【鈴鹿】竜ヶ岳の牛道
Posted: 2012年8月11日(土) 11:30
【日 付】2012年8月10日(金)
【山 域】鈴鹿
【コース】反射板ロータリーP7:30---10:30クラ---12:15反射板ロータリーP
【メンバー】単独
遠出もおっくうだし、台高の古道めぐりは暑すぎて途中撤退。モチベーションが上がらない中、思いついたのが竜ヶ岳の牛道の探索だった。昨年のオフ会の時に後谷右岸尾根700標高点から南東に下りる尾根の牛道を発見したのとたつくさんからの地元の情報によりだいたいの目星はついたのだが牛道の全容が確認できていない。
西尾本には、麓の石槫北町の前野氏に聞いた話として「青川の背後の山には牛道が遠足尾根を経てホダカ谷源頭にあたるクラのあたりまで通じているという。人間の通る道と牛や馬が通る道とは自ずから違いがあって、明らかに牛道であったという。またクラの少し下部には瀬戸物の破片が出土する平坦地があって、一定の間人間が生活した跡があり、牛が物資を運んでいたという伝承がある。」と書かれている。ただ、牛道を使い何を運んでいたのか、牛道はどこからつながっていたのかさえわかっていない。
・700(標高点)から南東に向かって下りる尾根の末端に向かって林道がつけられている。ゆるやかな植林の斜面を真っ直ぐな道が上がっていく。この林道の周辺は、丹生川村(桑名藩)では野郷と呼ばれている場所で、江戸時代は治田鉱山を管轄する幕府領の治田村の管轄になっていた場所だ。しばらく行くと道の真ん中に杉が立っており道はロータリーのようになっている。そして大きな反射板が見えてきた。石槫のあたりから取り付き点をながめた時に目立っていた建造物で、ここにもロータリーがある。二つ目のロータリー横に駐車する。
駐車地から植林の杣道に入ると、溝道が続いている。植林の中なのに溝道の横には所々に自生の木が残されている。溝道は杣道と林道の間にはしっていた。結局この状態は林道終点のロータリーまで続いた。植林はしばらくすると途切れて、自然林に変わる。ここからは、まったく歩かれていないようでクモの巣と獣匂ただよう世界になる。獣道を上って行くと下草の無い獣達のすみかと思われる砂地の斜面にイノシシが掘り起こした落とし穴がいくつかある。帰りには猿の群れに出会った。カレンフェルトが見え隠れするヤブ尾根にも溝道があらわれる。上りが急になり溝道がつづら折れになったあたりから歩きやすくなる。ここからは古い黄色のテープがあらわれだす。
[attachment=4]IMG_5746.jpg[/attachment]
牛道の特徴は、重い荷物を運ぶために出来るだけ道に高低差をつけないように急な斜面ではつづら折れに道をつけたりピークを通らずにトラバースするなどして道をつけている所だろう。牛道は黄色テープの道をぬうようにしてつけられている。尾根が狭くなった場所では稜線を少しくだったあたりにつけられていた。今日はガスの中の歩きなので汗もさほどかかずに忘れられた登山道を快適に上って行く。
[attachment=3]IMG_5737.jpg[/attachment]
580mの平坦地に到着。ここには石積みが残されている。この石積みも上から土砂が流れてきて崩れている所もあり、土にうもれる日も近そうだ。ここから尾根はさらに狭くなるが、稜線下に牛道が顔を出す。傾斜も急な場所なので牛道が落ちている所も多い。ここを上って700m標高点に着いた。ここは広い平坦地になっており治田鉱山の銀銅山奉行所の置かれた治田村新町の領域になっている。牛道を使って運ばれた物資の集積所として使われていたのだろう。
[attachment=0]IMG_2611.jpg[/attachment]
