【日 付】2025年1月13日(月)
【山 域】多気
【コース】近長谷寺P8:55---9:45金剛座寺---10:20法泉寺---11:45近長谷寺P
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#16/34.488147/13 ... z0r0s0m0f1
多気の山中には京の寺院より古い古刹が眠っている。最も古いのが金剛座寺で、白鳳9年に藤原不比等により創建された。白鳳というのは、寺社の縁起に多数散見される私年号で通説では白雉(650年〜654年)の別称と言われているので、659年の創建になる。古事記「手力男坐佐那(あめのたぢからをのみこと)」に記された古里「佐奈神坂」が山麓にあり金剛山は「天手力男尊」の神体山になる。天暦7年(953年)の公文書『近長谷寺資財帳』に穴師寺の寺名が登場し、また延喜5年(905年)の『延喜式神名帳』伊勢国の項に穴師神社の社名が見られ当時は穴師寺と呼ばれていた。丹生山近長谷寺(きんちょうこくじ)は、仁和元年(885年)伊勢の豪族飯高氏が、建立した。どちらも丹生の水銀にかかわりが深く、多気の山中に古刹があるゆえんだ。奈良の大仏の金メッキの材料の9割が丹生の水銀であることがわかっており、その影響力は古代より大きかった。
近長谷寺の駐車場に歴史の散歩道マップという看板がり、近長谷寺(長谷)から金剛座寺(神坂)を経て法泉寺(相可)につながる道があるようだ。ただ、通行不可が3カ所に崩落が1カ所とマップに記載されており現在は歩かれていないようだ。今回の目的はこの古道をつなぐことなので、このルートを追うことにした。
急なコンクリート道を上ると近長谷寺で、本堂と庫裏に鐘撞堂があり、本尊の十一面観音と大日如来が安置されている。十一面観音は6.3mあり錫杖を持った長谷寺型の仏像で平安後期の物で、大日如来は藤原時代の物だ。ただ祝日も開館していると思ったのだが、日曜のみで見られなかった。境内には七重の石塔、宝篋印塔があり本堂正面には護摩焚き場があった。東方向には梵字が刻まれた多賀大明神の石碑があり、長谷からつながる参道口には鳥居があった。周辺には石積みの平地や造成台地があり、宿坊や末寺の跡だろう。
寺を上った城山の山頂部には近津長谷城(ちかつはせじょう)があり中世の城跡が残っている。石垣に囲まれた崩れた小社があった。本来は櫛田川中流域から伊勢湾を見渡せる山頂だったようだが、現在は竹林におおわれて見えない。本丸だけでなく二ノ丸や三ノ丸ような地形も残されており大規模な城跡だ。南北朝時代の楠木正行の挙兵の時に、兵糧米・具足を準備したのは度会家行で伊勢神宮外宮の禰宜で、南朝の一大勢力だった。南北朝時代の神仏習合と宗教と政治のつながりの深さを感じる。
寺に戻り参道を少し下った境内の東端の石柱から金剛座寺への山道が始まる。江戸時代に、伊勢本街道と和歌山別街道をつなぐ道として、近長谷寺から金剛座寺を経て法泉寺に至る参道として行者や参拝者が通った古道をそのまま使っている。境内の北端の石柱を越え三疋田林道への分岐には仏像が上部に掘られた道標があった。江戸時代の物で、同じような道標がこの後5カ所出てくるが、上部の仏像のある形で残っていたのはここだけだった。
茶臼山のあたりまで近津長谷城の掘割が続いており、南北朝時代には近津長谷城・金剛座寺を結ぶ軍事の道でもあったようだ。尾根道から金剛座寺への分岐には法花の地蔵さんと呼ばれる丁石があり、金剛座寺まで7丁と記されている。分岐の先がヤブだらけでわからない。この上部に出来た多気DFXという電波塔の関係で道が変わったようだ。電波塔まで上り、ここから無理やりヤブを越えて車道に出た。車道を下ると分岐からの道が来ていた。
車道から再び山道に入るとすぐに金剛座寺だった。本堂は戦国時代に戦火で焼かれた後、寛永21年(1640年)に立てられたもので、蛙股には藤原家を表す藤文が彫られている。ラジオの音が流れているものの人はおらず、白い子犬が本堂に座っている。人懐っこくついてくる。山道に行こうとするが、どこまででもついてくる。これはまずいと思い本堂の周辺で巻いて山道を駆け上がった。逃げる途中に神社がある。ゆっくり見ようと思っていた穴師神社で、写真だけ撮って先を急いだ。穴師は水銀を掘る人の事で丹生鉱山との深いかかわりを感じる。潮見峠のあたりから山道は植林の杣道となり車道につながった。
法泉寺に行く道は老人ホームが立ち無くなっている。涵翠池のウォーキングコースを使って向かう。法泉寺は江戸時代の万治2年(1659年)に創建された寺で、山門は竜宮城のような感じだ。本堂も鐘楼もなんとなく昔の中国っぽい。黄檗宗という日本の三禅宗のひとつで、他の禅宗が中国禅を受け入れて日本化したのに比較して来日が新しいことと、意図的に中国禅の正統を自任した宗派だ。江戸時代に幕府を通じて大名達の支援を受け広まったようだ。住職のいない寺で周辺の公園と違い静かなものだ。
