【台高】大熊谷乾留工場より白倉山

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わりばし
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登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
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【台高】大熊谷乾留工場より白倉山

投稿記事 by わりばし »

【日 付】2014年11月4日(火)
【山 域】台高
【コース】崩レ俣谷出合P7:00---7:25大熊谷乾留工場---8:00三滝谷大滝---12:27白倉山---14:42大熊谷乾留工場---15:29崩レ俣谷出合P
【メンバー】単独

 前回の山行はヒキウス平より赤嵓滝谷乾留工場に下り明神岳に上りかえした。今回は、大熊谷の乾留工場が見たくて、乾留工場より大熊谷をつめ大熊谷の頭と白倉山の間にある1184標高点東北東1140稜線より東に延びる尾根に乗り白倉山を経て大熊谷右岸尾根の1064標高点から北尾根を下り乾留工場にもどるコースを歩くことにした。つまりは、zippさんの後追い山行に出かけた。

 大熊谷林道の崩レ俣谷出合に駐車する。これより先は林道の崩壊箇所があり車では行けず、荒れた林道を歩く。見覚えのある林道終点に着くと奥にレンガが積んでありその上部には建物でもあったのか立派な石積みがある。杣道を少し上るとレンガ積みの窯の原形が残っている窯跡があった、探索は帰りにして先を急ぐ。杣道があやしくなってきたころに小谷につきあたり斜面を下って行くと三滝谷出合だった。

 目の前の大滝に向かい上って行く。この滝は大熊谷右岸尾根から見える三段100mの滝で水量は少なめだが岩壁に絹がまとうかのように流れていた。大熊谷左岸の道につながっているようなので、三滝谷右岸の小尾根を上って行く。嵓のバンドまで上がったが、ここではないようだ。どういうふうにして左岸道につながるのかがわからないので、滝まで下りて出合より谷を歩くことにした。

[attachment=4]IMG_8578.jpg[/attachment]
 422標高点の三滝谷出合の上流には白い岩峰がそびえ立っていた。モミ谷出合の滝をすぎ、しばらく行くと釜を持つ二条6m滝があらわれる。右岸にワイヤーが垂れ下がっており、ここを上るようだ。ワイヤーの先が見えず多少不安な感じはするものの大丈夫そうなので上る。その先は、濡れたグチュグチュの斜面で慎重に巻きあがった。

 この先の左岸の斜面は上れそうで、三滝谷大滝からの左岸道はここに下りてくるようだ。ここから左岸道を歩く。石垣も三カ所残っており、思った以上にしっかりした道だったようだ。ゴンノカミ谷出合の手前には窯跡があり、乾留工場の耐熱レンガが一部使われていた。乾留工場の耐熱レンガを炭焼窯のパーツとして使ったのだろうか。まわりに土管など乾留工場の痕跡らしきものは無かったが、左岸道の立派さが炭焼き道にしては不釣り合いな気がしてならない。

[attachment=3]IMG_8586.jpg[/attachment]
 ゴンノカミ谷はゴーロの岩の間を滝がいくつも流れている。この二俣を本谷は急に右に折れ、ここから薄暗いゴルジュが始まっている。ここから右岸の山道をたどる。獣道のような道を上っていくと目立つ大きさのモミの木がある。ここで道は二手に分かれ、まっすぐバンドをつたっていくが行き止まり。モミの木まで戻り、まっすぐに上っていくとzippさんの言う岩嵓から流れ出す湧水に着いた。

 ここから目的の尾根に向かう。湧水の先にあるザレ場には何本ものワイヤが垂れており、ここをトラバースしながら上る。尾根にはザレ場を戻るようにして上り取りついた。
 
 尾根を上り最初の展望地からは大熊谷や迷岳から続く秋の稜線が青空に映えてきれいだ。写真を撮ろうとするが、いつものザックポケットにカメラが無い。ありゃ湧水の写真を撮った時に置き忘れたか?しかたなく、来た道を下り湧水に着いたが、カメラが無い。どうしたんだろうと念のためにザックの中を確かめると、ありました。パンを食べ終わった時に一緒にしまったようだ、何してんだか。

[attachment=2]IMG_8598.jpg[/attachment]
 この尾根にはワイヤーやワイヤーが巻きついた木がたくさん残されており、木製の階段の残骸まであった。木材搬出の尾根として使われたようだ。途中には嵓が2か所あるが、どちらも巻ける。CO900mをすぎたあたりからは太いブナの木もあらわれ最後の黄葉を見せてくれていた。

