【台高】赤嵓滝谷第4・第5乾留工場の人や物資は開墾地から来ていた

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わりばし
記事: 1753
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

【台高】赤嵓滝谷第4・第5乾留工場の人や物資は開墾地から来ていた

投稿記事 by わりばし »

【日 付】2019年6月22日(土)
【山 域】台高
【コース】蓮小学校跡駐車場7:30---10:24赤嵓滝谷右股---13:20蓮小学校跡駐車場
【メンバー】単独

 県道蓮線が三軒家から通行止めになってから赤嵓滝谷に行くのに時間がかかるようになった。春の闇鍋の翌日に行ったが、やはり遠く林道歩きに往復4時間はかかる。春になったら赤嵓滝谷乾留工場への物資の運搬経路を探ろうと思っていたが、なかなか足が向かない。いつもは千石林道の車止めまで入れただけにロスが多い。そんなこんなしている間にhonmaさんのレポに開墾地の存在が上がりグーさん情報で蓮小学校跡まで車が入れるようなので、とりあえず出向いた。

【歴史的背景】
 当時、酢酸は飲料や染め物剤として使われていた。最初はイギリス・ドイツから輸入していたが第1次世界大戦により輸出停止となる。アメリカから原料の酢酸石灰を輸入していたが、最新兵器無煙火薬の材料アセトンの抽出の原料でもあるために輸出が制限され価格が高騰した。瞬く間に全国で木炭噴煙利用の酢酸石灰製造が広まりその工場が木材乾留工場になる。
(大正5年 中外商業新報「酢酸工業盛況」による)
【酢酸石灰製造者】
 経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だった。青田に6つの乾留工場、蓮(千石)に5つの乾留工場を持っていた。当時無尽蔵といわれた豊富な原生林を使い木材乾留し、出てきた溶液に石灰を入れ酢酸石灰として出荷した。蓮には千石谷右岸に本社がありここに第1工場、喜平小屋谷出合に第2工場、喜平小屋谷二俣に第3工場、赤嵓滝谷の赤嵓滝上に第4工場、赤嵓滝谷奥の三俣に第5工場があり第5工場が最大だと思われる。飯高の乾留工場に残されたビール瓶は、鈴木商店傘下のサクラビールのものが多い。

 赤嵓滝谷第5工場の大量の土管やレンガ等の資材をどうやって運んだのだろうか。「蓮の場合は山中の工場から人の背や肩により清瀬まで運んだ。」と飯高町史には書かれている。
当初瀬戸越の道につなげる事を考えていたが、「神戸鈴木の乾留工場のあった頃の開墾地」が谷の左岸にあることを知り探ることにした。

 三軒家の先の工事は終わり、宮ノ谷へは行けるようだ。蓮への分岐にゲートがあるが蓮小学校跡まで問題なく進める。ここで準備をして林道を歩くと、すぐに倒木が道をふさいでいる。30分で千石林道の車止めだから、半時間歩く距離が短くなった。しかし、林道歩きは暑い・・ここのところ沢歩きに行っていた事もあり余計に暑く感じる。チンタラと林道を歩き井戸谷を何度か九十九折れにやりすごし最後の崩壊地を越える。梅雨のせいか崩壊地の滝の水量はいつもより多く、上り返すと千石平になる。

 千石平国有林の看板の所から入る。枝打ちされた気持ちの良い植林の杣道を歩くと開けた場所に着き、千石平の雨量計がある。やけに頑丈に作られた石積みの土台やワイヤーが残っており赤嵓山がきれいに見渡せることからここに材木を下していたようだ。ここから大雪の日に桧塚劇場目当てに赤嵓山に直登したのをこの時に思い出した。

千石平雨量計と石積みに赤嵓山
千石平雨量計と石積みに赤嵓山
 杣道は左の谷に向かいトラバースしてゆきくぼ地にはバイケイソウが群落をなしていた。ここを上って行くと大きく広がったヒキス平で開墾地との境は無いように思った。平を上がりながら杣道を進むと少し上に何やら石積みがある。近づいて見ると大小二つの手びねりの土管があり、乾留工場の土管と同じだ。神戸鈴木の乾留工場のあった頃にできた開墾地から赤嵓滝谷上流部にある第4・第5工場の物資は運ばれていたのか。

