【日 付】2014年1月19日(日)
【山 域】南伊勢
【コース】白滝神社P7:08---10:10諾炬羅(たこら)山---11:08作衛門---11:31野見坂隧道12:06---14:34白滝神社P
【メンバー】単独
諾炬羅山は十六羅漢の一人、釈迦の弟子の名前がつけられている。南伊勢の片田舎の山にどうして十六羅漢の名前がつけられたのかと不思議に思っていた。地図を見ているとすぐ西に熊野脇道が通っている。熊野脇道は熊野古道伊勢路を伊勢の西隣の玉城町から分かれリアス式海岸をぬうようにつけられ紀伊長島で再び本堂に合流する道で、朝熊山から熊野に向かう行者達が歩いた道だ。行者と諾炬羅山とのつながりが見つかればとの思いで南伊勢に向かった。
押淵の白滝神社駐車場に停めるが、寒気が入り込んでいて寒い。南伊勢の山で初めてフリースを着込んで歩き出す。鬼ヶ城ルートから入ると、すぐに鬼ヶ城に着く。大岩に鉄製の階段がつけられており上の段に浅い洞窟がある。洞窟の中には賽の河原の石積みのようなものが並んでおり、洞窟右の岩からは水がしたたっている。岩を巻きながら歩いていくと石積みでせき止められた黄金池があらわれる。鬼ヶ城の上部にあたる場所だが何のための池かわからないが、この水が鬼ヶ城右の大岩からしたたっているようだ。ルートが谷に向かって下りかける地点の尾根には古いマーキングがあり霧間の八の東側に出るようだが、今回は白滝神社も見たいのでルートどおりに下って行く。
[attachment=4]IMG_7913.jpg[/attachment]
谷を下ると白滝神社の裏に出た。結局、鬼ヶ城のある岩山を乗越すようにルートはつけられていた。神社にはいくつかの鳥居や祠があり不動明王も祀られており、思ったより立派だ。少し上った窯跡からは正面に霧間の八の岩場が見えた。このあたりは里山だけに窯跡もいくつか見られアガリコの木がたくさん残っていた。稜線に出るとリアス式海岸の静かな入り江が目の前に開ける。ここでのんびりしたいところだが、今日は気温も低くおまけに風が強いのでじっとしておられない。
[attachment=3]IMG_7925.jpg[/attachment]
ルートは基本的に稜線をはずすようにつけられており風よけにはなっているのだろうが寒い。霧間の八からは押淵の集落が見える。P288からは岩肌を身にまとった諾炬羅山が見えてくる。存在感のある堂々とした面構えをしている。北峰からは探索に行く作衛門や能見坂が見えている。本峰の祠には仏様が安置されているが諾炬羅仏なのだろうか。眺めのすばらしい山頂も今日は風も強く、おまけに雪まで舞っている。
[attachment=0]IMG_7939.jpg[/attachment]
北峰にもどり北西の稜線づたいに下って行く。押淵に下りるマイガイの分岐からは作衛門まで上りが続く。これから、熊野脇道と諾炬羅山をつなぐ道の確認に向かう。諾炬羅山と行者とのつながりを考えると熊野脇道の能見坂峠から修行場として諾炬羅山に向かったと考えるのが自然に思われる。作衛門にはP412と西峰の両方に看板がつけられている。西峰には平家の蝶の紋と小松と彫られた新しい看板がある。
小松姓は平家とのかかわりの深い姓で、平清盛の長男重盛が小松第に住んでいたことから小松殿・小松内大臣と呼ばれ、平家の末裔の中でも名誉ある姓になっている。麓の道行竈にも1件だけ小松姓がある。わざわざ平家の紋と小松という名前を彫ったということは作衛門という名前は平家と関係があるのかと思い調べてみた。平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺した平維盛(重盛の子)の妾腹の岸上左衛門尉行弘の一族が熊野から南島町に入植したという言い伝えがあり、この左衛門が作衛門に変わったようだ。
作衛門西峰から尾根は二つに分かれるが峠に向かう北西の尾根を進む。植林の杣道を歩きながらしばらく下ると能見坂峠に着いた。今は何もないが、野見坂隧道が出来るまでは峠付近には行者像や地蔵菩薩や薬師如来や供養大峯山の碑などが祀られていたようだ。これらは隧道が出来た時に隧道口に降ろされたようなので、熊野脇道を隧道まで下りていく。降り立ったのは旧県道22号線の隧道の出口だった。立派な道だが新野見坂トンネルが出来たので今は通る車もない。
[attachment=2]IMG_7963.jpg[/attachment]
最初に目につくのは行者像で、昔は毎年4月7日に道行の人たちが参っていたようだ。その隣には上部がかけてしまっている供養大峯山の碑が置かれている。行者像といい山の碑といい能見坂峠と行者とのつながりがうかがえる。隧道の反対側の入口には地蔵菩薩と薬師如来が祀られているようなので向かう。強風の吹いている真っ暗なトンネルを歩くと入口にはコンクリートの祠に石像が置かれている。薬師如来の方には宝永4年という文字が見て取れる。
[attachment=1]IMG_7966.jpg[/attachment]
トンネルを再び歩き峠に上りかえす。このあたりにも窯跡がある。峠を少し上った所に窯跡とは違う祠跡のような四角い石積みがある。ここに行者像が安置されていたのではないかと思った。後は来た道をマイガイ分岐までもどり押淵に下った。
能見坂峠にあった行者像や供養大峯山の碑に祠跡といいこの峠から作衛門を経て諾炬羅山に至る道には行者との深いつながりを感じさせるものがあった。白滝や鬼ヶ城もこうした行者の修行場だったのではないだろうかと思った。
【南伊勢】諾炬羅山と熊野脇道をつなぐ
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【 日 付 】
【 山 域 】
【メンバー】
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※ユーザーでなくても返信が可能です。ユーザー名に名前を入れて返信してください。
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【南伊勢】諾炬羅山と熊野脇道をつなぐ
最後に編集したユーザー わりばし [ 2014年1月21日(火) 08:14 ], 累計 1 回
Re: 【南伊勢】諾炬羅山と熊野脇道をつなぐ
わりばしさん,こんにちは.