 最後の急登を上り1140稜線に出て、登山道を歩き白倉山についた。大和谷側の宮川貯水池にかかる銀橋が湖面に照らされ輝いているのが見えた。

 登山道をはなれ大熊谷右岸尾根に入り、1064標高点から北尾根を下る。このルートのポイントはCO650mに出会う杣道までひたすら下ることだ。この地点の先は岩嵓で進めず、右側に植林が来ている。前回来たときは、途中にある立派な水平道にまどわされて早めにトラバースしてしまいロスしてしまった。杣道を進んで行くと荒れたザレ場に飛び出す。不明瞭な所もあるが、前方にある植林を目指して進み下っていくと林道終点に降り立ち、乾留工場の探索に向かった。

 大熊谷の乾留工場は、第1次世界大戦時に無煙火薬の材料であるアセトンが世界的に不足しその製造のための木材乾留工場が全国に新設された当時のものだ。乾留工場は、第1次世界大戦の終結とアセトンの代替品が発見されたことにより短命のうちに消えていったので三連窯の原形が残った乾留工場跡は極めて貴重なものだと思う。乾留工場が全国に建てられた最盛期は大正5年(1916年)ごろで百年前の産業遺産になる。

[attachment=1]IMG_8571.jpg[/attachment]
 これまで、蓮(赤嵓滝谷、喜平小屋谷)の乾留工場では「SHINAGAWA」「BIZENㅡINBE」「IGAㅡBATA」「RENSEKISHA」「KINJO F.B」といった刻印のある耐火レンガが見つかったが会社名が特定できたのは「SHINAGAWA」の品川白煉瓦会社のみでそれ以外ははっきりしない。県立図書館や日本れんが協会で調べても同じだった。ところが、林道終点のレンガの中から「三石白煉瓦合資会社」と会社名が刻まれている刻印レンガを見つけた。大正6年の大阪朝日新聞によると岡山県三石町にあった大正3年創立の会社だとわかった。また、隣の岡山県伊部町には備前耐火煉瓦株式会社という大正6年創立の会社がありこれが「BIZENㅡINBE」の製造元のようだ。その後、これらの会社のほとんどが東京や大阪の大資本の会社に飲み込まれていったと大阪朝日新聞には書かれているので、刻印の会社名は残っていないようだ。大熊谷の乾留工場には「BIZENㅡINBE」「KINJO F.B」「三石白煉瓦合資会社」の三種類の刻印の耐火レンガが残されていた。乾留工場とおなじくこの時代の刻印レンガも時代の浮き沈みにほんろうされ短命で終わったものが多かったのだろう。
三石白煉瓦合資会社の刻印レンガ
三石白煉瓦合資会社の刻印レンガ
添付ファイル
大熊谷乾留工場
大熊谷乾留工場
秋の迷岳
秋の迷岳
大熊谷左岸道
大熊谷左岸道
三滝谷大滝
三滝谷大滝
zipp
記事: 1165
登録日時: 2011年3月09日(水) 22:49

Re: 【台高】大熊谷乾留工場より白倉山

投稿記事 by zipp »


 わりばしさん、こんばんは。

大熊谷左岸の道につながっているようなので、三滝谷右岸の小尾根を上って行く。嵓のバンドまで上がったが、ここではないようだ。
 滝の左のザレ地を登りあがれば、道が出てくるよ。
わたしは、この滝を巻くために登って利用したけど、その時は何処へ続く道かは知らなかったんだけど。
しかし、どう考えても遠回りでしょ。谷中の水量が余程じゃない限り、使う必要なく、谷中の方が早いね。

その先は、濡れたグチュグチュの斜面で慎重に巻きあがった。
 ここ、ヒルがよく出ます(^^)。


左岸道の立派さが炭焼き道にしては不釣り合いな気がしてならない。
 窯は、炭焼き窯ですね。乾溜のレンガも落ちてましたか、それは気づかなかった。
宮川村というか大杉やこの辺、谷沿いのしっかりした石積みの道は多いです。
大杉谷の旧道右岸道、大和谷道、父ヶ谷の道、垣外俣谷の道、崩レ俣谷の道もそうだね。
こういう道って、財力や権力がないとできないから、もしや御料林と関係あるのかもね。

獣道のような道を上っていくと目立つ大きさのモミの木がある。ここで道は二手に分かれ、まっすぐバンドをつたっていくが行き止まり。モミの木まで戻り、まっすぐに上っていくとzippさんの言う岩嵓から流れ出す湧水に着いた。
 モミの木、記憶にない(^^;。
小さな谷ところを少し登ると道が現れるよ。

