【日 付】2025年2月15日(土)
【山 域】高見山地
【コース】大河内小8:15---9:40勢津---10:25坂内---12:50大河内小
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#16/34.526624/13 ... z0r0s0m0f1
掘坂山は古代より信仰の対象とされ、いくつかの寺院があった。南北朝時代には北畠の大河内御所や坂内御所に菩提寺や関連寺院が点在していた。山麓の大河内から勢津を経て坂内に続く山越えの道を歩くことにした。
大河内小学校より地図にある旧道を歩く。集落内の路地で車は通れないが続いている。この道は学校みちと呼ばれ勢津の児童生徒の通学路で、「数十年前まではたくさん歩いていた。」と出会ったおばあさんも言っていた。八雲八柱神社と養徳寺をぬうようにつながっている。養徳寺は応永10年(1403年)に北畠満雅が建立した寺で、入口に大日の石碑が立っていた。
道は川沿いに進む。石積みの耕地に植林したようで、地図には田んぼマークがある。石垣で守られた川沿いの道にそって石積みの田んぼは延々と続く。途中で川沿いの道と尾根を巻くようにつけられた道に分かれる。尾根沿いの道が新しい道のようなので、川沿いの旧道を進む。何カ所か崩れている場所があるものの道はつながり、植林地の田んぼ跡の石積みも旧道にそって広がっている。高い所に新道のブロックが見え、合流点は近い。浅間祭で掲げる竹の先に飾られた幣が見える。峠になっていて大日如来の石碑と地蔵が2体祀られていた。切通の峠を下るとすぐに勢津で、勢津の浅間さんのようだ。勢津は伊勢寺、与原とともに掘坂山の浅間祭礼に弊を担ぎ上げてきた集落だ。数年前より過疎化によって幣を担ぎ上げる人が集まらない事から掘坂山への幣の担ぎ上げから撤退しており、どうなったのだろうと思っていた。集落の浅間祭は今も続いており、村人の想いが伝わってくる。峠口の祠には辰砂の赤が残っている不動明王が祀られていた。
人けの少ない勢津集落を歩き地図に寺院マークのある勢津集会所による。石仏や南無阿弥陀仏の石碑は残っているが寺は無く、墓地だけが残っている。ここからガイコツ峠への道が続いている。植林用のコンクリートの道が続いているが通る人はいないようだ。この谷は水が少なく石垣の耕地には水瓶が埋められている場所もよく見かけた。大きく掘削した切通を過ぎた小さい切通の峠がガイコツ峠で、天正4年(1576年)に織田軍勢が坂内城を攻めた時に多数の戦死者がでて、その遺骨が残っていたことがらこの名がついた。
峠下には立派な石積みが3段あって建物があったようだ。それから出てくる耕作地の石積みとは作りが違う。脱穀機の残骸が残っていたので、田んぼがあったようだ。坂内城に向かう石垣も残っている。左手の平坦地に城があり、小学校跡地に坂内御所があった。ガイコツ峠の道は坂内御所に大河内第二尋常小学校があった当時は勢津の児童が戦前まで通っていた。当時は植林されていない棚田が連なる明るい道だったのだろう。歩いてきた大河内から勢津をへて坂内に至る峠路は、明治以降は児童生徒が歩く学校道で、戦国時代には大河内城と坂内城をつなぐ軍事路だった。
大河内は織田勢の侵攻進む中で北畠が最後に拠点を置いた場所で、それまで拠点が置かれた多気御所につながる「たげ道」と丹生水銀鉱山につながる「大師道」が交差する交通の要衝になる。
【高見山地】掘坂山を廻る山路 大河内の峠路
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【高見山地】掘坂山を廻る山路 大河内の峠路
