【台高】坊主上ヶにつづく道
Posted: 2012年11月08日(木) 19:40
【日 付】2012年11月3日(土)・4日(日)
【山 域】台高
【コース】(1日目)檜ヶ谷駐車場7:18---11:26坊主尾根コル---14:24河原小屋谷左股源頭コル---15:49堂倉避難小屋
(2日目)堂倉避難小屋7:57---9:40苔辻---10:22嘉茂助谷の頭---13:50檜ヶ谷駐車場
【メンバー】単独
寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回式年遷宮の用材を伐り出す御杣山に大杉山がなり、大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷を含む15か所で伐採がおこなわれた。この当時の絵図を見ると「 堂倉谷之内 坊主上ヶ 大杉村より凡12里半余上 」という説明書きとともに現在のアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)の場所に「坊主上ヶ」という地名が画かれている。これは、神宮文庫の絵図3種類に同様の記述がなされているので間違いない。坊主上ヶでは、天明2年(1782年)8月に神宮御造営用材伐採の木本祭が執行された。木本祭は、伐採を始める際に行われる儀式で、御神木の南側に且神饌幄舎、修祓所、装束着換所、潔斎場等の付属施設を有する大規模な神事になる。つまり、木本祭を施行するために神官を連れてきた場所が坊主上ヶとなる。
木本祭を行うのに大杉谷の厳しい道を避け、紀北町船津よりアザミ谷まで新墾の道を切り開いたとされている。この道がどこにあったかについては議論が分かれている。今回はその中の推定ルートのひとつ塩崎善一氏のルートを上りzippさんのルートを下ることにした。
船津より往古川ぞいの町道大台線を進むと久瀬谷林道を少しすぎた所で通行止めのバリケードが置かれている。この先で山崩れがおきたとのことで工事車両のみが入っていく。しかたがないので、ここに駐車しヘアピンカーブ地点まで歩いたが何の問題もなかった。
(1日目)
町道からゴミが散乱する堰堤の斜面を真砂谷出合に向けて下りる。対岸への徒渉は意外に水深があるので長靴を脱いでわたる。真砂谷は左岸の木場道跡の獣道をひろいながら進む。谷が直角に曲がった地点で対岸に渡り再度谷が北に曲がると奥に滝が見える。滝に向けて坊主尾根から尾根が下りてきている。尾根下には窯跡があるので、窯跡の谷を少し上流に向けて歩き右側のガレ谷を上っていくと小尾根に着く。ここまでマーキングは一切無かったのだが、この当たりから目につくようになる。
小尾根の急斜面を上り尾根に乗ると真正面に八町滝が見える。思った以上に稜線まじかの高い所から流れていて驚く。尾根は平らになっていて歩きやすくマーキングもある。大杉谷の堂倉方面への杉や桧の稚苗運搬に使われていた杣道だったようだ。標高700mには桧の古木があり、ここからルートは尾根の左を巻いてカレ谷に下りる。カレ谷にも立派な桧の古木が残さており古道の目印として残されたようだ。カレ谷を上ると坊主尾根の850mコルに着く。マーキングはここまでで、坊主尾根に上るためにつけられたもののようだ。ゆるやかな反対側の谷に下ると岩井谷の支流の河原小屋谷だ、ここにも取りつきの目印の古木が朽ち果てて残っている。取りつき地点は、河原小屋と呼ばれゆるやかな斜面が広がり明るい日差しがさしこんでいる。
[attachment=4]IMG_6227.jpg[/attachment]
河原小屋谷を上って行く。ゆるやかな斜面は河原小屋だけで、両岸がせばまり暗い谷にかわっていく。両側が切り立ってゴルジュになってところもあり、沢靴か長靴がないと苦労するだろう。長靴でも2度脱いで徒渉する場所があった。しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
[attachment=3]IMG_6252.jpg[/attachment]
