【南伊勢】浅間山と田曽崎とロケ地巡り
Posted: 2023年2月19日(日) 17:08
【日 付】2023年2月18日(土)
【山 域】南伊勢
【コース】宿浦区民センター7:40---8:40宿浦浅間山---9:40ボラ番小屋---11:05三崎さん---11:30ひらかたの浜---12:30宿浦区民センター
【メンバー】単独
南伊勢で撮影された「半世界」という映画がある。山中の炭焼窯で備長炭を製炭することを生業としている稲垣吾郎と中学の旧友で自衛隊員として海外派兵されていた長谷川博己を中心に物語が展開する。ロケ地巡りを兼ねて南伊勢に向かい、宿浦区民センターに駐車する。
宿浦の池をすぎ集落のはずれから登山道に入る。ここは津波の避難場所もかねており手すりがある。道はきれいにヤブが刈り払われており歩きやすい。海の近くだけにウバメガシの木が目立つ。宿浦浅間神社に立ち寄って田曽浦浅間神社に向かった。両神社ともに不動明王が祀ってあり、宿浦、田曽浦それぞれの集落を見守っている。漁師たちにとって船の位置を知る唯一の手がかりとなる山の存在は大きかった。それゆえ、志摩から熊野にかけての海岸沿いには浅間神社が多い。この地域は修験者が伊勢神宮の修行の場である朝熊山から熊野三山に向かう道中にあたり、修験道の影響が色濃く出ている。両神社ともにコンクリートで作られた祠に鳥居があり下部は避難場所として整備されていた。田曽浦浅間神社からは宿浦と田曽浦を大きく包み込む熊野灘が見える。
避難経路から国道に出て田曽浦の東端から堤防沿いを行くと登山道の道標が出てきた。赤テープを追っていくと、ニワの浜から上ってきている溝道に合流しこの道をたどる。すぐに石積みで作られたボラ番小屋に着く。ボラの大群が来るのを見張った小屋で、正面には熊野灘が大きく開け、これから向かう田曽崎が見えている。ボラの卵から作るカラスミが名産品になっており昔はどこの浦でも作っていたのだろう。近年は温暖化の影響かボラが来なくなり、カラスミ作りも卵を九州から取り寄せている。
尾根にそって進んでいくと、石垣に囲まれた平地や土に埋められた水瓶がそこかしこに見られる。広い範囲に広がっており、耕作地だったようだ。平地の少ないリアス式海岸の漁村にとっては貴重な場所だったのだろう。新藤兼人の「裸の島」のような感じだったのだろう。田曽浦の寺に下る溝道を分けて道を進む、道は尾根芯を外してつけられており、尾根上の日当たりのよい場所は畑として使ったようだ。石垣は灯台まで続いており、夏ミカンの木が何本かあり、実がなっていた。
田曽崎に向かって尾根を下っていく。よく踏まれた道なので問題ないが、右側はスッポリ落ちていて断崖絶壁だ。突然鳥居が出てきた。P73で三崎さん前峰と書かれたプレートがあり、その先に三崎の宮の祠があった。こちらの木の鳥居は倒れかけていた。九十九折れの道を下って行くと田曽崎で、崖の中ほどに祠がありここが「三崎さん」のようだ。中には不動明王が祀られていた。火炎の白と青い目が昔からそうであったように静かになじんでおり迫力を増している。磯の岩場からは水平線が丸く広がっている。
来た道をもどり、ひらかたの浜に降りる。ここにも耕作地の石垣があり昔は田曽浦からここを耕しに来ていたのだろう。田曽浦からの何本もの溝道はこうした人たちが日々通った道なのだろう。田曽崎は今とは違い畑が尾根上に広がっていたのだろう。それゆえに里から遠く離れた不動明王が「三崎さん」として親しまれてきたのだと思う。
帰りに宿田曽漁港に寄る。ここは長谷川博己が自衛隊除隊後地元に帰り働いていた場所になる。家に帰る途中に備長炭を作っているマルモ製炭所に寄る。炭焼き場は山中にあるようだが、ウバメガシをたくさん積んだトラックが停まっており町内の伐採地から運んできた所だった。