19日は諾炬羅山でしたか.私も2回ほど行ったことがありますが,わりばしさんのように歴史に詳しくないのでただ歩いただけでした.わりばしさんのような歩き方をすると,また全然違って見えてくるんでしょうけどねえ.
19日は津市でも珍しく積雪になりましたけど,南伊勢の方でもちらほら降っていたんですねえ.私はその前日に南伊勢の浜を歩いてきましたが,暖かくてよかったです.
わりばしさんのレポで勉強しながら,またそっちへ行ったおりには石仏など拝みながら歩いてみようかと思っています.
19日は諾炬羅山でしたか.私も2回ほど行ったことがありますが,わりばしさんのように歴史に詳しくないのでただ歩いただけでした.わりばしさんのような歩き方をすると,また全然違って見えてくるんでしょうけどねえ.
19日は津市でも珍しく積雪になりましたけど,南伊勢の方でもちらほら降っていたんですねえ.私はその前日に南伊勢の浜を歩いてきましたが,暖かくてよかったです.
わりばしさんのレポで勉強しながら,またそっちへ行ったおりには石仏など拝みながら歩いてみようかと思っています.
@シュークリーム@
Re: 【南伊勢】諾炬羅山と熊野脇道をつなぐ
おはようございます、シュークリームさん。
19日は諾炬羅山でしたか.私も2回ほど行ったことがありますが,わりばしさんのように歴史に詳しくないのでただ歩いただけでした.わりばしさんのような歩き方をすると,また全然違って見えてくるんでしょうけどねえ.
熊野脇道のあたりは伝承が多い地域なので面白いです。
19日は津市でも珍しく積雪になりましたけど,南伊勢の方でもちらほら降っていたんですねえ.私はその前日に南伊勢の浜を歩いてきましたが,暖かくてよかったです.
前日は暖かかったみたいですね。
これだけ寒い南伊勢は初めてでした。
わりばしさんのレポで勉強しながら,またそっちへ行ったおりには石仏など拝みながら歩いてみようかと思っています.
寒波の吹き荒れる時は南の山がいいですね。
南島の八竈は平家関連の宝庫です。
19日は諾炬羅山でしたか.私も2回ほど行ったことがありますが,わりばしさんのように歴史に詳しくないのでただ歩いただけでした.わりばしさんのような歩き方をすると,また全然違って見えてくるんでしょうけどねえ.
熊野脇道のあたりは伝承が多い地域なので面白いです。
19日は津市でも珍しく積雪になりましたけど,南伊勢の方でもちらほら降っていたんですねえ.私はその前日に南伊勢の浜を歩いてきましたが,暖かくてよかったです.
前日は暖かかったみたいですね。
これだけ寒い南伊勢は初めてでした。
わりばしさんのレポで勉強しながら,またそっちへ行ったおりには石仏など拝みながら歩いてみようかと思っています.
