【台高】坊主上ヶにつづく道
フォーラムルール
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【 日 付 】
【 山 域 】
【メンバー】
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【台高】坊主上ヶにつづく道
【日 付】2012年11月3日(土)・4日(日)
【山 域】台高
【コース】(1日目)檜ヶ谷駐車場7:18---11:26坊主尾根コル---14:24河原小屋谷左股源頭コル---15:49堂倉避難小屋
(2日目)堂倉避難小屋7:57---9:40苔辻---10:22嘉茂助谷の頭---13:50檜ヶ谷駐車場
【メンバー】単独
寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回式年遷宮の用材を伐り出す御杣山に大杉山がなり、大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷を含む15か所で伐採がおこなわれた。この当時の絵図を見ると「 堂倉谷之内 坊主上ヶ 大杉村より凡12里半余上 」という説明書きとともに現在のアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)の場所に「坊主上ヶ」という地名が画かれている。これは、神宮文庫の絵図3種類に同様の記述がなされているので間違いない。坊主上ヶでは、天明2年(1782年)8月に神宮御造営用材伐採の木本祭が執行された。木本祭は、伐採を始める際に行われる儀式で、御神木の南側に且神饌幄舎、修祓所、装束着換所、潔斎場等の付属施設を有する大規模な神事になる。つまり、木本祭を施行するために神官を連れてきた場所が坊主上ヶとなる。
木本祭を行うのに大杉谷の厳しい道を避け、紀北町船津よりアザミ谷まで新墾の道を切り開いたとされている。この道がどこにあったかについては議論が分かれている。今回はその中の推定ルートのひとつ塩崎善一氏のルートを上りzippさんのルートを下ることにした。
船津より往古川ぞいの町道大台線を進むと久瀬谷林道を少しすぎた所で通行止めのバリケードが置かれている。この先で山崩れがおきたとのことで工事車両のみが入っていく。しかたがないので、ここに駐車しヘアピンカーブ地点まで歩いたが何の問題もなかった。
(1日目)
町道からゴミが散乱する堰堤の斜面を真砂谷出合に向けて下りる。対岸への徒渉は意外に水深があるので長靴を脱いでわたる。真砂谷は左岸の木場道跡の獣道をひろいながら進む。谷が直角に曲がった地点で対岸に渡り再度谷が北に曲がると奥に滝が見える。滝に向けて坊主尾根から尾根が下りてきている。尾根下には窯跡があるので、窯跡の谷を少し上流に向けて歩き右側のガレ谷を上っていくと小尾根に着く。ここまでマーキングは一切無かったのだが、この当たりから目につくようになる。
小尾根の急斜面を上り尾根に乗ると真正面に八町滝が見える。思った以上に稜線まじかの高い所から流れていて驚く。尾根は平らになっていて歩きやすくマーキングもある。大杉谷の堂倉方面への杉や桧の稚苗運搬に使われていた杣道だったようだ。標高700mには桧の古木があり、ここからルートは尾根の左を巻いてカレ谷に下りる。カレ谷にも立派な桧の古木が残さており古道の目印として残されたようだ。カレ谷を上ると坊主尾根の850mコルに着く。マーキングはここまでで、坊主尾根に上るためにつけられたもののようだ。ゆるやかな反対側の谷に下ると岩井谷の支流の河原小屋谷だ、ここにも取りつきの目印の古木が朽ち果てて残っている。取りつき地点は、河原小屋と呼ばれゆるやかな斜面が広がり明るい日差しがさしこんでいる。
[attachment=4]IMG_6227.jpg[/attachment]
河原小屋谷を上って行く。ゆるやかな斜面は河原小屋だけで、両岸がせばまり暗い谷にかわっていく。両側が切り立ってゴルジュになってところもあり、沢靴か長靴がないと苦労するだろう。長靴でも2度脱いで徒渉する場所があった。しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
[attachment=3]IMG_6252.jpg[/attachment]
稜線の反対側の地池谷左岸の植林の境目を下って行く。放置された植林の中は立ち枯れたスズタケだらけだった。すぐに地池谷林道に下り歩き出すが、復旧することは無いと思わせる程の荒れようで、コンクリート橋だけがきれいに残っている。合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。この工事は堂倉避難小屋から桃ノ木小屋縦道までの区間で行われており、林道を大杉谷登山道として使うためのものだった。工事車両が三重ナンバーってことは、山抜けはしていてもここまでは来れるようだ。
これまた長い林道を歩き堂倉避難小屋に着く。水場は粟谷小屋前の延命水が使える。この日は、私含め6人の泊まりだったのでゆったりとすごせた。この晩は、強風が吹いていたのでコンクリートづくりの新しい小屋で良かった。
今日たどってきたルートは上手に山の弱点をついたもので杣人の知恵を感じることができた。古木の目印といい古くから使われていたようだが、現在は河原小屋谷まで渓流釣りの人たちが入るぐらいだろう。
(2日目)
朝食をすませ堂倉滝までピストン。目的はアザミ谷左岸にある南面の緩傾地。木本祭は南面の緩傾地で行うことに決まっておりアザミ谷には該当する場所は一箇所しかない。登山道を下って行くと自生の桧が何本か残った場所があるのでトラバースしようとすると、目的地は植林になっている。これではしょうがないのでパス。堂倉滝を見て小屋に戻った。
[attachment=2]IMG_6319.jpg[/attachment]
小屋を出発し堂倉橋近くの堂倉の若水で水をくむ。ここの水はおいしい。堂倉の製品事業所の小屋をすぎて二万五千地図に記載されている破線道に入る。取りつきには小屋跡らしき石積みの平坦地がある。破線道の谷のみ自然林が残されており紅葉がきれいだ。しばらくすると植林に吸収され、上っていくと稜線が明るくなってきた。到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
雲一つない青空に船津の町と熊野灘が広がっている。陽に照らされて広がる苔のじゅうたんがふかふかして暖かい。一番のとっておきのプレゼントをもらった気がする。この世界で飲むコーヒーは最高だ。ここには一升瓶なども残っているので山を上ってきた後の休憩地として昔から使われていたのだろう。
[attachment=1]IMG_6361.jpg[/attachment]
稜線を上りすぐに与八郎高(嘉茂助谷の頭南峰)。ここは嘉茂助谷の頭よりも展望が良く。大台から熊野灘までさえぎるもののない絶景地だ。ここから見る分には坊主尾根も下れそうな緩やかな尾根に思える。
嘉茂助谷の頭に寄りまっすぐに八町尾根にむかって下って行く。八町尾根は真砂谷と小木森谷にはさまれた檜ヶ谷からつきあげる一番太い尾根になる。尾根を下ると溝道があらわれ出し、多くの人たちが歩いてきた道ということがわかる。その後、境界標石もあらわれて尾根の下部まで延々と続く。下山は溝道と境界標石に青いビニールテープの三点セットがあるので迷うことは無い。この道はよく考えられており、急な斜面ではつづら折れに道がつけられているし古道の目印の桧の古木も残っている。また、八町滝と同じ標高の岩稜帯も通過を感じさせないぐらい上手に道がつけられている。
快適に下り沢音が近づいてきた。青のビニールテープはいつの間にか無くなり、境界標識も尾根筋から消える。尾根の末端は下りれないので、右側の真砂谷出合に向けて下りる地点を探す。すると桧の古木があった。これを下降地点の目印と考えて下って行く。最初は急な斜面だったが、すぐに小尾根があらわれ、これに沿って下って行くと赤外線の動物感知器が設置されている出合付近の左岸道についた。あとは林道を下り駐車地に向かうのみだ。
[attachment=0]IMG_6365.jpg[/attachment]
坊主上ヶにつづく道の信憑性のある記録は二つある。一つは菊屋末偶の著作「寛政遷宮物語」にある檜ヶ谷中尾越えという記述で、檜ヶ谷より中尾を越えて坊主上ヶに至る道という意味になる。檜ヶ谷より坊主上ヶ方面の稜線に向けてつきあげている尾根は八町尾根と坊主尾根の二つしかない。坊主尾根は、現在でも登攀具が必要な場所で古道とは考えにくく、八町尾根が中尾と断定してもいいだろう。
もう一つは野呂介石の「䑓山踄歴略記」で、木本祭の7年後の寛政元年に坊主上ヶ峠越えを上った記録が残っている。坊主上ヶ峠越えは、坊主上ヶ峠を越えて坊主上ヶに至る道になる。この道については、坊主上ヶ峠の場所がわかればおのずとルートがわかるだろう。
塩崎善一氏は河原小屋谷左股の源頭のコルを坊主上ヶ峠と考えている。この考えでいくと野呂介石が峠直下の地池谷から堂倉谷を下らずに、わざわざ稜線づいたいに日本の鼻まで歩きここから堂倉谷に下りベースキャンプを設けたことになり、ルートどりに違和感がある。また、野呂介石は食料が尽きて雨の中船津に向けて下山しているが、雨の中を逃げ場の無い河原小屋谷左俣の谷筋を下ったとは考えにくい。
「檜ヶ谷より直に上る 俗に此道を坊主上ヶと いふ登坂至 凡2里余 一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱 此所より四方を臨むに熊野海涯は絶て見へす」と「䑓山踄歴略記」には記されている。
この中の日本の鼻が嘉茂助谷の頭であるという事は一致している。そこでひっかかってくるのは「一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱」という箇所になる。歩くまでは感じなかったのだが、この一つの山頂とは苔辻の事のように思う。この道が坊主上ヶに至る道である事を考えると二万五千地図に記されている破線道に沿って道はつけられていたと考えるのが自然だ。標高を上げる山頂を通らずに道を着けるのは古道ではよくあるし、古道を使い道がつけられることもしばしばある。苔辻を坊主上ヶ峠と考えると、右の方に登り日本の鼻に着くという記述やそれ以外の記述とも合致する。
当初「檜ヶ谷中尾越え」と「坊主上ヶ峠越え」は別の道と思いながら今回の山行に臨んだが、苔辻を坊主上ヶ峠と考えると二つの呼び名は同じ道を表していることになる。つまり、坊主上ヶの古道は、八町尾根を上ったのち破線道で坊主上ヶ峠に向かう。ここから破線道を使いながら堂倉谷の坊主上ヶに下った道と考えられるのではないだろうか。
【山 域】台高
【コース】(1日目)檜ヶ谷駐車場7:18---11:26坊主尾根コル---14:24河原小屋谷左股源頭コル---15:49堂倉避難小屋
(2日目)堂倉避難小屋7:57---9:40苔辻---10:22嘉茂助谷の頭---13:50檜ヶ谷駐車場
【メンバー】単独
寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回式年遷宮の用材を伐り出す御杣山に大杉山がなり、大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷を含む15か所で伐採がおこなわれた。この当時の絵図を見ると「 堂倉谷之内 坊主上ヶ 大杉村より凡12里半余上 」という説明書きとともに現在のアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)の場所に「坊主上ヶ」という地名が画かれている。これは、神宮文庫の絵図3種類に同様の記述がなされているので間違いない。坊主上ヶでは、天明2年(1782年)8月に神宮御造営用材伐採の木本祭が執行された。木本祭は、伐採を始める際に行われる儀式で、御神木の南側に且神饌幄舎、修祓所、装束着換所、潔斎場等の付属施設を有する大規模な神事になる。つまり、木本祭を施行するために神官を連れてきた場所が坊主上ヶとなる。
木本祭を行うのに大杉谷の厳しい道を避け、紀北町船津よりアザミ谷まで新墾の道を切り開いたとされている。この道がどこにあったかについては議論が分かれている。今回はその中の推定ルートのひとつ塩崎善一氏のルートを上りzippさんのルートを下ることにした。
船津より往古川ぞいの町道大台線を進むと久瀬谷林道を少しすぎた所で通行止めのバリケードが置かれている。この先で山崩れがおきたとのことで工事車両のみが入っていく。しかたがないので、ここに駐車しヘアピンカーブ地点まで歩いたが何の問題もなかった。