稜線の反対側の地池谷左岸の植林の境目を下って行く。放置された植林の中は立ち枯れたスズタケだらけだった。すぐに地池谷林道に下り歩き出すが、復旧することは無いと思わせる程の荒れようで、コンクリート橋だけがきれいに残っている。合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。この工事は堂倉避難小屋から桃ノ木小屋縦道までの区間で行われており、林道を大杉谷登山道として使うためのものだった。工事車両が三重ナンバーってことは、山抜けはしていてもここまでは来れるようだ。
これまた長い林道を歩き堂倉避難小屋に着く。水場は粟谷小屋前の延命水が使える。この日は、私含め6人の泊まりだったのでゆったりとすごせた。この晩は、強風が吹いていたのでコンクリートづくりの新しい小屋で良かった。
今日たどってきたルートは上手に山の弱点をついたもので杣人の知恵を感じることができた。古木の目印といい古くから使われていたようだが、現在は河原小屋谷まで渓流釣りの人たちが入るぐらいだろう。
(2日目)
朝食をすませ堂倉滝までピストン。目的はアザミ谷左岸にある南面の緩傾地。木本祭は南面の緩傾地で行うことに決まっておりアザミ谷には該当する場所は一箇所しかない。登山道を下って行くと自生の桧が何本か残った場所があるのでトラバースしようとすると、目的地は植林になっている。これではしょうがないのでパス。堂倉滝を見て小屋に戻った。
[attachment=2]IMG_6319.jpg[/attachment]
小屋を出発し堂倉橋近くの堂倉の若水で水をくむ。ここの水はおいしい。堂倉の製品事業所の小屋をすぎて二万五千地図に記載されている破線道に入る。取りつきには小屋跡らしき石積みの平坦地がある。破線道の谷のみ自然林が残されており紅葉がきれいだ。しばらくすると植林に吸収され、上っていくと稜線が明るくなってきた。到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
雲一つない青空に船津の町と熊野灘が広がっている。陽に照らされて広がる苔のじゅうたんがふかふかして暖かい。一番のとっておきのプレゼントをもらった気がする。この世界で飲むコーヒーは最高だ。ここには一升瓶なども残っているので山を上ってきた後の休憩地として昔から使われていたのだろう。
[attachment=1]IMG_6361.jpg[/attachment]
稜線を上りすぐに与八郎高(嘉茂助谷の頭南峰)。ここは嘉茂助谷の頭よりも展望が良く。大台から熊野灘までさえぎるもののない絶景地だ。ここから見る分には坊主尾根も下れそうな緩やかな尾根に思える。
嘉茂助谷の頭に寄りまっすぐに八町尾根にむかって下って行く。八町尾根は真砂谷と小木森谷にはさまれた檜ヶ谷からつきあげる一番太い尾根になる。尾根を下ると溝道があらわれ出し、多くの人たちが歩いてきた道ということがわかる。その後、境界標石もあらわれて尾根の下部まで延々と続く。下山は溝道と境界標石に青いビニールテープの三点セットがあるので迷うことは無い。この道はよく考えられており、急な斜面ではつづら折れに道がつけられているし古道の目印の桧の古木も残っている。また、八町滝と同じ標高の岩稜帯も通過を感じさせないぐらい上手に道がつけられている。
快適に下り沢音が近づいてきた。青のビニールテープはいつの間にか無くなり、境界標識も尾根筋から消える。尾根の末端は下りれないので、右側の真砂谷出合に向けて下りる地点を探す。すると桧の古木があった。これを下降地点の目印と考えて下って行く。最初は急な斜面だったが、すぐに小尾根があらわれ、これに沿って下って行くと赤外線の動物感知器が設置されている出合付近の左岸道についた。あとは林道を下り駐車地に向かうのみだ。
[attachment=0]IMG_6365.jpg[/attachment]
坊主上ヶにつづく道の信憑性のある記録は二つある。一つは菊屋末偶の著作「寛政遷宮物語」にある檜ヶ谷中尾越えという記述で、檜ヶ谷より中尾を越えて坊主上ヶに至る道という意味になる。檜ヶ谷より坊主上ヶ方面の稜線に向けてつきあげている尾根は八町尾根と坊主尾根の二つしかない。坊主尾根は、現在でも登攀具が必要な場所で古道とは考えにくく、八町尾根が中尾と断定してもいいだろう。
もう一つは野呂介石の「䑓山踄歴略記」で、木本祭の7年後の寛政元年に坊主上ヶ峠越えを上った記録が残っている。坊主上ヶ峠越えは、坊主上ヶ峠を越えて坊主上ヶに至る道になる。この道については、坊主上ヶ峠の場所がわかればおのずとルートがわかるだろう。
