの跡まで下りたくなったが、今日はここまで、と、
・567先のちょっと谷が狭まったあたりで引き返す。左岸の植林を見渡しながら歩いていると、うっすらとした道の痕跡と、
少し枯れかけたピンク色の花をたくさんつけた2,3本のシャクナゲの木を目が捉えた。ここに家が建っていたのだろうか。
きっと、そうに違いない。この地に生きた誰かが庭先に植えたシャクナゲ。
主無き後も、かつての風景を思い出すように春に花を咲かせているのだ、と思う。

車道からは、下った尾根の南の尾根を登り国境稜線に戻る。ここから、若狭側、ヤンゲン谷の西の谷の細長い左岸尾根を下る。
昨年の11月にヤンゲン谷を訪れた時、錦繍の衣を纏った640mピークに目が釘付けになり、いつか登ろうと思っていたのだった。
この尾根も清々しいブナ林が続いていく。杣道も残っていた。

標高650mあたりからヤブっぽくなり道も不明瞭になったが、630mあたりで、ハッと立ち尽くす。
ブナの巨樹が、尾根の横にどっしりと根を張っていた。
Kさんと割谷の頭から南西の尾根を下り、出会ったブナの木よりもおおきい。胸高周囲を調べよう。
リュックから細引きを出して、落ちていた枝を支点にして、ぐるりと幹を一周させ片結びする。
(帰宅して測ると3、5m。野坂山地で、3mを超えるブナの巨樹はなかなか見られない)

640mピークは、大きなブナが立ち並ぶ清々しいお山だった。あぁ、思った通り。
うれしくて、ここでお昼ご飯にしようかな、と思ったが、やっぱりあの場所で、と北の端まで進み、
木の幹を掴みながら、急斜面をトチノキ谷へと下っていく。
苔むした岩。やわらかな流れ。道路が通されてしまっても、尚もやさしく輝く奇跡のような谷の、
あの日も今日も静かに谷を見つめる思い出のトチの木の下で、ふぅ、と腰を下ろす。

ひとりの山歩きは、ゆらゆらゆらり。今日も、あっちに、でも、やっぱりこっちに、の繰り返し。
やさしさに包まれ、このままトチノキ谷を遡りたくなったが、やっぱり、と車道によじ登り、
北上して、・625の手前の谷から尾根に取りつき、標高780m石庭嶽へと向かう。
ヤンゲン谷を遡った帰りに出会い、後日750m地点まで辿った寒風から続いていく堀割道の下部を確認したかったのだ。

取りついた尾根は、荒れた植林でヤブっぽく、道は見当たらなかった。
枝を払いのけ、倒木をまたぎながら登っていくと、標高670mあたりで地図には記されていない林道に出た。
あれっ?ここまで楽に来られたのか。道は標高690mあたりまで延びていた。

ここからは、また瑞々しい緑の海へ。
目の覚めるような若緑色のハウチワカエデが立ち並ぶゆるやかなうねりの中には、一本の道が描かれていた。
細いけれど確かな道。粟柄谷を見て、粟柄村とを結ぶ道は、北尾根かなと思ったけれど、
山仕事の道に出会い、うれしくなる。ゆるりゆるりと道を辿っていくと、見覚えのある地形が現れ、石庭嶽山頂に着いた。
あぁ、戻ってきたのだなぁ、という感慨に包まれる。でも、どこに戻ってきたのだろう。チラッと考える。

バーチャリさんと、イワカガミに縁どられた見事な堀割道から、うっとり見上げた芽吹きのブナの木々は、
爽やかな緑の葉へと装いを変え、その隙間から差し込んだ木漏れ日が、落ち葉の折り重なった道にうつくしい陰影を描き出していた。
ここのイワカガミは、バーチャリさんがおっしゃった通り、あんまりお花を咲かせていなかった。
こんなに咲いているのだ、と感激した寒風のカタクリは、まだちょこっと残っていた。

登山者で賑わう堀割道を下っていく。うつくしいブナ林の広い尾根に、緩やかに丁寧に掘り込まれた道。
その道は、高機能の靴を履き、日帰りで山頂に登ることを目的とした登山者には緩やかすぎるのだろう。
途中から、ショートカットの道が出来ている。
道の役割の移り変わり、歩きやすい道というものの移り変わりは、わたしの足裏も感じている。
いにしえの道に思いを巡らせながら、堀割の道をうつくしいと思いながら、しっかりと新たな道を歩いていた。