【山 域】南伊勢
【コース】宿浦区民センター7:40---8:40宿浦浅間山---9:40ボラ番小屋---11:05三崎さん---11:30ひらかたの浜---12:30宿浦区民センター
【メンバー】単独
南伊勢で撮影された「半世界」という映画がある。山中の炭焼窯で備長炭を製炭することを生業としている稲垣吾郎と中学の旧友で自衛隊員として海外派兵されていた長谷川博己を中心に物語が展開する。ロケ地巡りを兼ねて南伊勢に向かい、宿浦区民センターに駐車する。
宿浦の池をすぎ集落のはずれから登山道に入る。ここは津波の避難場所もかねており手すりがある。道はきれいにヤブが刈り払われており歩きやすい。海の近くだけにウバメガシの木が目立つ。宿浦浅間神社に立ち寄って田曽浦浅間神社に向かった。両神社ともに不動明王が祀ってあり、宿浦、田曽浦それぞれの集落を見守っている。漁師たちにとって船の位置を知る唯一の手がかりとなる山の存在は大きかった。それゆえ、志摩から熊野にかけての海岸沿いには浅間神社が多い。この地域は修験者が伊勢神宮の修行の場である朝熊山から熊野三山に向かう道中にあたり、修験道の影響が色濃く出ている。両神社ともにコンクリートで作られた祠に鳥居があり下部は避難場所として整備されていた。田曽浦浅間神社からは宿浦と田曽浦を大きく包み込む熊野灘が見える。
避難経路から国道に出て田曽浦の東端から堤防沿いを行くと登山道の道標が出てきた。赤テープを追っていくと、ニワの浜から上ってきている溝道に合流しこの道をたどる。すぐに石積みで作られたボラ番小屋に着く。ボラの大群が来るのを見張った小屋で、正面には熊野灘が大きく開け、これから向かう田曽崎が見えている。ボラの卵から作るカラスミが名産品になっており昔はどこの浦でも作っていたのだろう。近年は温暖化の影響かボラが来なくなり、カラスミ作りも卵を九州から取り寄せている。
尾根にそって進んでいくと、石垣に囲まれた平地や土に埋められた水瓶がそこかしこに見られる。広い範囲に広がっており、耕作地だったようだ。平地の少ないリアス式海岸の漁村にとっては貴重な場所だったのだろう。新藤兼人の「裸の島」のような感じだったのだろう。田曽浦の寺に下る溝道を分けて道を進む、道は尾根芯を外してつけられており、尾根上の日当たりのよい場所は畑として使ったようだ。石垣は灯台まで続いており、夏ミカンの木が何本かあり、実がなっていた。
田曽崎に向かって尾根を下っていく。よく踏まれた道なので問題ないが、右側はスッポリ落ちていて断崖絶壁だ。突然鳥居が出てきた。P73で三崎さん前峰と書かれたプレートがあり、その先に三崎の宮の祠があった。こちらの木の鳥居は倒れかけていた。九十九折れの道を下って行くと田曽崎で、崖の中ほどに祠がありここが「三崎さん」のようだ。中には不動明王が祀られていた。火炎の白と青い目が昔からそうであったように静かになじんでおり迫力を増している。磯の岩場からは水平線が丸く広がっている。
来た道をもどり、ひらかたの浜に降りる。ここにも耕作地の石垣があり昔は田曽浦からここを耕しに来ていたのだろう。田曽浦からの何本もの溝道はこうした人たちが日々通った道なのだろう。田曽崎は今とは違い畑が尾根上に広がっていたのだろう。それゆえに里から遠く離れた不動明王が「三崎さん」として親しまれてきたのだと思う。
帰りに宿田曽漁港に寄る。ここは長谷川博己が自衛隊除隊後地元に帰り働いていた場所になる。家に帰る途中に備長炭を作っているマルモ製炭所に寄る。炭焼き場は山中にあるようだが、ウバメガシをたくさん積んだトラックが停まっており町内の伐採地から運んできた所だった。