「ビーフロード」と名付けられた車道で長谷に向かう。数年前に出来た道で、それまでは伊勢本街道と和歌山別街道をつなぐ山腹道として昔からあり、歴史的に重要な道だった。長谷の集落に入り、長谷観音道の大きな道標で参道に入る。参道には庚申や山の神
地蔵塚など時代の流れに合わせて地元の人達に守られてきたことがわかる。観音参道で近長谷寺まで歩き、駐車場に戻った。
近長谷寺・金剛座寺・法泉寺を結ぶ巡礼道は、たくさんの歴史遺産が残っている。伊勢神宮に近いだけに神仏分離の嵐は激しかったと思うが、近長谷寺・金剛座寺は神仏習合の色合いが濃く残っており、地元の人たちが守ったようだ。
【多気】近長谷寺・金剛座寺・法泉寺の巡礼道
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新規トピックは文頭に以下のテンプレートをなるべく使ってください。
【 日 付 】
【 山 域 】
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※ユーザーでなくても返信が可能です。ユーザー名に名前を入れて返信してください。
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Re: 【多気】近長谷寺・金剛座寺・法泉寺の巡礼道
わりばしさん,こんにちは。話題がマ二アックすぎて,みなさんレスつけにくいようですね。
地形図を見ながら読ませていただきました。
多気の山中には京の寺院より古い古刹が眠っている。最も古いのが金剛座寺で、白鳳9年に藤原不比等により創建された。白鳳というのは、寺社の縁起に多数散見される私年号で通説では白雉(650年〜654年)の別称と言われているので、659年の創建になる。古事記「手力男坐佐那(あめのたぢからをのみこと)」に記された古里「佐奈神坂」が山麓にあり金剛山は「天手力男尊」の神体山になる。天暦7年(953年)の公文書『近長谷寺資財帳』に穴師寺の寺名が登場し、また延喜5年(905年)の『延喜式神名帳』伊勢国の項に穴師神社の社名が見られ当時は穴師寺と呼ばれていた。丹生山近長谷寺(きんちょうこくじ)は、仁和元年(885年)伊勢の豪族飯高氏が、建立した。どちらも丹生の水銀にかかわりが深く、多気の山中に古刹があるゆえんだ。奈良の大仏の金メッキの材料の9割が丹生の水銀であることがわかっており、その影響力は古代より大きかった。
去年,和歌山別街道を歩いた時にこの近くを通りました。近長谷寺へ寄って行こうかとも思ったのですが,先が長そうなので素通りしました。
丹生では有名な丹生太師に寄りましたが,丹生の水銀と丹生太師との関連性には思い至らずそのまま通り過ぎてしまいました。丹生太師があそこに置かれたのは水銀が絡んでいたんですね。
私にとっては,立梅用水の方が面白くてそっちの方に意識がいってしまいました。用水のすぐ近くに,昔の水銀鉱山の坑口が残されていますが,人一人が腹ばいで通り抜けられるくらいの狭い穴で,昔の坑夫達の劣悪な環境が偲ばれました。
急なコンクリート道を上ると近長谷寺で、本堂と庫裏に鐘撞堂があり、本尊の十一面観音と大日如来が安置されている。十一面観音は6.3mあり錫杖を持った長谷寺型の仏像で平安後期の物で、大日如来は藤原時代の物だ。ただ祝日も開館していると思ったのだが、日曜のみで見られなかった。境内には七重の石塔、宝篋印塔があり本堂正面には護摩焚き場があった。東方向には梵字が刻まれた多賀大明神の石碑があり、長谷からつながる参道口には鳥居があった。周辺には石積みの平地や造成台地があり、宿坊や末寺の跡だろう。
近長谷寺は名前が「長谷寺」とつくし,長谷寺様式の十一面観音があるので,奈良の長谷寺の末寺かと思ったんですが,そうではないようですね。丹生太師と兄弟関係にあるということですね。
昔,水銀は仏像の金メッキに使われていますので,現在では想像できないほど重要だったんでしょうか。この地域は,今では静かな山村ですが,昔は地域の中心地だったんでしょうか。
寺を上った城山の山頂部には近津長谷城(ちかつはせじょう)があり中世の城跡が残っている。石垣に囲まれた崩れた小社があった。本来は櫛田川中流域から伊勢湾を見渡せる山頂だったようだが、現在は竹林におおわれて見えない。本丸だけでなく二ノ丸や三ノ丸ような地形も残されており大規模な城跡だ。南北朝時代の楠木正行の挙兵の時に、兵糧米・具足を準備したのは度会家行で伊勢神宮外宮の禰宜で、南朝の一大勢力だった。南北朝時代の神仏習合と宗教と政治のつながりの深さを感じる。
畠山氏の中心地が美杉村の多気にあったので,伊勢のこのあたりは南北朝時代の名残が多くあるんですね。楠木正行はこの辺りまで来たんですか?
