【鈴鹿】青川峡が消え辰砂に出会う
Posted: 2015年5月20日(水) 19:47
【日 付】2015年5月17日(日)
【山 域】鈴鹿
【コース】青川P7:45---11:02緑青滝 ---13:43三神谷口---15:33青川P
【メンバー】わりばし、Kさん
Kさんから治田鉱山遺跡を案内してほしいという依頼があり、1年ぶりに治田鉱山探索に出かける。青川峡キャンピングパーク前にある大鉢山駐車場はロープが張られ使えないので、林道ゲート前に駐車した。この地点で川に土砂が流れ込んで水量が少なくなっているのがわかる。このかぼそい流れも2年前にできた巨大堰堤で消える。巨大堰堤は土砂で埋もれ役をなしていない。そればかりか、堰堤の上にはキャタピラでならした跡と土砂を積んで出来た平地が林道横に出来ている。どうやら堰堤の上に大量の土砂が堆積し、これを苦肉の策でどけているようだ。
1年前は河原が土砂で埋まっているという感じだったが、今は土砂が堆積して台地のようになり青川峡は水の無い土砂砂漠になってしまった。ここに渓谷があったことなど、まったく想像できない。
林道終点だったヤスミをすぎた下り藤では、土砂が堆積し中洲が消えており、立ち枯れた木が名残を残しているだけだ。女郎屋があった下り藤もそのうち場所もわからなくなるだろう。
銚子谷の出合は、土砂の堆積場といった感じで巨大な土砂山脈が連なっている。巨大堰堤からここまで青川に水は流れていない。支谷の出合で流れ込む水はあるが本谷に合流した途端に土砂に吸い込まれ消えている。この先の桧谷出合の大滝から流れる水も10m持たずに消えていた。
[attachment=0]IMG_8777.jpg[/attachment]
大量の土砂は銚子谷やザラン谷の崩壊による。谷の崩壊が谷と谷をつなぎ面の崩壊になっていて、その先端は遠足尾根の稜線に達しているのが中尾から見えた。土砂の堆積が止まることは当分ないだろう。青川峡に水が戻ることはあるのだろうか。
[attachment=2]IMG_8774.jpg[/attachment]
日ノ岡に上って行く。日ノ岡稲荷横の空き地を掘り返していると、精錬クズのカラミがどれだけでも出てくる。ここに吹床(簡易精錬所)があったようだ。日ノ岡の上り口にテープがあったが、この先も崩壊しているので登山道を使い治田峠に向かうのも大変だろう。
日ノ岡を越えた所で入渓。しばらく進むと二股で、黒ダキハゲから下りてきている左股から土砂が流れてきていて、本流の桧谷は大丈夫だ。
大きな滝もないので沢を歩いたほうが安全で早い。ただ、二条5mは左岸を巻くが滑りやすい落ち葉に崩壊気味の道がいやらしい。
5m滝を越えると緑青滝で、上部の石垣も残っている。緑青は銅の青緑色のサビの事で、この滝の上部の中尾に緑青岩が南河内絵図(1774年)に画かれており、ここからきたようだ。桧谷銅山の鉱脈を暗示するかのような青緑色の岩は特別な意味があったようだ。私はこの岩の青緑色はコケだと思っていたのだが、Kさんによると銅の緑青が浮き出ているのかもしれないということだった。緑青の浮き出た岩がいくつか落ちていたそうで、今回はその一つを採取してきた。地質学の専門家のいう事には説得力がある。
滝の右手に仙右衛門鋪があり、水をたたえた坑口が開いている。治田鉱山中最大の坑で1630年代の銅山古図に画かれている古い坑になる。何重にも積み上げられた石垣や排水用の水路跡なども健在だった。
ここから七曲りまでが坑口の密集地帯なので沢から探索する。暗いゴルジュの谷を歩いていくと左岸の崖中程に坑口があり喜左衛門鋪が見える。少し行った滝の淵沿いに長方形に彫られた坑口があった。淵をへつりながら近づくと一部鍾乳化した古い坑で、位置的に銀座鋪のようだ。治田鉱山の坑口をいくつか見てきたが、きれいな四角形の入口は初めて見た。坑口の岩盤が硬かったのか人が入れるぎりぎりの幅で彫られていた。これだけはっきりした人工物なのになぜか今まで気づかなかった。両方とも江戸時代の坑で、よく残っていたものだ。
[attachment=4]IMG_8761.jpg[/attachment]
七曲りを上りはじめると吹床のあった平坦地に着く。最初土の斜面とすべる落ち葉に苦労しながら上っていくとツヅラ折れの道になり、ひとふんばりで高コバについた。ここは風がよく通り気持ちよかった。
もうひと上りで中尾で、合流地点からは正面に与左ハゲが見える。中尾を下るが、人がまったく歩いていないようで、折れた太い枝が道の上にたくさん放置されたままだった。以前は少し残っていたテープを完全に撤去されていた。当初は、途中から三神谷に下りるつもりだったが、すべる落ち葉とパートナーもいるのでそのまま中尾を下った。
