【日 付】2017年2月7日(日)
【山 域】台高
【コース】橡山林道ゲートP7:22---10:26古和谷駅---12:18県境乗越の大杉---15:05橡山林道ゲートP
【メンバー】単独
例年だと雪山に向かう時期だが、今年はいかんせん雪が少ない。雪の少ない今シーズンなら古道を辿れるだろうと思いzippさんお勧めの又口道に行くことにした。
海山ICで下りて、相賀から銚子川沿いに進み木津。工事で通行止になっている県道760号線のゲート前から橡山林道に入る。水無峠までは、舗装された道で朝日が上って行く熊野灘がきれいに見えた。峠から林道ゲートまでのなんとも言えない荒れた道を通りゲート前に駐車した。外は意外に寒く雪が舞っており、樫山には薄ら雪がついている。地蔵峠まで林道を歩き、登山口から尾鷲道に向かう。この尾根には栂の大木が残り、道には山マークの石柱がいくつか見られる。風の冷たさにたまらずネックウォーマーまで出した。古和谷から上ってくる尾鷲道に合流し、しばらく登ると又口辻に着いた。
又口辻より破線道の又口道に入ると、風がやんでそればかりか陽の光で暖かい。稜線が風よけになって雪雲から吹く風をシャットアウトしてくれており、気候の安定している三重県側に道をつけるのは理にかなっている。この道は小谷を横切る箇所がいくつかあるが、こうした所には決まって石積みがあり道を守っている。枯れたスズタケをポキポキ折りながら水平道を進む。
[attachment=5]IMG_0717.jpg[/attachment]
植林地内の崩落を越えれば県境稜線P1170南東尾根を乗越す峠につく。ここは古和谷源頭部のブナの森で視界が広がり気持ちがいい。破線道はここを下るのだが稜線下の道を辿る。稜線に出てしまったので進むと尾根上にプーリーが落ちておりこの上を北山索道は通っていたようだ。
索道とは、架線を張ったワイヤーにリフトを掛け物資を空中運搬する交通手段で、紀伊半島は全国の索道の43%が集中する索道のメッカみたいな所だ。紀伊半島にあった20索道の中でも、北山索道は、尾鷲索道(62年)高野索道(58年)についで長い43年間営業されていた索道で、大正7年に開業している。
尾根の古和谷側にも柳ノ谷側にも搬器が落ちていた。稜線付近にはガイシもいくつかころがっていた。古和谷側のワイヤーは小尾根を越えているが、回り込むように谷沿いに下って行く。左岸に炭焼窯跡がありその先の右岸に大きなトチノキがあるので向かうとミズナラの大木も二本残されている。目印の木だろうと思い近づいていくと古和谷駅の上部に着いた。
[attachment=4]IMG_0732.jpg[/attachment]
右岸の石積みの台地の上には巨大なプーリーやドラム状の物が当時のセットされた状態で残っている。他には発電機と思われる物や耐熱レンガで組まれた構造物の土台もあり大規模な施設だ。北山索道8駅の内3駅(尾鷲・古和谷・風折)に動力が設置されており、古和谷駅は京良谷駅から平谷駅までの運転を担っていた。動力は開業時の大正7年から昭和23年までの30年間は蒸気で動かしていたので、古和谷駅の耐熱レンガはその際に使われた窯の名残だろう。蒸気で動かすのだから動力駅には水場が必要条件だったということか。そして、昭和23年以降は電力に動力が変わるので、窯は撤去され発電機が設置されたのかもしれない。これだけの規模で残っている可能性のあるのは風折駅だか、kzoさんの調査では動力に関係する機械等は残っていなかったようだ。索道の動力駅が当時の面影をこれだけ残している場所は全国的にも少ないんじゃないかな。
[attachment=3]IMG_0752.jpg[/attachment]
来た谷を上りかえし、炭焼窯跡でGPSを見ると古和谷駅近くに県境稜線を破線道が柳ノ谷側に乗越す地点につけたマーキングがある。ということは、古和谷駅をトラバースしながら進めばすぐに乗越という訳で、破線道が谷筋を通っている意味がわかった。県境稜線P1170南東尾根を乗り越す峠からなだらかな谷を下り炭焼窯で、そこから谷沿いに古和谷駅まで下りそこから県境の乗越に向かう破線道は古和谷駅を経由するためにわざわざ作られた道だったのだ。残されたブナ林や炭焼窯も古和谷駅の動力である蒸気機関とのつながりがあったように思った。
[attachment=2]IMG_0743.jpg[/attachment]