寺に戻り参道を少し下った境内の東端の石柱から金剛座寺への山道が始まる。江戸時代に、伊勢本街道と和歌山別街道をつなぐ道として、近長谷寺から金剛座寺を経て法泉寺に至る参道として行者や参拝者が通った古道をそのまま使っている。境内の北端の石柱を越え三疋田林道への分岐には仏像が上部に掘られた道標があった。江戸時代の物で、同じような道標がこの後5カ所出てくるが、上部の仏像のある形で残っていたのはここだけだった。
伊勢本街道と和歌山別街道はこの辺りで並行して走っていますが,なぜ二つの街道がすぐ近くにあったのだろうか。どちらか一本にした方が便利だったと思うんですが。街道が成立した年代の違いなんだろうか。
ラジオの音が流れているものの人はおらず、白い子犬が本堂に座っている。人懐っこくついてくる。山道に行こうとするが、どこまででもついてくる。これはまずいと思い本堂の周辺で巻いて山道を駆け上がった。
わりばしさんに飼ってもらいたかったのかも
。
近長谷寺・金剛座寺・法泉寺を結ぶ巡礼道は、たくさんの歴史遺産が残っている。伊勢神宮に近いだけに神仏分離の嵐は激しかったと思うが、近長谷寺・金剛座寺は神仏習合の色合いが濃く残っており、地元の人たちが守ったようだ。
なるほど,面白かったです。わりばしさんと一緒に歩かせてもらいました。
これからも超マニアックなレポ楽しみにしています。
地形図を見ながら読ませていただきました。
多気の山中には京の寺院より古い古刹が眠っている。最も古いのが金剛座寺で、白鳳9年に藤原不比等により創建された。白鳳というのは、寺社の縁起に多数散見される私年号で通説では白雉(650年〜654年)の別称と言われているので、659年の創建になる。古事記「手力男坐佐那(あめのたぢからをのみこと)」に記された古里「佐奈神坂」が山麓にあり金剛山は「天手力男尊」の神体山になる。天暦7年(953年)の公文書『近長谷寺資財帳』に穴師寺の寺名が登場し、また延喜5年(905年)の『延喜式神名帳』伊勢国の項に穴師神社の社名が見られ当時は穴師寺と呼ばれていた。丹生山近長谷寺(きんちょうこくじ)は、仁和元年(885年)伊勢の豪族飯高氏が、建立した。どちらも丹生の水銀にかかわりが深く、多気の山中に古刹があるゆえんだ。奈良の大仏の金メッキの材料の9割が丹生の水銀であることがわかっており、その影響力は古代より大きかった。去年,和歌山別街道を歩いた時にこの近くを通りました。近長谷寺へ寄って行こうかとも思ったのですが,先が長そうなので素通りしました。
丹生では有名な丹生太師に寄りましたが,丹生の水銀と丹生太師との関連性には思い至らずそのまま通り過ぎてしまいました。丹生太師があそこに置かれたのは水銀が絡んでいたんですね。
私にとっては,立梅用水の方が面白くてそっちの方に意識がいってしまいました。用水のすぐ近くに,昔の水銀鉱山の坑口が残されていますが,人一人が腹ばいで通り抜けられるくらいの狭い穴で,昔の坑夫達の劣悪な環境が偲ばれました。
急なコンクリート道を上ると近長谷寺で、本堂と庫裏に鐘撞堂があり、本尊の十一面観音と大日如来が安置されている。十一面観音は6.3mあり錫杖を持った長谷寺型の仏像で平安後期の物で、大日如来は藤原時代の物だ。ただ祝日も開館していると思ったのだが、日曜のみで見られなかった。境内には七重の石塔、宝篋印塔があり本堂正面には護摩焚き場があった。東方向には梵字が刻まれた多賀大明神の石碑があり、長谷からつながる参道口には鳥居があった。周辺には石積みの平地や造成台地があり、宿坊や末寺の跡だろう。近長谷寺は名前が「長谷寺」とつくし,長谷寺様式の十一面観音があるので,奈良の長谷寺の末寺かと思ったんですが,そうではないようですね。丹生太師と兄弟関係にあるということですね。
昔,水銀は仏像の金メッキに使われていますので,現在では想像できないほど重要だったんでしょうか。この地域は,今では静かな山村ですが,昔は地域の中心地だったんでしょうか。
寺を上った城山の山頂部には近津長谷城(ちかつはせじょう)があり中世の城跡が残っている。石垣に囲まれた崩れた小社があった。本来は櫛田川中流域から伊勢湾を見渡せる山頂だったようだが、現在は竹林におおわれて見えない。本丸だけでなく二ノ丸や三ノ丸ような地形も残されており大規模な城跡だ。南北朝時代の楠木正行の挙兵の時に、兵糧米・具足を準備したのは度会家行で伊勢神宮外宮の禰宜で、南朝の一大勢力だった。南北朝時代の神仏習合と宗教と政治のつながりの深さを感じる。畠山氏の中心地が美杉村の多気にあったので,伊勢のこのあたりは南北朝時代の名残が多くあるんですね。楠木正行はこの辺りまで来たんですか?