分岐からも、車を置いた緑ケ池まで、いにしえの道を辿って戻ろうと思ったが、
やっぱり、と、打ち捨てられた林道ではなく、尾根道の方に進んでいた。
この林道は、次また歩くのだ。今日歩いて出会った風景が、早くも次の山旅へ、いざなっているのを感じた。

sato
DSC_0143_1.JPG
アバター
わりばし
記事: 1753
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【野坂山地】 新緑の海の中、いにしえといまを彷徨う 寒風から抜土の近江と若狭の風景ゆらゆら巡り旅

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、satoさん。

マキノは、古代の製鉄の一大拠点だった歴史があり、この川の上流の谷では鉄を採取した鉄穴が見られるそうだ。
製鉄技術は朝鮮から。辺りには渡来人が暮らしていた朝来屋敷跡という地名も残っている。

鉄に関連の深い白髭神社がありますよね。
四日市にも白髭神社があって、上流部の水沢の水銀が関係している気がしてます。


標高600mになると、左斜面は植林が見られるが、尾根から右側は清々しいブナ林に。
足元の先にはイワカガミの群落が続いていく。えっ?と驚き、わぁ、とよろこびが湧き上がる。
地図を見ると、寄り道するところはありません、まっ直ぐひたすら登りなさい、
といわんばかりの急こう配のそっけない形の尾根。うっとりする風景は思い描いていなかった。

思いがけない発見でよかったですね。
自分しか知らない秘密の場所というのはいいもんです。


河川争奪によってマキノを流れる百瀬川(天井川になっているけれど)の上流となった川原谷の右俣の、
イモジャ谷右俣の標高700m二俣。そこは、どこまでも静謐で透明な、山と人が織りなしたうつくしい世界が展開している。
絶妙な線を描く谷には、優美に立ち並ぶブナの木々。左俣の入り口には土に埋もれた炭焼き窯跡が。
そして谷にはさまれたブナの小尾根には、イワカガミに飾られた堀割道がやわらかに浮かんでいる。
道や炭焼き窯は、人間の目的のために作られたものだけど、お山と人のこころが見事に融けあうと、
こんなにも妙なる世界を描き出すのだ。谷に降り立ち、手のひらを握りしめ、今日も感動をかみしめる。

炭焼き窯が自然に馴染んでいますね。
コンクリートじゃない石積みだからでしょね。
最近は石積みをながめながら釣りをしています。


ブナの森を抜けると灌木帯に。空が迫り、近江と若狭の国境稜線に出た。
周辺は、石灰岩がゴロゴロと露出する草原地で、白石平と呼ばれている。稜線も、西は近江坂、北は粟柄越を結ぶ重要な道だった。
昭和16年まで、近江の石庭と若狭の松屋の村人が、毎年、田植えの終わった時期に、ここ白石平に集まり、道普請したという。
眩い緑の雲谷山の向こうに青い海が見える。若狭湾だ。
振り返ると、青い海をちょっと薄めたような色の、近江の人びとが「うみ」と呼ぶ琵琶湖が、眼下におおきく広がる。
穏やかに光る海とうみ。ふたつのうみを、かわるがわる眺めながら、その煌めきに、変わりゆく時の中の、変わらぬ光と影を見る。

最近「北山の峠」が定価で手に入り読んでいます。
草川さんやsatoさんが追おうとしたのがわかります。
ところで金久さんって何者なんです・・
文章の知識というかバックボーンがめちゃくちゃ広いですね。


百瀬川源流域のやわらかな地形に導かれるように、ある年の萌え出づる春の頃、近江坂の途中から、ここから下ってみようと、
シャクナゲが行く手を遮るヤブ尾根に入り、広い谷に降り立った。そこは幾筋もの小川が流れる光溢れる湿原地。
牧歌的な風景が広がっていた。谷のまわりは植林地になっていて、整地された地面に暮らしの匂いを感じた。
思いもがけない風景に出会えたよろこびと謎に包まれ、夢見心地で源流へと歩いていった。
その日出会った風景が忘れられず、後日、図書館でマキノの村誌を借りて読み、百瀬川上流域(川原谷上流)には、
かつて集落が点在し、田んぼも広がっていたことを知った。
マキノ森西の北西の△680.3原山南の鞍部、原山峠の辺りには人家があり、
イモジャ谷を下った川原谷で隠し田を営んでいたという歴史はその前に知ったが、その上流にも集落があり、
道は抜土へと続き、近江坂へと繋がっていたのだ。