最後に編集したユーザー わりばし [ 2025年3月12日(水) 05:36 ], 累計 1 回
【高見山地】掘坂山を廻る山路 忍坊寺と浅間祭事
【日 付】2025年3月8日(土)
【山 域】高見山地
【コース】勢津P9:10---10:25忍坊寺---11:20掘坂山---12:30勢津P
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#16/34.540429/13 ... z0r0s0m0f1
掘坂山の山麓、大河内には平安時代の仏像が4体残されており、その内3体は聖(しょう)観音菩薩だ。西蓮寺の聖観音菩薩は、右手は垂下して与願の印を結び、左手は屈臂(くっぴ)して蓮華を持つ平安時代初期の木像で、掘坂山中にあった忍坊寺にあった仏像だという言い伝えがある。勢津より忍坊寺を探り掘坂山を経て勢津道で周回することにした。
国道166を辻原から勢津に向かう。勢津は山越えで大河内と阪内につながっており山越えで歩いた際には遠いという感じはしなかったが、車道で川沿いに向かうと距離がある。周辺集落に比べて過疎化が進んでいる要因だろう。勢津高区配水所に駐車する。
忍坊寺跡は掘坂山から南西に向かう破線道上のP670の南の小島のような標高640の平坦地にある。目的地の下手まで林道を歩き、取りつくことにした。勢津道の分岐をすぎ林道は標高を上げていく。この谷には水が流れており上部まで耕作地の石積みが続いている。林道も現役で使われており、植林も間伐がされており手入れがされている。寺跡のある尾根に杣道を使い取りつく。寺跡に近づくにつれ道ははっきりしてくる。植林の台地に平地があり植林されていない所が忍坊寺跡になる。寺を支えた礎石がいくつもあり、礎石と礎石をとりまく小石もある。東西の間口が5m40cm、奥行6mのお堂だったことが調査からわかっている。礎石のある場所は見事に平らになっており、寺のあった当時をしのばせる。ここは忍坊平と呼ばれ、現在は掘坂平と言われている。これまでいくつかの山中の寺跡に出向いたが、礎石がこれだけしっかりと残っているのは初めてだ。
「光り輝く本尊が平尾(松阪市町平尾町)の海を照らし漁の妨げとなった。困った漁師たちは頼んでご本尊を人里に下りて頂いた。」という言い伝えがある。普通は海上交通の目印として歓待される状態なのだが不思議だ。住むにも参るのにも便利な人里に下りる理由として使われたようだ。忍坊平からは伊勢湾が見える。春分の日と秋分の日には太陽が神島から出て掘坂山に沈むのがお堂から望めたことだろう。ただ周辺に水場が無いので、生活するのは大変だっただろう。
忍坊寺は真言宗で、修験の修行の拠点として忍坊平は使われていたのだろう。頂上近くの標高の高い場所だけに掘坂山全体をみての宗教的位置づけがあるのかもしれない。
忍坊平を少し上ると破線道に合流し、登山道を進むと山頂が見えてきた。手前にある二峯には、「伊勢富士」と呼ばれる掘坂山の本地仏になる金剛界大日如来が祀られている。山頂には掘坂大権現の大きな祠がある。「権現」は「仮の姿で現れる」意味で、掘坂大権現の本地は大日如来で、掘坂大権現と大日如来は同じ仏になる。大日如来はしめ縄のネックレスをつけ、山頂には祭事で使われた弊が残されていた。
稜線を歩いた先の雌岳に着く。富士型の屋根を載せた石室に、女顔の大日如来石像が祀られており、女人結界の地になっている。掘坂山山頂には3つの尾根から破線道がつながっている。東尾根の結界が雌岳で、北尾根の結界が中宮八幡宮になる。残る南西尾根の結界が忍坊寺だったように思う。忍坊寺が人里に下りたきっかけと言われている平尾の海は、掘坂山祭事で海水を汲む作法をしていた大口浦と場所が同じなのも気になる。忍坊寺が掘坂山の参詣曼荼羅を形作る一つのピースだったことは間違いない。
