【伊勢】高麗広より神宮林をたどる

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わりばし
記事: 1763
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

【伊勢】高麗広より神宮林をたどる

投稿記事 by わりばし »

【日 付】2021年2月11日(木)
【山 域】伊勢
【コース】高麗広P7:05---8:52前山 ---9:26鷲峰12:18---10:36竜ヶ峠---11:35高麗広P
【メンバー】単独

 伊勢神宮と他の神社との見た目の大きな違いは、参道の巨木の数が圧倒的に違う。出雲大社、春日大社、大宰府天満宮、宗像大社しかりである。伊勢神宮の背後には世田谷区と同じ広さの神宮林5500ヘクタールがひかえている。20年に一度の式年遷宮に使う材木を切り出す御杣山として大木は伐採され巨大な里山のようになっている。遷宮ごとに1万本のヒノキが使われるので、300年後には枯渇し1019年の第18回遷宮では他の場所を御杣山に選定した。その後は、1789年の第51回遷宮で大杉御杣山の伐採が行われるまでの千年間三重県内の各地の山々が御杣山として伐採対象となった。

 内宮を通り越し五十鈴川をさかのぼっていくと神宮林の真ん中に抱かれた高麗広に着く。喧騒のおはらい町から数十分入っただけで噓のように静まり返った不思議な所だ。二階建ての山小屋風家屋をすぎた所にある宇治高麗広駐車場に車を停める。

 宇治側に500m戻り、水の流れる支谷が入り込んでいる谷筋から入る。途中から尾根に取りつきP174に上っていくが尾根筋のそこかしこがイノシシに掘り起こされている。P174は、明るく開けており、北側からの林道の終点になっていた。段々畑のような光景が広がっており、何を育てていたんだろうと思っていた。石積みの上に耕運機の残骸があり、培土車輪がつけられているので、これで耕したのだろう。

 この尾根は末端から天空界道の登山道に至るまで、広葉樹の自然林の尾根で明るい。地図に針葉樹マークがあるのが不思議だ。たくさんのアガリコの木があり、炭焼きが盛んだったことがわかる。アガリコは、地上から上がった所から子が出ているという意味を表しており、人によって伐採され、その部分から新たな芽が出ていくつもの枝が成長していった木のことだ。炭焼きには太い木よりもアガリコの太さの木のほうが適していたこともあり、炭焼きとアガリコはつながっている。高麗広は神宮林の山守をなりわいとする集落で、特別に炭を焼く権利を持っていた。

 鹿の群れに出くわすが、反応が鈍い。通常なら人が来そうな尾根筋を最初に見るのだが、わからないようでキョロキョロしており私を見つけるのに苦労していた。神宮林内で撃たれることもないので、危機管理能力が落ちているようだ


 登山道に出ると、祠の台座のような石積みが出てくる。最初は山の神の撤去された跡かと思ったが前山まで14ヶ所も出てきた。道の真ん中に距離を置くようにして配置されている。こんなの見たことない。

境界石積
境界石積

 前山からは南に下る尾根を下る。間違えそうな地形だがテープがこれでもかというぐらいあるので問題はない。下っていくと山頂の西側から立派な溝道が降りてきており、鷲峰手前のコルまで続いていた。コルから高麗広に下っていく杣道のようだ。鷲峰山頂には三坪塚という塚があり、寛文7年(1667年)に設置されたと木片に書かれており内宮領と紀州領の境界と記してある。

三坪塚
三坪塚

 この日は、風が強く寒かったので展望岩で休憩する。風もなく度会の山々や五ヶ所が見渡せて気持ちがいい。小説では宮本武蔵が修行をした場所になっている。鷲峰から境界標柱が目立ちだす。塚の上に標柱が設置されているものもある。どうやらこの塚も前山の石積みも境界を表すもののようだ。塚と石積みは明らかに大きさも作りも違うので、前山の石積みの方が古いように思う。たかが境界を示すのにあれだけ大規模な造作をするとは恐れ入った。これ以外にも2種類の境界標柱があり「宮」は宮内省を示し戦前のもので、「司」は神宮司庁で戦後のものだ。「宮」の境界標柱は御杣山だった台高の山中で見かけるやつだ。