人が住んでいましたか
雪深い所だけに苦労したでしょうね。
とはいえ、若狭越の地ですからね。


標高650mあたりからヤブっぽくなり道も不明瞭になったが、630mあたりで、ハッと立ち尽くす。
ブナの巨樹が、尾根の横にどっしりと根を張っていた。
Kさんと割谷の頭から南西の尾根を下り、出会ったブナの木よりもおおきい。胸高周囲を調べよう。
リュックから細引きを出して、落ちていた枝を支点にして、ぐるりと幹を一周させ片結びする。
(帰宅して測ると3、5m。野坂山地で、3mを超えるブナの巨樹はなかなか見られない)

地表から1.3m地点で測りましたか。
巨樹さがしはヤブコギで流行った時期があって
当時は私もザックにメジャーを入れていました。


分岐からも、車を置いた緑ケ池まで、いにしえの道を辿って戻ろうと思ったが、
やっぱり、と、打ち捨てられた林道ではなく、尾根道の方に進んでいた。
この林道は、次また歩くのだ。今日歩いて出会った風景が、早くも次の山旅へ、いざなっているのを感じた。

楽しみを広げてくれていますね。
お疲れさまでした。
地元に目を向けなくちゃなあと
あらためて感じさせてくれるレポでした。


                           わりばし

バーチャリ
記事: 547
登録日時: 2011年3月12日(土) 20:58

Re: 【野坂山地】 新緑の海の中、いにしえといまを彷徨う 寒風から抜土の近江と若狭の風景ゆらゆら巡り旅

投稿記事 by バーチャリ »

satoさんこんにちは




ゴールデンウイークの前の日曜日、バーチャリさんと、マキノから大谷山寒風の山旅を楽しんだ。
その時、ふたりで掬い上げた輝きに導かれるように、9日後、わたしは、また、大谷山の麓へと向かっていた。


呼びましたか?

その節は素晴らしい秘密の場所を案内して頂きありがとうございました。
次の週は大御影山で珍しいお花の出会いが有りました。
昨日は三池岳のソロでシロヤシオを見に


今日は、昭和の時代に作られた、緑ケ池という名のため池の駐車場に車を置き、大谷川に沿った廃林道から歩き始める。
マキノは、古代の製鉄の一大拠点だった歴史があり、この川の上流の谷では鉄を採取した鉄穴が見られるそうだ。
製鉄技術は朝鮮から。辺りには渡来人が暮らしていた朝来屋敷跡という地名も残っている。
そして、石庭の人々は、明治の時代まで、この川を遡り、今も残る寒風のうつくしい堀割道に出て、若狭と行き来していたという。
高島に暮らして知った歴史の断片。これからも流れていくかもしれないけれど、ふらふらと彷徨い流れ着いた地のお山と人びとの物語。



有田焼も朝鮮から陶工を連れてこられてますよね。
鉄もそうなんですね。

大御影山の下山の時に古道を回りましたが、そう深くなかったですが、
大谷山の堀割道なんですが、かなりえぐられて深いですが。人の往来や水の流れで浸食が進んだのかなと。
かってに想像してますが、どうなんでしょう。


標高600mになると、左斜面は植林が見られるが、尾根から右側は清々しいブナ林に。
足元の先にはイワカガミの群落が続いていく。えっ?と驚き、わぁ、とよろこびが湧き上がる。
地図を見ると、寄り道するところはありません、まっ直ぐひたすら登りなさい、

思いがけない所に花に出会えると嬉しいですよね。



思い思いの方向に気持ちよさげに枝を伸ばしたブナの木々は、5月の爽やかな風に若葉を泳がせ、今を謳歌している。
ピンク色のイワカガミ達は、こそこそお山の楽しい内緒話をするように微かに微かに揺れている。
あまりにもうれしくて「ねぇ、ねぇ、ねぇ、なんて素敵なの」ブナの木に、イワカガミに、お山に、呼びかけてしまう。


眩しいほどの新緑の下に咲く
イワカガミの群落はすごかったです。



傾斜が緩くなったと思ったら、すぅっと・749北の鞍部に立っていた。
ここから、バーチャリさんとしあわせに包まれながら歩いた道へと向かう。
どこから行こう。谷に入りかけたが気が変わり、・749から植林の尾根を下っていく。眼下に流れが見えた。
深呼吸して、ゆっくりと、はやる気持ちを抑え、ゆっくりと、しんとした透明な世界の、静かな穏やかな流れに近づいていく。