寒波の吹き荒れる時は南の山がいいですね。
南島の八竈は平家関連の宝庫です。
Re: 【南伊勢】諾炬羅山と熊野脇道をつなぐ
わりばしさん、こんにちは
諾炬羅山は十六羅漢の一人、釈迦の弟子の名前がつけられている。南伊勢の片田舎の山にどうして十六羅漢の名前がつけられたのかと不思議に思っていた。地図を見ているとすぐ西に熊野脇道が通っている。熊野脇道は熊野古道伊勢路を伊勢の西隣の玉城町から分かれリアス式海岸をぬうようにつけられ紀伊長島で再び本堂に合流する道で、朝熊山から熊野に向かう行者達が歩いた道だ。行者と諾炬羅山とのつながりが見つかればとの思いで南伊勢に向かった。
諾炬羅山はなかなか読めないですね。
仏教的な見地からその名の由来を探ろうという学者並のわりばしさんの探究心には頭が下がります。
押淵の白滝神社駐車場に停めるが、寒気が入り込んでいて寒い。南伊勢の山で初めてフリースを着込んで歩き出す。鬼ヶ城ルートから入ると、すぐに鬼ヶ城に着く。大岩に鉄製の階段がつけられており上の段に浅い洞窟がある。洞窟の中には賽の河原の石積みのようなものが並んでおり、洞窟右の岩からは水がしたたっている。
鬼ヶ城と言えば熊野ですね。ずいぶん遠征されましたね
熊野は小学生の頃、釣り好きの親父によく連れて行ってもらった記憶ふがあります。
でも鬼ヶ城はよく見ているものの近くまで行ったことはないんですよ
谷を下ると白滝神社の裏に出た。結局、鬼ヶ城のある岩山を乗越すようにルートはつけられていた。神社にはいくつかの鳥居や祠があり不動明王も祀られており、思ったより立派だ。少し上った窯跡からは正面に霧間の八の岩場が見えた。このあたりは里山だけに窯跡もいくつか見られアガリコの木がたくさん残っていた。稜線に出るとリアス式海岸の静かな入り江が目の前に開ける。ここでのんびりしたいところだが、今日は気温も低くおまけに風が強いのでじっとしておられない。
こんな所でアガリコが見られるなんて意外です
小松姓は平家とのかかわりの深い姓で、平清盛の長男重盛が小松第に住んでいたことから小松殿・小松内大臣と呼ばれ、平家の末裔の中でも名誉ある姓になっている。麓の道行竈にも1件だけ小松姓がある。わざわざ平家の紋と小松という名前を彫ったということは作衛門という名前は平家と関係があるのかと思い調べてみた。平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺した平維盛(重盛の子)の妾腹の岸上左衛門尉行弘の一族が熊野から南島町に入植したという言い伝えがあり、この左衛門が作衛門に変わったようだ。
平家落人伝説もあるんですね。
能見坂峠にあった行者像や供養大峯山の碑に祠跡といいこの峠から作衛門を経て諾炬羅山に至る道には行者との深いつながりを感じさせるものがあった。白滝や鬼ヶ城もこうした行者の修行場だったのではないだろうかと思った。
そうですね。これだけ仏教的なものや行者像などが残されていれば修行僧がたくさん行き来したと言えるでしょうね。
只、そのあたりの文献が残されていないとすればわりばしさんの推理を働かせるには恰好の材料ですね。
宮指路
諾炬羅山は十六羅漢の一人、釈迦の弟子の名前がつけられている。南伊勢の片田舎の山にどうして十六羅漢の名前がつけられたのかと不思議に思っていた。地図を見ているとすぐ西に熊野脇道が通っている。熊野脇道は熊野古道伊勢路を伊勢の西隣の玉城町から分かれリアス式海岸をぬうようにつけられ紀伊長島で再び本堂に合流する道で、朝熊山から熊野に向かう行者達が歩いた道だ。行者と諾炬羅山とのつながりが見つかればとの思いで南伊勢に向かった。
諾炬羅山はなかなか読めないですね。
仏教的な見地からその名の由来を探ろうという学者並のわりばしさんの探究心には頭が下がります。
押淵の白滝神社駐車場に停めるが、寒気が入り込んでいて寒い。南伊勢の山で初めてフリースを着込んで歩き出す。鬼ヶ城ルートから入ると、すぐに鬼ヶ城に着く。大岩に鉄製の階段がつけられており上の段に浅い洞窟がある。洞窟の中には賽の河原の石積みのようなものが並んでおり、洞窟右の岩からは水がしたたっている。
鬼ヶ城と言えば熊野ですね。ずいぶん遠征されましたね
熊野は小学生の頃、釣り好きの親父によく連れて行ってもらった記憶ふがあります。
でも鬼ヶ城はよく見ているものの近くまで行ったことはないんですよ
谷を下ると白滝神社の裏に出た。結局、鬼ヶ城のある岩山を乗越すようにルートはつけられていた。神社にはいくつかの鳥居や祠があり不動明王も祀られており、思ったより立派だ。少し上った窯跡からは正面に霧間の八の岩場が見えた。このあたりは里山だけに窯跡もいくつか見られアガリコの木がたくさん残っていた。稜線に出るとリアス式海岸の静かな入り江が目の前に開ける。ここでのんびりしたいところだが、今日は気温も低くおまけに風が強いのでじっとしておられない。
こんな所でアガリコが見られるなんて意外です