三鉱谷を少し上りかえすと三神谷の出合で、ここには精錬の焼き窯が4基(17釜)が以前は残っており治田鉱山遺跡の中でも注目すべき場所だった。1年前に4基中、三鉱谷側にあった2基(7釜)が土石流で流された所だ。三鉱谷は1年前より荒れていて心配だったが、ぎりぎり2基は残っていた。しかし、時間の問題のように思う。
[attachment=1]IMG_8775.jpg[/attachment]
この精錬跡は規模も大きく原形に近い形で残っているのだが、この窯で何を精錬したのか記録が残っていない。Kさんが窯の高さが低いのと連窯の数が多いのを見て「銅を精錬するには温度が上がりきらないのでは。」と言っている。すぐさま焼口の中や、周りの石を調べ始めると「これだな。」とレンガ色の鉱石を手に取った。辰砂(しんしゃ)で、銅に比べると低温で加熱するだけで水銀が取り出せるそうだ。
[attachment=3]IMG_8772.jpg[/attachment]
辰砂は水銀の鉱石で、日本では古来「丹」と呼ばれていた。辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生や丹生川の名が残っている。青川には奈良時代より続く丹生川という集落があり、青川も昔は丹生川とよばれその源流となる竜ヶ岳も江戸時代には丹生川山と呼ばれていた。
血の色でもある朱は、活力と蘇生、死霊封じに通じるとして古代より珍重されてきた、神社の鉄丹(べんがら)の朱もここからきている。丹生川という地名からして当初は辰砂を求めて山に入り、その後に銀・銅の採掘がはじまったのだろうが、辰砂が残っていたとは思いもしなかった。窯の周りを見ると辰砂がたくさん落ちている。専門家はやはり違う。このあたりにだけ落ちているので、どこかから採掘してここで水銀を取り出したようだ。
水銀は、漢方薬や白粉・朱墨・朱漆の原料として珍重されたので、一儲けできたのだろう。そうしたこともあり、水銀に関する記述はきれいに消されている。
土砂砂漠に変わり果てた気が重くなる帰り道だったが、辰砂と銀座鋪が確認できたのは大きかった。ただ、青川の今後が心配でならない。
【山 域】鈴鹿
【コース】青川P7:45---11:02緑青滝 ---13:43三神谷口---15:33青川P
【メンバー】わりばし、Kさん
Kさんから治田鉱山遺跡を案内してほしいという依頼があり、1年ぶりに治田鉱山探索に出かける。青川峡キャンピングパーク前にある大鉢山駐車場はロープが張られ使えないので、林道ゲート前に駐車した。この地点で川に土砂が流れ込んで水量が少なくなっているのがわかる。このかぼそい流れも2年前にできた巨大堰堤で消える。巨大堰堤は土砂で埋もれ役をなしていない。そればかりか、堰堤の上にはキャタピラでならした跡と土砂を積んで出来た平地が林道横に出来ている。どうやら堰堤の上に大量の土砂が堆積し、これを苦肉の策でどけているようだ。
1年前は河原が土砂で埋まっているという感じだったが、今は土砂が堆積して台地のようになり青川峡は水の無い土砂砂漠になってしまった。ここに渓谷があったことなど、まったく想像できない。
林道終点だったヤスミをすぎた下り藤では、土砂が堆積し中洲が消えており、立ち枯れた木が名残を残しているだけだ。女郎屋があった下り藤もそのうち場所もわからなくなるだろう。
銚子谷の出合は、土砂の堆積場といった感じで巨大な土砂山脈が連なっている。巨大堰堤からここまで青川に水は流れていない。支谷の出合で流れ込む水はあるが本谷に合流した途端に土砂に吸い込まれ消えている。この先の桧谷出合の大滝から流れる水も10m持たずに消えていた。
[attachment=0]IMG_8777.jpg[/attachment]
大量の土砂は銚子谷やザラン谷の崩壊による。谷の崩壊が谷と谷をつなぎ面の崩壊になっていて、その先端は遠足尾根の稜線に達しているのが中尾から見えた。土砂の堆積が止まることは当分ないだろう。青川峡に水が戻ることはあるのだろうか。
[attachment=2]IMG_8774.jpg[/attachment]
日ノ岡に上って行く。日ノ岡稲荷横の空き地を掘り返していると、精錬クズのカラミがどれだけでも出てくる。ここに吹床(簡易精錬所)があったようだ。日ノ岡の上り口にテープがあったが、この先も崩壊しているので登山道を使い治田峠に向かうのも大変だろう。