(1日目)
町道からゴミが散乱する堰堤の斜面を真砂谷出合に向けて下りる。対岸への徒渉は意外に水深があるので長靴を脱いでわたる。真砂谷は左岸の木場道跡の獣道をひろいながら進む。谷が直角に曲がった地点で対岸に渡り再度谷が北に曲がると奥に滝が見える。滝に向けて坊主尾根から尾根が下りてきている。尾根下には窯跡があるので、窯跡の谷を少し上流に向けて歩き右側のガレ谷を上っていくと小尾根に着く。ここまでマーキングは一切無かったのだが、この当たりから目につくようになる。
小尾根の急斜面を上り尾根に乗ると真正面に八町滝が見える。思った以上に稜線まじかの高い所から流れていて驚く。尾根は平らになっていて歩きやすくマーキングもある。大杉谷の堂倉方面への杉や桧の稚苗運搬に使われていた杣道だったようだ。標高700mには桧の古木があり、ここからルートは尾根の左を巻いてカレ谷に下りる。カレ谷にも立派な桧の古木が残さており古道の目印として残されたようだ。カレ谷を上ると坊主尾根の850mコルに着く。マーキングはここまでで、坊主尾根に上るためにつけられたもののようだ。ゆるやかな反対側の谷に下ると岩井谷の支流の河原小屋谷だ、ここにも取りつきの目印の古木が朽ち果てて残っている。取りつき地点は、河原小屋と呼ばれゆるやかな斜面が広がり明るい日差しがさしこんでいる。
[attachment=4]IMG_6227.jpg[/attachment]
河原小屋谷を上って行く。ゆるやかな斜面は河原小屋だけで、両岸がせばまり暗い谷にかわっていく。両側が切り立ってゴルジュになってところもあり、沢靴か長靴がないと苦労するだろう。長靴でも2度脱いで徒渉する場所があった。しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
[attachment=3]IMG_6252.jpg[/attachment]
稜線の反対側の地池谷左岸の植林の境目を下って行く。放置された植林の中は立ち枯れたスズタケだらけだった。すぐに地池谷林道に下り歩き出すが、復旧することは無いと思わせる程の荒れようで、コンクリート橋だけがきれいに残っている。合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。この工事は堂倉避難小屋から桃ノ木小屋縦道までの区間で行われており、林道を大杉谷登山道として使うためのものだった。工事車両が三重ナンバーってことは、山抜けはしていてもここまでは来れるようだ。
これまた長い林道を歩き堂倉避難小屋に着く。水場は粟谷小屋前の延命水が使える。この日は、私含め6人の泊まりだったのでゆったりとすごせた。この晩は、強風が吹いていたのでコンクリートづくりの新しい小屋で良かった。
今日たどってきたルートは上手に山の弱点をついたもので杣人の知恵を感じることができた。古木の目印といい古くから使われていたようだが、現在は河原小屋谷まで渓流釣りの人たちが入るぐらいだろう。
(2日目)
朝食をすませ堂倉滝までピストン。目的はアザミ谷左岸にある南面の緩傾地。木本祭は南面の緩傾地で行うことに決まっておりアザミ谷には該当する場所は一箇所しかない。登山道を下って行くと自生の桧が何本か残った場所があるのでトラバースしようとすると、目的地は植林になっている。これではしょうがないのでパス。堂倉滝を見て小屋に戻った。
[attachment=2]IMG_6319.jpg[/attachment]
小屋を出発し堂倉橋近くの堂倉の若水で水をくむ。ここの水はおいしい。堂倉の製品事業所の小屋をすぎて二万五千地図に記載されている破線道に入る。取りつきには小屋跡らしき石積みの平坦地がある。破線道の谷のみ自然林が残されており紅葉がきれいだ。しばらくすると植林に吸収され、上っていくと稜線が明るくなってきた。到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
雲一つない青空に船津の町と熊野灘が広がっている。陽に照らされて広がる苔のじゅうたんがふかふかして暖かい。一番のとっておきのプレゼントをもらった気がする。この世界で飲むコーヒーは最高だ。ここには一升瓶なども残っているので山を上ってきた後の休憩地として昔から使われていたのだろう。
[attachment=1]IMG_6361.jpg[/attachment]
稜線を上りすぐに与八郎高(嘉茂助谷の頭南峰)。ここは嘉茂助谷の頭よりも展望が良く。大台から熊野灘までさえぎるもののない絶景地だ。ここから見る分には坊主尾根も下れそうな緩やかな尾根に思える。
嘉茂助谷の頭に寄りまっすぐに八町尾根にむかって下って行く。八町尾根は真砂谷と小木森谷にはさまれた檜ヶ谷からつきあげる一番太い尾根になる。尾根を下ると溝道があらわれ出し、多くの人たちが歩いてきた道ということがわかる。その後、境界標石もあらわれて尾根の下部まで延々と続く。下山は溝道と境界標石に青いビニールテープの三点セットがあるので迷うことは無い。この道はよく考えられており、急な斜面ではつづら折れに道がつけられているし古道の目印の桧の古木も残っている。また、八町滝と同じ標高の岩稜帯も通過を感じさせないぐらい上手に道がつけられている。
快適に下り沢音が近づいてきた。青のビニールテープはいつの間にか無くなり、境界標識も尾根筋から消える。尾根の末端は下りれないので、右側の真砂谷出合に向けて下りる地点を探す。すると桧の古木があった。これを下降地点の目印と考えて下って行く。最初は急な斜面だったが、すぐに小尾根があらわれ、これに沿って下って行くと赤外線の動物感知器が設置されている出合付近の左岸道についた。あとは林道を下り駐車地に向かうのみだ。
[attachment=0]IMG_6365.jpg[/attachment]
坊主上ヶにつづく道の信憑性のある記録は二つある。一つは菊屋末偶の著作「寛政遷宮物語」にある檜ヶ谷中尾越えという記述で、檜ヶ谷より中尾を越えて坊主上ヶに至る道という意味になる。檜ヶ谷より坊主上ヶ方面の稜線に向けてつきあげている尾根は八町尾根と坊主尾根の二つしかない。坊主尾根は、現在でも登攀具が必要な場所で古道とは考えにくく、八町尾根が中尾と断定してもいいだろう。
もう一つは野呂介石の「䑓山踄歴略記」で、木本祭の7年後の寛政元年に坊主上ヶ峠越えを上った記録が残っている。坊主上ヶ峠越えは、坊主上ヶ峠を越えて坊主上ヶに至る道になる。この道については、坊主上ヶ峠の場所がわかればおのずとルートがわかるだろう。
塩崎善一氏は河原小屋谷左股の源頭のコルを坊主上ヶ峠と考えている。この考えでいくと野呂介石が峠直下の地池谷から堂倉谷を下らずに、わざわざ稜線づいたいに日本の鼻まで歩きここから堂倉谷に下りベースキャンプを設けたことになり、ルートどりに違和感がある。また、野呂介石は食料が尽きて雨の中船津に向けて下山しているが、雨の中を逃げ場の無い河原小屋谷左俣の谷筋を下ったとは考えにくい。
「檜ヶ谷より直に上る 俗に此道を坊主上ヶと いふ登坂至 凡2里余 一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱 此所より四方を臨むに熊野海涯は絶て見へす」と「䑓山踄歴略記」には記されている。
この中の日本の鼻が嘉茂助谷の頭であるという事は一致している。そこでひっかかってくるのは「一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱」という箇所になる。歩くまでは感じなかったのだが、この一つの山頂とは苔辻の事のように思う。この道が坊主上ヶに至る道である事を考えると二万五千地図に記されている破線道に沿って道はつけられていたと考えるのが自然だ。標高を上げる山頂を通らずに道を着けるのは古道ではよくあるし、古道を使い道がつけられることもしばしばある。苔辻を坊主上ヶ峠と考えると、右の方に登り日本の鼻に着くという記述やそれ以外の記述とも合致する。
当初「檜ヶ谷中尾越え」と「坊主上ヶ峠越え」は別の道と思いながら今回の山行に臨んだが、苔辻を坊主上ヶ峠と考えると二つの呼び名は同じ道を表していることになる。つまり、坊主上ヶの古道は、八町尾根を上ったのち破線道で坊主上ヶ峠に向かう。ここから破線道を使いながら堂倉谷の坊主上ヶに下った道と考えられるのではないだろうか。
最後に編集したユーザー わりばし [ 2012年11月09日(金) 14:44 ], 累計 1 回
Re: 【台高】坊主上ヶにつづく道
わりばしさん、こんばんは。
おお、行かれましたか!先を越されてしまいました。
河原小屋谷ルート、確認だけでもしておかないとと思いつつ、のびのびになってます。
「坊主あげ」ルートは、樋(檜)ヶ谷中尾=八町尾根ルートであることは、ほぼ間違いないと思います。
また後日、ちゃんとレスさせてもらいますね(^^)。
zipp
Re: 【台高】坊主上ヶにつづく道
おはようございます、zippさん。
おお、行かれましたか!先を越されてしまいました。
河原小屋谷ルート、確認だけでもしておかないとと思いつつ、のびのびになってます。
河原小屋ルートは目印の古木がポイントに配置された古道でした。
ただ野呂介石のたどったルートとは違うと思いました。
たまにはいつもの恩返しをしないと
「坊主あげ」ルートは、樋(檜)ヶ谷中尾=八町尾根ルートであることは、ほぼ間違いないと思います。
また後日、ちゃんとレスさせてもらいますね(^^)。
楽しみにしています。
おお、行かれましたか!先を越されてしまいました。
河原小屋谷ルート、確認だけでもしておかないとと思いつつ、のびのびになってます。
河原小屋ルートは目印の古木がポイントに配置された古道でした。
ただ野呂介石のたどったルートとは違うと思いました。
たまにはいつもの恩返しをしないと
「坊主あげ」ルートは、樋(檜)ヶ谷中尾=八町尾根ルートであることは、ほぼ間違いないと思います。
また後日、ちゃんとレスさせてもらいますね(^^)。
楽しみにしています。
Re: 【台高】坊主上ヶにつづく道
わりばしさん、こんにちは
最近、台高がお気に入りのようですね。今回も福岡野のようにシリーズになりそうですか?
(1日目)
町道からゴミが散乱する堰堤の斜面を真砂谷出合に向けて下りる。対岸への徒渉は意外に水深があるので長靴を脱いでわたる。真砂谷は左岸の木場道跡の獣道をひろいながら進む。谷が直角に曲がった地点で対岸に渡り再度谷が北に曲がると奥に滝が見える。滝に向けて坊主尾根から尾根が下りてきている。尾根下には窯跡があるので、窯跡の谷を少し上流に向けて歩き右側のガレ谷を上っていくと小尾根に着く。ここまでマーキングは一切無かったのだが、この当たりから目につくようになる。
取り付きはこれから山に登るとは思われないような大変な場所からですね。
長靴は檜谷で初めて使ってから気に入っています。1000円の安物ですが・・・
河原小屋谷を上って行く。ゆるやかな斜面は河原小屋だけで、両岸がせばまり暗い谷にかわっていく。両側が切り立ってゴルジュになってところもあり、沢靴か長靴がないと苦労するだろう。長靴でも2度脱いで徒渉する場所があった。しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
これは完全に沢登りのコースではないですか?
稜線の反対側の地池谷左岸の植林の境目を下って行く。放置された植林の中は立ち枯れたスズタケだらけだった。すぐに地池谷林道に下り歩き出すが、復旧することは無いと思わせる程の荒れようで、コンクリート橋だけがきれいに残っている。合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。この工事は堂倉避難小屋から桃ノ木小屋縦道までの区間で行われており、林道を大杉谷登山道として使うためのものだった。
大杉谷コースは15年くらい前に歩いたことがありますが、崩壊してからまだ開通していないのですね
これまた長い林道を歩き堂倉避難小屋に着く。水場は粟谷小屋前の延命水が使える。この日は、私含め6人の泊まりだったのでゆったりとすごせた。この晩は、強風が吹いていたのでコンクリートづくりの新しい小屋で良かった。
その時に粟谷小屋に泊まりましたがお風呂付で快適でした。
今回は最初から小屋泊まりの予定だったのですね
(2日目)
朝食をすませ堂倉滝までピストン。目的はアザミ谷左岸にある南面の緩傾地。木本祭は南面の緩傾地で行うことに決まっておりアザミ谷には該当する場所は一箇所しかない。登山道を下って行くと自生の桧が何本か残った場所があるのでトラバースしようとすると、目的地は植林になっている。これではしょうがないのでパス。堂倉滝を見て小屋に戻った。
木本祭の跡は何があったのでしょうか?