鷲峰展望岩より
鷲峰展望岩より

 竜ヶ峠に向かう。鷲峰以降の道は稜線どうりではなく、トラバースしたりしながら無理なくつけられている。伊勢神宮は修験道の聖地でもあったので修行の道という色合いを強く感じた。峠には東屋が立っており整備されている。紀州の人たちが伊勢参りに使った道で、船で五ヶ所に入り山を越えたようで、「船は着いたや五ヶ所の浦へ、いざや参らん伊勢様へ」と唄われていた。

塚と宮内省の石柱
塚と宮内省の石柱

 昔の峠道を下る。谷筋や堰堤のあたりが荒れているので、今は歩く人も少ないようだ。溝道を追っていくと植林が出てきた。間伐や枝払いをされた立派なヒノキ林で、風も通り明るい。太い木にはペンキで二重線の腕章がつけられている。大正時代に植えられたもので2125年の遷宮で使われ始めるようだ。帰ってからわかったのだが、今日歩いた山域が690年の第1回遷宮以降に御杣山として使われた神路山だった。神路山は特別な山頂を意味するものではなく、山域を示したようだ。

神路山のヒノキ
神路山のヒノキ

 神宮林はもっと人の気配の薄い所かと思っていたが、人の営みそのものと言っていいほど多くの痕跡を残していた。

sato
記事: 420
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【伊勢】高麗広より神宮林をたどる

投稿記事 by sato »

わりばしさま

こんばんは。
先日、畦道にイヌノフグリが咲いているのを見つけました。
少し前からあちこちで梅の花も見かけています。もう、春が始まっているのですね。
わたしは、雪山への思いが募るばかりで、11日も新雪のお山に遊んできました。
わりばしさんは、里の山を味わわれてきたのですね。

「高麗広」という響きに興味を覚えました。
伊勢地方の地理に疎く「高麗広」という地名は初めて知りました。
伊勢神宮の神宮林域にある集落で、住民は山守をなりわいとしてきたのですね。
渡来系の人びとだったのでしょうか。

頭の中は雪山だったのに、わりばしさんの山旅に惹きこまれています(笑)。

伊勢神宮は20年ごとに建て替えられる(式年遷宮というのですね)と知った時、何故なのだろうと思いました。
耐久年数1000年を越える木造建築技術を持つ宮大工も存在したのに。
題名は忘れましたが、寺社に関する本を読んだ時、技術、文化、信仰の継承のためと書かれていて、そうなのかぁと。

同じものを造り替えることは永遠を意味することでもあるのでしょうね。
でも、そのためには気の遠くなるような木が必要。遷宮ごとに1万本のヒノキが必要とは。
300年後には、世田谷区と同じ広さの森のヒノキが枯渇してしまったのですね。

地理院地図の針葉樹マークは、大正時代以降に植林されたヒノキ林なのですね。
でも、実際歩くと広葉樹も多い山。山中にはアガリコの木もたくさん。
山守りをしながら炭焼きをしてきた高麗広の人びとの目に映ったお山を想像しました。

「天空界道」も興味がそそられます。
「天照大神が御座す天空の道」伊勢神宮の神宮林を取り囲む境界尾根を指すのですね。
道の真ん中に距離を置くように配置されている石積みの写真に、
インドやネパール、チベットの巡礼道、街道を旅していた時に見た風景が重なりました。
人の築いた巡礼の道、修行の道の礎に普遍的なものを感じました。

「神宮林はもっと気配の薄い所かと思っていたが、人の営みそのものと言っていいほど多くの痕跡を残していた」
わりばしさんは、神宮林に興味を持たれ訪れたのでしょうか。
歩いて、気が付く、知ることってたくさんありますよね。
そして、そこから広がっていくもの、繋がっていくものの大切さを感じます。
歩いて知るひとびとの歴史、それは、確かなものとして胸に伝わってきます。
そういう時代があり、そういう暮らしがあった。歴史を頭だけでなくからだ全体で感じる。
山歩きは、ほんとうに奥が深いですね。

その地の生きた歴史を感じるわりばしさんのレポ、これからも楽しみにしております。

sato
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わりばし
記事: 1763
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【伊勢】高麗広より神宮林をたどる

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、satoさん。

先日、畦道にイヌノフグリが咲いているのを見つけました。
少し前からあちこちで梅の花も見かけています。もう、春が始まっているのですね。
わたしは、雪山への思いが募るばかりで、11日も新雪のお山に遊んできました。
わりばしさんは、里の山を味わわれてきたのですね。