雌岳を少し戻り、浅間祭事に使われた勢津道に入る。勢津、伊勢寺、与原の山麓の三郷が合同で掘坂山浅間祭事を行っていた。頂上で前日の夜、根付きの竹弊を各郷から持ち寄り、それらを並べ高さを競う。選ばれた弊は掘坂大権現の祠に建てられ、翌朝の日の出を待った。この祭事から勢津は過疎・高齢化を理由に数年前に撤退している。長い竹弊を担ぎ上げた道だけに、九十九折も終始ゆるやかに作られおり、竹が引っ掛かりそうな木はあらかじめ伐採されていた。歩きやすい道を下ると、急な林道に出た。ここには山頂方向に向かって鳥居が立てられ、弊が立てられていた。山頂への竹弊の運び込みからは撤退したものの登山口まで来て弊を立てるという祭事は引き続き行われている。勢津の人々の思いが伝わってくる。
掘坂山麓には古くから寺院が建立され、修験道の行場として栄えた。地域に根付いた大日如来が江戸時代に入り浅間信仰の対象として生き残り今に引き継がれているのがわかる。勢津からの周回は、歩く人もおらず静かな山歩きを楽しめた。
【山 域】高見山地
【コース】勢津P9:10---10:25忍坊寺---11:20掘坂山---12:30勢津P
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#16/34.540429/13 ... z0r0s0m0f1
掘坂山の山麓、大河内には平安時代の仏像が4体残されており、その内3体は聖(しょう)観音菩薩だ。西蓮寺の聖観音菩薩は、右手は垂下して与願の印を結び、左手は屈臂(くっぴ)して蓮華を持つ平安時代初期の木像で、掘坂山中にあった忍坊寺にあった仏像だという言い伝えがある。勢津より忍坊寺を探り掘坂山を経て勢津道で周回することにした。
国道166を辻原から勢津に向かう。勢津は山越えで大河内と阪内につながっており山越えで歩いた際には遠いという感じはしなかったが、車道で川沿いに向かうと距離がある。周辺集落に比べて過疎化が進んでいる要因だろう。勢津高区配水所に駐車する。
忍坊寺跡は掘坂山から南西に向かう破線道上のP670の南の小島のような標高640の平坦地にある。目的地の下手まで林道を歩き、取りつくことにした。勢津道の分岐をすぎ林道は標高を上げていく。この谷には水が流れており上部まで耕作地の石積みが続いている。林道も現役で使われており、植林も間伐がされており手入れがされている。寺跡のある尾根に杣道を使い取りつく。寺跡に近づくにつれ道ははっきりしてくる。植林の台地に平地があり植林されていない所が忍坊寺跡になる。寺を支えた礎石がいくつもあり、礎石と礎石をとりまく小石もある。東西の間口が5m40cm、奥行6mのお堂だったことが調査からわかっている。礎石のある場所は見事に平らになっており、寺のあった当時をしのばせる。ここは忍坊平と呼ばれ、現在は掘坂平と言われている。これまでいくつかの山中の寺跡に出向いたが、礎石がこれだけしっかりと残っているのは初めてだ。
「光り輝く本尊が平尾(松阪市町平尾町)の海を照らし漁の妨げとなった。困った漁師たちは頼んでご本尊を人里に下りて頂いた。」という言い伝えがある。普通は海上交通の目印として歓待される状態なのだが不思議だ。住むにも参るのにも便利な人里に下りる理由として使われたようだ。忍坊平からは伊勢湾が見える。春分の日と秋分の日には太陽が神島から出て掘坂山に沈むのがお堂から望めたことだろう。ただ周辺に水場が無いので、生活するのは大変だっただろう。
忍坊寺は真言宗で、修験の修行の拠点として忍坊平は使われていたのだろう。頂上近くの標高の高い場所だけに掘坂山全体をみての宗教的位置づけがあるのかもしれない。