小屋を出発し堂倉橋近くの堂倉の若水で水をくむ。ここの水はおいしい。堂倉の製品事業所の小屋をすぎて二万五千地図に記載されている破線道に入る。取りつきには小屋跡らしき石積みの平坦地がある。破線道の谷のみ自然林が残されており紅葉がきれいだ。しばらくすると植林に吸収され、上っていくと稜線が明るくなってきた。到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
それにしてもこの辺りは植林が多いですね
雲一つない青空に船津の町と熊野灘が広がっている。陽に照らされて広がる苔のじゅうたんがふかふかして暖かい。一番のとっておきのプレゼントをもらった気がする。この世界で飲むコーヒーは最高だ。ここには一升瓶なども残っているので山を上ってきた後の休憩地として昔から使われていたのだろう。
鹿の楽園と言ったところでしょうか?一面が苔むしていますね
嘉茂助谷の頭に寄りまっすぐに八町尾根にむかって下って行く。八町尾根は真砂谷と小木森谷にはさまれた檜ヶ谷からつきあげる一番太い尾根になる。尾根を下ると溝道があらわれ出し、多くの人たちが歩いてきた道ということがわかる。その後、境界標石もあらわれて尾根の下部まで延々と続く。下山は溝道と境界標石に青いビニールテープの三点セットがあるので迷うことは無い。この道はよく考えられており、急な斜面ではつづら折れに道がつけられているし古道の目印の桧の古木も残っている。また、八町滝と同じ標高の岩稜帯も通過を感じさせないぐらい上手に道がつけられている。
鈴鹿も一部はこんな場所が残っていますが規模が違いますね。
これは探索の甲斐がありそうです
坊主上ヶにつづく道の信憑性のある記録は二つある。一つは菊屋末偶の著作「寛政遷宮物語」にある檜ヶ谷中尾越えという記述で、檜ヶ谷より中尾を越えて坊主上ヶに至る道という意味になる。檜ヶ谷より坊主上ヶ方面の稜線に向けてつきあげている尾根は八町尾根と坊主尾根の二つしかない。坊主尾根は、現在でも登攀具が必要な場所で古道とは考えにくく、八町尾根が中尾と断定してもいいだろう。
もう一つは野呂介石の「䑓山踄歴略記」で、木本祭の7年後の寛政元年に坊主上ヶ峠越えを上った記録が残っている。坊主上ヶ峠越えは、坊主上ヶ峠を越えて坊主上ヶに至る道になる。この道については、坊主上ヶ峠の場所がわかればおのずとルートがわかるだろう。
坊主上ヶ峠についてはいろんな記録が残っているのですね。
今はわりばしさんのように史実に基づいて杣道や隋道を探索する人くらいしか読まれないのかもしれませんね
宮指路
最近、台高がお気に入りのようですね。今回も福岡野のようにシリーズになりそうですか?
(1日目)
町道からゴミが散乱する堰堤の斜面を真砂谷出合に向けて下りる。対岸への徒渉は意外に水深があるので長靴を脱いでわたる。真砂谷は左岸の木場道跡の獣道をひろいながら進む。谷が直角に曲がった地点で対岸に渡り再度谷が北に曲がると奥に滝が見える。滝に向けて坊主尾根から尾根が下りてきている。尾根下には窯跡があるので、窯跡の谷を少し上流に向けて歩き右側のガレ谷を上っていくと小尾根に着く。ここまでマーキングは一切無かったのだが、この当たりから目につくようになる。
取り付きはこれから山に登るとは思われないような大変な場所からですね。
長靴は檜谷で初めて使ってから気に入っています。1000円の安物ですが・・・
河原小屋谷を上って行く。ゆるやかな斜面は河原小屋だけで、両岸がせばまり暗い谷にかわっていく。両側が切り立ってゴルジュになってところもあり、沢靴か長靴がないと苦労するだろう。長靴でも2度脱いで徒渉する場所があった。しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
これは完全に沢登りのコースではないですか?
稜線の反対側の地池谷左岸の植林の境目を下って行く。放置された植林の中は立ち枯れたスズタケだらけだった。すぐに地池谷林道に下り歩き出すが、復旧することは無いと思わせる程の荒れようで、コンクリート橋だけがきれいに残っている。合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。この工事は堂倉避難小屋から桃ノ木小屋縦道までの区間で行われており、林道を大杉谷登山道として使うためのものだった。
大杉谷コースは15年くらい前に歩いたことがありますが、崩壊してからまだ開通していないのですね
これまた長い林道を歩き堂倉避難小屋に着く。水場は粟谷小屋前の延命水が使える。この日は、私含め6人の泊まりだったのでゆったりとすごせた。この晩は、強風が吹いていたのでコンクリートづくりの新しい小屋で良かった。
その時に粟谷小屋に泊まりましたがお風呂付で快適でした。
今回は最初から小屋泊まりの予定だったのですね
(2日目)
朝食をすませ堂倉滝までピストン。目的はアザミ谷左岸にある南面の緩傾地。木本祭は南面の緩傾地で行うことに決まっておりアザミ谷には該当する場所は一箇所しかない。登山道を下って行くと自生の桧が何本か残った場所があるのでトラバースしようとすると、目的地は植林になっている。これではしょうがないのでパス。堂倉滝を見て小屋に戻った。
木本祭の跡は何があったのでしょうか?
小屋を出発し堂倉橋近くの堂倉の若水で水をくむ。ここの水はおいしい。堂倉の製品事業所の小屋をすぎて二万五千地図に記載されている破線道に入る。取りつきには小屋跡らしき石積みの平坦地がある。破線道の谷のみ自然林が残されており紅葉がきれいだ。しばらくすると植林に吸収され、上っていくと稜線が明るくなってきた。到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
それにしてもこの辺りは植林が多いですね
雲一つない青空に船津の町と熊野灘が広がっている。陽に照らされて広がる苔のじゅうたんがふかふかして暖かい。一番のとっておきのプレゼントをもらった気がする。この世界で飲むコーヒーは最高だ。ここには一升瓶なども残っているので山を上ってきた後の休憩地として昔から使われていたのだろう。
鹿の楽園と言ったところでしょうか?一面が苔むしていますね
嘉茂助谷の頭に寄りまっすぐに八町尾根にむかって下って行く。八町尾根は真砂谷と小木森谷にはさまれた檜ヶ谷からつきあげる一番太い尾根になる。尾根を下ると溝道があらわれ出し、多くの人たちが歩いてきた道ということがわかる。その後、境界標石もあらわれて尾根の下部まで延々と続く。下山は溝道と境界標石に青いビニールテープの三点セットがあるので迷うことは無い。この道はよく考えられており、急な斜面ではつづら折れに道がつけられているし古道の目印の桧の古木も残っている。また、八町滝と同じ標高の岩稜帯も通過を感じさせないぐらい上手に道がつけられている。
鈴鹿も一部はこんな場所が残っていますが規模が違いますね。
これは探索の甲斐がありそうです
坊主上ヶにつづく道の信憑性のある記録は二つある。一つは菊屋末偶の著作「寛政遷宮物語」にある檜ヶ谷中尾越えという記述で、檜ヶ谷より中尾を越えて坊主上ヶに至る道という意味になる。檜ヶ谷より坊主上ヶ方面の稜線に向けてつきあげている尾根は八町尾根と坊主尾根の二つしかない。坊主尾根は、現在でも登攀具が必要な場所で古道とは考えにくく、八町尾根が中尾と断定してもいいだろう。
もう一つは野呂介石の「䑓山踄歴略記」で、木本祭の7年後の寛政元年に坊主上ヶ峠越えを上った記録が残っている。坊主上ヶ峠越えは、坊主上ヶ峠を越えて坊主上ヶに至る道になる。この道については、坊主上ヶ峠の場所がわかればおのずとルートがわかるだろう。
坊主上ヶ峠についてはいろんな記録が残っているのですね。
今はわりばしさんのように史実に基づいて杣道や隋道を探索する人くらいしか読まれないのかもしれませんね
宮指路
Re: 【台高】坊主上ヶにつづく道
おはようございます、宮指路さん。
最近、台高がお気に入りのようですね。今回も福岡野のようにシリーズになりそうですか?
台高も楽しいですよ。
坊主上ヶはだいたいわかったのでこれで終わりになると思います。
(1日目)
町道からゴミが散乱する堰堤の斜面を真砂谷出合に向けて下りる。対岸への徒渉は意外に水深があるので長靴を脱いでわたる。真砂谷は左岸の木場道跡の獣道をひろいながら進む。谷が直角に曲がった地点で対岸に渡り再度谷が北に曲がると奥に滝が見える。滝に向けて坊主尾根から尾根が下りてきている。尾根下には窯跡があるので、窯跡の谷を少し上流に向けて歩き右側のガレ谷を上っていくと小尾根に着く。ここまでマーキングは一切無かったのだが、この当たりから目につくようになる。
取り付きはこれから山に登るとは思われないような大変な場所からですね。
長靴は檜谷で初めて使ってから気に入っています。1000円の安物ですが・・・
マーキングも何も無いので、最初に行った時には取り付き点を探すのに苦労しました。
台高らしいと言えば、そうなんですが・・・
私も同じく1000円長靴ですよ。
河原小屋谷を上って行く。ゆるやかな斜面は河原小屋だけで、両岸がせばまり暗い谷にかわっていく。両側が切り立ってゴルジュになってところもあり、沢靴か長靴がないと苦労するだろう。長靴でも2度脱いで徒渉する場所があった。しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
これは完全に沢登りのコースではないですか?
沢登りコースと言えばそうなんでしょうね。沢屋さんぐらいしか使わないでしょうから。
写真のような沢を延々と登ります。
稜線の反対側の地池谷左岸の植林の境目を下って行く。放置された植林の中は立ち枯れたスズタケだらけだった。すぐに地池谷林道に下り歩き出すが、復旧することは無いと思わせる程の荒れようで、コンクリート橋だけがきれいに残っている。合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。この工事は堂倉避難小屋から桃ノ木小屋縦道までの区間で行われており、林道を大杉谷登山道として使うためのものだった。
大杉谷コースは15年くらい前に歩いたことがありますが、崩壊してからまだ開通していないのですね
昔のコースを直す気は無いようです。
大台ケ原から堂倉避難小屋までと桃の木小屋から大杉までは登山道をつかって、その間の堂倉から桃の木縦道までは林道でつないで開通ということらしいです。
これまた長い林道を歩き堂倉避難小屋に着く。水場は粟谷小屋前の延命水が使える。この日は、私含め6人の泊まりだったのでゆったりとすごせた。この晩は、強風が吹いていたのでコンクリートづくりの新しい小屋で良かった。
その時に粟谷小屋に泊まりましたがお風呂付で快適でした。
今回は最初から小屋泊まりの予定だったのですね
荷物が重いのが嫌だったので粟谷小屋に電話したのですが、満室で断られました。
(2日目)
朝食をすませ堂倉滝までピストン。目的はアザミ谷左岸にある南面の緩傾地。木本祭は南面の緩傾地で行うことに決まっておりアザミ谷には該当する場所は一箇所しかない。登山道を下って行くと自生の桧が何本か残った場所があるのでトラバースしようとすると、目的地は植林になっている。これではしょうがないのでパス。堂倉滝を見て小屋に戻った。
木本祭の跡は何があったのでしょうか?