1170南東尾根を乗越す峠以降の破線道は古道の道のつけ方ではないので、県境稜線近くまで上り水平道を探すことにした。獣道のような感じだが確かに水平道はあった。ここも以前はヤブにつつまれていたようだが、結局県境の乗越手前まで辿れた。その先には古和谷側に大杉が残されていた。又口道は又口辻から1170南東尾根を乗越す峠を通過し稜線下を辿りながら大杉の所まできていたのだろう。それが、古和谷駅が出来たために途中から現在の破線道に塗り替えられたのではないだろうか。とはいうものの1170南東尾根を乗越す峠までとそれ以降では道の作り方が違うので、又口道の石積みは古和谷駅とからめて整備されたように思う。
そして、破線道も大松に至っており、長きに渡って人々を見つめ続けてきた目印の木だ。
[attachment=1]IMG_0756.jpg[/attachment]
その先の植林にはしっかりした杣道が柳ノ谷に向かって下っていた。帰りは県境稜線を歩く、展望が良く雪におおわれた大峰に尾鷲湾と熊野灘が良く見える。この稜線は思った以上にアップダウンがあり、又口道をつけた意味がよくわかった。二山越えて龍辻まで上りかえし一服。後は、来た道をもどるだけだが、林道に下りてから道分地蔵さんにあいさつをして帰った。
【台高】いにしえの又口道と北山索道古和谷駅経由の破線道
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Re: 【台高】いにしえの又口道と北山索道古和谷駅経由の破線道
わりばしさん、こんばんは。
例年だと雪山に向かう時期だが、今年はいかんせん雪が少ない。雪の少ない今シーズンなら古道を辿れるだろうと思いzippさんお勧めの又口道に行くことにした。
おっ、重い腰をあげましたか。
海山ICで下りて、相賀から銚子川沿いに進み木津。工事で通行止になっている県道760号線のゲート前から橡山林道に入る。
なんでやねん!
又口から辿らんと!!
又口辻より破線道の又口道に入ると、風がやんでそればかりか陽の光で暖かい。稜線が風よけになって雪雲から吹く風をシャットアウトしてくれており、気候の安定している三重県側に道をつけるのは理にかなっている。
ですね。
ここはぽかぽかでしたね。
しかし又口道=尾鷲道は、主稜線沿いは西側に付けられてるんですよね。
植林地内の崩落を越えれば県境稜線P1170南東尾根を乗越す峠につく。ここは古和谷源頭部のブナの森で視界が広がり気持ちがいい。
ここは、思わぬ大ブナもあり気持ちの良いところですね。
破線道はここを下るのだが稜線下の道を辿る。
稜線の下の道?
稜線に出てしまったので進むと尾根上にプーリーが落ちておりこの上を北山索道は通っていたようだ。
この柳ノ谷の対岸右岸の稜線にも支柱跡が残っており、プーリーや搬器が落ちてます。
右岸の石積みの台地の上には巨大なプーリーやドラム状の物が当時のセットされた状態で残っている。他には発電機と思われる物や耐熱レンガで組まれた構造物の土台もあり大規模な施設だ。
この遺構はなかなかのものでしたでしょう。
はじめて行って見た時は、ビックリしました。こんなに残っているなんて!
動力は開業時の大正7年から昭和23年までの30年間は蒸気で動かしていたので、古和谷駅の耐熱レンガはその際に使われた窯の名残だろう
耐火煉瓦が残ってるわけは、ソコだったんだね。
ってことは、その耐火煉瓦も大正時代のものなんだ。
来た谷を上りかえし、炭焼窯跡でGPSを見ると古和谷駅近くに県境稜線を破線道が柳ノ谷側に乗越す地点につけたマーキングがある。ということは、古和谷駅をトラバースしながら進めばすぐに乗越という訳で、破線道が谷筋を通っている意味がわかった。県境稜線P1170南東尾根を乗り越す峠からなだらかな谷を下り炭焼窯で、そこから谷沿いに古和谷駅まで下りそこから県境の乗越に向かう破線道は古和谷駅を経由するためにわざわざ作られた道だったのだ。残されたブナ林や炭焼窯も古和谷駅の動力である蒸気機関とのつながりがあったように思った。
この辺りが、意味がよくわからん。
マーキングは、又口辻から県境稜線P1170南東尾根を乗越と古和谷駅跡辺りにはありました。
けど、この乗越への谷筋に道があったとは思えないです。マーキングした人は、破線道を忠実に辿ったんでしょう。
この辺りの炭焼き窯は、この北山索道があってからこそ、作られた窯なんだと思います。
1170南東尾根を乗越す峠以降の破線道は古道の道のつけ方ではないので、県境稜線近くまで上り水平道を探すことにした。獣道のような感じだが確かに水平道はあった。ここも以前はヤブにつつまれていたようだが、結局県境の乗越手前まで辿れた。その先には古和谷側に大杉が残されていた。又口道は又口辻から1170南東尾根を乗越す峠を通過し稜線下を辿りながら大杉の所まできていたのだろう。
これもよく意味が分からないです。
乗越から県境稜線近くまでは、古道があり、県境を越えずに下っているところまでは辿れています。
大杉とは、何処のことなんだろう?