寺に戻り参道を少し下った境内の東端の石柱から金剛座寺への山道が始まる。江戸時代に、伊勢本街道と和歌山別街道をつなぐ道として、近長谷寺から金剛座寺を経て法泉寺に至る参道として行者や参拝者が通った古道をそのまま使っている。境内の北端の石柱を越え三疋田林道への分岐には仏像が上部に掘られた道標があった。江戸時代の物で、同じような道標がこの後5カ所出てくるが、上部の仏像のある形で残っていたのはここだけだった。伊勢本街道と和歌山別街道はこの辺りで並行して走っていますが,なぜ二つの街道がすぐ近くにあったのだろうか。どちらか一本にした方が便利だったと思うんですが。街道が成立した年代の違いなんだろうか。
ラジオの音が流れているものの人はおらず、白い子犬が本堂に座っている。人懐っこくついてくる。山道に行こうとするが、どこまででもついてくる。これはまずいと思い本堂の周辺で巻いて山道を駆け上がった。わりばしさんに飼ってもらいたかったのかも
近長谷寺・金剛座寺・法泉寺を結ぶ巡礼道は、たくさんの歴史遺産が残っている。伊勢神宮に近いだけに神仏分離の嵐は激しかったと思うが、近長谷寺・金剛座寺は神仏習合の色合いが濃く残っており、地元の人たちが守ったようだ。なるほど,面白かったです。わりばしさんと一緒に歩かせてもらいました。
これからも超マニアックなレポ楽しみにしています。
@シュークリーム@
Re: 【多気】近長谷寺・金剛座寺・法泉寺の巡礼道
わりばしさん、こんにちは。
最も古いのが金剛座寺で、白鳳9年に藤原不比等により創建された。
歴史に疎い私にはよく分かりませんが、藤原不比等って名前聞いたことあるけどどんな人でしたっけ?こういうレベルです。
659年の創建になる。丹生山近長谷寺(きんちょうこくじ)は、仁和元年(885年)伊勢の豪族飯高氏が、建立した。
どちらも本当に古いお寺ですね。
奈良の大仏の金メッキの材料の9割が丹生の水銀であることがわかっており、
大仏さんは金メッキされていたのですか。あんな大きなものに金箔を張り付けるのは大変だからメッキの方が便利ですね。
メッキは電気メッキなんてないから銅鏡に水銀を塗ってアマルガムの膜を作る要領でメッキしたんですかね。
近長谷寺の駐車場に歴史の散歩道マップという看板がり、近長谷寺(長谷)から金剛座寺(神坂)を経て法泉寺(相可)につながる道があるようだ。
歴史マニアでもない私でも歩いてみたくなるコースです。
本尊の十一面観音と大日如来が安置されている。十一面観音は6.3mあり錫杖を持った長谷寺型の仏像で平安後期の物で、大日如来は藤原時代の物だ。
こりゃ、すごい。その歴史と言い規模と言い一見の価値ありですが、日曜日以外見れないのは残念でしたね。
境内の北端の石柱を越え三疋田林道への分岐には仏像が上部に掘られた道標があった。
道標や丁石が残されているのも散策道を彩るアクセントとして散策を盛り上げてくれそうです。
法泉寺は江戸時代の万治2年(1659年)に創建された寺で、山門は竜宮城のような感じだ。
他の二寺に比べてずっと新しいのに本当に竜宮所のようだ。宗教も見た目が大事ってことかな。
近長谷寺・金剛座寺・法泉寺を結ぶ巡礼道は、たくさんの歴史遺産が残っている。伊勢神宮に近いだけに神仏分離の嵐は激しかったと思うが、近長谷寺・金剛座寺は神仏習合の色合いが濃く残っており、地元の人たちが守ったようだ。
最近は宗教の衰退などで廃寺が増えているようですが、これからも地元に愛されて長く保存されるこおとを願います。
最も古いのが金剛座寺で、白鳳9年に藤原不比等により創建された。
歴史に疎い私にはよく分かりませんが、藤原不比等って名前聞いたことあるけどどんな人でしたっけ?こういうレベルです。
659年の創建になる。丹生山近長谷寺(きんちょうこくじ)は、仁和元年(885年)伊勢の豪族飯高氏が、建立した。
どちらも本当に古いお寺ですね。
奈良の大仏の金メッキの材料の9割が丹生の水銀であることがわかっており、
大仏さんは金メッキされていたのですか。あんな大きなものに金箔を張り付けるのは大変だからメッキの方が便利ですね。
メッキは電気メッキなんてないから銅鏡に水銀を塗ってアマルガムの膜を作る要領でメッキしたんですかね。
近長谷寺の駐車場に歴史の散歩道マップという看板がり、近長谷寺(長谷)から金剛座寺(神坂)を経て法泉寺(相可)につながる道があるようだ。
歴史マニアでもない私でも歩いてみたくなるコースです。
本尊の十一面観音と大日如来が安置されている。十一面観音は6.3mあり錫杖を持った長谷寺型の仏像で平安後期の物で、大日如来は藤原時代の物だ。
こりゃ、すごい。その歴史と言い規模と言い一見の価値ありですが、日曜日以外見れないのは残念でしたね。
境内の北端の石柱を越え三疋田林道への分岐には仏像が上部に掘られた道標があった。