 尾根を上り最初の展望地からは大熊谷や迷岳から続く秋の稜線が青空に映えてきれいだ。写真を撮ろうとするが、いつものザックポケットにカメラが無い。ありゃ湧水の写真を撮った時に置き忘れたか?しかたなく、来た道を下り湧水に着いたが、カメラが無い。どうしたんだろうと念のためにザックの中を確かめると、ありました。パンを食べ終わった時に一緒にしまったようだ、何してんだか。
 随分なアルバイト、だったのでは?
わたしもこのザレ場でカメラを落としたものなぁ、回収したけど。

CO900mをすぎたあたりからは太いブナの木もあらわれ最後の黄葉を見せてくれていた。
 この辺りから、伐採の二次林がおわって太い樹がでだして、いい雰囲気になりますね。

 登山道をはなれ大熊谷右岸尾根に入り、1064標高点から北尾根を下る。このルートのポイントはCO650mに出会う杣道までひたすら下ることだ。
 この杣道、気になりませんか?
モミ谷で崩れはしていると思うけど、ゴンノカミ谷の方まで入ってると思うのだけど。

短命のうちに消えていったので三連窯の原形が残った乾留工場跡は極めて貴重なものだと思う。乾留工場が全国に建てられた最盛期は大正5年(1916年)ごろで百年前の産業遺産になる。
 ですよね!
全国的には、飯高の窯じゃなくってこちらの窯の方が主流だったんでしょうか?それとも時期年代で窯の形が変わったのかな?

 これまで、蓮(赤嵓滝谷、喜平小屋谷)の乾留工場では「SHINAGAWA」「BIZENㅡINBE」「IGAㅡBATA」「RENSEKISHA」「KINJO F.B」といった刻印のある耐火レンガが見つかったが会社名が特定できたのは「SHINAGAWA」の品川白煉瓦会社のみでそれ以外ははっきりしない。県立図書館や日本れんが協会で調べても同じだった。ところが、林道終点のレンガの中から「三石白煉瓦合資会社」と会社名が刻まれている刻印レンガを見つけた。大正6年の大阪朝日新聞によると岡山県三石町にあった大正3年創立の会社だとわかった。また、隣の岡山県伊部町には備前耐火煉瓦株式会社という大正6年創立の会社がありこれが「BIZENㅡINBE」の製造元のようだ。その後、これらの会社のほとんどが東京や大阪の大資本の会社に飲み込まれていったと大阪朝日新聞には書かれているので、刻印の会社名は残っていないようだ。大熊谷の乾留工場には「BIZENㅡINBE」「KINJO F.B」「三石白煉瓦合資会社」の三種類の刻印の耐火レンガが残されていた。乾留工場とおなじくこの時代の刻印レンガも時代の浮き沈みにほんろうされ短命で終わったものが多かったのだろう。

 へぇ、「三石白煉瓦合資会社」ですか。
興味深い刻印の耐火煉瓦が出てきたものですね!成果ですね!!
この辺りには、あと二つ何処かに窯が眠っているはずなんだけど…、一つは桑ノ木谷と云われているんだけど。
わりばしさん、探してみる?

   zipp
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わりばし
記事: 1767
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【台高】大熊谷乾留工場より白倉山

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、zippさん。

大熊谷左岸の道につながっているようなので、三滝谷右岸の小尾根を上って行く。嵓のバンドまで上がったが、ここではないようだ。
 滝の左のザレ地を登りあがれば、道が出てくるよ。
わたしは、この滝を巻くために登って利用したけど、その時は何処へ続く道かは知らなかったんだけど。
しかし、どう考えても遠回りでしょ。谷中の水量が余程じゃない限り、使う必要なく、谷中の方が早いね。

下って行く道はわかったのですが、どこに行くのか不安だったので戻りました。
二条6m滝を避けてつけられたようですね。
二条6m滝
二条6m滝
その先は、濡れたグチュグチュの斜面で慎重に巻きあがった。
 ここ、ヒルがよく出ます(^^)。

こんな場所でのヒルは御免こうむりたいです。 :mrgreen:

左岸道の立派さが炭焼き道にしては不釣り合いな気がしてならない。
 窯は、炭焼き窯ですね。乾溜のレンガも落ちてましたか、それは気づかなかった。
宮川村というか大杉やこの辺、谷沿いのしっかりした石積みの道は多いです。
大杉谷の旧道右岸道、大和谷道、父ヶ谷の道、垣外俣谷の道、崩レ俣谷の道もそうだね。
こういう道って、財力や権力がないとできないから、もしや御料林と関係あるのかもね。