小松姓は平家とのかかわりの深い姓で、平清盛の長男重盛が小松第に住んでいたことから小松殿・小松内大臣と呼ばれ、平家の末裔の中でも名誉ある姓になっている。麓の道行竈にも1件だけ小松姓がある。わざわざ平家の紋と小松という名前を彫ったということは作衛門という名前は平家と関係があるのかと思い調べてみた。平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺した平維盛(重盛の子)の妾腹の岸上左衛門尉行弘の一族が熊野から南島町に入植したという言い伝えがあり、この左衛門が作衛門に変わったようだ。
平家落人伝説もあるんですね。
能見坂峠にあった行者像や供養大峯山の碑に祠跡といいこの峠から作衛門を経て諾炬羅山に至る道には行者との深いつながりを感じさせるものがあった。白滝や鬼ヶ城もこうした行者の修行場だったのではないだろうかと思った。
そうですね。これだけ仏教的なものや行者像などが残されていれば修行僧がたくさん行き来したと言えるでしょうね。
只、そのあたりの文献が残されていないとすればわりばしさんの推理を働かせるには恰好の材料ですね。
宮指路
Re: 【南伊勢】諾炬羅山と熊野脇道をつなぐ
諾炬羅山は十六羅漢の一人、釈迦の弟子の名前がつけられている。南伊勢の片田舎の山にどうして十六羅漢の名前がつけられたのかと不思議に思っていた。地図を見ているとすぐ西に熊野脇道が通っている。熊野脇道は熊野古道伊勢路を伊勢の西隣の玉城町から分かれリアス式海岸をぬうようにつけられ紀伊長島で再び本堂に合流する道で、朝熊山から熊野に向かう行者達が歩いた道だ。行者と諾炬羅山とのつながりが見つかればとの思いで南伊勢に向かった。
諾炬羅山はなかなか読めないですね。
仏教的な見地からその名の由来を探ろうという学者並のわりばしさんの探究心には頭が下がります。
ヤマケイで紹介されてから注目されるようになった山です。
押淵の白滝神社駐車場に停めるが、寒気が入り込んでいて寒い。南伊勢の山で初めてフリースを着込んで歩き出す。鬼ヶ城ルートから入ると、すぐに鬼ヶ城に着く。大岩に鉄製の階段がつけられており上の段に浅い洞窟がある。洞窟の中には賽の河原の石積みのようなものが並んでおり、洞窟右の岩からは水がしたたっている。
鬼ヶ城と言えば熊野ですね。ずいぶん遠征されましたね
熊野は小学生の頃、釣り好きの親父によく連れて行ってもらった記憶ふがあります。
でも鬼ヶ城はよく見ているものの近くまで行ったことはないんですよ
この鬼ヶ城は、熊野じゃなくて南伊勢町にもあるんです。
暖地性シダ群落が有名で、アツイタやキクシノブなど紀伊半島以南の暖かい所にまれにしか見られないシダ類が11種類も確認されており国の天然記念物に指定されています。
谷を下ると白滝神社の裏に出た。結局、鬼ヶ城のある岩山を乗越すようにルートはつけられていた。神社にはいくつかの鳥居や祠があり不動明王も祀られており、思ったより立派だ。少し上った窯跡からは正面に霧間の八の岩場が見えた。このあたりは里山だけに窯跡もいくつか見られアガリコの木がたくさん残っていた。稜線に出るとリアス式海岸の静かな入り江が目の前に開ける。ここでのんびりしたいところだが、今日は気温も低くおまけに風が強いのでじっとしておられない。
こんな所でアガリコが見られるなんて意外です
大木を切ってそこから出てきた木を炭焼き用に使っていたようで、窯跡がたくさんありました。
小松姓は平家とのかかわりの深い姓で、平清盛の長男重盛が小松第に住んでいたことから小松殿・小松内大臣と呼ばれ、平家の末裔の中でも名誉ある姓になっている。麓の道行竈にも1件だけ小松姓がある。わざわざ平家の紋と小松という名前を彫ったということは作衛門という名前は平家と関係があるのかと思い調べてみた。平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺した平維盛(重盛の子)の妾腹の岸上左衛門尉行弘の一族が熊野から南島町に入植したという言い伝えがあり、この左衛門が作衛門に変わったようだ。
平家落人伝説もあるんですね。
南島町の竈のなりたちそのものが平家の落人伝説みたいなもんです。
作衛門にあった平家の蝶の紋と小松姓が彫られた看板を貼っておきます。
能見坂峠にあった行者像や供養大峯山の碑に祠跡といいこの峠から作衛門を経て諾炬羅山に至る道には行者との深いつながりを感じさせるものがあった。白滝や鬼ヶ城もこうした行者の修行場だったのではないだろうかと思った。
そうですね。これだけ仏教的なものや行者像などが残されていれば修行僧がたくさん行き来したと言えるでしょうね。
只、そのあたりの文献が残されていないとすればわりばしさんの推理を働かせるには恰好の材料ですね。
円空仏の円空も数回朝熊山から志摩をぬけて熊野に行っているので、おそらくこの熊野脇道を歩いたと思います。
諾炬羅山はなかなか読めないですね。
仏教的な見地からその名の由来を探ろうという学者並のわりばしさんの探究心には頭が下がります。