とはいうものの1170南東尾根を乗越す峠までとそれ以降では道の作り方が違うので、又口道の石積みは古和谷駅とからめて整備されたように思う。
これは、判断草々です。
又口から辿れば、それは理解できると思う。
古和谷駅ができて、そこに寄る道ができたとしても、現在の地形図の谷の「破線道」は間違いで使われなかったと思います。
帰りは県境稜線を歩く、展望が良く雪におおわれた大峰に尾鷲湾と熊野灘が良く見える。
この日は、前夜に僅かながらも積雪があり、大峰が映えて見えたことでしょう
確認しておきますが、本来の尾鷲道は、土井氏が寄贈した道で、それは「又口道」です。
その道の形態は大台ケ原まで変わらず緩やかな山腹、ジグザグを切る道です。
尾鷲道より古い竜辻と木津を結ぶ稜線にあがっている古和谷道は、戦後の古和谷の伐採によってもたらされた道です。
[attachment=0]DSCN3275_925.jpg[/attachment]
zipp
Re: 【台高】いにしえの又口道と北山索道古和谷駅経由の破線道
おはようございます、zippさん。
海山ICで下りて、相賀から銚子川沿いに進み木津。工事で通行止になっている県道760号線のゲート前から橡山林道に入る。
なんでやねん!
又口から辿らんと!!
恐怖のつり橋があるので、当初は県境から植林の杣道をピストンする予定だったのですが・・
又口辻より破線道の又口道に入ると、風がやんでそればかりか陽の光で暖かい。稜線が風よけになって雪雲から吹く風をシャットアウトしてくれており、気候の安定している三重県側に道をつけるのは理にかなっている。
ですね。
ここはぽかぽかでしたね。
しかし又口道=尾鷲道は、主稜線沿いは西側に付けられてるんですよね。
西側に付いているのはどのあたりです?
植林地内の崩落を越えれば県境稜線P1170南東尾根を乗越す峠につく。ここは古和谷源頭部のブナの森で視界が広がり気持ちがいい。
ここは、思わぬ大ブナもあり気持ちの良いところですね。
植林地を抜けた場所での源頭のブナ林ですからインパクトがありました。
稜線に出てしまったので進むと尾根上にプーリーが落ちておりこの上を北山索道は通っていたようだ。
この柳ノ谷の対岸右岸の稜線にも支柱跡が残っており、プーリーや搬器が落ちてます。
ケーブルが切れてそのまま落ちたのでしょうね。
右岸の石積みの台地の上には巨大なプーリーやドラム状の物が当時のセットされた状態で残っている。他には発電機と思われる物や耐熱レンガで組まれた構造物の土台もあり大規模な施設だ。
この遺構はなかなかのものでしたでしょう。
はじめて行って見た時は、ビックリしました。こんなに残っているなんて!