デートの時はP749は山頂から見るから。
とっておきのコースを歩きましたね。


ブナの森を抜けると灌木帯に。空が迫り、近江と若狭の国境稜線に出た。
周辺は、石灰岩がゴロゴロと露出する草原地で、白石平と呼ばれている。稜線も、西は近江坂、北は粟柄越を結ぶ重要な道だった。
昭和16年まで、近江の石庭と若狭の松屋の村人が、毎年、田植えの終わった時期に、ここ白石平に集まり、道普請したという。
眩い緑の雲谷山の向こうに青い海が見える。若狭湾だ。
振り返ると、青い海をちょっと薄めたような色の、近江の人びとが「うみ」と呼ぶ琵琶湖が、眼下におおきく広がる。
穏やかに光る海とうみ。ふたつのうみを、かわるがわる眺めながら、その煌めきに、変わりゆく時の中の、変わらぬ光と影を見る。


展望良かったですね。
なかなか琵琶湖。日本海と両方見える場所は有りませんよね。



標高650mあたりからヤブっぽくなり道も不明瞭になったが、630mあたりで、ハッと立ち尽くす。
ブナの巨樹が、尾根の横にどっしりと根を張っていた。
Kさんと割谷の頭から南西の尾根を下り、出会ったブナの木よりもおおきい。胸高周囲を調べよう。
リュックから細引きを出して、落ちていた枝を支点にして、ぐるりと幹を一周させ片結びする。
(帰宅して測ると3、5m。野坂山地で、3mを超えるブナの巨樹はなかなか見られない)


やりましたね。
ブナの巨樹の出会いいいですね。




640mピークは、大きなブナが立ち並ぶ清々しいお山だった。あぁ、思った通り。
うれしくて、ここでお昼ご飯にしようかな、と思ったが、やっぱりあの場所で、と北の端まで進み、
木の幹を掴みながら、急斜面をトチノキ谷へと下っていく。
苔むした岩。やわらかな流れ。道路が通されてしまっても、尚もやさしく輝く奇跡のような谷の、
あの日も今日も静かに谷を見つめる思い出のトチの木の下で、ふぅ、と腰を下ろす。


トチノキ谷
トチの木がおおいのでしょうか?



バーチャリさんと、イワカガミに縁どられた見事な堀割道から、うっとり見上げた芽吹きのブナの木々は、
爽やかな緑の葉へと装いを変え、その隙間から差し込んだ木漏れ日が、落ち葉の折り重なった道にうつくしい陰影を描き出していた。
ここのイワカガミは、バーチャリさんがおっしゃった通り、あんまりお花を咲かせていなかった。
こんなに咲いているのだ、と感激した寒風のカタクリは、まだちょこっと残っていた。


早かったのでしょうか?咲いていたのですね。
そうそう寒風のカタクリは可愛いく色も素敵でしたね。
足場の踏む場もないくらい群落もいいですが、寒風のカタクリはひっそり咲いてくれてるのが
又いいですね。




登山者で賑わう堀割道を下っていく。うつくしいブナ林の広い尾根に、緩やかに丁寧に掘り込まれた道。
その道は、高機能の靴を履き、日帰りで山頂に登ることを目的とした登山者には緩やかすぎるのだろう。
途中から、ショートカットの道が出来ている。
道の役割の移り変わり、歩きやすい道というものの移り変わりは、わたしの足裏も感じている。
いにしえの道に思いを巡らせながら、堀割の道をうつくしいと思いながら、しっかりと新たな道を歩いていた。


うんうんそうそう新し道を導てくれましたね。

素敵な山旅お疲れ様でした。
又 美しいブナの森で

  バーチャリ
sato
記事: 417
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【野坂山地】 新緑の海の中、いにしえといまを彷徨う 寒風から抜土の近江と若狭の風景ゆらゆら巡り旅

投稿記事 by sato »

わりばしさま

こんばんは。
今日は、暑かったですね。揖斐川町では35度とか。滋賀県の各地も30度を超えました。
5月なのに、車のエアコン(冷房)をかけました。
コメントありがとうございます。朝から長々とした文を読んでくださり恐縮です。