ヤマケイで紹介されてから注目されるようになった山です。
押淵の白滝神社駐車場に停めるが、寒気が入り込んでいて寒い。南伊勢の山で初めてフリースを着込んで歩き出す。鬼ヶ城ルートから入ると、すぐに鬼ヶ城に着く。大岩に鉄製の階段がつけられており上の段に浅い洞窟がある。洞窟の中には賽の河原の石積みのようなものが並んでおり、洞窟右の岩からは水がしたたっている。
鬼ヶ城と言えば熊野ですね。ずいぶん遠征されましたね
熊野は小学生の頃、釣り好きの親父によく連れて行ってもらった記憶ふがあります。
でも鬼ヶ城はよく見ているものの近くまで行ったことはないんですよ
この鬼ヶ城は、熊野じゃなくて南伊勢町にもあるんです。
暖地性シダ群落が有名で、アツイタやキクシノブなど紀伊半島以南の暖かい所にまれにしか見られないシダ類が11種類も確認されており国の天然記念物に指定されています。
谷を下ると白滝神社の裏に出た。結局、鬼ヶ城のある岩山を乗越すようにルートはつけられていた。神社にはいくつかの鳥居や祠があり不動明王も祀られており、思ったより立派だ。少し上った窯跡からは正面に霧間の八の岩場が見えた。このあたりは里山だけに窯跡もいくつか見られアガリコの木がたくさん残っていた。稜線に出るとリアス式海岸の静かな入り江が目の前に開ける。ここでのんびりしたいところだが、今日は気温も低くおまけに風が強いのでじっとしておられない。
こんな所でアガリコが見られるなんて意外です
大木を切ってそこから出てきた木を炭焼き用に使っていたようで、窯跡がたくさんありました。
小松姓は平家とのかかわりの深い姓で、平清盛の長男重盛が小松第に住んでいたことから小松殿・小松内大臣と呼ばれ、平家の末裔の中でも名誉ある姓になっている。麓の道行竈にも1件だけ小松姓がある。わざわざ平家の紋と小松という名前を彫ったということは作衛門という名前は平家と関係があるのかと思い調べてみた。平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺した平維盛(重盛の子)の妾腹の岸上左衛門尉行弘の一族が熊野から南島町に入植したという言い伝えがあり、この左衛門が作衛門に変わったようだ。
平家落人伝説もあるんですね。
南島町の竈のなりたちそのものが平家の落人伝説みたいなもんです。
作衛門にあった平家の蝶の紋と小松姓が彫られた看板を貼っておきます。
能見坂峠にあった行者像や供養大峯山の碑に祠跡といいこの峠から作衛門を経て諾炬羅山に至る道には行者との深いつながりを感じさせるものがあった。白滝や鬼ヶ城もこうした行者の修行場だったのではないだろうかと思った。
そうですね。これだけ仏教的なものや行者像などが残されていれば修行僧がたくさん行き来したと言えるでしょうね。
只、そのあたりの文献が残されていないとすればわりばしさんの推理を働かせるには恰好の材料ですね。
円空仏の円空も数回朝熊山から志摩をぬけて熊野に行っているので、おそらくこの熊野脇道を歩いたと思います。
Re: 【南伊勢】諾炬羅山と熊野脇道をつなぐ
わりばしさん、こんばんは。
[attachment=0]DSCN8607_800.jpg[/attachment]
【コース】白滝神社P7:08---10:10諾炬羅(たこら)山---11:08作衛門
一週間ほど前に、鬼ヶ城からタコラへ入ってました。予定では作衛門まで行って尾根を降って林道に降り立つ予定だったのですが。
諾炬羅山は十六羅漢の一人、釈迦の弟子の名前がつけられている。南伊勢の片田舎の山にどうして十六羅漢の名前がつけられたのかと不思議に思っていた。地図を見ているとすぐ西に熊野脇道が通っている。熊野脇道は熊野古道伊勢路を伊勢の西隣の玉城町から分かれリアス式海岸をぬうようにつけられ紀伊長島で再び本堂に合流する道で、朝熊山から熊野に向かう行者達が歩いた道だ。行者と諾炬羅山とのつながりが見つかればとの思いで南伊勢に向かった。
ふ~ん、タコラは十六羅漢のひとりですか。十六羅漢と行者の結びつきがよくわからないけど。
押淵の白滝神社駐車場に停めるが、寒気が入り込んでいて寒い。
一週間前は、晴れてはいたけど、強風で寒かった。ただ風裏に回って陽にあたれば、ポカポカでした。
鬼ヶ城ルートから入ると、すぐに鬼ヶ城に着く。
地形図の鬼ヶ城の位置は、間違ってますよね。切間ノ鉢の山腹に書かれてますが、これは間違いですね。
しかし、いろいろ案内・レポとか読んでもこの地形図の間違いを指摘しているものが無く、ちょっと理解できなくて困りましたよ。
あぁ、鬼ヶ城へは以前にも行ったことはあるけど、切間ノ鉢もタコラも初めての山でした。
岩を巻きながら歩いていくと石積みでせき止められた黄金池があらわれる。鬼ヶ城の上部にあたる場所だが何のための池かわからないが、
「黄金池」よくこの池の名前をご存知ですね~。伊勢のローカル誌「NAGI」の案内にはこの名前が出てたかな?
