【台高】三重木材乾留会社とオジヤン
Posted: 2019年9月16日(月) 14:48
【日 付】2019年9月15日(日)
【山 域】台高
【コース】千石林道駐車場8:00---10:12喜平小屋谷蓮3工場---11:56赤嵓滝谷蓮5工場---13:30桧塚劇場---15:45千石林道駐車場
【メンバー】単独
新資料が見つかったことで、新たな疑問が浮かび青田のオジヤンを訪ねることにした。オジヤンに教えてもらった事と新資料の確認をするために、私にとっては本丸と言える飯高の三重木材乾留会社の探索に出かけた。
【歴史的背景】
軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。
三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。
【三重木材乾留会社】
最大正5年9月に「木材乾留工業」著者の小林久平は三重木材乾留会社を視察している。この時に飯南の大石から粥見、宮前を経て七日市に至る紀州街道沿いに炭窯が30~50個あり大部分の窯が木酸液を採取していた。煙出口に曲がり土管をつけて、そこに冷却用に竹を7~8本差して採取する同型の窯だった。オジヤンに聞くと「炭焼窯があったのは知っているが、竹を差しているのは知らない。」との事だったのでアセトンの需要のあった当時のみ木酸液は採取されたようだ。
三重木材乾留会社の工場跡
(蓮・蓮川水系)
一工場 千石谷右岸
二工場 喜平小屋谷出合
三工場 喜平小屋谷二俣
四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部
五工場 赤嵓滝谷 三俣
(青田・木屋谷川水系)
一工場 取水ダム右岸
二工場 千秋社事務所跡
三工場 万歳橋
四工場 ワサビ谷手前
五工場 奥山谷出合
六工場 奥山谷奥の二俣
工場は乾留工場と精製工場に分かれる。乾留工場で木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。精製工場では蒸留して濃度を高め、石灰を混ぜて中和して酢酸石灰にして、搬出した。オジヤンによると、青田の場合は一工場が精製工場で
昔はコンクリートの型に木製の木枠があり、そこに八分の真鍮管で乾留工場より運んできた木酸液を注いでいた。製品の酢酸石灰はカマスに入れて大八車で運んだそうだ。重い酢酸石灰の搬出を考えると最も下流部に精製工場を設置する必要性があり、蓮の場合も一工場が精製工場と考えていいだろう。森の小倉吉右衛門が運輸部門を設け森から宮前まで輸送をしていたと「飯高郷土誌」に書かれていたので、オジヤンに聞いてみると飯高町第3代小倉信次町長の祖父だそうだ。オジヤンも飯高町最後の宮本里美町長の実兄だが。
新型の2窯3火床の岩本式木材乾留炭化装置は山中に5基設置された。岩本式木材乾留炭化装置の特徴は火床の位置と冷却に使う大量の土管にある。オジヤンによると青田の工場跡には大量の土管が放置された所は無く、通常の炭窯式の乾留工場だったようだ。
山中に残された岩本式木材乾留炭化装置の探索のために千石林道駐車場にむかった。大雨で通行止めとなっていた道がつながって一安心だ。車止めから林道終点まで行き、杣道を下ると喜平小屋谷の出合で右岸に蓮二工場がある。土管の連結部分やつながった土管にサクラビールの瓶などがあるが、上部の堰堤工事で埋められたようで窯は見つからなかった。三重木材乾留会社の乾留工場でよく見かけるサクラビールは鈴木商店系の大正時代にあったビール会社だ。少し離れた堰堤の上の広場にも耐熱レンガがあったので、岩本式木材乾留窯があった可能性もありそうだ。
谷を上り二俣の左岸にある蓮三工場に行く。岩本式木材乾留炭化装置は窯の後方に煙突がありここから土管をつないで冷却していた。最初は8寸土管15間(24cm×1m80cm)を使い次に6寸(18cm)最後に3寸3分(9.9cm)の銅管につなぎ桶に木酸液をためる構造になっている。植林の中には3種類の大量の土管が点在している。つながっている土管に沿って歩いていくと両側を石垣に囲まれた潰れた窯跡があった。土管の置かれた形状や土管の大きさから岩本式木材乾留炭化装置に間違いない。1基目の窯は確認できるのだが2基目が微妙で土管の散らばり方を見ると流されたのかもしれない。