わりばしさんは、土地の歴史にお詳しいなぁ、といつも思っております。
様々な文化や技術の伝播を担った渡来人が多く暮らした湖西地方。安曇川も、渡来人と結びつく地名ですね。
白髭神社は、比良山の神様を祀ったとも、新羅からの渡来人が祖神を祀ったとも。
ヒラはシラの転化ではという説もあります。渡来人と関りが深いと云われる白髭神社は、四日市にもあるのですね。
全国にいくつあるのだろう。調べると292社でした。その総本社が鵜川の白髭神社なのですね。
ここ数年は、パワースポットとして大人気で、うみに建つ鳥居の写真を撮ろうと、道路を横切る人が後を絶たず、車で通る時、緊張します。
水銀といえば「丹生」。丹生という地名の歴史に興味を惹かれます。

炭焼き窯は、人が炭を焼くという目的のために作られたものですが、お山の風景として、ここに在るべくしてあるのだなぁ、
と感じ入ることがあります。甲森谷のカツラの傍らにある炭焼き窯は、まさにそう感じます。

わりばしさん、今、『北山の峠』をお読みになっているのですね。
峠や石仏は、学生時代から興味がありましたが、京都に暮らし始め『北山の峠』と草川啓三さんの本に出会い、
木々に覆われたお山の、深くておおきな世界に魅了されていきました。
金久昌業さんは、草川さんがおっしゃるように、山という遊びに一生を懸けた方だったのだなぁと感じます。
金久さんが設立された北山クラブの会報や、『北山に入る日』を読むと、ひしひしと感じます。

原山峠の暮らしの痕跡と隠し田の存在は、草川さんからお聞きして知りました。
百瀬川上流域の集落の歴史を知り、原山峠という響きが、胸の奥にズシリと響き渡りました。
山を歩き、かつての村の存在を知った時、ここに生きた人達はどこから来たのだろう、
何故、こんな厳しい自然環境の地に暮らし始めたのだろう、という思いに包まれます。
若狭越・・。「越え」という響きは、この道を歩いた人々の長い道のりが浮かびあがり、
生きるために山を行き来した人の思いやご苦労が偲ばれます。
近江と若狭越前の国境稜線には、主なものだけで12の峠道が数えられます。

巨樹との出会いはドキドキします。
私が生まれるずっと前から、ここに立ち、私が死んだ後も、ずっとここに立っているのだなぁ、と思うと、
なんともいえない不思議な気持ちに包まれます。この木が見てきた風景に思いを馳せてしまいます。
巨樹に限らず、木ってすごいなぁ、不思議だなぁ、と思います。
ブナの実は親指の爪ほどの大きさ、それがこんなにも大きくなるなんて。
ヤブコギで、巨樹探しが流行っていたのですか。皆さま、どんな巨樹を見つけたのでしょう。興味津々です。

あちこちのお山に出かけては、その地の物語を感じ、もっと知りたいという気持ちが湧き上がるのですが、
日々仰ぎ見る比良や野坂山地への思いは、うまく言えませんが、私の根っこから生じているような、そんな感じがします。
山襞ひとつひとつに刻まれた物語を、私はあと、どれだけ聞くことが出来るのだろう。
時々、ふと思います。

sato
sato
記事: 417
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【野坂山地】 新緑の海の中、いにしえといまを彷徨う 寒風から抜土の近江と若狭の風景ゆらゆら巡り旅

投稿記事 by sato »

バーチャリさま

こんにちは。
いつも、お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
4月の山旅では、バーチャリさんから、大谷山寒風の素晴らしさを、たくさん教えていただきました。
あらためてありがとうございました。
「遠くに行かなくてもいいね」というバーチャリさんのお言葉。ほんとうに、そうだなぁ、と。
いろいろなお山に惹かれて出かけてしまうのですが・・・。
そう、大御影山は、5月3日、同じ日に歩かれていたのですね。すぐ近くにいらっしゃったとは。
バーチャリさんが出会われたお花、私は、その数日前に、朽木の谷で出会いました。
ちいさくて下を向いていて、見過ごしてしまいそうな控えめなお花ですが、清楚でうつくしいお花ですね。
思わずしゃがみこんで見入ってしまいます。

磁器と言えば、有田焼と九谷焼が浮かびます。
九谷焼は、江戸時代、加賀藩によって始まったそうですが、その技術は、有田焼から学んだそうです。
一昨年から、大聖寺川流域のお山を訪れるようになり、九谷焼のことを知りたくなり、ちょこっと調べていました。
有田焼は、朝鮮の陶工が伝えたのですか。気になって調べました。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連れて来られた朝鮮の陶工が、
有田で陶石を発見したことにより、磁器の製造が始まったのですね。
歩いて、見て、聞く。そして知る。ちいさな山旅から、世界は無限に広がっていきます。