現場には行ってないですがなにせ200年以上前ですし、植林ですから期待薄でしょう。
小屋を出発し堂倉橋近くの堂倉の若水で水をくむ。ここの水はおいしい。堂倉の製品事業所の小屋をすぎて二万五千地図に記載されている破線道に入る。取りつきには小屋跡らしき石積みの平坦地がある。破線道の谷のみ自然林が残されており紅葉がきれいだ。しばらくすると植林に吸収され、上っていくと稜線が明るくなってきた。到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
それにしてもこの辺りは植林が多いですね
林道が縦横無尽に走っていましたからねえ。
雲一つない青空に船津の町と熊野灘が広がっている。陽に照らされて広がる苔のじゅうたんがふかふかして暖かい。一番のとっておきのプレゼントをもらった気がする。この世界で飲むコーヒーは最高だ。ここには一升瓶なども残っているので山を上ってきた後の休憩地として昔から使われていたのだろう。
鹿の楽園と言ったところでしょうか?一面が苔むしていますね
鹿がたくさん訪れる場所では無く、どこでも安心してふかふかのじゅうたんが味わえます。
嘉茂助谷の頭に寄りまっすぐに八町尾根にむかって下って行く。八町尾根は真砂谷と小木森谷にはさまれた檜ヶ谷からつきあげる一番太い尾根になる。尾根を下ると溝道があらわれ出し、多くの人たちが歩いてきた道ということがわかる。その後、境界標石もあらわれて尾根の下部まで延々と続く。下山は溝道と境界標石に青いビニールテープの三点セットがあるので迷うことは無い。この道はよく考えられており、急な斜面ではつづら折れに道がつけられているし古道の目印の桧の古木も残っている。また、八町滝と同じ標高の岩稜帯も通過を感じさせないぐらい上手に道がつけられている。
鈴鹿も一部はこんな場所が残っていますが規模が違いますね。
これは探索の甲斐がありそうです
台高は山が大きい分、すべてに道具立てが大きいです。
坊主上ヶにつづく道の信憑性のある記録は二つある。一つは菊屋末偶の著作「寛政遷宮物語」にある檜ヶ谷中尾越えという記述で、檜ヶ谷より中尾を越えて坊主上ヶに至る道という意味になる。檜ヶ谷より坊主上ヶ方面の稜線に向けてつきあげている尾根は八町尾根と坊主尾根の二つしかない。坊主尾根は、現在でも登攀具が必要な場所で古道とは考えにくく、八町尾根が中尾と断定してもいいだろう。
もう一つは野呂介石の「䑓山踄歴略記」で、木本祭の7年後の寛政元年に坊主上ヶ峠越えを上った記録が残っている。坊主上ヶ峠越えは、坊主上ヶ峠を越えて坊主上ヶに至る道になる。この道については、坊主上ヶ峠の場所がわかればおのずとルートがわかるだろう。
坊主上ヶ峠についてはいろんな記録が残っているのですね。
今はわりばしさんのように史実に基づいて杣道や隋道を探索する人くらいしか読まれないのかもしれませんね
来年式年遷宮ですからね。
とはいうものの確かにマニアックですが・・・・
坊主上ヶの時が三重県内の山を御杣山として使った最後です。
最近、台高がお気に入りのようですね。今回も福岡野のようにシリーズになりそうですか?
台高も楽しいですよ。
坊主上ヶはだいたいわかったのでこれで終わりになると思います。
(1日目)
町道からゴミが散乱する堰堤の斜面を真砂谷出合に向けて下りる。対岸への徒渉は意外に水深があるので長靴を脱いでわたる。真砂谷は左岸の木場道跡の獣道をひろいながら進む。谷が直角に曲がった地点で対岸に渡り再度谷が北に曲がると奥に滝が見える。滝に向けて坊主尾根から尾根が下りてきている。尾根下には窯跡があるので、窯跡の谷を少し上流に向けて歩き右側のガレ谷を上っていくと小尾根に着く。ここまでマーキングは一切無かったのだが、この当たりから目につくようになる。
取り付きはこれから山に登るとは思われないような大変な場所からですね。
長靴は檜谷で初めて使ってから気に入っています。1000円の安物ですが・・・
マーキングも何も無いので、最初に行った時には取り付き点を探すのに苦労しました。
台高らしいと言えば、そうなんですが・・・
私も同じく1000円長靴ですよ。
河原小屋谷を上って行く。ゆるやかな斜面は河原小屋だけで、両岸がせばまり暗い谷にかわっていく。両側が切り立ってゴルジュになってところもあり、沢靴か長靴がないと苦労するだろう。長靴でも2度脱いで徒渉する場所があった。しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
これは完全に沢登りのコースではないですか?
沢登りコースと言えばそうなんでしょうね。沢屋さんぐらいしか使わないでしょうから。
写真のような沢を延々と登ります。
稜線の反対側の地池谷左岸の植林の境目を下って行く。放置された植林の中は立ち枯れたスズタケだらけだった。すぐに地池谷林道に下り歩き出すが、復旧することは無いと思わせる程の荒れようで、コンクリート橋だけがきれいに残っている。合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。この工事は堂倉避難小屋から桃ノ木小屋縦道までの区間で行われており、林道を大杉谷登山道として使うためのものだった。
大杉谷コースは15年くらい前に歩いたことがありますが、崩壊してからまだ開通していないのですね
昔のコースを直す気は無いようです。
大台ケ原から堂倉避難小屋までと桃の木小屋から大杉までは登山道をつかって、その間の堂倉から桃の木縦道までは林道でつないで開通ということらしいです。
これまた長い林道を歩き堂倉避難小屋に着く。水場は粟谷小屋前の延命水が使える。この日は、私含め6人の泊まりだったのでゆったりとすごせた。この晩は、強風が吹いていたのでコンクリートづくりの新しい小屋で良かった。
その時に粟谷小屋に泊まりましたがお風呂付で快適でした。
今回は最初から小屋泊まりの予定だったのですね
荷物が重いのが嫌だったので粟谷小屋に電話したのですが、満室で断られました。
(2日目)
朝食をすませ堂倉滝までピストン。目的はアザミ谷左岸にある南面の緩傾地。木本祭は南面の緩傾地で行うことに決まっておりアザミ谷には該当する場所は一箇所しかない。登山道を下って行くと自生の桧が何本か残った場所があるのでトラバースしようとすると、目的地は植林になっている。これではしょうがないのでパス。堂倉滝を見て小屋に戻った。
木本祭の跡は何があったのでしょうか?
現場には行ってないですがなにせ200年以上前ですし、植林ですから期待薄でしょう。
小屋を出発し堂倉橋近くの堂倉の若水で水をくむ。ここの水はおいしい。堂倉の製品事業所の小屋をすぎて二万五千地図に記載されている破線道に入る。取りつきには小屋跡らしき石積みの平坦地がある。破線道の谷のみ自然林が残されており紅葉がきれいだ。しばらくすると植林に吸収され、上っていくと稜線が明るくなってきた。到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
それにしてもこの辺りは植林が多いですね
林道が縦横無尽に走っていましたからねえ。
雲一つない青空に船津の町と熊野灘が広がっている。陽に照らされて広がる苔のじゅうたんがふかふかして暖かい。一番のとっておきのプレゼントをもらった気がする。この世界で飲むコーヒーは最高だ。ここには一升瓶なども残っているので山を上ってきた後の休憩地として昔から使われていたのだろう。
鹿の楽園と言ったところでしょうか?一面が苔むしていますね
鹿がたくさん訪れる場所では無く、どこでも安心してふかふかのじゅうたんが味わえます。
嘉茂助谷の頭に寄りまっすぐに八町尾根にむかって下って行く。八町尾根は真砂谷と小木森谷にはさまれた檜ヶ谷からつきあげる一番太い尾根になる。尾根を下ると溝道があらわれ出し、多くの人たちが歩いてきた道ということがわかる。その後、境界標石もあらわれて尾根の下部まで延々と続く。下山は溝道と境界標石に青いビニールテープの三点セットがあるので迷うことは無い。この道はよく考えられており、急な斜面ではつづら折れに道がつけられているし古道の目印の桧の古木も残っている。また、八町滝と同じ標高の岩稜帯も通過を感じさせないぐらい上手に道がつけられている。
鈴鹿も一部はこんな場所が残っていますが規模が違いますね。
これは探索の甲斐がありそうです
台高は山が大きい分、すべてに道具立てが大きいです。
坊主上ヶにつづく道の信憑性のある記録は二つある。一つは菊屋末偶の著作「寛政遷宮物語」にある檜ヶ谷中尾越えという記述で、檜ヶ谷より中尾を越えて坊主上ヶに至る道という意味になる。檜ヶ谷より坊主上ヶ方面の稜線に向けてつきあげている尾根は八町尾根と坊主尾根の二つしかない。坊主尾根は、現在でも登攀具が必要な場所で古道とは考えにくく、八町尾根が中尾と断定してもいいだろう。
もう一つは野呂介石の「䑓山踄歴略記」で、木本祭の7年後の寛政元年に坊主上ヶ峠越えを上った記録が残っている。坊主上ヶ峠越えは、坊主上ヶ峠を越えて坊主上ヶに至る道になる。この道については、坊主上ヶ峠の場所がわかればおのずとルートがわかるだろう。
坊主上ヶ峠についてはいろんな記録が残っているのですね。
今はわりばしさんのように史実に基づいて杣道や隋道を探索する人くらいしか読まれないのかもしれませんね
来年式年遷宮ですからね。
とはいうものの確かにマニアックですが・・・・
坊主上ヶの時が三重県内の山を御杣山として使った最後です。
Re: 【台高】坊主上ヶにつづく道
あらためて、こんばんは。わりばしさん。
資料の散逸が甚だしく、確認しながら読んでます。
この当時の絵図を見ると「 堂倉谷之内 坊主上ヶ 大杉村より凡12里半余上 」という説明書きとともに現在のアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)の場所に「坊主上ヶ」という地名が画かれている。これは、神宮文庫の絵図3種類に同様の記述がなされているので間違いない。
「神宮文庫の絵図3種類」!?