そうですよね。左岸の飯場跡も含めると大きいですよね。
それにしっかり残っています。
動力は開業時の大正7年から昭和23年までの30年間は蒸気で動かしていたので、古和谷駅の耐熱レンガはその際に使われた窯の名残だろう
耐火煉瓦が残ってるわけは、ソコだったんだね。
ってことは、その耐火煉瓦も大正時代のものなんだ。
時代背景から考えてレンガは大正時代のもので間違いないと思います。
「KFB」「SHINANO」「CHUKYO」とこれまで見たことない会社の刻印ばかりでした。
乾留工場と資本が違えばこれだけ使用レンガも違うんだという感じです。
それだけ多くのレンガ会社が当時は存在したのでしょう。
来た谷を上りかえし、炭焼窯跡でGPSを見ると古和谷駅近くに県境稜線を破線道が柳ノ谷側に乗越す地点につけたマーキングがある。ということは、古和谷駅をトラバースしながら進めばすぐに乗越という訳で、破線道が谷筋を通っている意味がわかった。県境稜線P1170南東尾根を乗り越す峠からなだらかな谷を下り炭焼窯で、そこから谷沿いに古和谷駅まで下りそこから県境の乗越に向かう破線道は古和谷駅を経由するためにわざわざ作られた道だったのだ。残されたブナ林や炭焼窯も古和谷駅の動力である蒸気機関とのつながりがあったように思った。
この辺りが、意味がよくわからん。
マーキングは、又口辻から県境稜線P1170南東尾根を乗越と古和谷駅跡辺りにはありました。
けど、この乗越への谷筋に道があったとは思えないです。マーキングした人は、破線道を忠実に辿ったんでしょう。
この辺りの炭焼き窯は、この北山索道があってからこそ、作られた窯なんだと思います。
GPSのマーキングは私がGPS上につけたマーキングです。
破線道を辿ったマーキングは黄色テープですね。
1170南東尾根を乗越す峠以降の破線道は古道の道のつけ方ではないので、県境稜線近くまで上り水平道を探すことにした。獣道のような感じだが確かに水平道はあった。ここも以前はヤブにつつまれていたようだが、結局県境の乗越手前まで辿れた。その先には古和谷側に大杉が残されていた。又口道は又口辻から1170南東尾根を乗越す峠を通過し稜線下を辿りながら大杉の所まできていたのだろう。
これもよく意味が分からないです。
乗越から県境稜線近くまでは、古道があり、県境を越えずに下っているところまでは辿れています。
大杉とは、何処のことなんだろう?
県境を越えずに下った先の獣道を辿ったんです。
大杉は植林を柳ノ谷に下りる杣道手前の古和谷側にあります。
とはいうものの1170南東尾根を乗越す峠までとそれ以降では道の作り方が違うので、又口道の石積みは古和谷駅とからめて整備されたように思う。
これは、判断草々です。
又口から辿れば、それは理解できると思う。
古和谷駅ができて、そこに寄る道ができたとしても、現在の地形図の谷の「破線道」は間違いで使われなかったと思います。
植林の中にも又口道の痕跡があるんですね。
ダニのいない時期に歩かなきゃ。
帰りは県境稜線を歩く、展望が良く雪におおわれた大峰に尾鷲湾と熊野灘が良く見える。
この日は、前夜に僅かながらも積雪があり、大峰が映えて見えたことでしょう
確認しておきますが、本来の尾鷲道は、土井氏が寄贈した道で、それは「又口道」です。
その道の形態は大台ケ原まで変わらず緩やかな山腹、ジグザグを切る道です。
尾鷲道より古い竜辻と木津を結ぶ稜線にあがっている古和谷道は、戦後の古和谷の伐採によってもたらされた道です。
という事は、土井氏が寄進した尾鷲道は当初は又口を起点とする又口道だったということですか?
海山ICで下りて、相賀から銚子川沿いに進み木津。工事で通行止になっている県道760号線のゲート前から橡山林道に入る。
なんでやねん!
又口から辿らんと!!
恐怖のつり橋があるので、当初は県境から植林の杣道をピストンする予定だったのですが・・
又口辻より破線道の又口道に入ると、風がやんでそればかりか陽の光で暖かい。稜線が風よけになって雪雲から吹く風をシャットアウトしてくれており、気候の安定している三重県側に道をつけるのは理にかなっている。
ですね。
ここはぽかぽかでしたね。
しかし又口道=尾鷲道は、主稜線沿いは西側に付けられてるんですよね。
西側に付いているのはどのあたりです?
植林地内の崩落を越えれば県境稜線P1170南東尾根を乗越す峠につく。ここは古和谷源頭部のブナの森で視界が広がり気持ちがいい。
ここは、思わぬ大ブナもあり気持ちの良いところですね。
植林地を抜けた場所での源頭のブナ林ですからインパクトがありました。
稜線に出てしまったので進むと尾根上にプーリーが落ちておりこの上を北山索道は通っていたようだ。
この柳ノ谷の対岸右岸の稜線にも支柱跡が残っており、プーリーや搬器が落ちてます。
ケーブルが切れてそのまま落ちたのでしょうね。
右岸の石積みの台地の上には巨大なプーリーやドラム状の物が当時のセットされた状態で残っている。他には発電機と思われる物や耐熱レンガで組まれた構造物の土台もあり大規模な施設だ。
この遺構はなかなかのものでしたでしょう。
はじめて行って見た時は、ビックリしました。こんなに残っているなんて!