むかしの道は、地形や人や動物の気持ちを考えて作られているのだなぁ、と歩きながら感じます。
大谷山や粟柄越の道は、ずっと尾根を通るのではなく、途中で谷に出ますが、
そこに、山越えの道というものの、計り知れない深さを感じます。
峠道は堀割になっているところが多いですよね。雨が道の中を流れることを考えていると思います。
斜面を削っただけだと、大雨で崩れやすいので。

バーチャリさんと、堀割道を楽しんだ時は、最初からピンク色のイワカガミの群落でしたね。
感激しっぱなしでしたね。白石平に着き、日本海が目に飛び込んだ時は、ふたりで歓声を上げましたね。
振り返って眺めたびわ湖も感動的で、わぁ、の後、言葉が続きませんでした。
大谷山から寒風にかけての稜線の、ササヤブの中に咲くカタクリにも、感激しっぱなし。
可憐さと凛とした強さをあわせ持つカタクリ、ひとつひとつに見入っていましたね。

思いがけないブナの巨樹との出会いはうれしかったです。
あがりこのブナの巨樹は、たまに出会うのですが、この木は、いっぽんのまっすぐな幹でした。
うれしくなって胸高周囲を知りたくなりました。
トチノキ谷は、名の通りトチノキの多い谷です。穏やかで、登山靴で歩けます。
バーチャリさん、コメントありがとうございました。次は、トチノキに出会いにお出かけしましょう。

sato
宮指路
記事: 1008
登録日時: 2011年2月27日(日) 21:13

Re: 【野坂山地】 新緑の海の中、いにしえといまを彷徨う 寒風から抜土の近江と若狭の風景ゆらゆら巡り旅

投稿記事 by 宮指路 »

satoさん、こんばんは

今日は、昭和の時代に作られた、緑ケ池という名のため池の駐車場に車を置き、大谷川に沿った廃林道から歩き始める。
マキノは、古代の製鉄の一大拠点だった歴史があり、この川の上流の谷では鉄を採取した鉄穴が見られるそうだ。
製鉄技術は朝鮮から。辺りには渡来人が暮らしていた朝来屋敷跡という地名も残っている。
そして、石庭の人々は、明治の時代まで、この川を遡り、今も残る寒風のうつくしい堀割道に出て、若狭と行き来していたという。
マキノと言えばスキー場ですが、山レポでまさか製鉄の話題が出るとは思いませんでした。
鉄の掘削跡が鉄穴ですか? 治田鉱山跡では鉱口をマブと読んだらしいです。
福井県からわざわざ行き来があったのですね。鈴鹿の山々も有名な峠は滋賀県側の人々と往来があったようです。

かつて、様々な人が行き交った道には、林道が出来、その林道も今は打ち捨てられ、草木が生い茂り、どこからともなく水がしみ出し、
ぐちゃぐちゃで歩きにくい。この土の下には、長い長い歴史が積み重なっているのだと思うと、ちょっとせつなくなる。
今は交通の便が良くなりわざわざ歩いて峠越をする必要もなくなりました。

わたしは、何故、この地に暮らし、こうして引き寄せられるように山に向かい、
わたしの知らない誰かの痕跡を、お山の物語を、感じたいと思うのだろう。
草の下の泥濘にズボズボと押されているシカの足跡を長靴で踏み、ぼんやり考えながら歩いていると、左に谷が見えた。
「袖振り合うも多生の縁」と言いますが、人にはいろんな出会いと縁がありますね。
杉峠や八風峠を越えると人の歴史を感じることがあります。この辺りも昔は人の往来が多かったようです。
標高600mになると、左斜面は植林が見られるが、尾根から右側は清々しいブナ林に。
足元の先にはイワカガミの群落が続いていく。えっ?と驚き、わぁ、とよろこびが湧き上がる。
高島トレイルはイワカガミが多いのでしょうか? 一昨年歩いた大御影山もイワカガミが多かったです。
思い思いの方向に気持ちよさげに枝を伸ばしたブナの木々は、5月の爽やかな風に若葉を泳がせ、今を謳歌している。
ピンク色のイワカガミ達は、こそこそお山の楽しい内緒話をするように微かに微かに揺れている。
あまりにもうれしくて「ねぇ、ねぇ、ねぇ、なんて素敵なの」ブナの木に、イワカガミに、お山に、呼びかけてしまう。
藪道からこんな素敵な道に出れば嬉しくなりますね

