かつて、藤原町山口から近江の君ヶ畑へと御池藤原山塊を越える杣道が有った。それが杣道の使命を終えてからも、しばらくは登山道として命脈を保っていたが、ついにうち捨てられ、廃道となってしまった。その軌跡を辿り、何とか少しでも正確な軌跡をGPSログ記録として残しておこうと、その廃道を辿ってみた。
【日 付】 2017年6月17日
【山 域】 鈴 鹿
【メンバー】 単 独
【天 候】 晴 れ
【ルート】 小又谷出合駐車場 10:24-池ノ谷分岐 10:55-河倉峠 12:17-土倉岳 12:23(往復)-真ノ谷 13:48-白船峠分岐 14:14-河倉峠 16:02-土倉岳南尾根 16:12-小又谷 16:30-小又谷出合駐車場 17:01
実はこの作業は、2000年にも挑戦してみたことがあった。しかし、その時は現在のようなGPSもなく、デジタルな記録として残すことはできなかったし、またそれほど正しくも辿れなかったと思う。資料として、少しばかりの写真が残っているだけだ。今回は、それも使いながら再度歩いてみたということだ。
このルートは、昭和50年代くらいまではよく使われていたようで、山口兄弟版の登山ガイド、新旧「鈴鹿の山」にはその案内が載っていた。それが貴重な資料となり、ルートも簡単に分かりそうなものだが、実際に辿るとそうはうまくは行かない。それは、ルートの大半が山の斜面に付けられていたということだ。多くの地点で崩れ、道アトが全くなくなっているところもあるからだ。
今回も前回と同じように小又谷出合駐車場から歩き、真ノ谷へ向かう。まずは、小又谷林道を歩き池ノ谷出合を目指す。もちろん昔は、このような林道はなく、旧「鈴鹿の山」には谷中を辿った案内が載っているが、新「鈴鹿の山」においてはすでに林道はあったから、林道ができたのは昭和40年代半ばと考えられる。
ノタノ坂分岐を過ぎ、桂川出合を過ぎて次の谷間を注意しながら歩く。ここら辺りは、谷と林道にかなりの高低差があり、林道のどこからかから下りなければいけない。出合を明らかに過ぎてしまってから林道を戻り、ちょっとした尾根筋が谷へ下りていたので、そこから下りてみると、道アトが有るではないか。その道アトから振り返って見ると斜めに林道から下りて来ている。林道からでは分かりにくかった、谷への下り口、下り道は残っていた。
下り立った谷は、上下の堰堤に挟まれ、谷の出合は平坦だった。その池ノ谷を少し進むと、「造林公社営林地」の立て札があるが、これは前にも見ており、同じところへ来ていることが確認できる。年度別植栽面積表というのが書いてあったが、48,49,51年度とあった。ほぼ、40年前である。
それから池ノ谷を何度も渡り返しながら歩く。出合から10mばかりのところに、旧「鈴鹿の山」にもあった「二筋滝」があるが、今日は一筋しかほとんど流れていない。2000年の時には、名の通り二筋であったが、一筋は枯れてしまったのだろうか。
さらにずっと谷沿いに歩いて行くが、時々道アトらしきものが現れて往時ここが「道」であったことが確認できる。
池ノ谷は、それほどの悪場はなく、小滝がいくつもあるが、みな難なく越せるくらいのものである。それも、これが「みちすじ」として使われた理由であろう。
沢が二分するところで、水量のある左俣にとる。ここが地図で谷が90度曲がっている辺りになる。傾斜は緩やかになるが、水量は減り谷が狭くなる。さて、この先どこかで谷を離れ、右の尾根に向かって上がって行くのだろうが、その道アト、痕跡はあるのだろうか。
さらに谷を詰め、河倉峠の真下辺りに来るが、右にはそれらしき道アトは見られない。河倉峠西南斜面は、植林となっているので、その時に道アトは無くなってしまったのだろうか。谷が幾つもに分かれる辺りで、峠に向かって直登してみることにした。途中で、道アトの痕跡が見つかることを期待して。
ほんのちょっとした尾根筋上をひたすら真っ直ぐに登って行くが、植林時のアトは有っても、昔の道アトは見られなかった。急斜面を幹、枝をつかんで引き寄せながら上がって行く。150m近い登りを20分近く掛けて登って行くと明るさの見える稜線が近づいてくる。一気に上がると、少し細長い河倉峠に辿り着いた。