立派な道で驚きました。
御料林との関係ですか。じゅうぶん考えられますね。

獣道のような道を上っていくと目立つ大きさのモミの木がある。ここで道は二手に分かれ、まっすぐバンドをつたっていくが行き止まり。モミの木まで戻り、まっすぐに上っていくとzippさんの言う岩嵓から流れ出す湧水に着いた。
 モミの木、記憶にない(^^;。
小さな谷ところを少し登ると道が現れるよ。

谷側の崖の上にあります。
モミの木
モミの木
 尾根を上り最初の展望地からは大熊谷や迷岳から続く秋の稜線が青空に映えてきれいだ。写真を撮ろうとするが、いつものザックポケットにカメラが無い。ありゃ湧水の写真を撮った時に置き忘れたか?しかたなく、来た道を下り湧水に着いたが、カメラが無い。どうしたんだろうと念のためにザックの中を確かめると、ありました。パンを食べ終わった時に一緒にしまったようだ、何してんだか。
 随分なアルバイト、だったのでは?
わたしもこのザレ場でカメラを落としたものなぁ、回収したけど。

こんなめんどくさい場所で取りに行くのかとイヤになりました。
時間もかかったし。 :(

CO900mをすぎたあたりからは太いブナの木もあらわれ最後の黄葉を見せてくれていた。
 この辺りから、伐採の二次林がおわって太い樹がでだして、いい雰囲気になりますね。

ブナやミズナラにモミと太い木と展望の良さが魅力ですね。

 登山道をはなれ大熊谷右岸尾根に入り、1064標高点から北尾根を下る。このルートのポイントはCO650mに出会う杣道までひたすら下ることだ。
 この杣道、気になりませんか?
モミ谷で崩れはしていると思うけど、ゴンノカミ谷の方まで入ってると思うのだけど。

確かに。左岸に石積みの道があるのなら右岸にそれなりの道があってもおかしくないですね。
大熊谷
大熊谷
短命のうちに消えていったので三連窯の原形が残った乾留工場跡は極めて貴重なものだと思う。乾留工場が全国に建てられた最盛期は大正5年(1916年)ごろで百年前の産業遺産になる。
 ですよね!
全国的には、飯高の窯じゃなくってこちらの窯の方が主流だったんでしょうか?それとも時期年代で窯の形が変わったのかな?

宮川村村史からも抹殺されているけど貴重な産業遺産だと思います。

宮沢賢治の童話の感じでは大熊谷の窯のイメージです。
「市場がよくないので乾留工場を閉鎖して酒類の醸造所に転用した」とされていて、
飯高の窯の感じではないです。

時代で窯の形が変わったといっても乾留工場の時代そのものが短いので、
地の利や設計者の考えのような気がします。

 これまで、蓮(赤嵓滝谷、喜平小屋谷)の乾留工場では「SHINAGAWA」「BIZENㅡINBE」「IGAㅡBATA」「RENSEKISHA」「KINJO F.B」といった刻印のある耐火レンガが見つかったが会社名が特定できたのは「SHINAGAWA」の品川白煉瓦会社のみでそれ以外ははっきりしない。県立図書館や日本れんが協会で調べても同じだった。ところが、林道終点のレンガの中から「三石白煉瓦合資会社」と会社名が刻まれている刻印レンガを見つけた。大正6年の大阪朝日新聞によると岡山県三石町にあった大正3年創立の会社だとわかった。また、隣の岡山県伊部町には備前耐火煉瓦株式会社という大正6年創立の会社がありこれが「BIZENㅡINBE」の製造元のようだ。その後、これらの会社のほとんどが東京や大阪の大資本の会社に飲み込まれていったと大阪朝日新聞には書かれているので、刻印の会社名は残っていないようだ。大熊谷の乾留工場には「BIZENㅡINBE」「KINJO F.B」「三石白煉瓦合資会社」の三種類の刻印の耐火レンガが残されていた。乾留工場とおなじくこの時代の刻印レンガも時代の浮き沈みにほんろうされ短命で終わったものが多かったのだろう。

 へぇ、「三石白煉瓦合資会社」ですか。
興味深い刻印の耐火煉瓦が出てきたものですね!成果ですね!!
この辺りには、あと二つ何処かに窯が眠っているはずなんだけど…、一つは桑ノ木谷と云われているんだけど。
わりばしさん、探してみる?

正式な会社名がわかったの大きいです。

桑ノ木谷って仙千代ヶ峰のあたりですね。
zippさん、それにしてもよくご存じで。 :ugeek:
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