上流部を目指して植林をつなぎながら進むが、嵓が立ってきて上に追いやられていく。1000mあたりで水平道に出会い進んで行くとテープも出て来た。瀬戸越の道で、その先の上流部に進もうとするが破線道どうりに赤嵓滝谷に下された。蓮三工場から少し上れば瀬戸越の道につながっていたことから喜平小屋谷の乾留工場の人や物資はこの道を使っていたのだろう。
赤嵓滝谷を詰めるとすぐに赤嵓滝で右岸から巻く。上っていくと蓮四工場で、左岸に土管や耐熱レンガがあるがほとんど埋もれている。岩本式木材乾留炭化装置を置くにはあまりにも場所が狭いので、炭窯式の乾留工場のように思った。
ひと上りで何度も来ている蓮五工場で、石垣に囲まれた岩本式木材乾留炭化装置が二ヶ所並列して並んでいる。岩本式木材乾留窯の特徴の窯と窯の間の火床も見られるし3種類の土管もあり、ここには二基の岩本式木材乾留炭化装置があったと考えていいだろう。乾留窯に熱をためるために煙突口をふさいだダンパーの枠があった。窯に熱が十分にたまると熱風口のダンパーを開き熱風が土管に流れ、冷却するのである。家に帰ってから気づいたのだが木酸液を運んでいた真鍮管もあった。百年の時を経て残っているとは丈夫なもんだ。左岸に飯場跡がありこれまで集めておいたビール瓶や貧乏徳利に茶わんや皿などの生活痕が残っている。ここで初めて見たのはインク瓶だ。このインクでだれに何を伝えようとしたのかと思うと感慨深いものがある。
三重木材乾留会社にあった5基の岩本式木材乾留炭化装置のうち3基は特定できた。後の2基は蓮3工場の2基目と蓮2工場なのかと思った。そして赤嵓滝谷の蓮4工場・蓮5工場の人や物資は千石平上部の開墾地から水平道で運ばれたのだろう。この道の存在はオジヤンも知っていたのでまず間違いないだろう。第1次世界大戦が終わり、アセトンの代用品が出来たことで乾留特需は一気にしぼみ、三重木材乾留会社の山林をオジヤンが勤めていた千秋社に売却したのだった。
帰りは桧塚劇場まで上り、P1353手前のコルから南に向かって下って最後は井戸谷の崩壊地に出て林道をもどった。
【山 域】台高
【コース】千石林道駐車場8:00---10:12喜平小屋谷蓮3工場---11:56赤嵓滝谷蓮5工場---13:30桧塚劇場---15:45千石林道駐車場
【メンバー】単独
新資料が見つかったことで、新たな疑問が浮かび青田のオジヤンを訪ねることにした。オジヤンに教えてもらった事と新資料の確認をするために、私にとっては本丸と言える飯高の三重木材乾留会社の探索に出かけた。
【歴史的背景】
軍事関連の産業遺産という事で、戦後は歴史から抹消された感がある乾留関連施設。「飯高郷土誌」のように郷土史に記述があるのはまれで、きわめて貴重だと思う。戦前の昭和5年発行の「木材乾留工業」という本が三重大図書館で見つかり、霧中にあった産業遺産が線でつながりだした。本文には「無煙火薬の材料のアセトンが海外から入らなくなったので、海軍からの需要が高まり当時全国各地に乾留工場が出来た。」と受注先も含めて書いてあった。
三重木材乾留会社の経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だ。鈴木商店は幻に終わった戦艦増産計画を事前につかむなど海軍とのつながりは深い。海軍からのアセトンの需要をいち早くつかみ新型乾留工場の新設に乗り出したのだろう。
【三重木材乾留会社】
最大正5年9月に「木材乾留工業」著者の小林久平は三重木材乾留会社を視察している。この時に飯南の大石から粥見、宮前を経て七日市に至る紀州街道沿いに炭窯が30~50個あり大部分の窯が木酸液を採取していた。煙出口に曲がり土管をつけて、そこに冷却用に竹を7~8本差して採取する同型の窯だった。オジヤンに聞くと「炭焼窯があったのは知っているが、竹を差しているのは知らない。」との事だったのでアセトンの需要のあった当時のみ木酸液は採取されたようだ。
三重木材乾留会社の工場跡
(蓮・蓮川水系)
一工場 千石谷右岸
二工場 喜平小屋谷出合
三工場 喜平小屋谷二俣
四工場 赤嵓滝谷 赤嵓滝上部
五工場 赤嵓滝谷 三俣
(青田・木屋谷川水系)
一工場 取水ダム右岸
二工場 千秋社事務所跡
三工場 万歳橋
四工場 ワサビ谷手前
五工場 奥山谷出合
六工場 奥山谷奥の二俣