道標や丁石が残されているのも散策道を彩るアクセントとして散策を盛り上げてくれそうです。
法泉寺は江戸時代の万治2年(1659年)に創建された寺で、山門は竜宮城のような感じだ。
他の二寺に比べてずっと新しいのに本当に竜宮所のようだ。宗教も見た目が大事ってことかな。
近長谷寺・金剛座寺・法泉寺を結ぶ巡礼道は、たくさんの歴史遺産が残っている。伊勢神宮に近いだけに神仏分離の嵐は激しかったと思うが、近長谷寺・金剛座寺は神仏習合の色合いが濃く残っており、地元の人たちが守ったようだ。
最近は宗教の衰退などで廃寺が増えているようですが、これからも地元に愛されて長く保存されるこおとを願います。
Re: 【多気】近長谷寺・金剛座寺・法泉寺の巡礼道
おはようございます、シュークリームさん。
わりばしさん,こんにちは。話題がマ二アックすぎて,みなさんレスつけにくいようですね。
地形図を見ながら読ませていただきました。
マニアックなレポにお付き合いありがとうございます。
多気の山中には京の寺院より古い古刹が眠っている。最も古いのが金剛座寺で、白鳳9年に藤原不比等により創建された。白鳳というのは、寺社の縁起に多数散見される私年号で通説では白雉(650年〜654年)の別称と言われているので、659年の創建になる。古事記「手力男坐佐那(あめのたぢからをのみこと)」に記された古里「佐奈神坂」が山麓にあり金剛山は「天手力男尊」の神体山になる。天暦7年(953年)の公文書『近長谷寺資財帳』に穴師寺の寺名が登場し、また延喜5年(905年)の『延喜式神名帳』伊勢国の項に穴師神社の社名が見られ当時は穴師寺と呼ばれていた。丹生山近長谷寺(きんちょうこくじ)は、仁和元年(885年)伊勢の豪族飯高氏が、建立した。どちらも丹生の水銀にかかわりが深く、多気の山中に古刹があるゆえんだ。奈良の大仏の金メッキの材料の9割が丹生の水銀であることがわかっており、その影響力は古代より大きかった。
去年,和歌山別街道を歩いた時にこの近くを通りました。近長谷寺へ寄って行こうかとも思ったのですが,先が長そうなので素通りしました。
丹生では有名な丹生太師に寄りましたが,丹生の水銀と丹生太師との関連性には思い至らずそのまま通り過ぎてしまいました。丹生太師があそこに置かれたのは水銀が絡んでいたんですね。
私にとっては,立梅用水の方が面白くてそっちの方に意識がいってしまいました。用水のすぐ近くに,昔の水銀鉱山の坑口が残されていますが,人一人が腹ばいで通り抜けられるくらいの狭い穴で,昔の坑夫達の劣悪な環境が偲ばれました。
丹生大師(神宮寺)内に丹生都姫神社が空海の守護神として祀られています。
これが本来の姿で、全ての始りは水銀です。
立梅用水も水銀の財力が無ければ出来なかったでしょうね。
三井財閥の中興の祖と言われる三井高利の母方やK&Kの国分なんかもこの関係です。
水銀中毒になった坑夫達の互助会組織もあったようです。
急なコンクリート道を上ると近長谷寺で、本堂と庫裏に鐘撞堂があり、本尊の十一面観音と大日如来が安置されている。十一面観音は6.3mあり錫杖を持った長谷寺型の仏像で平安後期の物で、大日如来は藤原時代の物だ。ただ祝日も開館していると思ったのだが、日曜のみで見られなかった。境内には七重の石塔、宝篋印塔があり本堂正面には護摩焚き場があった。東方向には梵字が刻まれた多賀大明神の石碑があり、長谷からつながる参道口には鳥居があった。周辺には石積みの平地や造成台地があり、宿坊や末寺の跡だろう。
近長谷寺は名前が「長谷寺」とつくし,長谷寺様式の十一面観音があるので,奈良の長谷寺の末寺かと思ったんですが,そうではないようですね。丹生太師と兄弟関係にあるということですね。
昔,水銀は仏像の金メッキに使われていますので,現在では想像できないほど重要だったんでしょうか。この地域は,今では静かな山村ですが,昔は地域の中心地だったんでしょうか。
長谷寺の十一面観音も近長谷寺も同じように大規模な仏像で錫杖を持っています。
鉱脈を探す際に用いた錫杖なんでしょうね。
近長谷寺の方が古い形のようです。
寺を上った城山の山頂部には近津長谷城(ちかつはせじょう)があり中世の城跡が残っている。石垣に囲まれた崩れた小社があった。本来は櫛田川中流域から伊勢湾を見渡せる山頂だったようだが、現在は竹林におおわれて見えない。本丸だけでなく二ノ丸や三ノ丸ような地形も残されており大規模な城跡だ。南北朝時代の楠木正行の挙兵の時に、兵糧米・具足を準備したのは度会家行で伊勢神宮外宮の禰宜で、南朝の一大勢力だった。南北朝時代の神仏習合と宗教と政治のつながりの深さを感じる。
畠山氏の中心地が美杉村の多気にあったので,伊勢のこのあたりは南北朝時代の名残が多くあるんですね。楠木正行はこの辺りまで来たんですか?