忍坊平を少し上ると破線道に合流し、登山道を進むと山頂が見えてきた。手前にある二峯には、「伊勢富士」と呼ばれる掘坂山の本地仏になる金剛界大日如来が祀られている。山頂には掘坂大権現の大きな祠がある。「権現」は「仮の姿で現れる」意味で、掘坂大権現の本地は大日如来で、掘坂大権現と大日如来は同じ仏になる。大日如来はしめ縄のネックレスをつけ、山頂には祭事で使われた弊が残されていた。
稜線を歩いた先の雌岳に着く。富士型の屋根を載せた石室に、女顔の大日如来石像が祀られており、女人結界の地になっている。掘坂山山頂には3つの尾根から破線道がつながっている。東尾根の結界が雌岳で、北尾根の結界が中宮八幡宮になる。残る南西尾根の結界が忍坊寺だったように思う。忍坊寺が人里に下りたきっかけと言われている平尾の海は、掘坂山祭事で海水を汲む作法をしていた大口浦と場所が同じなのも気になる。忍坊寺が掘坂山の参詣曼荼羅を形作る一つのピースだったことは間違いない。
雌岳を少し戻り、浅間祭事に使われた勢津道に入る。勢津、伊勢寺、与原の山麓の三郷が合同で掘坂山浅間祭事を行っていた。頂上で前日の夜、根付きの竹弊を各郷から持ち寄り、それらを並べ高さを競う。選ばれた弊は掘坂大権現の祠に建てられ、翌朝の日の出を待った。この祭事から勢津は過疎・高齢化を理由に数年前に撤退している。長い竹弊を担ぎ上げた道だけに、九十九折も終始ゆるやかに作られおり、竹が引っ掛かりそうな木はあらかじめ伐採されていた。歩きやすい道を下ると、急な林道に出た。ここには山頂方向に向かって鳥居が立てられ、弊が立てられていた。山頂への竹弊の運び込みからは撤退したものの登山口まで来て弊を立てるという祭事は引き続き行われている。勢津の人々の思いが伝わってくる。
掘坂山麓には古くから寺院が建立され、修験道の行場として栄えた。地域に根付いた大日如来が江戸時代に入り浅間信仰の対象として生き残り今に引き継がれているのがわかる。勢津からの周回は、歩く人もおらず静かな山歩きを楽しめた。
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グー(伊勢山上住人)
- 記事: 2412
- 登録日時: 2011年2月20日(日) 10:10
- 連絡する:
Re: 【高見山地】掘坂山を廻る山路 大河内の峠路
わりばしさん、こんばんは。
近所だからとたかをくくって読み始めたが・・・・
チンプンカンプン。ドコがドコやら?
地形図を開いて辿りだすがあらぬ方向に進んでしまった。
大河内小学校より地図にある旧道を歩く。どれが旧道なのやら?
途中で川沿いの道と尾根を巻くようにつけられた道に分かれる。たぶんここの描写だろうな。
ガイコツ峠、多数の戦死者の遺骨が残っていたことがらこの名がついた。いつもながらよく調べていますね。
現役引退後は郷土史の編集者でしょうか?
【高見山地】掘坂山地形図の表記は「掘」ではなく「堀」となっていますが?
忍坊寺跡はP670の南の小島のような標高640の平坦地にある。これはすぐに見つかりました。
礎石がこれだけしっかりと残っているのは初めてだ。見事に残っていますね。埋まりもせず、崩れもせずに。
忍坊平を少し上ると破線道に合流し、登山道を進むと山頂が見えてきた。堀坂峠からピストンだけで南西尾根の破線道に入ったことがありません。
忍坊寺の礎石を見に行ってみようかな。
グー(伊勢山上住人)
Re: 【高見山地】掘坂山を廻る山路 大河内の峠路
おはようございます、グーさん。
大河内小学校より地図にある旧道を歩く。
どれが旧道なのやら?