塩崎善一氏は河原小屋谷左股の源頭のコルを坊主上ヶ峠と考えている。この考えでいくと野呂介石が峠直下の地池谷から堂倉谷を下らずに、わざわざ稜線づいたいに日本の鼻まで歩きここから堂倉谷に下りベースキャンプを設けたことになり、ルートどりに違和感がある。また、野呂介石は食料が尽きて雨の中船津に向けて下山しているが、雨の中を逃げ場の無い河原小屋谷左俣の谷筋を下ったとは考えにくい。
「檜ヶ谷より直に上る 俗に此道を坊主上ヶと いふ登坂至 凡2里余 一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱 此所より四方を臨むに熊野海涯は絶て見へす」と「䑓山踄歴略記」には記されている。
この中の日本の鼻が嘉茂助谷の頭であるという事は一致している。そこでひっかかってくるのは「一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱」という箇所になる。歩くまでは感じなかったのだが、この一つの山頂とは苔辻の事のように思う。この道が坊主上ヶに至る道である事を考えると二万五千地図に記されている破線道に沿って道はつけられていたと考えるのが自然だ。標高を上げる山頂を通らずに道を着けるのは古道ではよくあるし、古道を使い道がつけられることもしばしばある。苔辻を坊主上ヶ峠と考えると、右の方に登り日本の鼻に着くという記述やそれ以外の記述とも合致する。
当初「檜ヶ谷中尾越え」と「坊主上ヶ峠越え」は別の道と思いながら今回の山行に臨んだが、苔辻を坊主上ヶ峠と考えると二つの呼び名は同じ道を表していることになる。つまり、坊主上ヶの古道は、八町尾根を上ったのち破線道で坊主上ヶ峠に向かう。ここから破線道を使いながら堂倉谷の坊主上ヶに下った道と考えられるのではないだろうか。
【山 域】台高
【コース】(1日目)檜ヶ谷駐車場7:18---11:26坊主尾根コル---14:24河原小屋谷左股源頭コル---15:49堂倉避難小屋
(2日目)堂倉避難小屋7:57---9:40苔辻---10:22嘉茂助谷の頭---13:50檜ヶ谷駐車場
【メンバー】単独
寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回式年遷宮の用材を伐り出す御杣山に大杉山がなり、大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷を含む15か所で伐採がおこなわれた。この当時の絵図を見ると「 堂倉谷之内 坊主上ヶ 大杉村より凡12里半余上 」という説明書きとともに現在のアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)の場所に「坊主上ヶ」という地名が画かれている。これは、神宮文庫の絵図3種類に同様の記述がなされているので間違いない。坊主上ヶでは、天明2年(1782年)8月に神宮御造営用材伐採の木本祭が執行された。木本祭は、伐採を始める際に行われる儀式で、御神木の南側に且神饌幄舎、修祓所、装束着換所、潔斎場等の付属施設を有する大規模な神事になる。つまり、木本祭を施行するために神官を連れてきた場所が坊主上ヶとなる。
木本祭を行うのに大杉谷の厳しい道を避け、紀北町船津よりアザミ谷まで新墾の道を切り開いたとされている。この道がどこにあったかについては議論が分かれている。今回はその中の推定ルートのひとつ塩崎善一氏のルートを上りzippさんのルートを下ることにした。
船津より往古川ぞいの町道大台線を進むと久瀬谷林道を少しすぎた所で通行止めのバリケードが置かれている。この先で山崩れがおきたとのことで工事車両のみが入っていく。しかたがないので、ここに駐車しヘアピンカーブ地点まで歩いたが何の問題もなかった。
(1日目)
町道からゴミが散乱する堰堤の斜面を真砂谷出合に向けて下りる。対岸への徒渉は意外に水深があるので長靴を脱いでわたる。真砂谷は左岸の木場道跡の獣道をひろいながら進む。谷が直角に曲がった地点で対岸に渡り再度谷が北に曲がると奥に滝が見える。滝に向けて坊主尾根から尾根が下りてきている。尾根下には窯跡があるので、窯跡の谷を少し上流に向けて歩き右側のガレ谷を上っていくと小尾根に着く。ここまでマーキングは一切無かったのだが、この当たりから目につくようになる。