昔はヤブっぽく、白い木柱もあったが、今は何も無い。以前は、この峠から天狗堂や、それこそ琵琶湖までの展望が利いたようであるが、今は植林が育ってしまって、展望はない。
峠に登り着いて少し土倉岳の方へ向かうと、左に古い道が緩やかに下りて行っている。おそらくこれが、昔の道なのだろう。つまり峠へは、谷筋をもっと進んで、回り込むように上がっていたのだろう。これは、帰りにこの道アトを辿ってみることにする。
峠からヤブの無い気持ちのよい尾根道を土倉岳まで行ってみる。ここには、山頂部の少し南寄りに三角点があるのだが、昔はヤブでなかなかその三角点を見つけられなかった。本当に隔世の感である。山頂部を北寄りに立ち御池岳を眺める。ヤブがすべて消え、何だか丸裸状態で、あられもない姿のように見えてしまう。でも、これが今の御池岳なんだ。
さて、河倉峠へ戻り、御池岳東南部の斜面に昔の「道」を探しに出発する。途中のポイントは、土倉谷とその支流を、また最近亀尾といわれている尾根をどこで越えて行くかだろう。峠から北側の斜面に向かっては、然したる道アトは見られない。斜面を左斜めに向かって、道アトを捜しながら下りて行く。今は、ヤブがすっかり無く、どこでも歩けてしまう分返って昔の道アトを探し辿るのは難しいのかもしれない。
谷筋の手前にちょっとした肩のようなところがあるので、行ってみると炭焼きのカマ跡だった。道アトのようなものも有るのでおそらくここは通っていたのだろう。そこからすぐに土倉谷の支流に下りるのだが、明らかな道アトが付けられている。ここは間違いないと安心した気持ちになる。それを越えすぐに土倉谷本筋を越えるのだが、そこまでははっきりと辿ることができた。その土倉谷の谷筋にはすぐ上に滝が有るのだが、そこは前にも通っているところだった。
しかし、それを越え再び斜面を行くのだが、ここからがはっきりとしない。ちょっとした尾根筋に差し掛かると再び道アトが現れる。ここを通っていたのも間違いないだろう。
そこから亀尾筋までは、だいたい微かではあるが道アトが見られた。亀尾と交差するところは、亀尾の尾根が一服しているところで、ちょっとした小場になっていた。おそらく昔の杣人、登山者もここで一服したことであろう。
尾根からしばらくは道アトも見られ、カマ跡に辿り着いた。ここまでも、正確に辿れたのではないかと思う。しかしこの先、石灰岩の崩壊筋が幾つもあり、当然そこには何のアトも見られない。カマ跡から高度を落とさずに進んでみたが、ここはおそらくもう少し高度を早めに落として、荒場を少しでも避けて行くのだろうと思われた。高度を落としながら進むと、再び道アトらしき感じがあったが、それほどはっきりとはしない。それからさらに高度を下げると真ノ谷が間近に来てしまった。これはおそらく、下り過ぎなんだろうと思う。確認できている真ノ谷との合流点よりも少し手前で真ノ谷に下りてしまった。
少し谷筋を行くと、真ノ谷河倉峠分岐点に出た。ここからは、緩やかに斜面を登って行く道アトが有るので、本当はそこへ出ないといけないわけだ。
戻りは、ここから逆に辿ってみることにして、さらに真ノ谷を行き、白船峠からの下降点を確認しに行く。
白船峠から真ノ谷への道は、峠からほぼそのまま真ノ谷へ下る道と、御池岳に向かって峠からトラバース気味に尾根を北西に下りて行く道が有った。しかし、その北西に下りて行くトラバース道は、登山地図から消えてしまって、今は真っ直ぐに下りる道のみが記されている。峠から北西にトラバースする道は、峠からははっきりと残っているのだが、最後真ノ谷へ下りる点がはっきりとしない。昔の写真を元に、その下降点を確認してみようというものだ。
少し前に白船峠からそのトラバース道は辿っているので、だいたいの下降点は分かっている。今日は、その昔の写真との照合だ。写真は、96年のもので真ノ谷との分岐には、はっきりと白船峠への案内が付いている。現場で、写真と合わせてみるとその案内の貼ってあった大きな木がない。しかし、その奥に写っている木々は、何となくそんな雰囲気のものがある。丹念によく見てみると、おそらく豪雨による大水で谷は荒れて谷際にあった木々が流されてしまったのだろう。確かに今の谷は削られたばかりの感じだ。分岐点は、ここで間違いないだろう。