集落内は寺や神社などの主要施設をつなぐようにしてつけられている事が多いです。
途中で川沿いの道と尾根を巻くようにつけられた道に分かれる。
たぶんここの描写だろうな。
当たりです。
現役で使われているのが尾根の道で川沿いの道が昔の道です。
ガイコツ峠、多数の戦死者の遺骨が残っていたことがらこの名がついた。
いつもながらよく調べていますね。
現役引退後は郷土史の編集者でしょうか?
大河内はおもしろいですよ。
大河内城の戦いで焼かれていてもおかしくない
平安時代の仏像がいくつも残っています。
【高見山地】掘坂山
地形図の表記は「掘」ではなく「堀」となっていますが?
気づかんかった、これまでのも含めて修正しなくっちゃ。
水銀採掘の時に山を掘ったイメージで書いていました。
忍坊寺跡はP670の南の小島のような標高640の平坦地にある。
これはすぐに見つかりました。
昔は、大口浦からもよく見えたと思います。
礎石がこれだけしっかりと残っているのは初めてだ。
見事に残っていますね。埋まりもせず、崩れもせずに。
100年ぐらい前に廃寺になったものの勢津の伝承で場所も特定できたようです。
忍坊平を少し上ると破線道に合流し、登山道を進むと山頂が見えてきた。
堀坂峠からピストンだけで南西尾根の破線道に入ったことがありません。
忍坊寺の礎石を見に行ってみようかな。
いい所ですよ。
人気スポットの堀坂山とは思えない静寂が楽しめます。
大河内小学校より地図にある旧道を歩く。どれが旧道なのやら?
集落内は寺や神社などの主要施設をつなぐようにしてつけられている事が多いです。
途中で川沿いの道と尾根を巻くようにつけられた道に分かれる。たぶんここの描写だろうな。
当たりです。
現役で使われているのが尾根の道で川沿いの道が昔の道です。
ガイコツ峠、多数の戦死者の遺骨が残っていたことがらこの名がついた。いつもながらよく調べていますね。
現役引退後は郷土史の編集者でしょうか?
大河内はおもしろいですよ。
大河内城の戦いで焼かれていてもおかしくない
平安時代の仏像がいくつも残っています。
【高見山地】掘坂山地形図の表記は「掘」ではなく「堀」となっていますが?
気づかんかった、これまでのも含めて修正しなくっちゃ。
水銀採掘の時に山を掘ったイメージで書いていました。
忍坊寺跡はP670の南の小島のような標高640の平坦地にある。これはすぐに見つかりました。
昔は、大口浦からもよく見えたと思います。
礎石がこれだけしっかりと残っているのは初めてだ。見事に残っていますね。埋まりもせず、崩れもせずに。
100年ぐらい前に廃寺になったものの勢津の伝承で場所も特定できたようです。
忍坊平を少し上ると破線道に合流し、登山道を進むと山頂が見えてきた。堀坂峠からピストンだけで南西尾根の破線道に入ったことがありません。
忍坊寺の礎石を見に行ってみようかな。
いい所ですよ。
人気スポットの堀坂山とは思えない静寂が楽しめます。
Re: 【高見山地】掘坂山を廻る山路 大河内の峠路
わりばしさん、こんばんは
P2150010.JPG
現在は担ぎ手はいるのですか?