小尾根の急斜面を上り尾根に乗ると真正面に八町滝が見える。思った以上に稜線まじかの高い所から流れていて驚く。尾根は平らになっていて歩きやすくマーキングもある。大杉谷の堂倉方面への杉や桧の稚苗運搬に使われていた杣道だったようだ。標高700mには桧の古木があり、ここからルートは尾根の左を巻いてカレ谷に下りる。カレ谷にも立派な桧の古木が残さており古道の目印として残されたようだ。カレ谷を上ると坊主尾根の850mコルに着く。マーキングはここまでで、坊主尾根に上るためにつけられたもののようだ。ゆるやかな反対側の谷に下ると岩井谷の支流の河原小屋谷だ、ここにも取りつきの目印の古木が朽ち果てて残っている。取りつき地点は、河原小屋と呼ばれゆるやかな斜面が広がり明るい日差しがさしこんでいる。
[attachment=4]IMG_6227.jpg[/attachment]
河原小屋谷を上って行く。ゆるやかな斜面は河原小屋だけで、両岸がせばまり暗い谷にかわっていく。両側が切り立ってゴルジュになってところもあり、沢靴か長靴がないと苦労するだろう。長靴でも2度脱いで徒渉する場所があった。しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
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稜線の反対側の地池谷左岸の植林の境目を下って行く。放置された植林の中は立ち枯れたスズタケだらけだった。すぐに地池谷林道に下り歩き出すが、復旧することは無いと思わせる程の荒れようで、コンクリート橋だけがきれいに残っている。合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。この工事は堂倉避難小屋から桃ノ木小屋縦道までの区間で行われており、林道を大杉谷登山道として使うためのものだった。工事車両が三重ナンバーってことは、山抜けはしていてもここまでは来れるようだ。
これまた長い林道を歩き堂倉避難小屋に着く。水場は粟谷小屋前の延命水が使える。この日は、私含め6人の泊まりだったのでゆったりとすごせた。この晩は、強風が吹いていたのでコンクリートづくりの新しい小屋で良かった。
今日たどってきたルートは上手に山の弱点をついたもので杣人の知恵を感じることができた。古木の目印といい古くから使われていたようだが、現在は河原小屋谷まで渓流釣りの人たちが入るぐらいだろう。
(2日目)
朝食をすませ堂倉滝までピストン。目的はアザミ谷左岸にある南面の緩傾地。木本祭は南面の緩傾地で行うことに決まっておりアザミ谷には該当する場所は一箇所しかない。登山道を下って行くと自生の桧が何本か残った場所があるのでトラバースしようとすると、目的地は植林になっている。これではしょうがないのでパス。堂倉滝を見て小屋に戻った。
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小屋を出発し堂倉橋近くの堂倉の若水で水をくむ。ここの水はおいしい。堂倉の製品事業所の小屋をすぎて二万五千地図に記載されている破線道に入る。取りつきには小屋跡らしき石積みの平坦地がある。破線道の谷のみ自然林が残されており紅葉がきれいだ。しばらくすると植林に吸収され、上っていくと稜線が明るくなってきた。到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
雲一つない青空に船津の町と熊野灘が広がっている。陽に照らされて広がる苔のじゅうたんがふかふかして暖かい。一番のとっておきのプレゼントをもらった気がする。この世界で飲むコーヒーは最高だ。ここには一升瓶なども残っているので山を上ってきた後の休憩地として昔から使われていたのだろう。
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稜線を上りすぐに与八郎高(嘉茂助谷の頭南峰)。ここは嘉茂助谷の頭よりも展望が良く。大台から熊野灘までさえぎるもののない絶景地だ。ここから見る分には坊主尾根も下れそうな緩やかな尾根に思える。