そうですよね。左岸の飯場跡も含めると大きいですよね。
それにしっかり残っています。
動力は開業時の大正7年から昭和23年までの30年間は蒸気で動かしていたので、古和谷駅の耐熱レンガはその際に使われた窯の名残だろう
耐火煉瓦が残ってるわけは、ソコだったんだね。
ってことは、その耐火煉瓦も大正時代のものなんだ。
時代背景から考えてレンガは大正時代のもので間違いないと思います。
「KFB」「SHINANO」「CHUKYO」とこれまで見たことない会社の刻印ばかりでした。
乾留工場と資本が違えばこれだけ使用レンガも違うんだという感じです。
それだけ多くのレンガ会社が当時は存在したのでしょう。
来た谷を上りかえし、炭焼窯跡でGPSを見ると古和谷駅近くに県境稜線を破線道が柳ノ谷側に乗越す地点につけたマーキングがある。ということは、古和谷駅をトラバースしながら進めばすぐに乗越という訳で、破線道が谷筋を通っている意味がわかった。県境稜線P1170南東尾根を乗り越す峠からなだらかな谷を下り炭焼窯で、そこから谷沿いに古和谷駅まで下りそこから県境の乗越に向かう破線道は古和谷駅を経由するためにわざわざ作られた道だったのだ。残されたブナ林や炭焼窯も古和谷駅の動力である蒸気機関とのつながりがあったように思った。
この辺りが、意味がよくわからん。
マーキングは、又口辻から県境稜線P1170南東尾根を乗越と古和谷駅跡辺りにはありました。
けど、この乗越への谷筋に道があったとは思えないです。マーキングした人は、破線道を忠実に辿ったんでしょう。
この辺りの炭焼き窯は、この北山索道があってからこそ、作られた窯なんだと思います。
GPSのマーキングは私がGPS上につけたマーキングです。
破線道を辿ったマーキングは黄色テープですね。
1170南東尾根を乗越す峠以降の破線道は古道の道のつけ方ではないので、県境稜線近くまで上り水平道を探すことにした。獣道のような感じだが確かに水平道はあった。ここも以前はヤブにつつまれていたようだが、結局県境の乗越手前まで辿れた。その先には古和谷側に大杉が残されていた。又口道は又口辻から1170南東尾根を乗越す峠を通過し稜線下を辿りながら大杉の所まできていたのだろう。
これもよく意味が分からないです。
乗越から県境稜線近くまでは、古道があり、県境を越えずに下っているところまでは辿れています。
大杉とは、何処のことなんだろう?
県境を越えずに下った先の獣道を辿ったんです。
大杉は植林を柳ノ谷に下りる杣道手前の古和谷側にあります。
とはいうものの1170南東尾根を乗越す峠までとそれ以降では道の作り方が違うので、又口道の石積みは古和谷駅とからめて整備されたように思う。
これは、判断草々です。
又口から辿れば、それは理解できると思う。
古和谷駅ができて、そこに寄る道ができたとしても、現在の地形図の谷の「破線道」は間違いで使われなかったと思います。
植林の中にも又口道の痕跡があるんですね。
ダニのいない時期に歩かなきゃ。
帰りは県境稜線を歩く、展望が良く雪におおわれた大峰に尾鷲湾と熊野灘が良く見える。
この日は、前夜に僅かながらも積雪があり、大峰が映えて見えたことでしょう
確認しておきますが、本来の尾鷲道は、土井氏が寄贈した道で、それは「又口道」です。
その道の形態は大台ケ原まで変わらず緩やかな山腹、ジグザグを切る道です。
尾鷲道より古い竜辻と木津を結ぶ稜線にあがっている古和谷道は、戦後の古和谷の伐採によってもたらされた道です。
という事は、土井氏が寄進した尾鷲道は当初は又口を起点とする又口道だったということですか?
Re: 【台高】いにしえの又口道と北山索道古和谷駅経由の破線道
わりばしさん、おはようございます。
7日は索道探索でしたか。奥美濃はいい山日和でしたが、台高もいい天気だったのかな?