再び真ノ谷河倉峠分岐点へ戻る。今度はこちら側から辿ってみることにする。「よく踏まれた山道が右岸山腹へと登っている」と「鈴鹿の山」にはあるが、現在は本当に微かな道アトというくらいのものだ。しばらくは、真ノ谷とそれほど離れず緩く登っているが、谷筋と離れる辺りから少しずつ高度を上げる。しかし、その辺りに来ると石灰岩の崩壊筋のため道アトも無くなってくるが、来た時よりも低い高度を行くと、少しは崩壊地を避けられて歩きやすい。そんな道アト沿いにエビネの群生地が三ヶ所ほど見られた。来た時は見られなかったのだが、ほんの少しの差で見つけられたりするものだし、その逆もあるということだ。
来る時に通ったカマ跡で一休みする。それから、再び道アトを捜し拾いながら、亀尾を越え、土倉谷やその支流を越えて行くが、来た時と大きくは変わらない。最後土倉谷支流を越えて、来た時に寄ったカマ跡からは、本当に薄いがそれらしきアトを辿ると、峠の東南よりへ出た。この辺りはどこを歩いても変わらないだろう。
峠からは、来る時に見つけた道アトから下りて行ってみる。はっきりとした道アトは少し行くと消えてしまったが、その辺りから左に回り込んで池ノ谷へ下りて行っていたのであろう。帰路は、谷沿いに下りるのではなく、土倉岳南尾根を辿って下りて行く。ヤブのなくなった今となっては、このルートを辿る方がはるかに簡単だ。尾根は、それほどの急坂でもなく、スムーズに小又谷へ下りてしまった。
結果として、だいたいは辿れたのではないかと思う。小又谷から河倉峠は、尾根の歩き安さから、谷道が使われることもその優位性も無くなったと言ってよいだろう。河倉峠真ノ谷間は、道アトがもう少ししっかりとしていれば、使えるのだろうが、今後とも物好きだけの世界として微かに跡を留めて行くことだろう。
かつて、藤原町山口から近江の君ヶ畑へと御池藤原山塊を越える杣道が有った。それが杣道の使命を終えてからも、しばらくは登山道として命脈を保っていたが、ついにうち捨てられ、廃道となってしまった。その軌跡を辿り、何とか少しでも正確な軌跡をGPSログ記録として残しておこうと、その廃道を辿ってみた。
【日 付】 2017年6月17日
【山 域】 鈴 鹿
【メンバー】 単 独
【天 候】 晴 れ
【ルート】 小又谷出合駐車場 10:24-池ノ谷分岐 10:55-河倉峠 12:17-土倉岳 12:23(往復)-真ノ谷 13:48-白船峠分岐 14:14-河倉峠 16:02-土倉岳南尾根 16:12-小又谷 16:30-小又谷出合駐車場 17:01
実はこの作業は、2000年にも挑戦してみたことがあった。しかし、その時は現在のようなGPSもなく、デジタルな記録として残すことはできなかったし、またそれほど正しくも辿れなかったと思う。資料として、少しばかりの写真が残っているだけだ。今回は、それも使いながら再度歩いてみたということだ。
このルートは、昭和50年代くらいまではよく使われていたようで、山口兄弟版の登山ガイド、新旧「鈴鹿の山」にはその案内が載っていた。それが貴重な資料となり、ルートも簡単に分かりそうなものだが、実際に辿るとそうはうまくは行かない。それは、ルートの大半が山の斜面に付けられていたということだ。多くの地点で崩れ、道アトが全くなくなっているところもあるからだ。
[attachment=0]小又谷出合から池ノ谷、河倉峠、真ノ谷.jpg[/attachment]
今回も前回と同じように小又谷出合駐車場から歩き、真ノ谷へ向かう。まずは、小又谷林道を歩き池ノ谷出合を目指す。もちろん昔は、このような林道はなく、旧「鈴鹿の山」には谷中を辿った案内が載っているが、新「鈴鹿の山」においてはすでに林道はあったから、林道ができたのは昭和40年代半ばと考えられる。