そんなに絵図があるんですか。わたしは「大杉山之図」(神宮遷宮記第7巻 国書刊行会)しか知らないです。良ければ教えてください。
でっ、上記の図で見ると「坊主上」は、堂倉谷を挟んで左岸に「登り谷」、右岸に「坊主上」になります。
[attachment=0]大杉山之図_0002_800.jpg[/attachment]
つまり、木本祭を施行するために神官を連れてきた場所が坊主上ヶとなる。
わたしも神官をさして坊主でいいかと思います。
紀州の郡奉行が地元の人々を使って神官を木本祭現地へ行く道を作らせたんですからね。賦役させられた人々は、どう思ったでしょう?「坊主をあげる道を作らせられて叶わん!」とかね。現在の奥坊主・口坊主の名称は、その後に付いたいた名称かもしれません。
地図の「坊主上」=「木本祭」の場所という発想、わたしは思いつきませんでした。そういうこともあり得ますよね。
木本祭を行うのに大杉谷の厳しい道を避け、紀北町船津よりアザミ谷まで新墾の道を切り開いたとされている。この道がどこにあったかについては議論が分かれている。今回はその中の推定ルートのひとつ塩崎善一氏のルートを上りzippさんのルートを下ることにした。
これは、ちょっと違う。
紀州の官吏・野呂介石が大台ケ原に登ったルートは何処か?ということ。介石の『臺山?歴略記』記載されている「坊主揚げ」という地名からルートを想像したわけです。
だから、塩崎氏の予想ルートは、「寛政遷宮物語」を無視されているわけです。
介石が船津から大台ケ原に登ったのは、寛政の遷宮と同じ1789年。木本祭りは、遷宮に先行して5年内外で行われたのではないでしょうか。
ならば、紀州藩の野呂介石が、紀州の郡奉行が作らせた新墾の道である樋ヶ谷中尾を登ったと考えるのが道理です。
通常、山で生活の糧を得る人々は谷筋を道として使うことが多い。しかしこの樋ヶ谷中尾道は、人々の生活の道ではなく郡奉行が作らせた特異な道。故に尾根に道があっても不思議ではないと考えます。
真砂谷は左岸の木場道跡の獣道をひろいながら進む。
この道は使ったことありません。あるのは聞いているんだけど、聞いてから真砂谷に入ってないんです(^^;。
この谷は、出合の尾根を登ると右岸に立派な石積み道がついてました。炭焼き道なのか、窯跡を繋ぐようについてます。この道は、取りつきの尾根下の窯跡までつながっていたのでしょう。但し、方々で崩壊していて通れないです。
尾根下には窯跡があるので、窯跡の谷を少し上流に向けて歩き右側のガレ谷を上っていくと小尾根に着く。
ここは、窯跡の裏から尾根に道が続いてますよ。
大杉谷の堂倉方面への杉や桧の稚苗運搬に使われていた杣道だったようだ。
『大杉谷国有林の施業変遷史』にそんな道があったことが書かれていますが、この道であるという確証はまだないですね。
大台林道が出来上がる前のハナシなんでしょうが、何年頃なのかで変わってきますね。架線・トロッコはすでに発達したたろうし。案外寺谷山のあたりから岩井谷に入って、支流の小瀬谷を辿ったかもね。
標高700mには桧の古木があり、ここからルートは尾根の左を巻いてカレ谷に下りる。
「MOC」(海山アウトドアクラブ)のプレートが木についてませんでした。プレートのついてた木は杉だったっけ。
マーキングは、尾根にもあったように記憶してます。このあたりはマーキングも錯綜してたように思います。
カレ谷を上ると坊主尾根の850mコルに着く。マーキングはここまでで、坊主尾根に上るためにつけられたもののようだ。
わたしが行ったときは(2005年)、青のビニール紐が口坊主へ向かって付いていました。
取りあえず、わたしが歩いているところまでのレスです(^^;。
また、後の部分はまた後日レスしますね(^^;;。
zipp
Re: 【台高】坊主上ヶにつづく道
わりばしさんオハヨウさんです。
わりばし さんが書きました:台高南部の坊主尾根を越えて河原小屋谷を登ってきました。
緑水さんが予想された通り山の弱点を突いたルートがありました。
まえに頂いたレス、良く意味が判らなかった。
坊主尾根を下から嘉茂助の頭に登ったのかなあ思いましたよ。
わりばし さんが書きました:【日 付】2012年11月3日(土)・4日(日)
【山 域】台高
【コース】(1日目)檜ヶ谷駐車場7:18---11:26坊主尾根コル---14:24河原小屋谷左股源頭コル---15:49堂倉避難小屋
(2日目)堂倉避難小屋7:57---9:40苔辻---10:22嘉茂助谷の頭---13:50檜ヶ谷駐車場
ルート取りよく判りましたです。
尾根途中で右手谷底からテープつきの道が上がってきてた。
河原小屋谷への下り口もコレだろうも読めましたよ。
寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回式年遷宮の用材を伐り出す御杣山に大杉山がなり、大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷を含む15か所で伐採がおこなわれた。この当時の絵図を見ると「 堂倉谷之内 坊主上ヶ 大杉村より凡12里半余上 」という説明書きとともに現在のアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)の場所に「坊主上ヶ」という地名が画かれている。これは、神宮文庫の絵図3種類に同様の記述がなされているので間違いない。坊主上ヶでは、天明2年(1782年)8月に神宮御造営用材伐採の木本祭が執行された。木本祭は、伐採を始める際に行われる儀式で、御神木の南側に且神饌幄舎、修祓所、装束着換所、潔斎場等の付属施設を有する大規模な神事になる。つまり、木本祭を施行するために神官を連れてきた場所が坊主上ヶとなる。
zippおっちゃんのレポとあわせるとよく判ります。昔の人のソマ道は素晴らしいですね。
自然からの搾取、原生林意入り込む畏敬を感じただろうなあ。
いま時代は天空から探りを入れて、ヘリでピンポイントで良材を切出す。
自然には優しいけど感動は薄いだろうなあ。
下部のキビシイのぼりを避けてるんだね。谷道には古道確認してました。堰堤の斜面を真砂谷出合に向けて下りる。
滝に向けて坊主尾根から尾根が下りてきている。尾根下には窯跡があるので、窯跡の谷を少し上流に向けて歩き右側のガレ谷を上っていくと小尾根に着く。ここまでマーキングは一切無かったのだが、この当たりから目につくようになる。
小尾根の急斜面を上り尾根に乗ると真正面に八町滝が見える。思った以上に稜線まじかの高い所から流れていて驚く。尾根は平らになっていて歩きやすくマーキングもある。
なるほど、巧くルートが取れましたね、凄いなあ。尾根上からルート探してました。出来ないはすぐに判りましたけど。ゆるやかな反対側の谷に下ると岩井谷の支流の河原小屋谷だ、ここにも取りつきの目印の古木が朽ち果てて残っている。取りつき地点は、河原小屋と呼ばれゆるやかな斜面が広がり明るい日差しがさしこんでいる。
しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
わりばしさん周到な準備があればこそですね。
合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。この工事は堂倉避難小屋から桃ノ木小屋縦道までの区間で行われており、林道を大杉谷登山道として使うためのものだった。工事車両が三重ナンバーってことは、山抜けはしていてもここまでは来れるようだ。
そうなんですか、三重県の財政負担でね。勿体無いことです。
想い出に残る景色が目に浮かびますわ。(2日目)
堂倉滝を見て小屋に戻った。
到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
稜線を上りすぐに与八郎高(嘉茂助谷の頭南峰)。ここは嘉茂助谷の頭よりも展望が良く。大台から熊野灘までさえぎるもののない絶景地だ。ここから見る分には坊主尾根も下れそうな緩やかな尾根に思える。
あの人は元気にしてるかなあ。ビックリの連絡をしてみようかなです。
コノ尾根のコト忘れてたワン、中途半端な緑ちゃんだ。淡白なんだなー嘉茂助谷の頭に寄りまっすぐに八町尾根にむかって下って行く。八町尾根は真砂谷と小木森谷にはさまれた檜ヶ谷からつきあげる一番太い尾根になる。尾根を下ると溝道があらわれ出し、多くの人たちが歩いてきた道ということがわかる。
コノ尾根道は安全コースの様、忘れなければ覚えておこう。←意味ワカンネーな。坊主上ヶにつづく道の信憑性のある記録は二つある。一つは菊屋末偶の著作「寛政遷宮物語」にある檜ヶ谷中尾越えという記述で、檜ヶ谷より中尾を越えて坊主上ヶに至る道という意味になる。檜ヶ谷より坊主上ヶ方面の稜線に向けてつきあげている尾根は八町尾根と坊主尾根の二つしかない。坊主尾根は、現在でも登攀具が必要な場所で古道とは考えにくく、八町尾根が中尾と断定してもいいだろう。
なるほどね、マップを久しぶりに見る、カラーペンで印した道。沖見峠は気になりませんでした。「檜ヶ谷より直に上る 俗に此道を坊主上ヶと いふ登坂至 凡2里余 一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱 此所より四方を臨むに熊野海涯は絶て見へす」と「䑓山踄歴略記」には記されている。
この中の日本の鼻が嘉茂助谷の頭であるという事は一致している。
標高を上げる山頂を通らずに道を着けるのは古道ではよくあるし、古道を使い道がつけられることもしばしばある。苔辻を坊主上ヶ峠と考えると、右の方に登り日本の鼻に着くという記述やそれ以外の記述とも合致する。
つまり、坊主上ヶの古道は、八町尾根を上ったのち破線道で坊主上ヶ峠に向かう。ここから破線道を使いながら堂倉谷の坊主上ヶに下った道と考えられるのではないだろうか。[/color]
頭の勉強で頭が冴えてきましたわん。
いいですね学者なんだ。お気をつけてくださいな。
緑水
Re: 【台高】坊主上ヶにつづく道
おはようございます、zippさん。
お待ちしておりました。
この当時の絵図を見ると「 堂倉谷之内 坊主上ヶ 大杉村より凡12里半余上 」という説明書きとともに現在のアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)の場所に「坊主上ヶ」という地名が画かれている。これは、神宮文庫の絵図3種類に同様の記述がなされているので間違いない。
「神宮文庫の絵図3種類」!?
そんなに絵図があるんですか。わたしは「大杉山之図」(神宮遷宮記第7巻 国書刊行会)しか知らないです。良ければ教えてください。
「大杉山絵図兼里数御造営料引当扣」「木曽湯船澤蘭山并大杉山之図」、「勢州大杉山図附録外宮御造料」の三種類です。
「大杉山絵図兼里数御造営料引当扣」「木曽湯船澤蘭山并大杉山之図」には「坊主上ヶ」と記述され、「勢州大杉山図附録外宮御造料」にのみ「坊主上(カミ)」と記述されています。「坊主上(カミ)」は写本の際の写し間違いで「坊主上ヶ」が本来の地名だと思います。
神宮文庫では見せてくれるのですが、写真は不可だったのでここでは見せられないんですが・・
でっ、上記の図で見ると「坊主上」は、堂倉谷を挟んで左岸に「登り谷」、右岸に「坊主上」になります。
三絵図とも同じ絵だったのですが、言われてみればそうですね。
宮川村史にあるアザミ谷の場所とどうつながるのかな。
アザミ谷で木本祭は行われたようですが。
絵図の説明書きに以下のように書かれています。
「 堂倉谷之内
一.坊主上ヶ 大杉村より凡12里半余上 」
これは15ヶ所の中に、堂倉谷の坊主上ヶという場所があり、大杉村から12里半強の距離にあるという事を示しています。
つまり、木本祭を施行するために神官を連れてきた場所が坊主上ヶとなる。
わたしも神官をさして坊主でいいかと思います。
紀州の郡奉行が地元の人々を使って神官を木本祭現地へ行く道を作らせたんですからね。賦役させられた人々は、どう思ったでしょう?「坊主をあげる道を作らせられて叶わん!」とかね。現在の奥坊主・口坊主の名称は、その後に付いたいた名称かもしれません。
地図の「坊主上」=「木本祭」の場所という発想、わたしは思いつきませんでした。そういうこともあり得ますよね。
そうですよね。明治政府による神仏分離令が出されるまでは、神社と寺院は渾然一体とした存在でしたからねえ。たとえば、応仁の乱から戦国時代に至る120年間、式年遷宮は途絶え伊勢神宮は衰弱の一途をたどっていたんです。その際、遷宮復活に尽力したのは尼僧の慶光院上人という坊さんですからねえ。そして坊主という呼び名は、キリスト教の宣教師を当初坊主と呼んだように当時一般的に使われていた言葉です。
奥坊主・口坊主という呼び名は道がついた後につけられた名前でしょうね。
木本祭を行うのに大杉谷の厳しい道を避け、紀北町船津よりアザミ谷まで新墾の道を切り開いたとされている。この道がどこにあったかについては議論が分かれている。今回はその中の推定ルートのひとつ塩崎善一氏のルートを上りzippさんのルートを下ることにした。
これは、ちょっと違う。
紀州の官吏・野呂介石が大台ケ原に登ったルートは何処か?ということ。介石の『臺山?歴略記』記載されている「坊主揚げ」という地名からルートを想像したわけです。
だから、塩崎氏の予想ルートは、「寛政遷宮物語」を無視されているわけです。
介石が船津から大台ケ原に登ったのは、寛政の遷宮と同じ1789年。木本祭りは、遷宮に先行して5年内外で行われたのではないでしょうか。
ならば、紀州藩の野呂介石が、紀州の郡奉行が作らせた新墾の道である樋ヶ谷中尾を登ったと考えるのが道理です。
通常、山で生活の糧を得る人々は谷筋を道として使うことが多い。しかしこの樋ヶ谷中尾道は、人々の生活の道ではなく郡奉行が作らせた特異な道。故に尾根に道があっても不思議ではないと考えます。
わたしもそう思います。
大杉山が第51回遷宮の御杣山に決まったのが天明2年(1782年)5月4日。木本祭は、天明2年8月にアザミ谷で行われています。
「寛政遷宮物語」には「宮材きり奉るはじめ1年もまへつかたに、きの国の郡奉行より民ともあまたにおほせて新墾の道をきりひらく事ならん」
と書いてあるので天明元年ごろに新墾の道をつけたようです。
野呂介石が登ったのが寛政元年(1789年)4月下旬ですから7年後ぐらいですかね。
真砂谷は左岸の木場道跡の獣道をひろいながら進む。
この道は使ったことありません。あるのは聞いているんだけど、聞いてから真砂谷に入ってないんです(^^;。
この谷は、出合の尾根を登ると右岸に立派な石積み道がついてました。炭焼き道なのか、窯跡を繋ぐようについてます。この道は、取りつきの尾根下の窯跡までつながっていたのでしょう。但し、方々で崩壊していて通れないです。
そんな道があるんですね。
尾根下には窯跡があるので、窯跡の谷を少し上流に向けて歩き右側のガレ谷を上っていくと小尾根に着く。
ここは、窯跡の裏から尾根に道が続いてますよ。
ここはすぐに合流したと思います。
大杉谷の堂倉方面への杉や桧の稚苗運搬に使われていた杣道だったようだ。
『大杉谷国有林の施業変遷史』にそんな道があったことが書かれていますが、この道であるという確証はまだないですね。
大台林道が出来上がる前のハナシなんでしょうが、何年頃なのかで変わってきますね。架線・トロッコはすでに発達したたろうし。案外寺谷山のあたりから岩井谷に入って、支流の小瀬谷を辿ったかもね。
このあたりは、私にはよくわかりません。
ただ坊主尾根を下った河原小屋谷の出合の古木までは意図して残されたように思います。
そういう意味では昔歩かれていた道である事は間違いないと思います。
標高700mには桧の古木があり、ここからルートは尾根の左を巻いてカレ谷に下りる。
「MOC」(海山アウトドアクラブ)のプレートが木についてませんでした。プレートのついてた木は杉だったっけ。
マーキングは、尾根にもあったように記憶してます。このあたりはマーキングも錯綜してたように思います。
夏に坊主尾根まで登った時とプレートが変わり、坊主尾根のコルにあったプレートは無くなっていました。
MOCのプレートは、最初にマーキングの表れる小尾根にあっただけでした。
こんな所に来る人がいるんですねえ。
カレ谷を上ると坊主尾根の850mコルに着く。マーキングはここまでで、坊主尾根に上るためにつけられたもののようだ。
わたしが行ったときは(2005年)、青のビニール紐が口坊主へ向かって付いていました。
青のビニール紐も夏にはあったのですが、今回は無かったです。
坊主尾根のコルには以前あったマーキングやプレートは何も無かったなあ。
取りあえず、わたしが歩いているところまでのレスです(^^;。
また、後の部分はまた後日レスしますね(^^;;。
楽しみにしております。
お待ちしておりました。
この当時の絵図を見ると「 堂倉谷之内 坊主上ヶ 大杉村より凡12里半余上 」という説明書きとともに現在のアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)の場所に「坊主上ヶ」という地名が画かれている。これは、神宮文庫の絵図3種類に同様の記述がなされているので間違いない。
「神宮文庫の絵図3種類」!?