楠木正行が河内で挙兵した際に、南朝側に立ち近津長谷城で挙兵したのは外宮の度会氏です。
南朝にとっても丹生の水銀の財力はどうしても守りたかったのでしょう。
寺に戻り参道を少し下った境内の東端の石柱から金剛座寺への山道が始まる。江戸時代に、伊勢本街道と和歌山別街道をつなぐ道として、近長谷寺から金剛座寺を経て法泉寺に至る参道として行者や参拝者が通った古道をそのまま使っている。境内の北端の石柱を越え三疋田林道への分岐には仏像が上部に掘られた道標があった。江戸時代の物で、同じような道標がこの後5カ所出てくるが、上部の仏像のある形で残っていたのはここだけだった。
伊勢本街道と和歌山別街道はこの辺りで並行して走っていますが,なぜ二つの街道がすぐ近くにあったのだろうか。どちらか一本にした方が便利だったと思うんですが。街道が成立した年代の違いなんだろうか。
伊勢本街道は伊勢神宮に向かう道で和歌山別街道は丹生に向かう道です。
道が出来た当初の目的の違いかな。
ラジオの音が流れているものの人はおらず、白い子犬が本堂に座っている。人懐っこくついてくる。山道に行こうとするが、どこまででもついてくる。これはまずいと思い本堂の周辺で巻いて山道を駆け上がった。
わりばしさんに飼ってもらいたかったのかも
。
ついてこられて、山寺に戻しに帰るのも面倒だなと思いまして。
近長谷寺・金剛座寺・法泉寺を結ぶ巡礼道は、たくさんの歴史遺産が残っている。伊勢神宮に近いだけに神仏分離の嵐は激しかったと思うが、近長谷寺・金剛座寺は神仏習合の色合いが濃く残っており、地元の人たちが守ったようだ。
なるほど,面白かったです。わりばしさんと一緒に歩かせてもらいました。
これからも超マニアックなレポ楽しみにしています。
ありがとうございます。
このあたりもっと見直されてもいい地域のように思います。
わりばしさん,こんにちは。話題がマ二アックすぎて,みなさんレスつけにくいようですね。
地形図を見ながら読ませていただきました。
マニアックなレポにお付き合いありがとうございます。
多気の山中には京の寺院より古い古刹が眠っている。最も古いのが金剛座寺で、白鳳9年に藤原不比等により創建された。白鳳というのは、寺社の縁起に多数散見される私年号で通説では白雉(650年〜654年)の別称と言われているので、659年の創建になる。古事記「手力男坐佐那(あめのたぢからをのみこと)」に記された古里「佐奈神坂」が山麓にあり金剛山は「天手力男尊」の神体山になる。天暦7年(953年)の公文書『近長谷寺資財帳』に穴師寺の寺名が登場し、また延喜5年(905年)の『延喜式神名帳』伊勢国の項に穴師神社の社名が見られ当時は穴師寺と呼ばれていた。丹生山近長谷寺(きんちょうこくじ)は、仁和元年(885年)伊勢の豪族飯高氏が、建立した。どちらも丹生の水銀にかかわりが深く、多気の山中に古刹があるゆえんだ。奈良の大仏の金メッキの材料の9割が丹生の水銀であることがわかっており、その影響力は古代より大きかった。去年,和歌山別街道を歩いた時にこの近くを通りました。近長谷寺へ寄って行こうかとも思ったのですが,先が長そうなので素通りしました。
丹生では有名な丹生太師に寄りましたが,丹生の水銀と丹生太師との関連性には思い至らずそのまま通り過ぎてしまいました。丹生太師があそこに置かれたのは水銀が絡んでいたんですね。
私にとっては,立梅用水の方が面白くてそっちの方に意識がいってしまいました。用水のすぐ近くに,昔の水銀鉱山の坑口が残されていますが,人一人が腹ばいで通り抜けられるくらいの狭い穴で,昔の坑夫達の劣悪な環境が偲ばれました。
丹生大師(神宮寺)内に丹生都姫神社が空海の守護神として祀られています。
これが本来の姿で、全ての始りは水銀です。
立梅用水も水銀の財力が無ければ出来なかったでしょうね。
三井財閥の中興の祖と言われる三井高利の母方やK&Kの国分なんかもこの関係です。
水銀中毒になった坑夫達の互助会組織もあったようです。
急なコンクリート道を上ると近長谷寺で、本堂と庫裏に鐘撞堂があり、本尊の十一面観音と大日如来が安置されている。十一面観音は6.3mあり錫杖を持った長谷寺型の仏像で平安後期の物で、大日如来は藤原時代の物だ。ただ祝日も開館していると思ったのだが、日曜のみで見られなかった。境内には七重の石塔、宝篋印塔があり本堂正面には護摩焚き場があった。東方向には梵字が刻まれた多賀大明神の石碑があり、長谷からつながる参道口には鳥居があった。周辺には石積みの平地や造成台地があり、宿坊や末寺の跡だろう。近長谷寺は名前が「長谷寺」とつくし,長谷寺様式の十一面観音があるので,奈良の長谷寺の末寺かと思ったんですが,そうではないようですね。丹生太師と兄弟関係にあるということですね。