河川争奪によってマキノを流れる百瀬川(天井川になっているけれど)の上流となった川原谷の右俣の、
イモジャ谷右俣の標高700m二俣。そこは、どこまでも静謐で透明な、山と人が織りなしたうつくしい世界が展開している。
絶妙な線を描く谷には、優美に立ち並ぶブナの木々。左俣の入り口には土に埋もれた炭焼き窯跡が。
そして谷にはさまれたブナの小尾根には、イワカガミに飾られた堀割道がやわらかに浮かんでいる。
道や炭焼き窯は、人間の目的のために作られたものだけど、お山と人のこころが見事に融けあうと、
こんなにも妙なる世界を描き出すのだ。谷に降り立ち、手のひらを握りしめ、今日も感動をかみしめる。
新緑の中で見つけた窯跡は古くて素敵な雰囲気があります。
特に愛知川沿いやコクイ谷などで時々素敵な窯跡を見つけます。

この堀割道も、石庭と若狭を結ぶ交易の道であり、山仕事の道であった、いにしえの道。
堀割は深いところでは背丈を超え、絶妙な勾配で九十九折に尾根を縫っていき、
人びとの切実な思いのこもった道だったことが、しみじみと感じる。
傍らには、9日前は、つぼみだったイワカガミが咲き並び、ブナの木の無数の若葉からこぼれ落ちた光を受け、きらきらと輝いている。
いろいろな思いを抱えた人々が歩いた道を、同じようにいろいろな思いを抱えたわたしが、ゆっくりと登っていく。
この日の目的の一つが掘割道を辿り、昔の道を歩いた人々の思いに馳せながら歩く旅だったのですね。
その当時は移動手段と言えばほとんどが歩きだったので、しかも重い荷物を背負って山道を歩くのですからその苦労が偲ばれます。

百瀬川源流域のやわらかな地形に導かれるように、ある年の萌え出づる春の頃、近江坂の途中から、ここから下ってみようと、
シャクナゲが行く手を遮るヤブ尾根に入り、広い谷に降り立った。そこは幾筋もの小川が流れる光溢れる湿原地。
牧歌的な風景が広がっていた。谷のまわりは植林地になっていて、整地された地面に暮らしの匂いを感じた。
御所平の小太郎谷源頭部に似ていますね。10年くらい前にここでオフ会があったのですが、ガンサ谷から登ったら難路でオフ会に間に合わず、登山口で山日和さん達とバッタリでした。
思いもがけない風景に出会えたよろこびと謎に包まれ、夢見心地で源流へと歩いていった。
その日出会った風景が忘れられず、後日、図書館でマキノの村誌を借りて読み、百瀬川上流域(川原谷上流)には、
かつて集落が点在し、田んぼも広がっていたことを知った。
昔は電気もなく、人々は水と火だけで、田畑を耕し生活していたのですね。

車道からは、下った尾根の南の尾根を登り国境稜線に戻る。ここから、若狭側、ヤンゲン谷の西の谷の細長い左岸尾根を下る。
昨年の11月にヤンゲン谷を訪れた時、錦繍の衣を纏った640mピークに目が釘付けになり、いつか登ろうと思っていたのだった。
この尾根も清々しいブナ林が続いていく。杣道も残っていた。

ここから福井県側に向かうんですか? もうお昼を越えていませんか?
ヤンゲン谷はネットで探しても沢登の記録しか出てきませんでした。

標高650mあたりからヤブっぽくなり道も不明瞭になったが、630mあたりで、ハッと立ち尽くす。
ブナの巨樹が、尾根の横にどっしりと根を張っていた。
Kさんと割谷の頭から南西の尾根を下り、出会ったブナの木よりもおおきい。胸高周囲を調べよう。

Kさんって、kushiroさんですか?
滋賀県川から若狭側に向かう話から鈴鹿の割谷が出て来ると目がグルグルしそうです。
南西の尾根は辿ったことはないですが、痩せ尾根ではなかったですか?