地蔵峠まで林道を歩き、登山口から尾鷲道に向かう。この尾根には栂の大木が残り、道には山マークの石柱がいくつか見られる。風の冷たさにたまらずネックウォーマーまで出した。古和谷から上ってくる尾鷲道に合流し、しばらく登ると又口辻に着いた。
ふーん、台高は風が強かったですか。奥美濃はほぼ無風で暖かかったですけどねえ。
又口辻より破線道の又口道に入ると、風がやんでそればかりか陽の光で暖かい。稜線が風よけになって雪雲から吹く風をシャットアウトしてくれており、気候の安定している三重県側に道をつけるのは理にかなっている。この道は小谷を横切る箇所がいくつかあるが、こうした所には決まって石積みがあり道を守っている。枯れたスズタケをポキポキ折りながら水平道を進む。
南斜面ですから、北風がさえぎられて暖かかったでしょう。
索道とは、架線を張ったワイヤーにリフトを掛け物資を空中運搬する交通手段で、紀伊半島は全国の索道の43%が集中する索道のメッカみたいな所だ。紀伊半島にあった20索道の中でも、北山索道は、尾鷲索道(62年)高野索道(58年)についで長い43年間営業されていた索道で、大正7年に開業している。
右岸の石積みの台地の上には巨大なプーリーやドラム状の物が当時のセットされた状態で残っている。他には発電機と思われる物や耐熱レンガで組まれた構造物の土台もあり大規模な施設だ。北山索道8駅の内3駅(尾鷲・古和谷・風折)に動力が設置されており、古和谷駅は京良谷駅から平谷駅までの運転を担っていた。動力は開業時の大正7年から昭和23年までの30年間は蒸気で動かしていたので、古和谷駅の耐熱レンガはその際に使われた窯の名残だろう。蒸気で動かすのだから動力駅には水場が必要条件だったということか。そして、昭和23年以降は電力に動力が変わるので、窯は撤去され発電機が設置されたのかもしれない。これだけの規模で残っている可能性のあるのは風折駅だか、kzoさんの調査では動力に関係する機械等は残っていなかったようだ。索道の動力駅が当時の面影をこれだけ残している場所は全国的にも少ないんじゃないかな。
昔の写真をネットで見ましたが、結構大規模なものだったんですね。
今では想像もできないけど、林業が盛んだったころはこのあたりも木材の切り出しで、賑わっていた事でしょう。そんなことを想像しながら歩くと、山歩きもまた違った味わいがありますね。
その先の植林にはしっかりした杣道が柳ノ谷に向かって下っていた。帰りは県境稜線を歩く、展望が良く雪におおわれた大峰に尾鷲湾と熊野灘が良く見える。この稜線は思った以上にアップダウンがあり、又口道をつけた意味がよくわかった。二山越えて龍辻まで上りかえし一服。後は、来た道をもどるだけだが、林道に下りてから道分地蔵さんにあいさつをして帰った。
このあたりの渓はそれほど人が多く入っていないし、大滝なども沢山あるので、今年はこのあたりの渓を散策してみようかと思っています。と言っても、大半は単独になるので、自分が無理なく行ける範囲だけですけど。
ところで、以前、わりばしさんが小木森滝へ行ったときに使った杣道は、花の木峠に行く杣道の下流側に2.5万地図で堰堤が書かれたあたりから入るということでいいんですか。
7日は索道探索でしたか。奥美濃はいい山日和でしたが、台高もいい天気だったのかな?
地蔵峠まで林道を歩き、登山口から尾鷲道に向かう。この尾根には栂の大木が残り、道には山マークの石柱がいくつか見られる。風の冷たさにたまらずネックウォーマーまで出した。古和谷から上ってくる尾鷲道に合流し、しばらく登ると又口辻に着いた。
ふーん、台高は風が強かったですか。奥美濃はほぼ無風で暖かかったですけどねえ。
又口辻より破線道の又口道に入ると、風がやんでそればかりか陽の光で暖かい。稜線が風よけになって雪雲から吹く風をシャットアウトしてくれており、気候の安定している三重県側に道をつけるのは理にかなっている。この道は小谷を横切る箇所がいくつかあるが、こうした所には決まって石積みがあり道を守っている。枯れたスズタケをポキポキ折りながら水平道を進む。
南斜面ですから、北風がさえぎられて暖かかったでしょう。
索道とは、架線を張ったワイヤーにリフトを掛け物資を空中運搬する交通手段で、紀伊半島は全国の索道の43%が集中する索道のメッカみたいな所だ。紀伊半島にあった20索道の中でも、北山索道は、尾鷲索道(62年)高野索道(58年)についで長い43年間営業されていた索道で、大正7年に開業している。