[
宮指路
堀坂山はかなり前に伊勢山上に行った帰りに堀坂峠から登ったことがありますが、歴史的にこれほど石碑が多い道があるとは知りませんでした。掘坂山は古代より信仰の対象とされ、いくつかの寺院があった。南北朝時代には北畠の大河内御所や坂内御所に菩提寺や関連寺院が点在していた。山麓の大河内から勢津を経て坂内に続く山越えの道を歩くことにした。
当時は小学校があって多くの児童が通学していたのですね。今は廃校になったのかな?大河内小学校より地図にある旧道を歩く。集落内の路地で車は通れないが続いている。この道は学校みちと呼ばれ勢津の児童生徒の通学路で、「数十年前まではたくさん歩いていた。」と出会ったおばあさんも言っていた。八雲八柱神社と養徳寺をぬうようにつながっている。養徳寺は応永10年(1403年)に北畠満雅が建立した寺で、入口に大日の石碑が立っていた。
P2150010.JPG
幣とはお供え物のことでしょうか?勢津は伊勢寺、与原とともに掘坂山の浅間祭礼に弊を担ぎ上げてきた集落だ。数年前より過疎化によって幣を担ぎ上げる人が集まらない事から掘坂山への幣の担ぎ上げから撤退しており、どうなったのだろうと思っていた。集落の浅間祭は今も続いており、村人の想いが伝わってくる。峠口の祠には辰砂の赤が残っている不動明王が祀られていた。
現在は担ぎ手はいるのですか?
ガイコツ峠というくらいだから、その当時は道のあちこちにガイコツがあったのでしょうね人けの少ない勢津集落を歩き地図に寺院マークのある勢津集会所による。石仏や南無阿弥陀仏の石碑は残っているが寺は無く、墓地だけが残っている。ここからガイコツ峠への道が続いている。植林用のコンクリートの道が続いているが通る人はいないようだ。この谷は水が少なく石垣の耕地には水瓶が埋められている場所もよく見かけた。大きく掘削した切通を過ぎた小さい切通の峠がガイコツ峠で、天正4年(1576年)に織田軍勢が坂内城を攻めた時に多数の戦死者がでて、その遺骨が残っていたことがらこの名がついた。
当時この辺りは棚田が多くあって、農業を営む人も多い居たのでしょう。しかしガイコツ峠が通学路だったとは不気味な話です。峠下には立派な石積みが3段あって建物があったようだ。それから出てくる耕作地の石積みとは作りが違う。脱穀機の残骸が残っていたので、田んぼがあったようだ。坂内城に向かう石垣も残っている。左手の平坦地に城があり、小学校跡地に坂内御所があった。ガイコツ峠の道は坂内御所に大河内第二尋常小学校があった当時は勢津の児童が戦前まで通っていた。当時は植林されていない棚田が連なる明るい道だったのだろう。歩いてきた大河内から勢津をへて坂内に至る峠路は、明治以降は児童生徒が歩く学校道で、戦国時代には大河内城と坂内城をつなぐ軍事路だった。
[
戦国時代は多くの戦があり、多数の戦死者も出たのでしょう。color=#004040] 大河内は織田勢の侵攻進む中で北畠が最後に拠点を置いた場所で、それまで拠点が置かれた多気御所につながる「たげ道」と丹生水銀鉱山につながる「大師道」が交差する交通の要衝になる。[/color]
宮指路
Re: 【高見山地】掘坂山を廻る山路 大河内の峠路
おはようございます、宮指路さん。
奈良の大仏に使った水銀の9割といわれる丹生水銀鉱への分岐点ですので古代より栄えたようです。
小学校は残っています。
昔は峠越え、今はスクールバスでしょうね。
現在は担ぎ手はいるのですか?