そんなに絵図があるんですか。わたしは「大杉山之図」(神宮遷宮記第7巻 国書刊行会)しか知らないです。良ければ教えてください。
「大杉山絵図兼里数御造営料引当扣」「木曽湯船澤蘭山并大杉山之図」、「勢州大杉山図附録外宮御造料」の三種類です。
「大杉山絵図兼里数御造営料引当扣」「木曽湯船澤蘭山并大杉山之図」には「坊主上ヶ」と記述され、「勢州大杉山図附録外宮御造料」にのみ「坊主上(カミ)」と記述されています。「坊主上(カミ)」は写本の際の写し間違いで「坊主上ヶ」が本来の地名だと思います。
神宮文庫では見せてくれるのですが、写真は不可だったのでここでは見せられないんですが・・
でっ、上記の図で見ると「坊主上」は、堂倉谷を挟んで左岸に「登り谷」、右岸に「坊主上」になります。
三絵図とも同じ絵だったのですが、言われてみればそうですね。
宮川村史にあるアザミ谷の場所とどうつながるのかな。
アザミ谷で木本祭は行われたようですが。
絵図の説明書きに以下のように書かれています。
「 堂倉谷之内
一.坊主上ヶ 大杉村より凡12里半余上 」
これは15ヶ所の中に、堂倉谷の坊主上ヶという場所があり、大杉村から12里半強の距離にあるという事を示しています。
つまり、木本祭を施行するために神官を連れてきた場所が坊主上ヶとなる。
わたしも神官をさして坊主でいいかと思います。
紀州の郡奉行が地元の人々を使って神官を木本祭現地へ行く道を作らせたんですからね。賦役させられた人々は、どう思ったでしょう?「坊主をあげる道を作らせられて叶わん!」とかね。現在の奥坊主・口坊主の名称は、その後に付いたいた名称かもしれません。
地図の「坊主上」=「木本祭」の場所という発想、わたしは思いつきませんでした。そういうこともあり得ますよね。
そうですよね。明治政府による神仏分離令が出されるまでは、神社と寺院は渾然一体とした存在でしたからねえ。たとえば、応仁の乱から戦国時代に至る120年間、式年遷宮は途絶え伊勢神宮は衰弱の一途をたどっていたんです。その際、遷宮復活に尽力したのは尼僧の慶光院上人という坊さんですからねえ。そして坊主という呼び名は、キリスト教の宣教師を当初坊主と呼んだように当時一般的に使われていた言葉です。
奥坊主・口坊主という呼び名は道がついた後につけられた名前でしょうね。
木本祭を行うのに大杉谷の厳しい道を避け、紀北町船津よりアザミ谷まで新墾の道を切り開いたとされている。この道がどこにあったかについては議論が分かれている。今回はその中の推定ルートのひとつ塩崎善一氏のルートを上りzippさんのルートを下ることにした。
これは、ちょっと違う。
紀州の官吏・野呂介石が大台ケ原に登ったルートは何処か?ということ。介石の『臺山?歴略記』記載されている「坊主揚げ」という地名からルートを想像したわけです。
だから、塩崎氏の予想ルートは、「寛政遷宮物語」を無視されているわけです。
介石が船津から大台ケ原に登ったのは、寛政の遷宮と同じ1789年。木本祭りは、遷宮に先行して5年内外で行われたのではないでしょうか。
ならば、紀州藩の野呂介石が、紀州の郡奉行が作らせた新墾の道である樋ヶ谷中尾を登ったと考えるのが道理です。
通常、山で生活の糧を得る人々は谷筋を道として使うことが多い。しかしこの樋ヶ谷中尾道は、人々の生活の道ではなく郡奉行が作らせた特異な道。故に尾根に道があっても不思議ではないと考えます。
わたしもそう思います。
大杉山が第51回遷宮の御杣山に決まったのが天明2年(1782年)5月4日。木本祭は、天明2年8月にアザミ谷で行われています。
「寛政遷宮物語」には「宮材きり奉るはじめ1年もまへつかたに、きの国の郡奉行より民ともあまたにおほせて新墾の道をきりひらく事ならん」
と書いてあるので天明元年ごろに新墾の道をつけたようです。
野呂介石が登ったのが寛政元年(1789年)4月下旬ですから7年後ぐらいですかね。
真砂谷は左岸の木場道跡の獣道をひろいながら進む。
この道は使ったことありません。あるのは聞いているんだけど、聞いてから真砂谷に入ってないんです(^^;。
この谷は、出合の尾根を登ると右岸に立派な石積み道がついてました。炭焼き道なのか、窯跡を繋ぐようについてます。この道は、取りつきの尾根下の窯跡までつながっていたのでしょう。但し、方々で崩壊していて通れないです。
そんな道があるんですね。
尾根下には窯跡があるので、窯跡の谷を少し上流に向けて歩き右側のガレ谷を上っていくと小尾根に着く。
ここは、窯跡の裏から尾根に道が続いてますよ。
ここはすぐに合流したと思います。
大杉谷の堂倉方面への杉や桧の稚苗運搬に使われていた杣道だったようだ。
『大杉谷国有林の施業変遷史』にそんな道があったことが書かれていますが、この道であるという確証はまだないですね。
大台林道が出来上がる前のハナシなんでしょうが、何年頃なのかで変わってきますね。架線・トロッコはすでに発達したたろうし。案外寺谷山のあたりから岩井谷に入って、支流の小瀬谷を辿ったかもね。
このあたりは、私にはよくわかりません。
ただ坊主尾根を下った河原小屋谷の出合の古木までは意図して残されたように思います。
そういう意味では昔歩かれていた道である事は間違いないと思います。
標高700mには桧の古木があり、ここからルートは尾根の左を巻いてカレ谷に下りる。
「MOC」(海山アウトドアクラブ)のプレートが木についてませんでした。プレートのついてた木は杉だったっけ。
マーキングは、尾根にもあったように記憶してます。このあたりはマーキングも錯綜してたように思います。
夏に坊主尾根まで登った時とプレートが変わり、坊主尾根のコルにあったプレートは無くなっていました。
MOCのプレートは、最初にマーキングの表れる小尾根にあっただけでした。
こんな所に来る人がいるんですねえ。
カレ谷を上ると坊主尾根の850mコルに着く。マーキングはここまでで、坊主尾根に上るためにつけられたもののようだ。
わたしが行ったときは(2005年)、青のビニール紐が口坊主へ向かって付いていました。
青のビニール紐も夏にはあったのですが、今回は無かったです。
坊主尾根のコルには以前あったマーキングやプレートは何も無かったなあ。
取りあえず、わたしが歩いているところまでのレスです(^^;。
また、後の部分はまた後日レスしますね(^^;;。
楽しみにしております。
Re: 【台高】坊主上ヶにつづく道
おはようございます、緑水さん。
まえに頂いたレス、良く意味が判らなかった。
坊主尾根を下から嘉茂助の頭に登ったのかなあ思いましたよ。
ハハハ・・まさか私でもそんなことはしません。
ルート取りよく判りましたです。
尾根途中で右手谷底からテープつきの道が上がってきてた。
河原小屋谷への下り口もコレだろうも読めましたよ。
緑水さんも一度このあたり探られていますもんね。
緑水さんの言われるように河原小屋谷という名前どうり河原のある小屋への道がありましたね。
小屋が建てられるのは坊主尾根のコルから下ったあたりだけですが・・・
自然からの搾取、原生林意入り込む畏敬を感じただろうなあ。
いま時代は天空から探りを入れて、ヘリでピンポイントで良材を切出す。
自然には優しいけど感動は薄いだろうなあ。[/color]
本当にそうです。自然の弱点を利用する杣道のすごさには感心します。
それだけ自然を理解しようとしていたのでしょうね。
こうした知恵の産物だけに江戸時代の古道は残っている所も多いですね。
重機で無理やり作った道が自然に弱いのと真逆にあります。
私が古道に魅かれる理由なんだと思います。
最初に探索したときは、尾根先から上ろうとして行き詰まり1時間ロスしたあと今回のルートにたどり着きました。
わりばしさん周到な準備があればこそですね。
塩崎善一さんの後追いをしただけですが、目印の木が残された道でした。
ちと距離は長いですが・・・
そうなんですか、三重県の財政負担でね。勿体無いことです。
桃ノ木小屋も粟谷小屋も開業しているので、観光資源として整備しているようです。
あの人は元気にしてるかなあ。ビックリの連絡をしてみようかなです。
初日は風が強かったのですが、この日はポカポカ陽気で気持ち良かったです。
緑水さんのまぶたにも焼き付いていますか。
尾根に取りついちゃえばいい道が続いています。
機会があれば是非・・・
お勧めコースです。苔辻とからめてもいいかもです。
土倉古道の探索もしてみたいですねえ。
つまり、坊主上ヶの古道は、八町尾根を上ったのち破線道で坊主上ヶ峠に向かう。ここから破線道を使いながら堂倉谷の坊主上ヶに下った道と考えられるのではないだろうか。[/color]
頭の勉強で頭が冴えてきましたわん。
いいですね学者なんだ。お気をつけてくださいな。
ありがとうございます。
まあ、好きなだけなんですが・・・
まえに頂いたレス、良く意味が判らなかった。
坊主尾根を下から嘉茂助の頭に登ったのかなあ思いましたよ。
ハハハ・・まさか私でもそんなことはしません。
わりばし さんが書きました:【日 付】2012年11月3日(土)・4日(日)
【山 域】台高
【コース】(1日目)檜ヶ谷駐車場7:18---11:26坊主尾根コル---14:24河原小屋谷左股源頭コル---15:49堂倉避難小屋
(2日目)堂倉避難小屋7:57---9:40苔辻---10:22嘉茂助谷の頭---13:50檜ヶ谷駐車場
ルート取りよく判りましたです。
尾根途中で右手谷底からテープつきの道が上がってきてた。
河原小屋谷への下り口もコレだろうも読めましたよ。
緑水さんも一度このあたり探られていますもんね。
緑水さんの言われるように河原小屋谷という名前どうり河原のある小屋への道がありましたね。
小屋が建てられるのは坊主尾根のコルから下ったあたりだけですが・・・
zippおっちゃんのレポとあわせるとよく判ります。昔の人のソマ道は素晴らしいですね。寛政元年(1789年)9月1日に行われた第51回式年遷宮の用材を伐り出す御杣山に大杉山がなり、大杉谷源流の堂倉谷・粟谷・西谷を含む15か所で伐採がおこなわれた。この当時の絵図を見ると「 堂倉谷之内 坊主上ヶ 大杉村より凡12里半余上 」という説明書きとともに現在のアザミ谷(堂倉小屋の西の谷)の場所に「坊主上ヶ」という地名が画かれている。これは、神宮文庫の絵図3種類に同様の記述がなされているので間違いない。坊主上ヶでは、天明2年(1782年)8月に神宮御造営用材伐採の木本祭が執行された。木本祭は、伐採を始める際に行われる儀式で、御神木の南側に且神饌幄舎、修祓所、装束着換所、潔斎場等の付属施設を有する大規模な神事になる。つまり、木本祭を施行するために神官を連れてきた場所が坊主上ヶとなる。
自然からの搾取、原生林意入り込む畏敬を感じただろうなあ。
いま時代は天空から探りを入れて、ヘリでピンポイントで良材を切出す。