この池は、田んぼの水を得るためとしてあったのでしょうね。
稜線に出るとリアス式海岸の静かな入り江が目の前に開ける。ここでのんびりしたいところだが、
「近道」を辿らず…、ですね。わたしたちも鬼ヶ城から同じルートです。
今日は気温も低くおまけに風が強いのでじっとしておられない。
霧間の八からは押淵の集落が見える。
ココからの展望も良かったです。七洞岳~獅子ヶ岳の稜線も見れました。
P288からは岩肌を身にまとった諾炬羅山が見えてくる。
ん?266m標高点の間違い?・・・この標高点はルートを外すもヤブ山で、タコラの山容が眼前に開けるのは、アップダウンを交えてco220m付近かな。
小松姓は平家とのかかわりの深い姓で、平清盛の長男重盛が小松第に住んでいたことから小松殿・小松内大臣と呼ばれ、平家の末裔の中でも名誉ある姓になっている。麓の道行竈にも1件だけ小松姓がある。わざわざ平家の紋と小松という名前を彫ったということは作衛門という名前は平家と関係があるのかと思い調べてみた。平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺した平維盛(重盛の子)の妾腹の岸上左衛門尉行弘の一族が熊野から南島町に入植したという言い伝えがあり、この左衛門が作衛門に変わったようだ。
興味深い話ですね。このプレートを付けた人は、そのことを知っていたのでしょうね。
植林の杣道を歩きながらしばらく下ると能見坂峠に着いた。今は何もないが、野見坂隧道が出来るまでは峠付近には行者像や地蔵菩薩や薬師如来や供養大峯山の碑などが祀られていたようだ。これらは隧道が出来た時に隧道口に降ろされたようなので、熊野脇道を隧道まで下りていく。降り立ったのは旧県道22号線の隧道の出口だった。立派な道だが新野見坂トンネルが出来たので今は通る車もない。
旧の能見坂峠車道は、それなりに趣のあった道ですが、やっぱトンネル二つでぶち抜いた今の道は、あっという間に旧南島町に抜けれてしまします。
最初に目につくのは行者像で、昔は毎年4月7日に道行の人たちが参っていたようだ。その隣には上部がかけてしまっている供養大峯山の碑が置かれている。行者像といい山の碑といい能見坂峠と行者とのつながりがうかがえる。隧道の反対側の入口には地蔵菩薩と薬師如来が祀られているようなので向かう。強風の吹いている真っ暗なトンネルを歩くと入口にはコンクリートの祠に石像が置かれている。薬師如来の方には宝永4年という文字が見て取れる。
旧南島町の道行の人が隧道を挟んだこれらを見守られていたのでしたか。
冬になれば、役行者やお地蔵さんに寒いだろうと冬装束されてました。
[attachment=1]P3020150_800.jpg[/attachment]
トンネルを再び歩き峠に上りかえす。このあたりにも窯跡がある。峠を少し上った所に窯跡とは違う祠跡のような四角い石積みがある。ここに行者像が安置されていたのではないかと思った。
この能見坂の熊野脇道、少しだけ辿れるけど、すぐに旧車道でわからなくなったような記憶があります。
能見坂峠にあった行者像や供養大峯山の碑に祠跡といいこの峠から作衛門を経て諾炬羅山に至る道には行者との深いつながりを感じさせるものがあった。白滝や鬼ヶ城もこうした行者の修行場だったのではないだろうかと思った。
南伊勢に多い「浅間山(せんげさん)」(富士信仰)と役行者に大峰山参り。たぶん、民間で継承し変容しつつも繋がってるんだろうと思う。
「熊野」と「伊勢」それに「出雲」、それに「平家」に南朝・・・、つひでに宮本武蔵(^^;;、何度も大津波が襲った!!ややこしい土地柄だ(^^)。
zipp
Re: 【南伊勢】諾炬羅山と熊野脇道をつなぐ
おはようございます、zippさん。
【コース】白滝神社P7:08---10:10諾炬羅(たこら)山---11:08作衛門
一週間ほど前に、鬼ヶ城からタコラへ入ってました。予定では作衛門まで行って尾根を降って林道に降り立つ予定だったのですが。
タコラへ行かれてましたか。最近は南の山三昧のようですね。
諾炬羅山は十六羅漢の一人、釈迦の弟子の名前がつけられている。南伊勢の片田舎の山にどうして十六羅漢の名前がつけられたのかと不思議に思っていた。地図を見ているとすぐ西に熊野脇道が通っている。熊野脇道は熊野古道伊勢路を伊勢の西隣の玉城町から分かれリアス式海岸をぬうようにつけられ紀伊長島で再び本堂に合流する道で、朝熊山から熊野に向かう行者達が歩いた道だ。行者と諾炬羅山とのつながりが見つかればとの思いで南伊勢に向かった。
ふ~ん、タコラは十六羅漢のひとりですか。十六羅漢と行者の結びつきがよくわからないけど。
明治以前は、日本の神々はもともとインドにおける仏・菩薩が日本を救うために名やかたちを変えて日本に降り立ったという本時垂迹説だったので行者が十六羅漢を拝むこともあるでしょうね。
諾炬羅に目をつけたあたりはマニアックだとは思います。
山下達郎のサンデーソングブックみたいなもんです
押淵の白滝神社駐車場に停めるが、寒気が入り込んでいて寒い。
一週間前は、晴れてはいたけど、強風で寒かった。ただ風裏に回って陽にあたれば、ポカポカでした。
いつもならそうなんでしょうね。ただこの日は、気温が低くて雪が舞っておりやした。
鬼ヶ城ルートから入ると、すぐに鬼ヶ城に着く。
地形図の鬼ヶ城の位置は、間違ってますよね。切間ノ鉢の山腹に書かれてますが、これは間違いですね。
しかし、いろいろ案内・レポとか読んでもこの地形図の間違いを指摘しているものが無く、ちょっと理解できなくて困りましたよ。
あぁ、鬼ヶ城へは以前にも行ったことはあるけど、切間ノ鉢もタコラも初めての山でした。
ヤマケイで有名になりこの日も団体さんがきておりました。
岩を巻きながら歩いていくと石積みでせき止められた黄金池があらわれる。鬼ヶ城の上部にあたる場所だが何のための池かわからないが、
「黄金池」よくこの池の名前をご存知ですね~。伊勢のローカル誌「NAGI」の案内にはこの名前が出てたかな?
