おはようございます、zippさん。
海山ICで下りて、相賀から銚子川沿いに進み木津。工事で通行止になっている県道760号線のゲート前から橡山林道に入る。
なんでやねん!
又口から辿らんと!!
恐怖のつり橋があるので、当初は県境から植林の杣道をピストンする予定だったのですが・・
又口辻より破線道の又口道に入ると、風がやんでそればかりか陽の光で暖かい。稜線が風よけになって雪雲から吹く風をシャットアウトしてくれており、気候の安定している三重県側に道をつけるのは理にかなっている。
ですね。
ここはぽかぽかでしたね。
しかし又口道=尾鷲道は、主稜線沿いは西側に付けられてるんですよね。
西側に付いているのはどのあたりです?
- 尾鷲湾
植林地内の崩落を越えれば県境稜線P1170南東尾根を乗越す峠につく。ここは古和谷源頭部のブナの森で視界が広がり気持ちがいい。
ここは、思わぬ大ブナもあり気持ちの良いところですね。
植林地を抜けた場所での源頭のブナ林ですからインパクトがありました。
稜線に出てしまったので進むと尾根上にプーリーが落ちておりこの上を北山索道は通っていたようだ。
この柳ノ谷の対岸右岸の稜線にも支柱跡が残っており、プーリーや搬器が落ちてます。
ケーブルが切れてそのまま落ちたのでしょうね。
右岸の石積みの台地の上には巨大なプーリーやドラム状の物が当時のセットされた状態で残っている。他には発電機と思われる物や耐熱レンガで組まれた構造物の土台もあり大規模な施設だ。
この遺構はなかなかのものでしたでしょう。
はじめて行って見た時は、ビックリしました。こんなに残っているなんて!
そうですよね。左岸の飯場跡も含めると大きいですよね。
それにしっかり残っています。
動力は開業時の大正7年から昭和23年までの30年間は蒸気で動かしていたので、古和谷駅の耐熱レンガはその際に使われた窯の名残だろう
耐火煉瓦が残ってるわけは、ソコだったんだね。
ってことは、その耐火煉瓦も大正時代のものなんだ。
時代背景から考えてレンガは大正時代のもので間違いないと思います。
「KFB」「SHINANO」「CHUKYO」とこれまで見たことない会社の刻印ばかりでした。
乾留工場と資本が違えばこれだけ使用レンガも違うんだという感じです。
それだけ多くのレンガ会社が当時は存在したのでしょう。
来た谷を上りかえし、炭焼窯跡でGPSを見ると古和谷駅近くに県境稜線を破線道が柳ノ谷側に乗越す地点につけたマーキングがある。ということは、古和谷駅をトラバースしながら進めばすぐに乗越という訳で、破線道が谷筋を通っている意味がわかった。県境稜線P1170南東尾根を乗り越す峠からなだらかな谷を下り炭焼窯で、そこから谷沿いに古和谷駅まで下りそこから県境の乗越に向かう破線道は古和谷駅を経由するためにわざわざ作られた道だったのだ。残されたブナ林や炭焼窯も古和谷駅の動力である蒸気機関とのつながりがあったように思った。
この辺りが、意味がよくわからん。
マーキングは、又口辻から県境稜線P1170南東尾根を乗越と古和谷駅跡辺りにはありました。
けど、この乗越への谷筋に道があったとは思えないです。マーキングした人は、破線道を忠実に辿ったんでしょう。
この辺りの炭焼き窯は、この北山索道があってからこそ、作られた窯なんだと思います。
GPSのマーキングは私がGPS上につけたマーキングです。
破線道を辿ったマーキングは黄色テープですね。
1170南東尾根を乗越す峠以降の破線道は古道の道のつけ方ではないので、県境稜線近くまで上り水平道を探すことにした。獣道のような感じだが確かに水平道はあった。ここも以前はヤブにつつまれていたようだが、結局県境の乗越手前まで辿れた。その先には古和谷側に大杉が残されていた。又口道は又口辻から1170南東尾根を乗越す峠を通過し稜線下を辿りながら大杉の所まできていたのだろう。
これもよく意味が分からないです。
乗越から県境稜線近くまでは、古道があり、県境を越えずに下っているところまでは辿れています。
大杉とは、何処のことなんだろう?
県境を越えずに下った先の獣道を辿ったんです。
大杉は植林を柳ノ谷に下りる杣道手前の古和谷側にあります。
- 乗越の大杉
とはいうものの1170南東尾根を乗越す峠までとそれ以降では道の作り方が違うので、又口道の石積みは古和谷駅とからめて整備されたように思う。
これは、判断草々です。
又口から辿れば、それは理解できると思う。
古和谷駅ができて、そこに寄る道ができたとしても、現在の地形図の谷の「破線道」は間違いで使われなかったと思います。
植林の中にも又口道の痕跡があるんですね。
ダニのいない時期に歩かなきゃ。
- 龍辻・木組峠方面
帰りは県境稜線を歩く、展望が良く雪におおわれた大峰に尾鷲湾と熊野灘が良く見える。
この日は、前夜に僅かながらも積雪があり、大峰が映えて見えたことでしょう
確認しておきますが、本来の尾鷲道は、土井氏が寄贈した道で、それは「又口道」です。
その道の形態は大台ケ原まで変わらず緩やかな山腹、ジグザグを切る道です。
尾鷲道より古い竜辻と木津を結ぶ稜線にあがっている古和谷道は、戦後の古和谷の伐採によってもたらされた道です。
という事は、土井氏が寄進した尾鷲道は当初は又口を起点とする又口道だったということですか?