ノタノ坂分岐を過ぎ、桂川出合を過ぎて次の谷間を注意しながら歩く。ここら辺りは、谷と林道にかなりの高低差があり、林道のどこからかから下りなければいけない。出合を明らかに過ぎてしまってから林道を戻り、ちょっとした尾根筋が谷へ下りていたので、そこから下りてみると、道アトが有るではないか。その道アトから振り返って見ると斜めに林道から下りて来ている。林道からでは分かりにくかった、谷への下り口、下り道は残っていた。
下り立った谷は、上下の堰堤に挟まれ、谷の出合は平坦だった。その池ノ谷を少し進むと、「造林公社営林地」の立て札があるが、これは前にも見ており、同じところへ来ていることが確認できる。年度別植栽面積表というのが書いてあったが、48,49,51年度とあった。ほぼ、40年前である。
それから池ノ谷を何度も渡り返しながら歩く。出合から10mばかりのところに、旧「鈴鹿の山」にもあった「二筋滝」があるが、今日は一筋しかほとんど流れていない。2000年の時には、名の通り二筋であったが、一筋は枯れてしまったのだろうか。
さらにずっと谷沿いに歩いて行くが、時々道アトらしきものが現れて往時ここが「道」であったことが確認できる。
池ノ谷は、それほどの悪場はなく、小滝がいくつもあるが、みな難なく越せるくらいのものである。それも、これが「みちすじ」として使われた理由であろう。
沢が二分するところで、水量のある左俣にとる。ここが地図で谷が90度曲がっている辺りになる。傾斜は緩やかになるが、水量は減り谷が狭くなる。さて、この先どこかで谷を離れ、右の尾根に向かって上がって行くのだろうが、その道アト、痕跡はあるのだろうか。
さらに谷を詰め、河倉峠の真下辺りに来るが、右にはそれらしき道アトは見られない。河倉峠西南斜面は、植林となっているので、その時に道アトは無くなってしまったのだろうか。谷が幾つもに分かれる辺りで、峠に向かって直登してみることにした。途中で、道アトの痕跡が見つかることを期待して。
ほんのちょっとした尾根筋上をひたすら真っ直ぐに登って行くが、植林時のアトは有っても、昔の道アトは見られなかった。急斜面を幹、枝をつかんで引き寄せながら上がって行く。150m近い登りを20分近く掛けて登って行くと明るさの見える稜線が近づいてくる。一気に上がると、少し細長い河倉峠に辿り着いた。
昔はヤブっぽく、白い木柱もあったが、今は何も無い。以前は、この峠から天狗堂や、それこそ琵琶湖までの展望が利いたようであるが、今は植林が育ってしまって、展望はない。
峠に登り着いて少し土倉岳の方へ向かうと、左に古い道が緩やかに下りて行っている。おそらくこれが、昔の道なのだろう。つまり峠へは、谷筋をもっと進んで、回り込むように上がっていたのだろう。これは、帰りにこの道アトを辿ってみることにする。
峠からヤブの無い気持ちのよい尾根道を土倉岳まで行ってみる。ここには、山頂部の少し南寄りに三角点があるのだが、昔はヤブでなかなかその三角点を見つけられなかった。本当に隔世の感である。山頂部を北寄りに立ち御池岳を眺める。ヤブがすべて消え、何だか丸裸状態で、あられもない姿のように見えてしまう。でも、これが今の御池岳なんだ。
さて、河倉峠へ戻り、御池岳東南部の斜面に昔の「道」を探しに出発する。途中のポイントは、土倉谷とその支流を、また最近亀尾といわれている尾根をどこで越えて行くかだろう。峠から北側の斜面に向かっては、然したる道アトは見られない。斜面を左斜めに向かって、道アトを捜しながら下りて行く。今は、ヤブがすっかり無く、どこでも歩けてしまう分返って昔の道アトを探し辿るのは難しいのかもしれない。
谷筋の手前にちょっとした肩のようなところがあるので、行ってみると炭焼きのカマ跡だった。道アトのようなものも有るのでおそらくここは通っていたのだろう。そこからすぐに土倉谷の支流に下りるのだが、明らかな道アトが付けられている。ここは間違いないと安心した気持ちになる。それを越えすぐに土倉谷本筋を越えるのだが、そこまでははっきりと辿ることができた。その土倉谷の谷筋にはすぐ上に滝が有るのだが、そこは前にも通っているところだった。
しかし、それを越え再び斜面を行くのだが、ここからがはっきりとしない。ちょっとした尾根筋に差し掛かると再び道アトが現れる。ここを通っていたのも間違いないだろう。