工場は乾留工場と精製工場に分かれる。乾留工場で木酸液を採取し、直径6分(1.8cm)の真鍮管に入れて精製工場まで運ぶ。精製工場では蒸留して濃度を高め、石灰を混ぜて中和して酢酸石灰にして、搬出した。オジヤンによると、青田の場合は一工場が精製工場で
昔はコンクリートの型に木製の木枠があり、そこに八分の真鍮管で乾留工場より運んできた木酸液を注いでいた。製品の酢酸石灰はカマスに入れて大八車で運んだそうだ。重い酢酸石灰の搬出を考えると最も下流部に精製工場を設置する必要性があり、蓮の場合も一工場が精製工場と考えていいだろう。森の小倉吉右衛門が運輸部門を設け森から宮前まで輸送をしていたと「飯高郷土誌」に書かれていたので、オジヤンに聞いてみると飯高町第3代小倉信次町長の祖父だそうだ。オジヤンも飯高町最後の宮本里美町長の実兄だが。
新型の2窯3火床の岩本式木材乾留炭化装置は山中に5基設置された。岩本式木材乾留炭化装置の特徴は火床の位置と冷却に使う大量の土管にある。オジヤンによると青田の工場跡には大量の土管が放置された所は無く、通常の炭窯式の乾留工場だったようだ。
山中に残された岩本式木材乾留炭化装置の探索のために千石林道駐車場にむかった。大雨で通行止めとなっていた道がつながって一安心だ。車止めから林道終点まで行き、杣道を下ると喜平小屋谷の出合で右岸に蓮二工場がある。土管の連結部分やつながった土管にサクラビールの瓶などがあるが、上部の堰堤工事で埋められたようで窯は見つからなかった。三重木材乾留会社の乾留工場でよく見かけるサクラビールは鈴木商店系の大正時代にあったビール会社だ。少し離れた堰堤の上の広場にも耐熱レンガがあったので、岩本式木材乾留窯があった可能性もありそうだ。
谷を上り二俣の左岸にある蓮三工場に行く。岩本式木材乾留炭化装置は窯の後方に煙突がありここから土管をつないで冷却していた。最初は8寸土管15間(24cm×1m80cm)を使い次に6寸(18cm)最後に3寸3分(9.9cm)の銅管につなぎ桶に木酸液をためる構造になっている。植林の中には3種類の大量の土管が点在している。つながっている土管に沿って歩いていくと両側を石垣に囲まれた潰れた窯跡があった。土管の置かれた形状や土管の大きさから岩本式木材乾留炭化装置に間違いない。1基目の窯は確認できるのだが2基目が微妙で土管の散らばり方を見ると流されたのかもしれない。
上流部を目指して植林をつなぎながら進むが、嵓が立ってきて上に追いやられていく。1000mあたりで水平道に出会い進んで行くとテープも出て来た。瀬戸越の道で、その先の上流部に進もうとするが破線道どうりに赤嵓滝谷に下された。蓮三工場から少し上れば瀬戸越の道につながっていたことから喜平小屋谷の乾留工場の人や物資はこの道を使っていたのだろう。
赤嵓滝谷を詰めるとすぐに赤嵓滝で右岸から巻く。上っていくと蓮四工場で、左岸に土管や耐熱レンガがあるがほとんど埋もれている。岩本式木材乾留炭化装置を置くにはあまりにも場所が狭いので、炭窯式の乾留工場のように思った。
ひと上りで何度も来ている蓮五工場で、石垣に囲まれた岩本式木材乾留炭化装置が二ヶ所並列して並んでいる。岩本式木材乾留窯の特徴の窯と窯の間の火床も見られるし3種類の土管もあり、ここには二基の岩本式木材乾留炭化装置があったと考えていいだろう。乾留窯に熱をためるために煙突口をふさいだダンパーの枠があった。窯に熱が十分にたまると熱風口のダンパーを開き熱風が土管に流れ、冷却するのである。家に帰ってから気づいたのだが木酸液を運んでいた真鍮管もあった。百年の時を経て残っているとは丈夫なもんだ。左岸に飯場跡がありこれまで集めておいたビール瓶や貧乏徳利に茶わんや皿などの生活痕が残っている。ここで初めて見たのはインク瓶だ。このインクでだれに何を伝えようとしたのかと思うと感慨深いものがある。
三重木材乾留会社にあった5基の岩本式木材乾留炭化装置のうち3基は特定できた。後の2基は蓮3工場の2基目と蓮2工場なのかと思った。そして赤嵓滝谷の蓮4工場・蓮5工場の人や物資は千石平上部の開墾地から水平道で運ばれたのだろう。この道の存在はオジヤンも知っていたのでまず間違いないだろう。第1次世界大戦が終わり、アセトンの代用品が出来たことで乾留特需は一気にしぼみ、三重木材乾留会社の山林をオジヤンが勤めていた千秋社に売却したのだった。
帰りは桧塚劇場まで上り、P1353手前のコルから南に向かって下って最後は井戸谷の崩壊地に出て林道をもどった。