【台高】桧塚奥峯界隈 地名考察 「ヒキウス平」は無かった。その1
Posted: 2019年6月06日(木) 00:19
始めに
三重県と奈良県の県境にある台高山脈の北部、明神岳(穂高明神)の東約1.6kmの所に標高1400m前後の山々がある。
このあたりの地名に「ヒキウス平」というのを、最近ネットで目にすることが多くなってきた。
私は25年ぐらい前からこのあたりを歩いているが、その頃はそんな地名は聞いたことが無かった。
昔からそんな地名があって私が知らないだけだったのか?
そんな気もあってこの辺りの山に詳しいある山岳会の昔の山行記録を調べてみた。
この記録は以前にも読んだことがあるが、そのときは地名の位置関係がよく解らなかった。
今回じっくりと読み直し、最近手に入れた新資料と照らし合わせてみると驚くべき事実が解ったのであった。
まず最初に地形図で現在の地名を確認する。 位置1は桧塚奥峯(1420m)、位置2は桧塚(1402.2m)、現在ネット等で云われている「ヒキウス平」の位置は、桧塚奥峯(位置1)より約590m南の1360m等高線のあたりの位置3である。
次にこれから参考にする山岳会の山行記録の紹介である。
この記事は、「松阪山岳会 会報 ⑦ ALPINIST 発行1962.12.21」のトップ記事として掲載されていて、題名は「桧塚奥峯 大西保夫 記」である。
1957年11月3日の登頂記録と思われる。
またこの会報によると大西さんは桧塚奥峯に1958年11月23日、1959年7月18日にも登られている。
以下「松阪山岳会 会報 ⑦」よりの引用です。
(前略)
新築を急ぐ蓮の小学校を右に下路を通り左岸のヌタハラ谷を過ぎると更に右岸に奥の平の谷と別れて、暫らくして左岸から水のあるカラ谷の右側を登る。
登り口の左に営林署のトタン葺で鉄柱の山林事務所がある。
千石谷も奥の平谷もその一体が最近に営林署所属となつた。
この小屋を眼下にしてカラ谷をやや登つて、千石谷左岸を西に西にと高巻く。
井戸谷を越えると千石平という平がある。
更にその上稍々狭いピキウス平と云うあり。
神戸鈴木の乾溜工場があつた頃の開墾地(注1)と云う桧林を北北東に覚つかない径を辿る。
左に赤ぐら滝が寿々響いてくる。
熊笹の小径をあえぎ登れば午前十時頃尾根に出る。
更に熊笹の尾根径を西方に赤ぐら山(注2)1400米峯の西肩に出づ。
見晴しは実に素晴らしい。北に桧塚あたりがよく見え、秋の装をこらし、南に奥のマヨイが勇姿を見せている。
折からの紅葉は見頃、この登行至る処に紅葉を楽しんだが、一層に此の所の眺望はよい。
此の所に早い昼食を喫す。
桧塚方面に廻るのは時間的にどうかと云う広一君を督して判官平を左手にして1440米A米峯に向う。
径らしいものもない広々とした二峯程を廻つて、1440米A峯即ち桧塚奥峯とも云うべき目的の山頂に遂に到達する。
今日は或は駄目かと思うた此の嶺に辿り得た此の喜び。
山頂は殆んど平で大樹が茂つていて眺望は殆んどきかない。
幸い南面に少し桧生い茂り、その内に桧の枯木あり、枯木に登つて素晴らしい眺めをほしいままにする。
局岳方面と迷岳方面とを夫々カラーにする。
広一君が少しく小手調べをして、ヌタハラ谷を下つたらと云う提案に同意する。
少し南方に降りかけて直ぐ東方に向う。
十分もせぬ内に桧の古木の茂り合うた所謂「桧塚」に至る。
桧塚は地図で見ると前述の桧塚奥峯の真東に添う1400米線の出張り位の所である。
桧塚から東方の枝谷に即ち1402.3米峯(三角点あり)のほんの下の谷間に達す。
此所から桧塚を見上げると三角錐の頂点に青緑の花冠つけた山少女と見立つべく、塚というべきか、冠と云うべきか姿よく見える。
是によつて見れば、桧塚と云うは蓮側にある名称で、青田側では全々考えられぬ名称であつて、1440米A峯は桧塚又は「桧塚奥峯」と称すべきものである。
1402.3米の三角点ある峯は無名にして、千秋社で名付けている「千秋峯」と云うは結構であると思われる。
(中略)
其後に青田側で千秋峯の東尾根の塊を桧塚と称うのを知つた。
注1 開墾地の墾は原文では懇となっているが、誤植で墾が正しいと思われる。
注2 「赤ぐら山」は概念図と同じ「赤嵓山」だが、「嵓」の活字が無かったため「ぐら」になったのではないか。
以上引用終わり。
※「松阪山岳会 会報 ⑦」は三重県立図書館で閲覧できます。(2020/06/28 追記)
三重県と奈良県の県境にある台高山脈の北部、明神岳(穂高明神)の東約1.6kmの所に標高1400m前後の山々がある。
このあたりの地名に「ヒキウス平」というのを、最近ネットで目にすることが多くなってきた。
私は25年ぐらい前からこのあたりを歩いているが、その頃はそんな地名は聞いたことが無かった。
昔からそんな地名があって私が知らないだけだったのか?