・700からしばらくは宇賀渓の分岐方向に牛道は進んでいく。シダにおおわれた平坦地ではわからなかった溝道があらわれる。登山道は尾根筋を上って行くが、牛道は後谷源頭部をトラバースしながら遠足尾根に近づいていく。溝道の途切れた地点から獣道が続いているので、この道を追う。このあたりは以外にも緩やかな傾斜で牛道が簡単につけられそうな場所だった。獣道をトラバースしていくと遠足尾根の780mのコルに着いた。ここからは、遠足尾根の溝道が続いている。帰りに登山道を歩き確認したが、このコルより先に溝道は見つからなかったので、牛道は・700から後谷側をトラバースしながら遠足尾根の溝道につながっていたのだろう。
[attachment=2]IMG_5725.jpg[/attachment]
遠足尾根のゆるやかな溝道が続いている。大岩を削って切通のようになった場所もある。当初、この溝道が牛道だとはなぜだか思わなかった。遠足尾根は今でこそ歩く人も多いが、昔は登山道として使うことはほとんど無かった。尾根上に途中まで立派な溝道がありコルからは消えてしまっているのが、不自然なことだとは思わなかった。
[attachment=1]IMG_5723.jpg[/attachment]
5m先も見えないガスの中を歩く。登山道は整備され歩きやすい。笹は刈り込まれ、昔とは大違い。登山道は溝道に沿ってつけられている。登山道には七大字生産森林組合のナンバープレートがつけられており道案内をしてくれる。七大字生産森林組合は石槫七大字生産森林組合の略で、江戸時代から現在に至るまで石槫村の領域となっているようだ。
大安町誌の中に気になる記述を見つけた「勢国見聞集にのせる元禄13年(1700年)の員弁郡各村の村高の中に、宇賀・石槫南村・石槫北村の産物に薪がある」というものである。川向うの治田鉱山が、元禄の再興といわれる大繁昌をしていた時期と重なる。江戸時代に治田鉱山にあった甘露寺旧記録に「特に南河内における採鉱が繁昌し、その精錬のため江州の木立や根までも掘りつくしてしまったので、三日三夜で道をつけ福岡野まで鉱石を運び出し、伊尾熊野(伊勢、尾張、熊野の略)から木炭を買い上げて灰吹きをはじめたという。」記述があり、まさしくこの時期である。
当時の銅の精錬は、細かく砕いた鉱石を、まず、焼窯に入れ、薪で融解点以下の温度で、数日あぶりやきし、焼鉱を床吹炉で木炭の火熱によって溶解し、硫化銅を出す「酸化精錬法」が主流だった。軽い木炭は買い上げるとして、薪は地元で調達せざるおえなかった。
当時の治田鉱山の記録には、銅鉱石3800貫で68・7貫の荒銅を得るために、木炭1200貫、薪2100貫を要している。これは、鉱石10貫について木炭3・16貫、薪5・53貫を消費していることになる。これだけの需要をこなすには竜ヶ岳の木を切り出すしかないだろう。これらの古文書の記述を見る限りでは、竜ヶ岳の木を牛道を使い搬出し薪として出荷したと考えるのが自然だ。つまり、この時の大伐採により竜ヶ岳は丸刈りにされてしまったのだろう。
溝道に沿った登山道を歩きカズラ谷登山道の分岐に到着。分岐を少し上ると獣道がトラバースしていく。ここがクラに向かう牛道の分岐になる。朝からの雨で、笹道を歩くとびしょ濡れになる。ヤブを過ぎるとつづら折れの牛道が見えてきた。このままゆったりと上って行くとクラの鞍部に着いた。
牛道は、クラの鞍部からトラバースしてカズラ谷道分岐に至り、そこから遠足尾根を使い780mのコルまで続く、ここから・700に向かいトラバースしていき、そこから南東尾根を使い現在の直線林道をなぞるように下り治田鉱山の拠点として栄え、銀銅山奉行所のあった新町に至ったのではないかと思う。そして、元禄時代には、新町を経て鉱山道(かなやまみち)を使って福岡野で精錬するために竜ヶ岳で伐採された木が薪として運ばれたのだと考えた。
【山 域】鈴鹿
【コース】反射板ロータリーP7:30---10:30クラ---12:15反射板ロータリーP
【メンバー】単独