弊は竹の先に紙垂れをつけた物で、ここでは幣ではなくなぜか弊という字を使うんですよね。
勢津は担ぎ手不足で撤退したようです。
ただ伊勢寺と与原の2つの集落は現在も担ぎ上げています。
北畠氏が滅ぼされた当時の名としては死人畑という名も白口峠のあたりにあります。
名前はガイコツですが、植林前は明るい里山だったのだと思います。
[
大河内城がり戦火にまみれたと思うのですが、その中でよく4体の平安時代の仏像が残ったと思います。
堀坂山はかなり前に伊勢山上に行った帰りに堀坂峠から登ったことがありますが、歴史的にこれほど石碑が多い道があるとは知りませんでした。掘坂山は古代より信仰の対象とされ、いくつかの寺院があった。南北朝時代には北畠の大河内御所や坂内御所に菩提寺や関連寺院が点在していた。山麓の大河内から勢津を経て坂内に続く山越えの道を歩くことにした。
奈良の大仏に使った水銀の9割といわれる丹生水銀鉱への分岐点ですので古代より栄えたようです。
当時は小学校があって多くの児童が通学していたのですね。今は廃校になったのかな?大河内小学校より地図にある旧道を歩く。集落内の路地で車は通れないが続いている。この道は学校みちと呼ばれ勢津の児童生徒の通学路で、「数十年前まではたくさん歩いていた。」と出会ったおばあさんも言っていた。八雲八柱神社と養徳寺をぬうようにつながっている。養徳寺は応永10年(1403年)に北畠満雅が建立した寺で、入口に大日の石碑が立っていた。
小学校は残っています。
昔は峠越え、今はスクールバスでしょうね。
幣とはお供え物のことでしょうか?勢津は伊勢寺、与原とともに掘坂山の浅間祭礼に弊を担ぎ上げてきた集落だ。数年前より過疎化によって幣を担ぎ上げる人が集まらない事から掘坂山への幣の担ぎ上げから撤退しており、どうなったのだろうと思っていた。集落の浅間祭は今も続いており、村人の想いが伝わってくる。峠口の祠には辰砂の赤が残っている不動明王が祀られていた。
現在は担ぎ手はいるのですか?
弊は竹の先に紙垂れをつけた物で、ここでは幣ではなくなぜか弊という字を使うんですよね。
勢津は担ぎ手不足で撤退したようです。
ただ伊勢寺と与原の2つの集落は現在も担ぎ上げています。
ガイコツ峠というくらいだから、その当時は道のあちこちにガイコツがあったのでしょうね人けの少ない勢津集落を歩き地図に寺院マークのある勢津集会所による。石仏や南無阿弥陀仏の石碑は残っているが寺は無く、墓地だけが残っている。ここからガイコツ峠への道が続いている。植林用のコンクリートの道が続いているが通る人はいないようだ。この谷は水が少なく石垣の耕地には水瓶が埋められている場所もよく見かけた。大きく掘削した切通を過ぎた小さい切通の峠がガイコツ峠で、天正4年(1576年)に織田軍勢が坂内城を攻めた時に多数の戦死者がでて、その遺骨が残っていたことがらこの名がついた。
北畠氏が滅ぼされた当時の名としては死人畑という名も白口峠のあたりにあります。
当時この辺りは棚田が多くあって、農業を営む人も多い居たのでしょう。しかしガイコツ峠が通学路だったとは不気味な話です。峠下には立派な石積みが3段あって建物があったようだ。それから出てくる耕作地の石積みとは作りが違う。脱穀機の残骸が残っていたので、田んぼがあったようだ。坂内城に向かう石垣も残っている。左手の平坦地に城があり、小学校跡地に坂内御所があった。ガイコツ峠の道は坂内御所に大河内第二尋常小学校があった当時は勢津の児童が戦前まで通っていた。当時は植林されていない棚田が連なる明るい道だったのだろう。歩いてきた大河内から勢津をへて坂内に至る峠路は、明治以降は児童生徒が歩く学校道で、戦国時代には大河内城と坂内城をつなぐ軍事路だった。
名前はガイコツですが、植林前は明るい里山だったのだと思います。
[
戦国時代は多くの戦があり、多数の戦死者も出たのでしょう。color=#004040] 大河内は織田勢の侵攻進む中で北畠が最後に拠点を置いた場所で、それまで拠点が置かれた多気御所につながる「たげ道」と丹生水銀鉱山につながる「大師道」が交差する交通の要衝になる。[/color]
大河内城がり戦火にまみれたと思うのですが、その中でよく4体の平安時代の仏像が残ったと思います。