この池は、田んぼの水を得るためとしてあったのでしょうね。
このあたりでは水は貴重だったでしょうからね。
稜線に出るとリアス式海岸の静かな入り江が目の前に開ける。ここでのんびりしたいところだが、
「近道」を辿らず…、ですね。わたしたちも鬼ヶ城から同じルートです。
初めての山だったので出来るだけ近道はさけて歩きました。
この方が展望が良かったみたいですね。
霧間の八からは押淵の集落が見える。
ココからの展望も良かったです。七洞岳~獅子ヶ岳の稜線も見れました。
ハハハ、私にはどの山だかわからない。
P288からは岩肌を身にまとった諾炬羅山が見えてくる。
ん?266m標高点の間違い?・・・この標高点はルートを外すもヤブ山で、タコラの山容が眼前に開けるのは、アップダウンを交えてco220m付近かな。
あれ間違っていましたね。このあたりでは枝の間からって感じでしたか。
小松姓は平家とのかかわりの深い姓で、平清盛の長男重盛が小松第に住んでいたことから小松殿・小松内大臣と呼ばれ、平家の末裔の中でも名誉ある姓になっている。麓の道行竈にも1件だけ小松姓がある。わざわざ平家の紋と小松という名前を彫ったということは作衛門という名前は平家と関係があるのかと思い調べてみた。平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺した平維盛(重盛の子)の妾腹の岸上左衛門尉行弘の一族が熊野から南島町に入植したという言い伝えがあり、この左衛門が作衛門に変わったようだ。
興味深い話ですね。このプレートを付けた人は、そのことを知っていたのでしょうね。
小松と書いてあるので、単純に道行竈の小松さんがつけたのかな思います。
植林の杣道を歩きながらしばらく下ると能見坂峠に着いた。今は何もないが、野見坂隧道が出来るまでは峠付近には行者像や地蔵菩薩や薬師如来や供養大峯山の碑などが祀られていたようだ。これらは隧道が出来た時に隧道口に降ろされたようなので、熊野脇道を隧道まで下りていく。降り立ったのは旧県道22号線の隧道の出口だった。立派な道だが新野見坂トンネルが出来たので今は通る車もない。
旧の能見坂峠車道は、それなりに趣のあった道ですが、やっぱトンネル二つでぶち抜いた今の道は、あっという間に旧南島町に抜けれてしまします。
昔の難所も一挙にワープですね。
最初に目につくのは行者像で、昔は毎年4月7日に道行の人たちが参っていたようだ。その隣には上部がかけてしまっている供養大峯山の碑が置かれている。行者像といい山の碑といい能見坂峠と行者とのつながりがうかがえる。隧道の反対側の入口には地蔵菩薩と薬師如来が祀られているようなので向かう。強風の吹いている真っ暗なトンネルを歩くと入口にはコンクリートの祠に石像が置かれている。薬師如来の方には宝永4年という文字が見て取れる。
旧南島町の道行の人が隧道を挟んだこれらを見守られていたのでしたか。
冬になれば、役行者やお地蔵さんに寒いだろうと冬装束されてました。
へえ冬装束ですか。
いい話です。
トンネルを再び歩き峠に上りかえす。このあたりにも窯跡がある。峠を少し上った所に窯跡とは違う祠跡のような四角い石積みがある。ここに行者像が安置されていたのではないかと思った。
この能見坂の熊野脇道、少しだけ辿れるけど、すぐに旧車道でわからなくなったような記憶があります。
旧車道に下りる道もあやうい感じで、昔の面影は無かったですね。
窯跡が静かに眺めているだけでした。
能見坂峠にあった行者像や供養大峯山の碑に祠跡といいこの峠から作衛門を経て諾炬羅山に至る道には行者との深いつながりを感じさせるものがあった。白滝や鬼ヶ城もこうした行者の修行場だったのではないだろうかと思った。
南伊勢に多い「浅間山(せんげさん)」(富士信仰)と役行者に大峰山参り。たぶん、民間で継承し変容しつつも繋がってるんだろうと思う。
「熊野」と「伊勢」それに「出雲」、それに「平家」に南朝・・・、つひでに宮本武蔵(^^;;、何度も大津波が襲った!!ややこしい土地柄だ(^^)。
このあたり面白いですよね。
興味を惹かれる地です。
【コース】白滝神社P7:08---10:10諾炬羅(たこら)山---11:08作衛門
一週間ほど前に、鬼ヶ城からタコラへ入ってました。予定では作衛門まで行って尾根を降って林道に降り立つ予定だったのですが。
タコラへ行かれてましたか。最近は南の山三昧のようですね。
諾炬羅山は十六羅漢の一人、釈迦の弟子の名前がつけられている。南伊勢の片田舎の山にどうして十六羅漢の名前がつけられたのかと不思議に思っていた。地図を見ているとすぐ西に熊野脇道が通っている。熊野脇道は熊野古道伊勢路を伊勢の西隣の玉城町から分かれリアス式海岸をぬうようにつけられ紀伊長島で再び本堂に合流する道で、朝熊山から熊野に向かう行者達が歩いた道だ。行者と諾炬羅山とのつながりが見つかればとの思いで南伊勢に向かった。
ふ~ん、タコラは十六羅漢のひとりですか。十六羅漢と行者の結びつきがよくわからないけど。
明治以前は、日本の神々はもともとインドにおける仏・菩薩が日本を救うために名やかたちを変えて日本に降り立ったという本時垂迹説だったので行者が十六羅漢を拝むこともあるでしょうね。
諾炬羅に目をつけたあたりはマニアックだとは思います。
山下達郎のサンデーソングブックみたいなもんです
押淵の白滝神社駐車場に停めるが、寒気が入り込んでいて寒い。
一週間前は、晴れてはいたけど、強風で寒かった。ただ風裏に回って陽にあたれば、ポカポカでした。
いつもならそうなんでしょうね。ただこの日は、気温が低くて雪が舞っておりやした。
鬼ヶ城ルートから入ると、すぐに鬼ヶ城に着く。
地形図の鬼ヶ城の位置は、間違ってますよね。切間ノ鉢の山腹に書かれてますが、これは間違いですね。
しかし、いろいろ案内・レポとか読んでもこの地形図の間違いを指摘しているものが無く、ちょっと理解できなくて困りましたよ。
あぁ、鬼ヶ城へは以前にも行ったことはあるけど、切間ノ鉢もタコラも初めての山でした。
ヤマケイで有名になりこの日も団体さんがきておりました。
岩を巻きながら歩いていくと石積みでせき止められた黄金池があらわれる。鬼ヶ城の上部にあたる場所だが何のための池かわからないが、
「黄金池」よくこの池の名前をご存知ですね~。伊勢のローカル誌「NAGI」の案内にはこの名前が出てたかな?