遠出もおっくうだし、台高の古道めぐりは暑すぎて途中撤退。モチベーションが上がらない中、思いついたのが竜ヶ岳の牛道の探索だった。昨年のオフ会の時に後谷右岸尾根700標高点から南東に下りる尾根の牛道を発見したのとたつくさんからの地元の情報によりだいたいの目星はついたのだが牛道の全容が確認できていない。
西尾本には、麓の石槫北町の前野氏に聞いた話として「青川の背後の山には牛道が遠足尾根を経てホダカ谷源頭にあたるクラのあたりまで通じているという。人間の通る道と牛や馬が通る道とは自ずから違いがあって、明らかに牛道であったという。またクラの少し下部には瀬戸物の破片が出土する平坦地があって、一定の間人間が生活した跡があり、牛が物資を運んでいたという伝承がある。」と書かれている。ただ、牛道を使い何を運んでいたのか、牛道はどこからつながっていたのかさえわかっていない。
・700(標高点)から南東に向かって下りる尾根の末端に向かって林道がつけられている。ゆるやかな植林の斜面を真っ直ぐな道が上がっていく。この林道の周辺は、丹生川村(桑名藩)では野郷と呼ばれている場所で、江戸時代は治田鉱山を管轄する幕府領の治田村の管轄になっていた場所だ。しばらく行くと道の真ん中に杉が立っており道はロータリーのようになっている。そして大きな反射板が見えてきた。石槫のあたりから取り付き点をながめた時に目立っていた建造物で、ここにもロータリーがある。二つ目のロータリー横に駐車する。
駐車地から植林の杣道に入ると、溝道が続いている。植林の中なのに溝道の横には所々に自生の木が残されている。溝道は杣道と林道の間にはしっていた。結局この状態は林道終点のロータリーまで続いた。植林はしばらくすると途切れて、自然林に変わる。ここからは、まったく歩かれていないようでクモの巣と獣匂ただよう世界になる。獣道を上って行くと下草の無い獣達のすみかと思われる砂地の斜面にイノシシが掘り起こした落とし穴がいくつかある。帰りには猿の群れに出会った。カレンフェルトが見え隠れするヤブ尾根にも溝道があらわれる。上りが急になり溝道がつづら折れになったあたりから歩きやすくなる。ここからは古い黄色のテープがあらわれだす。
[attachment=4]IMG_5746.jpg[/attachment]
牛道の特徴は、重い荷物を運ぶために出来るだけ道に高低差をつけないように急な斜面ではつづら折れに道をつけたりピークを通らずにトラバースするなどして道をつけている所だろう。牛道は黄色テープの道をぬうようにしてつけられている。尾根が狭くなった場所では稜線を少しくだったあたりにつけられていた。今日はガスの中の歩きなので汗もさほどかかずに忘れられた登山道を快適に上って行く。
[attachment=3]IMG_5737.jpg[/attachment]
580mの平坦地に到着。ここには石積みが残されている。この石積みも上から土砂が流れてきて崩れている所もあり、土にうもれる日も近そうだ。ここから尾根はさらに狭くなるが、稜線下に牛道が顔を出す。傾斜も急な場所なので牛道が落ちている所も多い。ここを上って700m標高点に着いた。ここは広い平坦地になっており治田鉱山の銀銅山奉行所の置かれた治田村新町の領域になっている。牛道を使って運ばれた物資の集積所として使われていたのだろう。
[attachment=0]IMG_2611.jpg[/attachment]
・700からしばらくは宇賀渓の分岐方向に牛道は進んでいく。シダにおおわれた平坦地ではわからなかった溝道があらわれる。登山道は尾根筋を上って行くが、牛道は後谷源頭部をトラバースしながら遠足尾根に近づいていく。溝道の途切れた地点から獣道が続いているので、この道を追う。このあたりは以外にも緩やかな傾斜で牛道が簡単につけられそうな場所だった。獣道をトラバースしていくと遠足尾根の780mのコルに着いた。ここからは、遠足尾根の溝道が続いている。帰りに登山道を歩き確認したが、このコルより先に溝道は見つからなかったので、牛道は・700から後谷側をトラバースしながら遠足尾根の溝道につながっていたのだろう。