そんな気もあってこの辺りの山に詳しいある山岳会の昔の山行記録を調べてみた。
この記録は以前にも読んだことがあるが、そのときは地名の位置関係がよく解らなかった。
今回じっくりと読み直し、最近手に入れた新資料と照らし合わせてみると驚くべき事実が解ったのであった。
まず最初に地形図で現在の地名を確認する。 位置1は桧塚奥峯(1420m)、位置2は桧塚(1402.2m)、現在ネット等で云われている「ヒキウス平」の位置は、桧塚奥峯(位置1)より約590m南の1360m等高線のあたりの位置3である。
次にこれから参考にする山岳会の山行記録の紹介である。
この記事は、「松阪山岳会 会報 ⑦ ALPINIST 発行1962.12.21」のトップ記事として掲載されていて、題名は「桧塚奥峯 大西保夫 記」である。
1957年11月3日の登頂記録と思われる。
またこの会報によると大西さんは桧塚奥峯に1958年11月23日、1959年7月18日にも登られている。
以下「松阪山岳会 会報 ⑦」よりの引用です。
(前略)
新築を急ぐ蓮の小学校を右に下路を通り左岸のヌタハラ谷を過ぎると更に右岸に奥の平の谷と別れて、暫らくして左岸から水のあるカラ谷の右側を登る。
登り口の左に営林署のトタン葺で鉄柱の山林事務所がある。
千石谷も奥の平谷もその一体が最近に営林署所属となつた。
この小屋を眼下にしてカラ谷をやや登つて、千石谷左岸を西に西にと高巻く。
井戸谷を越えると千石平という平がある。
更にその上稍々狭いピキウス平と云うあり。
神戸鈴木の乾溜工場があつた頃の開墾地(注1)と云う桧林を北北東に覚つかない径を辿る。
左に赤ぐら滝が寿々響いてくる。
熊笹の小径をあえぎ登れば午前十時頃尾根に出る。
更に熊笹の尾根径を西方に赤ぐら山(注2)1400米峯の西肩に出づ。
見晴しは実に素晴らしい。北に桧塚あたりがよく見え、秋の装をこらし、南に奥のマヨイが勇姿を見せている。
折からの紅葉は見頃、この登行至る処に紅葉を楽しんだが、一層に此の所の眺望はよい。
此の所に早い昼食を喫す。
桧塚方面に廻るのは時間的にどうかと云う広一君を督して判官平を左手にして1440米A米峯に向う。
径らしいものもない広々とした二峯程を廻つて、1440米A峯即ち桧塚奥峯とも云うべき目的の山頂に遂に到達する。
今日は或は駄目かと思うた此の嶺に辿り得た此の喜び。
山頂は殆んど平で大樹が茂つていて眺望は殆んどきかない。
幸い南面に少し桧生い茂り、その内に桧の枯木あり、枯木に登つて素晴らしい眺めをほしいままにする。
局岳方面と迷岳方面とを夫々カラーにする。
広一君が少しく小手調べをして、ヌタハラ谷を下つたらと云う提案に同意する。
少し南方に降りかけて直ぐ東方に向う。
十分もせぬ内に桧の古木の茂り合うた所謂「桧塚」に至る。
桧塚は地図で見ると前述の桧塚奥峯の真東に添う1400米線の出張り位の所である。
桧塚から東方の枝谷に即ち1402.3米峯(三角点あり)のほんの下の谷間に達す。
此所から桧塚を見上げると三角錐の頂点に青緑の花冠つけた山少女と見立つべく、塚というべきか、冠と云うべきか姿よく見える。
是によつて見れば、桧塚と云うは蓮側にある名称で、青田側では全々考えられぬ名称であつて、1440米A峯は桧塚又は「桧塚奥峯」と称すべきものである。
1402.3米の三角点ある峯は無名にして、千秋社で名付けている「千秋峯」と云うは結構であると思われる。
(中略)
其後に青田側で千秋峯の東尾根の塊を桧塚と称うのを知つた。
注1 開墾地の墾は原文では懇となっているが、誤植で墾が正しいと思われる。
注2 「赤ぐら山」は概念図と同じ「赤嵓山」だが、「嵓」の活字が無かったため「ぐら」になったのではないか。
以上引用終わり。
※「松阪山岳会 会報 ⑦」は三重県立図書館で閲覧できます。(2020/06/28 追記)