そこから亀尾筋までは、だいたい微かではあるが道アトが見られた。亀尾と交差するところは、亀尾の尾根が一服しているところで、ちょっとした小場になっていた。おそらく昔の杣人、登山者もここで一服したことであろう。
尾根からしばらくは道アトも見られ、カマ跡に辿り着いた。ここまでも、正確に辿れたのではないかと思う。しかしこの先、石灰岩の崩壊筋が幾つもあり、当然そこには何のアトも見られない。カマ跡から高度を落とさずに進んでみたが、ここはおそらくもう少し高度を早めに落として、荒場を少しでも避けて行くのだろうと思われた。高度を落としながら進むと、再び道アトらしき感じがあったが、それほどはっきりとはしない。それからさらに高度を下げると真ノ谷が間近に来てしまった。これはおそらく、下り過ぎなんだろうと思う。確認できている真ノ谷との合流点よりも少し手前で真ノ谷に下りてしまった。
少し谷筋を行くと、真ノ谷河倉峠分岐点に出た。ここからは、緩やかに斜面を登って行く道アトが有るので、本当はそこへ出ないといけないわけだ。
戻りは、ここから逆に辿ってみることにして、さらに真ノ谷を行き、白船峠からの下降点を確認しに行く。
白船峠から真ノ谷への道は、峠からほぼそのまま真ノ谷へ下る道と、御池岳に向かって峠からトラバース気味に尾根を北西に下りて行く道が有った。しかし、その北西に下りて行くトラバース道は、登山地図から消えてしまって、今は真っ直ぐに下りる道のみが記されている。峠から北西にトラバースする道は、峠からははっきりと残っているのだが、最後真ノ谷へ下りる点がはっきりとしない。昔の写真を元に、その下降点を確認してみようというものだ。
少し前に白船峠からそのトラバース道は辿っているので、だいたいの下降点は分かっている。今日は、その昔の写真との照合だ。写真は、96年のもので真ノ谷との分岐には、はっきりと白船峠への案内が付いている。現場で、写真と合わせてみるとその案内の貼ってあった大きな木がない。しかし、その奥に写っている木々は、何となくそんな雰囲気のものがある。丹念によく見てみると、おそらく豪雨による大水で谷は荒れて谷際にあった木々が流されてしまったのだろう。確かに今の谷は削られたばかりの感じだ。分岐点は、ここで間違いないだろう。
再び真ノ谷河倉峠分岐点へ戻る。今度はこちら側から辿ってみることにする。「よく踏まれた山道が右岸山腹へと登っている」と「鈴鹿の山」にはあるが、現在は本当に微かな道アトというくらいのものだ。しばらくは、真ノ谷とそれほど離れず緩く登っているが、谷筋と離れる辺りから少しずつ高度を上げる。しかし、その辺りに来ると石灰岩の崩壊筋のため道アトも無くなってくるが、来た時よりも低い高度を行くと、少しは崩壊地を避けられて歩きやすい。そんな道アト沿いにエビネの群生地が三ヶ所ほど見られた。来た時は見られなかったのだが、ほんの少しの差で見つけられたりするものだし、その逆もあるということだ。
来る時に通ったカマ跡で一休みする。それから、再び道アトを捜し拾いながら、亀尾を越え、土倉谷やその支流を越えて行くが、来た時と大きくは変わらない。最後土倉谷支流を越えて、来た時に寄ったカマ跡からは、本当に薄いがそれらしきアトを辿ると、峠の東南よりへ出た。この辺りはどこを歩いても変わらないだろう。
峠からは、来る時に見つけた道アトから下りて行ってみる。はっきりとした道アトは少し行くと消えてしまったが、その辺りから左に回り込んで池ノ谷へ下りて行っていたのであろう。帰路は、谷沿いに下りるのではなく、土倉岳南尾根を辿って下りて行く。ヤブのなくなった今となっては、このルートを辿る方がはるかに簡単だ。尾根は、それほどの急坂でもなく、スムーズに小又谷へ下りてしまった。
結果として、だいたいは辿れたのではないかと思う。小又谷から河倉峠は、尾根の歩き安さから、谷道が使われることもその優位性も無くなったと言ってよいだろう。河倉峠真ノ谷間は、道アトがもう少ししっかりとしていれば、使えるのだろうが、今後とも物好きだけの世界として微かに跡を留めて行くことだろう。