日ノ岡を越えた所で入渓。しばらく進むと二股で、黒ダキハゲから下りてきている左股から土砂が流れてきていて、本流の桧谷は大丈夫だ。
大きな滝もないので沢を歩いたほうが安全で早い。ただ、二条5mは左岸を巻くが滑りやすい落ち葉に崩壊気味の道がいやらしい。
5m滝を越えると緑青滝で、上部の石垣も残っている。緑青は銅の青緑色のサビの事で、この滝の上部の中尾に緑青岩が南河内絵図(1774年)に画かれており、ここからきたようだ。桧谷銅山の鉱脈を暗示するかのような青緑色の岩は特別な意味があったようだ。私はこの岩の青緑色はコケだと思っていたのだが、Kさんによると銅の緑青が浮き出ているのかもしれないということだった。緑青の浮き出た岩がいくつか落ちていたそうで、今回はその一つを採取してきた。地質学の専門家のいう事には説得力がある。
滝の右手に仙右衛門鋪があり、水をたたえた坑口が開いている。治田鉱山中最大の坑で1630年代の銅山古図に画かれている古い坑になる。何重にも積み上げられた石垣や排水用の水路跡なども健在だった。
ここから七曲りまでが坑口の密集地帯なので沢から探索する。暗いゴルジュの谷を歩いていくと左岸の崖中程に坑口があり喜左衛門鋪が見える。少し行った滝の淵沿いに長方形に彫られた坑口があった。淵をへつりながら近づくと一部鍾乳化した古い坑で、位置的に銀座鋪のようだ。治田鉱山の坑口をいくつか見てきたが、きれいな四角形の入口は初めて見た。坑口の岩盤が硬かったのか人が入れるぎりぎりの幅で彫られていた。これだけはっきりした人工物なのになぜか今まで気づかなかった。両方とも江戸時代の坑で、よく残っていたものだ。
[attachment=4]IMG_8761.jpg[/attachment]
七曲りを上りはじめると吹床のあった平坦地に着く。最初土の斜面とすべる落ち葉に苦労しながら上っていくとツヅラ折れの道になり、ひとふんばりで高コバについた。ここは風がよく通り気持ちよかった。
もうひと上りで中尾で、合流地点からは正面に与左ハゲが見える。中尾を下るが、人がまったく歩いていないようで、折れた太い枝が道の上にたくさん放置されたままだった。以前は少し残っていたテープを完全に撤去されていた。当初は、途中から三神谷に下りるつもりだったが、すべる落ち葉とパートナーもいるのでそのまま中尾を下った。
三鉱谷を少し上りかえすと三神谷の出合で、ここには精錬の焼き窯が4基(17釜)が以前は残っており治田鉱山遺跡の中でも注目すべき場所だった。1年前に4基中、三鉱谷側にあった2基(7釜)が土石流で流された所だ。三鉱谷は1年前より荒れていて心配だったが、ぎりぎり2基は残っていた。しかし、時間の問題のように思う。
[attachment=1]IMG_8775.jpg[/attachment]
この精錬跡は規模も大きく原形に近い形で残っているのだが、この窯で何を精錬したのか記録が残っていない。Kさんが窯の高さが低いのと連窯の数が多いのを見て「銅を精錬するには温度が上がりきらないのでは。」と言っている。すぐさま焼口の中や、周りの石を調べ始めると「これだな。」とレンガ色の鉱石を手に取った。辰砂(しんしゃ)で、銅に比べると低温で加熱するだけで水銀が取り出せるそうだ。
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辰砂は水銀の鉱石で、日本では古来「丹」と呼ばれていた。辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生や丹生川の名が残っている。青川には奈良時代より続く丹生川という集落があり、青川も昔は丹生川とよばれその源流となる竜ヶ岳も江戸時代には丹生川山と呼ばれていた。
血の色でもある朱は、活力と蘇生、死霊封じに通じるとして古代より珍重されてきた、神社の鉄丹(べんがら)の朱もここからきている。丹生川という地名からして当初は辰砂を求めて山に入り、その後に銀・銅の採掘がはじまったのだろうが、辰砂が残っていたとは思いもしなかった。窯の周りを見ると辰砂がたくさん落ちている。専門家はやはり違う。このあたりにだけ落ちているので、どこかから採掘してここで水銀を取り出したようだ。
水銀は、漢方薬や白粉・朱墨・朱漆の原料として珍重されたので、一儲けできたのだろう。そうしたこともあり、水銀に関する記述はきれいに消されている。
土砂砂漠に変わり果てた気が重くなる帰り道だったが、辰砂と銀座鋪が確認できたのは大きかった。ただ、青川の今後が心配でならない。
きれいな四角形の入口は初めて見た。