リュックから細引きを出して、落ちていた枝を支点にして、ぐるりと幹を一周させ片結びする。
(帰宅して測ると3、5m。野坂山地で、3mを超えるブナの巨樹はなかなか見られない)
烏帽子岳・三国岳縦走路のブナ将軍でも3.1mですから
この巨木の話から私のレポについついレスしてしまったのですね。
木の幹を掴みながら、急斜面をトチノキ谷へと下っていく。
苔むした岩。やわらかな流れ。道路が通されてしまっても、尚もやさしく輝く奇跡のような谷の、
あの日も今日も静かに谷を見つめる思い出のトチの木の下で、ふぅ、と腰を下ろす。

やっとお目当ての場所に到着ですね。この先まだ長そうですが、そろそろ眠くなって来たのでここで失礼します。

                                                       宮指路



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sato
記事: 417
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【野坂山地】 新緑の海の中、いにしえといまを彷徨う 寒風から抜土の近江と若狭の風景ゆらゆら巡り旅

投稿記事 by sato »

宮指路さま

こんばんは。
ご体調が優れない中、睡魔に襲われながらコメントをくださったのに、お返事が遅くなりまして申し訳ありません。
その後、体調は、いかがでしょうか。
宮指路さんのお住まいからは遠い野坂山地。でも、一昨年、大御影山にいらっしゃったのですね。
近江坂を歩かれたのでしょうか。近江坂も若狭越えの道ですね。
4月から5月初めにかけて、トクワカソウ、そして、イワカガミ、シャクナゲと、古道を飾っていきます。

そう、マキノといえばスキー場が浮かびますね。(今は、ソリ場ですが)
マキノスキー場の歴史は古く、大正時代に出来たそうです。当時は大津からスキー船が運行されていたそうです。
戦後の一時は、進駐軍のスキー場だったとか。

製鉄の歴史ですが、近江は、古代における近畿地方最大の鉄生産地だったそうです。
マキノでは、5世紀末から10世紀ごろまでに作られた製鉄所の跡が、11か所確認されています。
鈴鹿の鉱山の歴史、鉱山従事者の歴史暮らしにも、とても興味があります。
治田鉱山は、銀、銅を産出し、鉱山町として栄えていたのですね。御池鉱山には、小学校もありましたね。
明治大正昭和の鈴鹿の山中の風景を想像してしまいます。

車道が出来る前は、どの地方でも、山越えの道が数えきれないほど存在していたのですね。
そして、お山は暮らしの場でもあったのですね。
むかしの人に思いを馳せながらお山を歩く、というより、気が付くとあれこれ思いを巡らせている、といった感じです。
炭焼従事者は、焼いた炭を、男性で50キロ、女性も30キロ、背負って山道を歩いたといいます。
私の仕事場のおばちゃんは、子供の頃、シバ取りに山に出かけ、背中いっぱい担いで下ったそうです。

「袖振り合うも多生の縁」そうですね。
人生は偶然の積み重ね。でも、これは、必然だったのかな、と思ったり。
ご縁を感じ、ご縁に導かれているのだなぁ、と思ったり。
今、こうしてヤブこぎネットの皆さまと、ご縁が出来て感謝です。

私は、好きなお山の山襞ひとつひとつが気になってしまいます。
この尾根は、植林の後は、雑然とした雑木林かなと思っていましたので、
お山の素敵な秘密の表情に出会えて、うれしかったです。

百瀬川源頭は、仙ケ岳の御所平の小太郎谷源頭の風景と似ているのですね。
御所平は訪れたいなぁ、と思いつつ、そのままになっている場所です。
地図をみると、たしかに気持ちよさそうな源頭。この秋の風景が浮かびました。

若狭側に下り始めたのは、11時前でした。私は人一倍心配性、マイナス思考ですので、
ひとりの時は、ゆらゆら寄り道しながらも、16時までに下山、と頭の中で計算しています。
この時間だったら、ヤブに捕まっても大丈夫かな、と。石庭嶽から先は道がありますし。

スミマセン。割谷の頭は、寒風北西の・859です。ハライドの南にもありますね。
Kさん・・・宮指路さんもKさんですね。K川さん、K田さん、夫はK洋さん。どのKさんか分かりませんね(笑)。

そう、ふっと歩いた尾根でのブナの巨樹との出会いは、感激しましたが、
ブナと出会い、宮指路さんのレポにコメントを、とは思いませんでしたよ。
宮指路さんのレポを楽しませていただいたからです。続きはオフ会で、ですね。
コメントありがとうございました。

sato
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