自然には優しいけど感動は薄いだろうなあ。[/color]
本当にそうです。自然の弱点を利用する杣道のすごさには感心します。
それだけ自然を理解しようとしていたのでしょうね。
こうした知恵の産物だけに江戸時代の古道は残っている所も多いですね。
重機で無理やり作った道が自然に弱いのと真逆にあります。
私が古道に魅かれる理由なんだと思います。
下部のキビシイのぼりを避けてるんだね。谷道には古道確認してました。堰堤の斜面を真砂谷出合に向けて下りる。
滝に向けて坊主尾根から尾根が下りてきている。尾根下には窯跡があるので、窯跡の谷を少し上流に向けて歩き右側のガレ谷を上っていくと小尾根に着く。ここまでマーキングは一切無かったのだが、この当たりから目につくようになる。
小尾根の急斜面を上り尾根に乗ると真正面に八町滝が見える。思った以上に稜線まじかの高い所から流れていて驚く。尾根は平らになっていて歩きやすくマーキングもある。
最初に探索したときは、尾根先から上ろうとして行き詰まり1時間ロスしたあと今回のルートにたどり着きました。
なるほど、巧くルートが取れましたね、凄いなあ。尾根上からルート探してました。出来ないはすぐに判りましたけど。ゆるやかな反対側の谷に下ると岩井谷の支流の河原小屋谷だ、ここにも取りつきの目印の古木が朽ち果てて残っている。取りつき地点は、河原小屋と呼ばれゆるやかな斜面が広がり明るい日差しがさしこんでいる。
しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
わりばしさん周到な準備があればこそですね。
塩崎善一さんの後追いをしただけですが、目印の木が残された道でした。
ちと距離は長いですが・・・
合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。この工事は堂倉避難小屋から桃ノ木小屋縦道までの区間で行われており、林道を大杉谷登山道として使うためのものだった。工事車両が三重ナンバーってことは、山抜けはしていてもここまでは来れるようだ。
そうなんですか、三重県の財政負担でね。勿体無いことです。
桃ノ木小屋も粟谷小屋も開業しているので、観光資源として整備しているようです。
想い出に残る景色が目に浮かびますわ。(2日目)
堂倉滝を見て小屋に戻った。
到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
稜線を上りすぐに与八郎高(嘉茂助谷の頭南峰)。ここは嘉茂助谷の頭よりも展望が良く。大台から熊野灘までさえぎるもののない絶景地だ。ここから見る分には坊主尾根も下れそうな緩やかな尾根に思える。
あの人は元気にしてるかなあ。ビックリの連絡をしてみようかなです。
初日は風が強かったのですが、この日はポカポカ陽気で気持ち良かったです。
緑水さんのまぶたにも焼き付いていますか。
コノ尾根のコト忘れてたワン、中途半端な緑ちゃんだ。淡白なんだなー嘉茂助谷の頭に寄りまっすぐに八町尾根にむかって下って行く。八町尾根は真砂谷と小木森谷にはさまれた檜ヶ谷からつきあげる一番太い尾根になる。尾根を下ると溝道があらわれ出し、多くの人たちが歩いてきた道ということがわかる。
尾根に取りついちゃえばいい道が続いています。
機会があれば是非・・・
コノ尾根道は安全コースの様、忘れなければ覚えておこう。←意味ワカンネーな。坊主上ヶにつづく道の信憑性のある記録は二つある。一つは菊屋末偶の著作「寛政遷宮物語」にある檜ヶ谷中尾越えという記述で、檜ヶ谷より中尾を越えて坊主上ヶに至る道という意味になる。檜ヶ谷より坊主上ヶ方面の稜線に向けてつきあげている尾根は八町尾根と坊主尾根の二つしかない。坊主尾根は、現在でも登攀具が必要な場所で古道とは考えにくく、八町尾根が中尾と断定してもいいだろう。
お勧めコースです。苔辻とからめてもいいかもです。
なるほどね、マップを久しぶりに見る、カラーペンで印した道。沖見峠は気になりませんでした。「檜ヶ谷より直に上る 俗に此道を坊主上ヶと いふ登坂至 凡2里余 一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱 此所より四方を臨むに熊野海涯は絶て見へす」と「䑓山踄歴略記」には記されている。
この中の日本の鼻が嘉茂助谷の頭であるという事は一致している。
標高を上げる山頂を通らずに道を着けるのは古道ではよくあるし、古道を使い道がつけられることもしばしばある。苔辻を坊主上ヶ峠と考えると、右の方に登り日本の鼻に着くという記述やそれ以外の記述とも合致する。
土倉古道の探索もしてみたいですねえ。
つまり、坊主上ヶの古道は、八町尾根を上ったのち破線道で坊主上ヶ峠に向かう。ここから破線道を使いながら堂倉谷の坊主上ヶに下った道と考えられるのではないだろうか。[/color]
頭の勉強で頭が冴えてきましたわん。
いいですね学者なんだ。お気をつけてくださいな。
ありがとうございます。
まあ、好きなだけなんですが・・・
Re: 【台高】坊主上ヶにつづく道
みたび、こんばんは~。
河原小屋からのレスです(^^)。
河原小屋谷を上って行く。ゆるやかな斜面は河原小屋だけで、両岸がせばまり暗い谷にかわっていく。両側が切り立ってゴルジュになってところもあり、沢靴か長靴がないと苦労するだろう。長靴でも2度脱いで徒渉する場所があった。しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。
枝谷の河原小屋谷は、平均してコンターが混んではいますが、特に悪場のないゴロ谷なんですね。両岸に道型などは無かったんでしょうか?
源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
地池谷枝谷の源頭ですね。ここは不思議なところです。
この枝谷は源頭部で二俣になっていて、西側はミズナラやブナの原生林、東側は針葉樹の原生林で檜が多い。それゆえ、わりばしさんが植林の森と見誤ったのかな?
こんな背が高くまっすぐ伸びたりっぱな檜林が残されていることが不思議でした。原生の大杉谷の周辺にはこんなりっぱな桧の林がたくさんあったのでしょう。
ここはまた、嘉茂助谷ノ頭~地池山間の稜線で水が簡単に得られる貴重な場所でもあります。
わりばしさんはご存知かもしれませんが、ニッチの92年版の地図を添付します。
この地図には、この鞍部から沖見峠に向かって、地形図にはない破線道が書かれています。
以前に地池谷出合から尾根を登って稜線づたいで嘉茂助に向かおうとした時、尾根途中で地形図に書かれていない、土倉道より狭いもののいいまもしっかりしている水平道を見つけその道を辿ったのですが、いわゆる苔辻から堂倉谷に降りる破線道手前の谷で崩落していました。
[attachment=0]日地92嘉茂助周辺_800.jpg[/attachment]
合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。
いまは、このあたりが工事中ですか。岩を谷に落すって…、おいおい!ですねぇ。
これまた長い林道を歩き堂倉避難小屋に着く。この日は、私含め6人の泊まりだったのでゆったりとすごせた。
案外、この小屋を使う人も多いのですね。
木本祭は南面の緩傾地で行うことに決まっておりアザミ谷には該当する場所は一箇所しかない。
木本祭は、梁になるような大木の前で行うんでしたっけ?方角も決まっているのですか。
木本祭跡に、大口径の檜の切り株でも残っていればいいでしょうが、既に朽ち落ちているでしょうね。
取りつきには小屋跡らしき石積みの平坦地がある。
けっこう広い平坦地ですよね。ここは、林道無き時代に土倉道と合流する要所ですね。ここが「宮ノ平」の可能性はないかなぁ。
破線道の谷のみ自然林が残されており紅葉がきれいだ。
ここは降ったことしかありませんが、道型は上部だけで、谷部分には無かったでしょ?
到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
雲一つない青空に船津の町と熊野灘が広がっている。陽に照らされて広がる苔のじゅうたんがふかふかして暖かい。一番のとっておきのプレゼントをもらった気がする。
ここは穏やかないいところですね、眺望もあるし。つひ休憩したくなる(^^)。
稜線を上りすぐに与八郎高(嘉茂助谷の頭南峰)。
あれ?破線道を辿らなかったんですか?
これに沿って下って行くと赤外線の動物感知器が設置されている出合付近の左岸道についた。
えっ!?こんなところにセンサーがあるんですか?
「一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱」という箇所になる。歩くまでは感じなかったのだが、この一つの山頂とは苔辻の事のように思う。
ここが峠になるでしょうね。
破線道と八町尾根の1153ピークは、尾根を歩かれたと思いますが、山腹および谷筋に道があって破線道・「苔辻」へと繋がってた可能性もあるかな?と思います。
この「樋ヶ谷中尾」を歩いたと思われる記録を残した人物が3人います。
その一人は当然ながら野呂介石であり、1885年に大阪府官吏木下文三郎、1889年に登った松阪の大平参次です(記録は、「奥伊勢宮川村の本草」に補記として転載されています)。
その峠を、それぞれ「坊主揚げの峠」、「坊主峠」、「大坊主山の嶺」(嶺=峠だろうと思います)と表現しています。
p.s. 「神宮文庫」閲覧可能なのですね。知らなかったです。どうも豊宮崎文庫とごっちゃにして記憶してたようです。今度行ってみます。
木本祭の年数も判明できたんですね。
zipp
Re: 【台高】坊主上ヶにつづく道
おはようございます、zippさん。
河原小屋谷を上って行く。ゆるやかな斜面は河原小屋だけで、両岸がせばまり暗い谷にかわっていく。両側が切り立ってゴルジュになってところもあり、沢靴か長靴がないと苦労するだろう。長靴でも2度脱いで徒渉する場所があった。しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。
枝谷の河原小屋谷は、平均してコンターが混んではいますが、特に悪場のないゴロ谷なんですね。両岸に道型などは無かったんでしょうか?
延々と上らされるだけで、悪場は無いですね。
両岸が狭まっていて、道型がありそうな感じではなかったです。
源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
地池谷枝谷の源頭ですね。ここは不思議なところです。
この枝谷は源頭部で二俣になっていて、西側はミズナラやブナの原生林、東側は針葉樹の原生林で檜が多い。それゆえ、わりばしさんが植林の森と見誤ったのかな?