昔,水銀は仏像の金メッキに使われていますので,現在では想像できないほど重要だったんでしょうか。この地域は,今では静かな山村ですが,昔は地域の中心地だったんでしょうか。
長谷寺の十一面観音も近長谷寺も同じように大規模な仏像で錫杖を持っています。
鉱脈を探す際に用いた錫杖なんでしょうね。
近長谷寺の方が古い形のようです。
寺を上った城山の山頂部には近津長谷城(ちかつはせじょう)があり中世の城跡が残っている。石垣に囲まれた崩れた小社があった。本来は櫛田川中流域から伊勢湾を見渡せる山頂だったようだが、現在は竹林におおわれて見えない。本丸だけでなく二ノ丸や三ノ丸ような地形も残されており大規模な城跡だ。南北朝時代の楠木正行の挙兵の時に、兵糧米・具足を準備したのは度会家行で伊勢神宮外宮の禰宜で、南朝の一大勢力だった。南北朝時代の神仏習合と宗教と政治のつながりの深さを感じる。畠山氏の中心地が美杉村の多気にあったので,伊勢のこのあたりは南北朝時代の名残が多くあるんですね。楠木正行はこの辺りまで来たんですか?
楠木正行が河内で挙兵した際に、南朝側に立ち近津長谷城で挙兵したのは外宮の度会氏です。
南朝にとっても丹生の水銀の財力はどうしても守りたかったのでしょう。
寺に戻り参道を少し下った境内の東端の石柱から金剛座寺への山道が始まる。江戸時代に、伊勢本街道と和歌山別街道をつなぐ道として、近長谷寺から金剛座寺を経て法泉寺に至る参道として行者や参拝者が通った古道をそのまま使っている。境内の北端の石柱を越え三疋田林道への分岐には仏像が上部に掘られた道標があった。江戸時代の物で、同じような道標がこの後5カ所出てくるが、上部の仏像のある形で残っていたのはここだけだった。伊勢本街道と和歌山別街道はこの辺りで並行して走っていますが,なぜ二つの街道がすぐ近くにあったのだろうか。どちらか一本にした方が便利だったと思うんですが。街道が成立した年代の違いなんだろうか。
伊勢本街道は伊勢神宮に向かう道で和歌山別街道は丹生に向かう道です。
道が出来た当初の目的の違いかな。
ラジオの音が流れているものの人はおらず、白い子犬が本堂に座っている。人懐っこくついてくる。山道に行こうとするが、どこまででもついてくる。これはまずいと思い本堂の周辺で巻いて山道を駆け上がった。わりばしさんに飼ってもらいたかったのかも
ついてこられて、山寺に戻しに帰るのも面倒だなと思いまして。
近長谷寺・金剛座寺・法泉寺を結ぶ巡礼道は、たくさんの歴史遺産が残っている。伊勢神宮に近いだけに神仏分離の嵐は激しかったと思うが、近長谷寺・金剛座寺は神仏習合の色合いが濃く残っており、地元の人たちが守ったようだ。なるほど,面白かったです。わりばしさんと一緒に歩かせてもらいました。
これからも超マニアックなレポ楽しみにしています。
ありがとうございます。
このあたりもっと見直されてもいい地域のように思います。
Re: 【多気】近長谷寺・金剛座寺・法泉寺の巡礼道
おはようございます、skywalkeさん。
最も古いのが金剛座寺で、白鳳9年に藤原不比等により創建された。
歴史に疎い私にはよく分かりませんが、藤原不比等って名前聞いたことあるけどどんな人でしたっけ?こういうレベルです。
歴史の教科書に出てきますよ。
かぐや姫に求婚した男の一人です。
659年の創建になる。丹生山近長谷寺(きんちょうこくじ)は、仁和元年(885年)伊勢の豪族飯高氏が、建立した。
どちらも本当に古いお寺ですね。
多気の山中にこんな古刹が眠っているとは。
奈良の大仏の金メッキの材料の9割が丹生の水銀であることがわかっており、
大仏さんは金メッキされていたのですか。あんな大きなものに金箔を張り付けるのは大変だからメッキの方が便利ですね。
メッキは電気メッキなんてないから銅鏡に水銀を塗ってアマルガムの膜を作る要領でメッキしたんですかね。
そうです。そして最終的に火であぶって水銀を蒸発させました。
水銀汚染で病んだ人も多かったでしょうね。
近長谷寺の駐車場に歴史の散歩道マップという看板がり、近長谷寺(長谷)から金剛座寺(神坂)を経て法泉寺(相可)につながる道があるようだ。