こちらでは、2週間前ぐらいからフキノトウが出始め
春の山菜の苦みが心地よかったです。
私は花粉症なので、神宮林を歩くのならこの時期かと出かけました。


「高麗広」という響きに興味を覚えました。
伊勢地方の地理に疎く「高麗広」という地名は初めて知りました。
伊勢神宮の神宮林域にある集落で、住民は山守をなりわいとしてきたのですね。
渡来系の人びとだったのでしょうか。

大和朝廷と朝鮮とのつながりを示すものでしょうね。
何もない所から天孫降臨は生まれてきません。


頭の中は雪山だったのに、わりばしさんの山旅に惹きこまれています(笑)。

花粉が多くなり、花粉の少ない雪山への思いが再燃しています。

伊勢神宮は20年ごとに建て替えられる(式年遷宮というのですね)と知った時、何故なのだろうと思いました。
耐久年数1000年を越える木造建築技術を持つ宮大工も存在したのに。
題名は忘れましたが、寺社に関する本を読んだ時、技術、文化、信仰の継承のためと書かれていて、そうなのかぁと。

最初は天武天皇が自らの正当性を示すために行ったようです。
その後も、信長・秀吉・家康のような時の権力者が自らの力を示すことを狙って多大な寄進をしています。
その結果として技術、文化の継承がなされたのでしょう。


同じものを造り替えることは永遠を意味することでもあるのでしょうね。
でも、そのためには気の遠くなるような木が必要。遷宮ごとに1万本のヒノキが必要とは。
300年後には、世田谷区と同じ広さの森のヒノキが枯渇してしまったのですね。

エス・ディー・ジーズの時代ですから、規模を縮小するとか考えた方がいいでしょうね。
花粉症何とかならないかな?


地理院地図の針葉樹マークは、大正時代以降に植林されたヒノキ林なのですね。
でも、実際歩くと広葉樹も多い山。山中にはアガリコの木もたくさん。
山守りをしながら炭焼きをしてきた高麗広の人びとの目に映ったお山を想像しました。

今でも神宮で使う炭はここで焼いていますよ。
昔と比べたら規模は小さいでしょうが。

「天空界道」も興味がそそられます。
「天照大神が御座す天空の道」伊勢神宮の神宮林を取り囲む境界尾根を指すのですね。
道の真ん中に距離を置くように配置されている石積みの写真に、
インドやネパール、チベットの巡礼道、街道を旅していた時に見た風景が重なりました。
人の築いた巡礼の道、修行の道の礎に普遍的なものを感じました。

神宮林を囲む35kmの「天空界道」という道があります。
後半は磯部岳道と宇治岳道です。
これが神仏分離で修験道が明治に禁止されるまでの修行の道だと思います。


神宮司庁の境界杭
神宮司庁の境界杭

「神宮林はもっと気配の薄い所かと思っていたが、人の営みそのものと言っていいほど多くの痕跡を残していた」
わりばしさんは、神宮林に興味を持たれ訪れたのでしょうか。
歩いて、気が付く、知ることってたくさんありますよね。
そして、そこから広がっていくもの、繋がっていくものの大切さを感じます。
歩いて知るひとびとの歴史、それは、確かなものとして胸に伝わってきます。
そういう時代があり、そういう暮らしがあった。歴史を頭だけでなくからだ全体で感じる。
山歩きは、ほんとうに奥が深いですね。

山を歩いていて人の営みの痕跡を見つけると嬉しくなっちゃいます。
今は人が住まなくなった集落では、何を生業にしていきていたのか?
どんな理由で、どの時期に離村したのか?
思いはめぐっていきます。
現代の日本人が置き忘れた何かがあるのかもしれません。


アガリコ
アガリコ

その地の生きた歴史を感じるわりばしさんのレポ、これからも楽しみにしております。

人の多い伊勢のおはらい町にはめったに行かないんですが
徳力富吉郎版画館だけに出かける事があります。
赤福餅の中に日替わりで入っている栞「伊勢だより」の原版で刷った木版画が売っています。
1100円という安価で、家では季節ごとに画を入れ替えて楽しんでいます。
この日は、偶然見つけた高麗広の炭焼きの版画を買って帰りました。


高麗広の木版画
高麗広の木版画
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