こんな背が高くまっすぐ伸びたりっぱな檜林が残されていることが不思議でした。原生の大杉谷の周辺にはこんなりっぱな桧の林がたくさんあったのでしょう。
ここはまた、嘉茂助谷ノ頭~地池山間の稜線で水が簡単に得られる貴重な場所でもあります。
わりばしさんはご存知かもしれませんが、ニッチの92年版の地図を添付します。
この地図には、この鞍部から沖見峠に向かって、地形図にはない破線道が書かれています。
以前に地池谷出合から尾根を登って稜線づたいで嘉茂助に向かおうとした時、尾根途中で地形図に書かれていない、土倉道より狭いもののいいまもしっかりしている水平道を見つけその道を辿ったのですが、いわゆる苔辻から堂倉谷に降りる破線道手前の谷で崩落していました。
檜の原生林に植林が隣接してるって感じです。
破線の先には塩崎さんの書いている営林署の小屋があったのかもしれませんね。
合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。
いまは、このあたりが工事中ですか。岩を谷に落すって…、おいおい!ですねぇ。
このあたりの林道は崩れていないので、岩を落とす復旧工事って感じでした。
これまた長い林道を歩き堂倉避難小屋に着く。この日は、私含め6人の泊まりだったのでゆったりとすごせた。
案外、この小屋を使う人も多いのですね。
大昔に泊まった事がありますが、現在の小屋は隙間風が吹き込むこともなくきれいなもんです。
木本祭は南面の緩傾地で行うことに決まっておりアザミ谷には該当する場所は一箇所しかない。
木本祭は、梁になるような大木の前で行うんでしたっけ?方角も決まっているのですか。
木本祭跡に、大口径の檜の切り株でも残っていればいいでしょうが、既に朽ち落ちているでしょうね。
御神木の立木の場所が南面山腹の緩斜地と決められていて、祭壇を御神木の南側の設けるという決まりですね。
御神木は二本で、①二本が十間以内の位置に並んでいる②二本とも地上から十七尺上がったところの直径が尺七寸以上である③地上からその位置まで無節であることが条件です。
当初「木曽湯船澤蘭山并大杉山之図」には坊主上ヶに神木と思われる大木が画かれていたので、木本祭が行われた場所と考えてました。
ただ、絵図には坊主上ヶは堂倉谷の右岸に描かれているのですが、宮川村史に示されているアザミ谷はテンネンコウシ高に突き上げる谷で左岸なんです。
つまり、坊主上ヶまで神官を連れてきて、対岸のアザミ谷で木本祭をおこなったということになりますね。
真夜中に行う神事と生活の営みの場はおのずと分けたのかもしれません。
取りつきには小屋跡らしき石積みの平坦地がある。
けっこう広い平坦地ですよね。ここは、林道無き時代に土倉道と合流する要所ですね。ここが「宮ノ平」の可能性はないかなぁ。
絵地図に画かれている道から考えるとここが「宮ノ平」で、もう一本の道が向かっている杉皮小屋が堂倉小屋のあたりなのかなあ?
破線道の谷のみ自然林が残されており紅葉がきれいだ。
ここは降ったことしかありませんが、道型は上部だけで、谷部分には無かったでしょ?
小屋跡付近には道型らしきものはありました。現在も歩かれてはいるようで、マーキングもありました。
到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
雲一つない青空に船津の町と熊野灘が広がっている。陽に照らされて広がる苔のじゅうたんがふかふかして暖かい。一番のとっておきのプレゼントをもらった気がする。
ここは穏やかないいところですね、眺望もあるし。つひ休憩したくなる(^^)。
良い所です。野呂介石がここの展望については書いていないので、当時は原生林の森だったのでしょうね。
稜線を上りすぐに与八郎高(嘉茂助谷の頭南峰)。
あれ?破線道を辿らなかったんですか?
苔辻を坊主上ヶ峠と思ったのは、八町尾根を下りかけたあたりだったので、このルートどりになりました。
これに沿って下って行くと赤外線の動物感知器が設置されている出合付近の左岸道についた。
えっ!?こんなところにセンサーがあるんですか?
二ヶ所ありました。私が確認のために手をかざしたりしていたので、この二日間はカウントが上がっていると思います。
センサーは夏来た時には無かったんですが。
「一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱」という箇所になる。歩くまでは感じなかったのだが、この一つの山頂とは苔辻の事のように思う。
ここが峠になるでしょうね。
破線道と八町尾根の1153ピークは、尾根を歩かれたと思いますが、山腹および谷筋に道があって破線道・「苔辻」へと繋がってた可能性もあるかな?と思います。
私もそう思います。
この「樋ヶ谷中尾」を歩いたと思われる記録を残した人物が3人います。
その一人は当然ながら野呂介石であり、1885年に大阪府官吏木下文三郎、1889年に登った松阪の大平参次です(記録は、「奥伊勢宮川村の本草」に補記として転載されています)。
その峠を、それぞれ「坊主揚げの峠」、「坊主峠」、「大坊主山の嶺」(嶺=峠だろうと思います)と表現しています。
記録が残っていれば木本祭の場所を特定できる資料になるかもしれませんね。
p.s. 「神宮文庫」閲覧可能なのですね。知らなかったです。どうも豊宮崎文庫とごっちゃにして記憶してたようです。今度行ってみます。
木本祭の年数も判明できたんですね。
神宮文庫は閲覧日が、木・金・土のみですが閲覧できますよ。
「となりのトトロ」のような昭和初期の雰囲気がただよう、なかなか残っていないレトロな空間でお勧めです。
zippさんの目で場所確認をお願いします。
木本祭の年数は「大杉谷国有林の施業変遷史」に載っていました。
河原小屋谷を上って行く。ゆるやかな斜面は河原小屋だけで、両岸がせばまり暗い谷にかわっていく。両側が切り立ってゴルジュになってところもあり、沢靴か長靴がないと苦労するだろう。長靴でも2度脱いで徒渉する場所があった。しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。
枝谷の河原小屋谷は、平均してコンターが混んではいますが、特に悪場のないゴロ谷なんですね。両岸に道型などは無かったんでしょうか?
延々と上らされるだけで、悪場は無いですね。
両岸が狭まっていて、道型がありそうな感じではなかったです。
源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
地池谷枝谷の源頭ですね。ここは不思議なところです。
この枝谷は源頭部で二俣になっていて、西側はミズナラやブナの原生林、東側は針葉樹の原生林で檜が多い。それゆえ、わりばしさんが植林の森と見誤ったのかな?
こんな背が高くまっすぐ伸びたりっぱな檜林が残されていることが不思議でした。原生の大杉谷の周辺にはこんなりっぱな桧の林がたくさんあったのでしょう。
ここはまた、嘉茂助谷ノ頭~地池山間の稜線で水が簡単に得られる貴重な場所でもあります。
わりばしさんはご存知かもしれませんが、ニッチの92年版の地図を添付します。
この地図には、この鞍部から沖見峠に向かって、地形図にはない破線道が書かれています。
以前に地池谷出合から尾根を登って稜線づたいで嘉茂助に向かおうとした時、尾根途中で地形図に書かれていない、土倉道より狭いもののいいまもしっかりしている水平道を見つけその道を辿ったのですが、いわゆる苔辻から堂倉谷に降りる破線道手前の谷で崩落していました。
檜の原生林に植林が隣接してるって感じです。
破線の先には塩崎さんの書いている営林署の小屋があったのかもしれませんね。
合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。
いまは、このあたりが工事中ですか。岩を谷に落すって…、おいおい!ですねぇ。
このあたりの林道は崩れていないので、岩を落とす復旧工事って感じでした。
これまた長い林道を歩き堂倉避難小屋に着く。この日は、私含め6人の泊まりだったのでゆったりとすごせた。
案外、この小屋を使う人も多いのですね。
大昔に泊まった事がありますが、現在の小屋は隙間風が吹き込むこともなくきれいなもんです。
木本祭は南面の緩傾地で行うことに決まっておりアザミ谷には該当する場所は一箇所しかない。
木本祭は、梁になるような大木の前で行うんでしたっけ?方角も決まっているのですか。
木本祭跡に、大口径の檜の切り株でも残っていればいいでしょうが、既に朽ち落ちているでしょうね。
御神木の立木の場所が南面山腹の緩斜地と決められていて、祭壇を御神木の南側の設けるという決まりですね。
御神木は二本で、①二本が十間以内の位置に並んでいる②二本とも地上から十七尺上がったところの直径が尺七寸以上である③地上からその位置まで無節であることが条件です。
当初「木曽湯船澤蘭山并大杉山之図」には坊主上ヶに神木と思われる大木が画かれていたので、木本祭が行われた場所と考えてました。
ただ、絵図には坊主上ヶは堂倉谷の右岸に描かれているのですが、宮川村史に示されているアザミ谷はテンネンコウシ高に突き上げる谷で左岸なんです。
つまり、坊主上ヶまで神官を連れてきて、対岸のアザミ谷で木本祭をおこなったということになりますね。
真夜中に行う神事と生活の営みの場はおのずと分けたのかもしれません。
取りつきには小屋跡らしき石積みの平坦地がある。
けっこう広い平坦地ですよね。ここは、林道無き時代に土倉道と合流する要所ですね。ここが「宮ノ平」の可能性はないかなぁ。
絵地図に画かれている道から考えるとここが「宮ノ平」で、もう一本の道が向かっている杉皮小屋が堂倉小屋のあたりなのかなあ?
破線道の谷のみ自然林が残されており紅葉がきれいだ。
ここは降ったことしかありませんが、道型は上部だけで、谷部分には無かったでしょ?
小屋跡付近には道型らしきものはありました。現在も歩かれてはいるようで、マーキングもありました。
到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
雲一つない青空に船津の町と熊野灘が広がっている。陽に照らされて広がる苔のじゅうたんがふかふかして暖かい。一番のとっておきのプレゼントをもらった気がする。
ここは穏やかないいところですね、眺望もあるし。つひ休憩したくなる(^^)。
良い所です。野呂介石がここの展望については書いていないので、当時は原生林の森だったのでしょうね。
稜線を上りすぐに与八郎高(嘉茂助谷の頭南峰)。
あれ?破線道を辿らなかったんですか?
苔辻を坊主上ヶ峠と思ったのは、八町尾根を下りかけたあたりだったので、このルートどりになりました。
これに沿って下って行くと赤外線の動物感知器が設置されている出合付近の左岸道についた。
えっ!?こんなところにセンサーがあるんですか?
二ヶ所ありました。私が確認のために手をかざしたりしていたので、この二日間はカウントが上がっていると思います。
センサーは夏来た時には無かったんですが。
「一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱」という箇所になる。歩くまでは感じなかったのだが、この一つの山頂とは苔辻の事のように思う。
ここが峠になるでしょうね。
破線道と八町尾根の1153ピークは、尾根を歩かれたと思いますが、山腹および谷筋に道があって破線道・「苔辻」へと繋がってた可能性もあるかな?と思います。
私もそう思います。
この「樋ヶ谷中尾」を歩いたと思われる記録を残した人物が3人います。
その一人は当然ながら野呂介石であり、1885年に大阪府官吏木下文三郎、1889年に登った松阪の大平参次です(記録は、「奥伊勢宮川村の本草」に補記として転載されています)。
その峠を、それぞれ「坊主揚げの峠」、「坊主峠」、「大坊主山の嶺」(嶺=峠だろうと思います)と表現しています。
記録が残っていれば木本祭の場所を特定できる資料になるかもしれませんね。
p.s. 「神宮文庫」閲覧可能なのですね。知らなかったです。どうも豊宮崎文庫とごっちゃにして記憶してたようです。今度行ってみます。
木本祭の年数も判明できたんですね。
神宮文庫は閲覧日が、木・金・土のみですが閲覧できますよ。
「となりのトトロ」のような昭和初期の雰囲気がただよう、なかなか残っていないレトロな空間でお勧めです。
zippさんの目で場所確認をお願いします。
木本祭の年数は「大杉谷国有林の施業変遷史」に載っていました。