おはようございます、satoさん。
先日、畦道にイヌノフグリが咲いているのを見つけました。
少し前からあちこちで梅の花も見かけています。もう、春が始まっているのですね。
わたしは、雪山への思いが募るばかりで、11日も新雪のお山に遊んできました。
わりばしさんは、里の山を味わわれてきたのですね。
こちらでは、2週間前ぐらいからフキノトウが出始め
春の山菜の苦みが心地よかったです。
私は花粉症なので、神宮林を歩くのならこの時期かと出かけました。
「高麗広」という響きに興味を覚えました。
伊勢地方の地理に疎く「高麗広」という地名は初めて知りました。
伊勢神宮の神宮林域にある集落で、住民は山守をなりわいとしてきたのですね。
渡来系の人びとだったのでしょうか。
大和朝廷と朝鮮とのつながりを示すものでしょうね。
何もない所から天孫降臨は生まれてきません。
頭の中は雪山だったのに、わりばしさんの山旅に惹きこまれています(笑)。
花粉が多くなり、花粉の少ない雪山への思いが再燃しています。
伊勢神宮は20年ごとに建て替えられる(式年遷宮というのですね)と知った時、何故なのだろうと思いました。
耐久年数1000年を越える木造建築技術を持つ宮大工も存在したのに。
題名は忘れましたが、寺社に関する本を読んだ時、技術、文化、信仰の継承のためと書かれていて、そうなのかぁと。
最初は天武天皇が自らの正当性を示すために行ったようです。
その後も、信長・秀吉・家康のような時の権力者が自らの力を示すことを狙って多大な寄進をしています。
その結果として技術、文化の継承がなされたのでしょう。
同じものを造り替えることは永遠を意味することでもあるのでしょうね。
でも、そのためには気の遠くなるような木が必要。遷宮ごとに1万本のヒノキが必要とは。
300年後には、世田谷区と同じ広さの森のヒノキが枯渇してしまったのですね。
エス・ディー・ジーズの時代ですから、規模を縮小するとか考えた方がいいでしょうね。
花粉症何とかならないかな?
地理院地図の針葉樹マークは、大正時代以降に植林されたヒノキ林なのですね。
でも、実際歩くと広葉樹も多い山。山中にはアガリコの木もたくさん。
山守りをしながら炭焼きをしてきた高麗広の人びとの目に映ったお山を想像しました。
今でも神宮で使う炭はここで焼いていますよ。
昔と比べたら規模は小さいでしょうが。
「天空界道」も興味がそそられます。
「天照大神が御座す天空の道」伊勢神宮の神宮林を取り囲む境界尾根を指すのですね。
道の真ん中に距離を置くように配置されている石積みの写真に、
インドやネパール、チベットの巡礼道、街道を旅していた時に見た風景が重なりました。
人の築いた巡礼の道、修行の道の礎に普遍的なものを感じました。
神宮林を囲む35kmの「天空界道」という道があります。
後半は磯部岳道と宇治岳道です。
これが神仏分離で修験道が明治に禁止されるまでの修行の道だと思います。
- 神宮司庁の境界杭
「神宮林はもっと気配の薄い所かと思っていたが、人の営みそのものと言っていいほど多くの痕跡を残していた」
わりばしさんは、神宮林に興味を持たれ訪れたのでしょうか。
歩いて、気が付く、知ることってたくさんありますよね。
そして、そこから広がっていくもの、繋がっていくものの大切さを感じます。
歩いて知るひとびとの歴史、それは、確かなものとして胸に伝わってきます。
そういう時代があり、そういう暮らしがあった。歴史を頭だけでなくからだ全体で感じる。
山歩きは、ほんとうに奥が深いですね。
山を歩いていて人の営みの痕跡を見つけると嬉しくなっちゃいます。
今は人が住まなくなった集落では、何を生業にしていきていたのか?
どんな理由で、どの時期に離村したのか?
思いはめぐっていきます。
現代の日本人が置き忘れた何かがあるのかもしれません。
- アガリコ
その地の生きた歴史を感じるわりばしさんのレポ、これからも楽しみにしております。
人の多い伊勢のおはらい町にはめったに行かないんですが
徳力富吉郎版画館だけに出かける事があります。
赤福餅の中に日替わりで入っている栞「伊勢だより」の原版で刷った木版画が売っています。
1100円という安価で、家では季節ごとに画を入れ替えて楽しんでいます。
この日は、偶然見つけた高麗広の炭焼きの版画を買って帰りました。
- 高麗広の木版画