右岸の石積みの台地の上には巨大なプーリーやドラム状の物が当時のセットされた状態で残っている。他には発電機と思われる物や耐熱レンガで組まれた構造物の土台もあり大規模な施設だ。北山索道8駅の内3駅(尾鷲・古和谷・風折)に動力が設置されており、古和谷駅は京良谷駅から平谷駅までの運転を担っていた。動力は開業時の大正7年から昭和23年までの30年間は蒸気で動かしていたので、古和谷駅の耐熱レンガはその際に使われた窯の名残だろう。蒸気で動かすのだから動力駅には水場が必要条件だったということか。そして、昭和23年以降は電力に動力が変わるので、窯は撤去され発電機が設置されたのかもしれない。これだけの規模で残っている可能性のあるのは風折駅だか、kzoさんの調査では動力に関係する機械等は残っていなかったようだ。索道の動力駅が当時の面影をこれだけ残している場所は全国的にも少ないんじゃないかな。
昔の写真をネットで見ましたが、結構大規模なものだったんですね。
今では想像もできないけど、林業が盛んだったころはこのあたりも木材の切り出しで、賑わっていた事でしょう。そんなことを想像しながら歩くと、山歩きもまた違った味わいがありますね。
その先の植林にはしっかりした杣道が柳ノ谷に向かって下っていた。帰りは県境稜線を歩く、展望が良く雪におおわれた大峰に尾鷲湾と熊野灘が良く見える。この稜線は思った以上にアップダウンがあり、又口道をつけた意味がよくわかった。二山越えて龍辻まで上りかえし一服。後は、来た道をもどるだけだが、林道に下りてから道分地蔵さんにあいさつをして帰った。
このあたりの渓はそれほど人が多く入っていないし、大滝なども沢山あるので、今年はこのあたりの渓を散策してみようかと思っています。と言っても、大半は単独になるので、自分が無理なく行ける範囲だけですけど。
ところで、以前、わりばしさんが小木森滝へ行ったときに使った杣道は、花の木峠に行く杣道の下流側に2.5万地図で堰堤が書かれたあたりから入るということでいいんですか。
@シュークリーム@
Re: 【台高】いにしえの又口道と北山索道古和谷駅経由の破線道
おはようございます、シュークリームさん。
地蔵峠まで林道を歩き、登山口から尾鷲道に向かう。この尾根には栂の大木が残り、道には山マークの石柱がいくつか見られる。風の冷たさにたまらずネックウォーマーまで出した。古和谷から上ってくる尾鷲道に合流し、しばらく登ると又口辻に着いた。
ふーん、台高は風が強かったですか。奥美濃はほぼ無風で暖かかったですけどねえ。
大台ケ原の雪雲の雪が飛ばされてきていました。
又口辻より破線道の又口道に入ると、風がやんでそればかりか陽の光で暖かい。稜線が風よけになって雪雲から吹く風をシャットアウトしてくれており、気候の安定している三重県側に道をつけるのは理にかなっている。この道は小谷を横切る箇所がいくつかあるが、こうした所には決まって石積みがあり道を守っている。枯れたスズタケをポキポキ折りながら水平道を進む。
南斜面ですから、北風がさえぎられて暖かかったでしょう。
治田鉱山の牛道もそうなんですが、こういう風を遮断した暖かい斜面を古道はうまく使います。
索道とは、架線を張ったワイヤーにリフトを掛け物資を空中運搬する交通手段で、紀伊半島は全国の索道の43%が集中する索道のメッカみたいな所だ。紀伊半島にあった20索道の中でも、北山索道は、尾鷲索道(62年)高野索道(58年)についで長い43年間営業されていた索道で、大正7年に開業している。
右岸の石積みの台地の上には巨大なプーリーやドラム状の物が当時のセットされた状態で残っている。他には発電機と思われる物や耐熱レンガで組まれた構造物の土台もあり大規模な施設だ。北山索道8駅の内3駅(尾鷲・古和谷・風折)に動力が設置されており、古和谷駅は京良谷駅から平谷駅までの運転を担っていた。動力は開業時の大正7年から昭和23年までの30年間は蒸気で動かしていたので、古和谷駅の耐熱レンガはその際に使われた窯の名残だろう。蒸気で動かすのだから動力駅には水場が必要条件だったということか。そして、昭和23年以降は電力に動力が変わるので、窯は撤去され発電機が設置されたのかもしれない。これだけの規模で残っている可能性のあるのは風折駅だか、kzoさんの調査では動力に関係する機械等は残っていなかったようだ。索道の動力駅が当時の面影をこれだけ残している場所は全国的にも少ないんじゃないかな。
昔の写真をネットで見ましたが、結構大規模なものだったんですね。
今では想像もできないけど、林業が盛んだったころはこのあたりも木材の切り出しで、賑わっていた事でしょう。そんなことを想像しながら歩くと、山歩きもまた違った味わいがありますね。
昔の産業遺跡がこれだけしっかり放置されたまま残っているのは珍しいと思います。
台高らしいです。