開墾地の石積みと土管
開墾地の石積みと土管
 honmaさんのコメントにあった水平道を追うことにする。石積みから道は上流に続いており、次の尾根の出っ張りで植林は切れる。ここからは、木々の間から赤嵓滝が正面の下部に見える。このまま水平道でつないでいけば赤嵓滝の上部に出て第4工場につながる。第4工場と第5工場をつなぐ道はあるので、上流部の二つの工場のルートとしては問題ない。

 自然林の尾根に回り込むと道が急に怪しくなる。どうしたもんかと考えているとトラロープがあり、その先にはテープもある。急斜面の弱点をつくように道はつけられている。とはいうものの道は崩壊しかけており慎重にトラバースして進む。その先の水平道は完全に崩壊しており進めない。少し下って隣の尾根に取りつけそうだ。ここで、ピンソールを靴につけ、いざという時のためにハーネスを装着した。

崩落した谷
崩落した谷
 ザレ場から尾根を回り込むと谷が抜け落ちている。しかも木はほとんどない急な斜面の尾根でどうしようもない。尾根までもどり、テープ道はどこへ行ったのかと思っていると黄色のプレートが木につけられている。「残念」2009.10とある。10年前にここまで来て断念したようだ。赤嵓滝谷右股まで来ているので、ここを回り込めば赤嵓滝上に出られるのだが、これ以上は道を追えないので引き返す。ピンソールをはいて快適に戻る。最初からピンソールをつけておけばよかった。

水平道
水平道
 清瀬から石積みのある開墾地まではしっかりとした道なので大量に物資を運び込めただろうが、辿った水平道では整備されていても輸送量に限界がある。そこで乾留工場直近の平坦地をここにつくり、資材置き場のような土場として使われていたように思う。
 今回たどった道ならば高低差もなく赤嵓滝谷上流の工場に物資が運べる。神戸鈴木の乾留工場のあった頃にできた開墾地から乾留工場の手びねりの土管が出てきて物証としては十分だろう。

手びねり土管
手びねり土管
 乾留工場華やかかりしころ蓮の盆踊りに人足たちが通った道をもどった。


シュークリーム
記事: 2060
登録日時: 2012年2月26日(日) 17:35
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Re: 【台高】赤嵓滝谷第4・第5乾留工場の人や物資は開墾地から来ていた

投稿記事 by シュークリーム »

わりばしさん,おはようございます。
わりばしさんのように実際に足で稼いで昔の山道を考察できる人は少ないと思うので,此の手の考察は貴重ですね。

一つ質問があるのですが,木材乾留工場が実際に稼働していたのは何年ほどなんでしょうか。第一次世界大戦が始まったのが1914年,1927年には鈴木商店は実質上事業停止になっています。単純に計算すると,稼働時期は長くてせいぜい10年程度という計算になるのですが,実際にはどうだったのでしょうか。

おじやんたちが山で働いていた頃は乾留工場跡ももっとはっきりした形で残っていたんでしょうね。
                         @シュークリーム@
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わりばし
記事: 1753
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【台高】赤嵓滝谷第4・第5乾留工場の人や物資は開墾地から来ていた

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、シュークリームさん。

わりばしさんのように実際に足で稼いで昔の山道を考察できる人は少ないと思うので,此の手の考察は貴重ですね。

ありがとうございます。
昔のヤブコギにはこんな人が何人もいたんですが・・・

一つ質問があるのですが,木材乾留工場が実際に稼働していたのは何年ほどなんでしょうか。第一次世界大戦が始まったのが1914年,1927年には鈴木商店は実質上事業停止になっています。単純に計算すると,稼働時期は長くてせいぜい10年程度という計算になるのですが,実際にはどうだったのでしょうか。

飯高町史には1916年の「川俣村事務報告書」の記述として「近年、森村に於ける乾留会社経営事業の為に労働の業務激増し、間断なく労務に従事する者は相当の収入を得る為か当座の生活は豊かなるといえども翻って顧みれば村内の労働の資料は数年空亡を告げつつあり、四周山岳の我村は・・」と地場産業の労働力不足を憂い、その原因は乾留工場にあると書いています。同じ年の中外商業新報には「酢酸工業盛況」と題した記事で全国に乾留工場が出来盛況であるとしています。