この池は、田んぼの水を得るためとしてあったのでしょうね。
このあたりでは水は貴重だったでしょうからね。
稜線に出るとリアス式海岸の静かな入り江が目の前に開ける。ここでのんびりしたいところだが、
「近道」を辿らず…、ですね。わたしたちも鬼ヶ城から同じルートです。
初めての山だったので出来るだけ近道はさけて歩きました。
この方が展望が良かったみたいですね。
霧間の八からは押淵の集落が見える。
ココからの展望も良かったです。七洞岳~獅子ヶ岳の稜線も見れました。
ハハハ、私にはどの山だかわからない。
P288からは岩肌を身にまとった諾炬羅山が見えてくる。
ん?266m標高点の間違い?・・・この標高点はルートを外すもヤブ山で、タコラの山容が眼前に開けるのは、アップダウンを交えてco220m付近かな。
あれ間違っていましたね。このあたりでは枝の間からって感じでしたか。
小松姓は平家とのかかわりの深い姓で、平清盛の長男重盛が小松第に住んでいたことから小松殿・小松内大臣と呼ばれ、平家の末裔の中でも名誉ある姓になっている。麓の道行竈にも1件だけ小松姓がある。わざわざ平家の紋と小松という名前を彫ったということは作衛門という名前は平家と関係があるのかと思い調べてみた。平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺した平維盛(重盛の子)の妾腹の岸上左衛門尉行弘の一族が熊野から南島町に入植したという言い伝えがあり、この左衛門が作衛門に変わったようだ。
興味深い話ですね。このプレートを付けた人は、そのことを知っていたのでしょうね。
小松と書いてあるので、単純に道行竈の小松さんがつけたのかな思います。
植林の杣道を歩きながらしばらく下ると能見坂峠に着いた。今は何もないが、野見坂隧道が出来るまでは峠付近には行者像や地蔵菩薩や薬師如来や供養大峯山の碑などが祀られていたようだ。これらは隧道が出来た時に隧道口に降ろされたようなので、熊野脇道を隧道まで下りていく。降り立ったのは旧県道22号線の隧道の出口だった。立派な道だが新野見坂トンネルが出来たので今は通る車もない。
旧の能見坂峠車道は、それなりに趣のあった道ですが、やっぱトンネル二つでぶち抜いた今の道は、あっという間に旧南島町に抜けれてしまします。
昔の難所も一挙にワープですね。
最初に目につくのは行者像で、昔は毎年4月7日に道行の人たちが参っていたようだ。その隣には上部がかけてしまっている供養大峯山の碑が置かれている。行者像といい山の碑といい能見坂峠と行者とのつながりがうかがえる。隧道の反対側の入口には地蔵菩薩と薬師如来が祀られているようなので向かう。強風の吹いている真っ暗なトンネルを歩くと入口にはコンクリートの祠に石像が置かれている。薬師如来の方には宝永4年という文字が見て取れる。
旧南島町の道行の人が隧道を挟んだこれらを見守られていたのでしたか。
冬になれば、役行者やお地蔵さんに寒いだろうと冬装束されてました。
へえ冬装束ですか。
いい話です。
トンネルを再び歩き峠に上りかえす。このあたりにも窯跡がある。峠を少し上った所に窯跡とは違う祠跡のような四角い石積みがある。ここに行者像が安置されていたのではないかと思った。
この能見坂の熊野脇道、少しだけ辿れるけど、すぐに旧車道でわからなくなったような記憶があります。
旧車道に下りる道もあやうい感じで、昔の面影は無かったですね。
窯跡が静かに眺めているだけでした。
能見坂峠にあった行者像や供養大峯山の碑に祠跡といいこの峠から作衛門を経て諾炬羅山に至る道には行者との深いつながりを感じさせるものがあった。白滝や鬼ヶ城もこうした行者の修行場だったのではないだろうかと思った。
南伊勢に多い「浅間山(せんげさん)」(富士信仰)と役行者に大峰山参り。たぶん、民間で継承し変容しつつも繋がってるんだろうと思う。
「熊野」と「伊勢」それに「出雲」、それに「平家」に南朝・・・、つひでに宮本武蔵(^^;;、何度も大津波が襲った!!ややこしい土地柄だ(^^)。
このあたり面白いですよね。
興味を惹かれる地です。