その先の植林にはしっかりした杣道が柳ノ谷に向かって下っていた。帰りは県境稜線を歩く、展望が良く雪におおわれた大峰に尾鷲湾と熊野灘が良く見える。この稜線は思った以上にアップダウンがあり、又口道をつけた意味がよくわかった。二山越えて龍辻まで上りかえし一服。後は、来た道をもどるだけだが、林道に下りてから道分地蔵さんにあいさつをして帰った。
このあたりの渓はそれほど人が多く入っていないし、大滝なども沢山あるので、今年はこのあたりの渓を散策してみようかと思っています。と言っても、大半は単独になるので、自分が無理なく行ける範囲だけですけど。
ところで、以前、わりばしさんが小木森滝へ行ったときに使った杣道は、花の木峠に行く杣道の下流側に2.5万地図で堰堤が書かれたあたりから入るということでいいんですか。
楽しめそうな渓がありそうですね。
小木森滝に行く杣道は、2.5万地図にのっているような大きな堰堤じゃなかったと思います。
花の木峠から林道を下った最初の堰堤です。
地蔵峠まで林道を歩き、登山口から尾鷲道に向かう。この尾根には栂の大木が残り、道には山マークの石柱がいくつか見られる。風の冷たさにたまらずネックウォーマーまで出した。古和谷から上ってくる尾鷲道に合流し、しばらく登ると又口辻に着いた。
ふーん、台高は風が強かったですか。奥美濃はほぼ無風で暖かかったですけどねえ。
大台ケ原の雪雲の雪が飛ばされてきていました。
又口辻より破線道の又口道に入ると、風がやんでそればかりか陽の光で暖かい。稜線が風よけになって雪雲から吹く風をシャットアウトしてくれており、気候の安定している三重県側に道をつけるのは理にかなっている。この道は小谷を横切る箇所がいくつかあるが、こうした所には決まって石積みがあり道を守っている。枯れたスズタケをポキポキ折りながら水平道を進む。
南斜面ですから、北風がさえぎられて暖かかったでしょう。
治田鉱山の牛道もそうなんですが、こういう風を遮断した暖かい斜面を古道はうまく使います。
索道とは、架線を張ったワイヤーにリフトを掛け物資を空中運搬する交通手段で、紀伊半島は全国の索道の43%が集中する索道のメッカみたいな所だ。紀伊半島にあった20索道の中でも、北山索道は、尾鷲索道(62年)高野索道(58年)についで長い43年間営業されていた索道で、大正7年に開業している。
右岸の石積みの台地の上には巨大なプーリーやドラム状の物が当時のセットされた状態で残っている。他には発電機と思われる物や耐熱レンガで組まれた構造物の土台もあり大規模な施設だ。北山索道8駅の内3駅(尾鷲・古和谷・風折)に動力が設置されており、古和谷駅は京良谷駅から平谷駅までの運転を担っていた。動力は開業時の大正7年から昭和23年までの30年間は蒸気で動かしていたので、古和谷駅の耐熱レンガはその際に使われた窯の名残だろう。蒸気で動かすのだから動力駅には水場が必要条件だったということか。そして、昭和23年以降は電力に動力が変わるので、窯は撤去され発電機が設置されたのかもしれない。これだけの規模で残っている可能性のあるのは風折駅だか、kzoさんの調査では動力に関係する機械等は残っていなかったようだ。索道の動力駅が当時の面影をこれだけ残している場所は全国的にも少ないんじゃないかな。
昔の写真をネットで見ましたが、結構大規模なものだったんですね。
今では想像もできないけど、林業が盛んだったころはこのあたりも木材の切り出しで、賑わっていた事でしょう。そんなことを想像しながら歩くと、山歩きもまた違った味わいがありますね。
昔の産業遺跡がこれだけしっかり放置されたまま残っているのは珍しいと思います。
台高らしいです。
その先の植林にはしっかりした杣道が柳ノ谷に向かって下っていた。帰りは県境稜線を歩く、展望が良く雪におおわれた大峰に尾鷲湾と熊野灘が良く見える。この稜線は思った以上にアップダウンがあり、又口道をつけた意味がよくわかった。二山越えて龍辻まで上りかえし一服。後は、来た道をもどるだけだが、林道に下りてから道分地蔵さんにあいさつをして帰った。
このあたりの渓はそれほど人が多く入っていないし、大滝なども沢山あるので、今年はこのあたりの渓を散策してみようかと思っています。と言っても、大半は単独になるので、自分が無理なく行ける範囲だけですけど。
ところで、以前、わりばしさんが小木森滝へ行ったときに使った杣道は、花の木峠に行く杣道の下流側に2.5万地図で堰堤が書かれたあたりから入るということでいいんですか。
楽しめそうな渓がありそうですね。
小木森滝に行く杣道は、2.5万地図にのっているような大きな堰堤じゃなかったと思います。
花の木峠から林道を下った最初の堰堤です。