[attachment=2]IMG_5725.jpg[/attachment]
遠足尾根のゆるやかな溝道が続いている。大岩を削って切通のようになった場所もある。当初、この溝道が牛道だとはなぜだか思わなかった。遠足尾根は今でこそ歩く人も多いが、昔は登山道として使うことはほとんど無かった。尾根上に途中まで立派な溝道がありコルからは消えてしまっているのが、不自然なことだとは思わなかった。
[attachment=1]IMG_5723.jpg[/attachment]
5m先も見えないガスの中を歩く。登山道は整備され歩きやすい。笹は刈り込まれ、昔とは大違い。登山道は溝道に沿ってつけられている。登山道には七大字生産森林組合のナンバープレートがつけられており道案内をしてくれる。七大字生産森林組合は石槫七大字生産森林組合の略で、江戸時代から現在に至るまで石槫村の領域となっているようだ。
大安町誌の中に気になる記述を見つけた「勢国見聞集にのせる元禄13年(1700年)の員弁郡各村の村高の中に、宇賀・石槫南村・石槫北村の産物に薪がある」というものである。川向うの治田鉱山が、元禄の再興といわれる大繁昌をしていた時期と重なる。江戸時代に治田鉱山にあった甘露寺旧記録に「特に南河内における採鉱が繁昌し、その精錬のため江州の木立や根までも掘りつくしてしまったので、三日三夜で道をつけ福岡野まで鉱石を運び出し、伊尾熊野(伊勢、尾張、熊野の略)から木炭を買い上げて灰吹きをはじめたという。」記述があり、まさしくこの時期である。
当時の銅の精錬は、細かく砕いた鉱石を、まず、焼窯に入れ、薪で融解点以下の温度で、数日あぶりやきし、焼鉱を床吹炉で木炭の火熱によって溶解し、硫化銅を出す「酸化精錬法」が主流だった。軽い木炭は買い上げるとして、薪は地元で調達せざるおえなかった。
当時の治田鉱山の記録には、銅鉱石3800貫で68・7貫の荒銅を得るために、木炭1200貫、薪2100貫を要している。これは、鉱石10貫について木炭3・16貫、薪5・53貫を消費していることになる。これだけの需要をこなすには竜ヶ岳の木を切り出すしかないだろう。これらの古文書の記述を見る限りでは、竜ヶ岳の木を牛道を使い搬出し薪として出荷したと考えるのが自然だ。つまり、この時の大伐採により竜ヶ岳は丸刈りにされてしまったのだろう。
溝道に沿った登山道を歩きカズラ谷登山道の分岐に到着。分岐を少し上ると獣道がトラバースしていく。ここがクラに向かう牛道の分岐になる。朝からの雨で、笹道を歩くとびしょ濡れになる。ヤブを過ぎるとつづら折れの牛道が見えてきた。このままゆったりと上って行くとクラの鞍部に着いた。
牛道は、クラの鞍部からトラバースしてカズラ谷道分岐に至り、そこから遠足尾根を使い780mのコルまで続く、ここから・700に向かいトラバースしていき、そこから南東尾根を使い現在の直線林道をなぞるように下り治田鉱山の拠点として栄え、銀銅山奉行所のあった新町に至ったのではないかと思う。そして、元禄時代には、新町を経て鉱山道(かなやまみち)を使って福岡野で精錬するために竜ヶ岳で伐採された木が薪として運ばれたのだと考えた。
牛道の特徴は、重い荷物を運ぶために出来るだけ道に高低差をつけないように急な斜面ではつづら折れに道をつけたりピークを通らずにトラバースするなどして道をつけている所だろう。牛道は黄色テープの道をぬうようにしてつけられている。尾根が狭くなった場所では稜線を少しくだったあたりにつけられていた。今日はガスの中の歩きなので汗もさほどかかずに忘れられた登山道を快適に上って行く。