歴史マニアでもない私でも歩いてみたくなるコースです。
この道は崩れている所もありますがつながっています。
整備していないので歩けないとしているようです。
ヤブメンなら何の問題もありません。
本尊の十一面観音と大日如来が安置されている。十一面観音は6.3mあり錫杖を持った長谷寺型の仏像で平安後期の物で、大日如来は藤原時代の物だ。
こりゃ、すごい。その歴史と言い規模と言い一見の価値ありですが、日曜日以外見れないのは残念でしたね。
また、見に行きます。
奈良の長谷寺と同規模の大きな仏像で、こちらの方が古い形のようです。
境内の北端の石柱を越え三疋田林道への分岐には仏像が上部に掘られた道標があった。
道標や丁石が残されているのも散策道を彩るアクセントとして散策を盛り上げてくれそうです。
壊れた道標も多くあり江戸時代は盛んに歩かれていた巡礼道だとわかります。
法泉寺は江戸時代の万治2年(1659年)に創建された寺で、山門は竜宮城のような感じだ。
他の二寺に比べてずっと新しいのに本当に竜宮所のようだ。宗教も見た目が大事ってことかな。
黄檗宗の寺を初めて見ました。
異国情緒ただよっています。
近長谷寺・金剛座寺・法泉寺を結ぶ巡礼道は、たくさんの歴史遺産が残っている。伊勢神宮に近いだけに神仏分離の嵐は激しかったと思うが、近長谷寺・金剛座寺は神仏習合の色合いが濃く残っており、地元の人たちが守ったようだ。
最近は宗教の衰退などで廃寺が増えているようですが、これからも地元に愛されて長く保存されるこおとを願います。
近長谷寺も長谷集落の人達が守っていてくれますが
小さな集落なので大変だろうな。
最も古いのが金剛座寺で、白鳳9年に藤原不比等により創建された。
歴史に疎い私にはよく分かりませんが、藤原不比等って名前聞いたことあるけどどんな人でしたっけ?こういうレベルです。
歴史の教科書に出てきますよ。
かぐや姫に求婚した男の一人です。
659年の創建になる。丹生山近長谷寺(きんちょうこくじ)は、仁和元年(885年)伊勢の豪族飯高氏が、建立した。
どちらも本当に古いお寺ですね。
多気の山中にこんな古刹が眠っているとは。
奈良の大仏の金メッキの材料の9割が丹生の水銀であることがわかっており、
大仏さんは金メッキされていたのですか。あんな大きなものに金箔を張り付けるのは大変だからメッキの方が便利ですね。
メッキは電気メッキなんてないから銅鏡に水銀を塗ってアマルガムの膜を作る要領でメッキしたんですかね。
そうです。そして最終的に火であぶって水銀を蒸発させました。
水銀汚染で病んだ人も多かったでしょうね。
近長谷寺の駐車場に歴史の散歩道マップという看板がり、近長谷寺(長谷)から金剛座寺(神坂)を経て法泉寺(相可)につながる道があるようだ。
歴史マニアでもない私でも歩いてみたくなるコースです。
この道は崩れている所もありますがつながっています。
整備していないので歩けないとしているようです。
ヤブメンなら何の問題もありません。
本尊の十一面観音と大日如来が安置されている。十一面観音は6.3mあり錫杖を持った長谷寺型の仏像で平安後期の物で、大日如来は藤原時代の物だ。
こりゃ、すごい。その歴史と言い規模と言い一見の価値ありですが、日曜日以外見れないのは残念でしたね。
また、見に行きます。
奈良の長谷寺と同規模の大きな仏像で、こちらの方が古い形のようです。
境内の北端の石柱を越え三疋田林道への分岐には仏像が上部に掘られた道標があった。
道標や丁石が残されているのも散策道を彩るアクセントとして散策を盛り上げてくれそうです。
壊れた道標も多くあり江戸時代は盛んに歩かれていた巡礼道だとわかります。
法泉寺は江戸時代の万治2年(1659年)に創建された寺で、山門は竜宮城のような感じだ。
他の二寺に比べてずっと新しいのに本当に竜宮所のようだ。宗教も見た目が大事ってことかな。
黄檗宗の寺を初めて見ました。
異国情緒ただよっています。
近長谷寺・金剛座寺・法泉寺を結ぶ巡礼道は、たくさんの歴史遺産が残っている。伊勢神宮に近いだけに神仏分離の嵐は激しかったと思うが、近長谷寺・金剛座寺は神仏習合の色合いが濃く残っており、地元の人たちが守ったようだ。
最近は宗教の衰退などで廃寺が増えているようですが、これからも地元に愛されて長く保存されるこおとを願います。
近長谷寺も長谷集落の人達が守っていてくれますが
小さな集落なので大変だろうな。