つまり第1次世界大戦の始まった1914年に特需がおこり1916年には最盛期を迎えたようです。第1次世界大戦が1918年に終わると戦争特需は無くなるので最盛期は5年にも満たなかったと思います。

飯高町史は、幕を閉じた理由に日英同盟の破棄(1921)による英国人技師の帰国、鈴木商店の取引銀行である台湾銀行の倒産(1927)と書いています。これは最後に印籠を渡されたタイミングで、終戦の1918年からは下火になっていったと思われます。

DSCF2234.JPG

おじやんたちが山で働いていた頃は乾留工場跡ももっとはっきりした形で残っていたんでしょうね。

青田の乾留工場跡には土管やレンガはほとんど無いのでおじやんたちも日々の生活で使っていたようです。
赤嵓滝谷の乾留工場跡に多く土管やレンガが残っているのは奥地過ぎて手が付けられなかったということなのでしょう。


最後に編集したユーザー わりばし [ 2019年6月25日(火) 08:09 ], 累計 2 回
シュークリーム
記事: 2060
登録日時: 2012年2月26日(日) 17:35
お住まい: 三重県津市

Re: 【台高】赤嵓滝谷第4・第5乾留工場の人や物資は開墾地から来ていた

投稿記事 by シュークリーム »

わりばしさん,詳細な説明ありがとうございます。

つまり第1次世界大戦の始まった1914年に特需がおこり1916年には最盛期を迎えたようです。第1次世界大戦が1918年に終わると戦争特需は無くなるので最盛期は5年にも満たなかったと思います。

飯高町史は、幕を閉じた理由に日英同盟の破棄(1921)による英国人技師の帰国。鈴木商店の取引銀行である台湾銀行の倒産(1927)と書いています。これは最後に印籠を渡されたタイミングで、終戦の1918年からは下火になっていったと思われます。


この期間は鈴木商店の最盛期とも重なりますね。
いつもは静かな山村が数年間戦争特需に沸いたんですね。よその人もたくさん入り込んだろうし,地元の人にとっていいことだったのか悪いことだったのか。もうその頃のことを覚えている人は生きてはいないだろうしね。
今はほとんど行く人もいない蓮や青田の山奥もその頃はたくさんの人が行き交っていたんでしょうねえ。
                         @シュークリーム@
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わりばし
記事: 1753
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
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Re: 【台高】赤嵓滝谷第4・第5乾留工場の人や物資は開墾地から来ていた

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、シュークリームさん。

つまり第1次世界大戦の始まった1914年に特需がおこり1916年には最盛期を迎えたようです。第1次世界大戦が1918年に終わると戦争特需は無くなるので最盛期は5年にも満たなかったと思います。

飯高町史は、幕を閉じた理由に日英同盟の破棄(1921)による英国人技師の帰国。鈴木商店の取引銀行である台湾銀行の倒産(1927)と書いています。これは最後に印籠を渡されたタイミングで、終戦の1918年からは下火になっていったと思われます。


植林の中の開墾地
植林の中の開墾地

この期間は鈴木商店の最盛期とも重なりますね。
いつもは静かな山村が数年間戦争特需に沸いたんですね。よその人もたくさん入り込んだろうし,地元の人にとっていいことだったのか悪いことだったのか。もうその頃のことを覚えている人は生きてはいないだろうしね。
今はほとんど行く人もいない蓮や青田の山奥もその頃はたくさんの人が行き交っていたんでしょうねえ。


清瀬(猿山)のかねつるまで人力で運び。ここから森まで荷車で輸送したそうです。
森の素封家小倉吉右衛門も森から宮前までの運輸を手掛けたようですが、その子孫は今でも森に残っているのか?
一時期は千人ちかい従業員がおり森の国道筋に「馬車万」という居酒屋もあったそうだが・・
写真でも拝めるとありがたい。
従業員で人が身動きもとれないほどにぎわった蓮の盆踊りは、どんなものだったんだろう。

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