嘉茂助谷の頭に寄りまっすぐに八町尾根にむかって下って行く。八町尾根は真砂谷と小木森谷にはさまれた檜ヶ谷からつきあげる一番太い尾根になる。尾根を下ると溝道があらわれ出し、多くの人たちが歩いてきた道ということがわかる。その後、境界標石もあらわれて尾根の下部まで延々と続く。下山は溝道と境界標石に青いビニールテープの三点セットがあるので迷うことは無い。この道はよく考えられており、急な斜面ではつづら折れに道がつけられているし古道の目印の桧の古木も残っている。また、八町滝と同じ標高の岩稜帯も通過を感じさせないぐらい上手に道がつけられている。
快適に下り沢音が近づいてきた。青のビニールテープはいつの間にか無くなり、境界標識も尾根筋から消える。尾根の末端は下りれないので、右側の真砂谷出合に向けて下りる地点を探す。すると桧の古木があった。これを下降地点の目印と考えて下って行く。最初は急な斜面だったが、すぐに小尾根があらわれ、これに沿って下って行くと赤外線の動物感知器が設置されている出合付近の左岸道についた。あとは林道を下り駐車地に向かうのみだ。
[attachment=0]IMG_6365.jpg[/attachment]
坊主上ヶにつづく道の信憑性のある記録は二つある。一つは菊屋末偶の著作「寛政遷宮物語」にある檜ヶ谷中尾越えという記述で、檜ヶ谷より中尾を越えて坊主上ヶに至る道という意味になる。檜ヶ谷より坊主上ヶ方面の稜線に向けてつきあげている尾根は八町尾根と坊主尾根の二つしかない。坊主尾根は、現在でも登攀具が必要な場所で古道とは考えにくく、八町尾根が中尾と断定してもいいだろう。
もう一つは野呂介石の「䑓山踄歴略記」で、木本祭の7年後の寛政元年に坊主上ヶ峠越えを上った記録が残っている。坊主上ヶ峠越えは、坊主上ヶ峠を越えて坊主上ヶに至る道になる。この道については、坊主上ヶ峠の場所がわかればおのずとルートがわかるだろう。
塩崎善一氏は河原小屋谷左股の源頭のコルを坊主上ヶ峠と考えている。この考えでいくと野呂介石が峠直下の地池谷から堂倉谷を下らずに、わざわざ稜線づいたいに日本の鼻まで歩きここから堂倉谷に下りベースキャンプを設けたことになり、ルートどりに違和感がある。また、野呂介石は食料が尽きて雨の中船津に向けて下山しているが、雨の中を逃げ場の無い河原小屋谷左俣の谷筋を下ったとは考えにくい。
「檜ヶ谷より直に上る 俗に此道を坊主上ヶと いふ登坂至 凡2里余 一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱 此所より四方を臨むに熊野海涯は絶て見へす」と「䑓山踄歴略記」には記されている。
この中の日本の鼻が嘉茂助谷の頭であるという事は一致している。そこでひっかかってくるのは「一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱」という箇所になる。歩くまでは感じなかったのだが、この一つの山頂とは苔辻の事のように思う。この道が坊主上ヶに至る道である事を考えると二万五千地図に記されている破線道に沿って道はつけられていたと考えるのが自然だ。標高を上げる山頂を通らずに道を着けるのは古道ではよくあるし、古道を使い道がつけられることもしばしばある。苔辻を坊主上ヶ峠と考えると、右の方に登り日本の鼻に着くという記述やそれ以外の記述とも合致する。
当初「檜ヶ谷中尾越え」と「坊主上ヶ峠越え」は別の道と思いながら今回の山行に臨んだが、苔辻を坊主上ヶ峠と考えると二つの呼び名は同じ道を表していることになる。つまり、坊主上ヶの古道は、八町尾根を上ったのち破線道で坊主上ヶ峠に向かう。ここから破線道を使いながら堂倉谷の坊主上ヶに下った道と考えられるのではないだろうか。
この当時の絵図を見ると「 堂倉谷之内 坊主上ヶ 大杉村より凡12里半余上 」という説明書きとともに現在のアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)の場所に「坊主上ヶ」という地名が画かれている。これは、神宮文庫の絵図3種類に同様の記述がなされているので間違いない。