おはようございます、zippさん。
河原小屋谷を上って行く。ゆるやかな斜面は河原小屋だけで、両岸がせばまり暗い谷にかわっていく。両側が切り立ってゴルジュになってところもあり、沢靴か長靴がないと苦労するだろう。長靴でも2度脱いで徒渉する場所があった。しばらくすると二俣で、右から合流してくる狭い水量の多い谷が本流で、奥ノ大滝のある谷になる。左俣に滝と呼べるものは、水量の少ない10mの源流左股の滝ぐらいしかない。危険な個所は無いがゴーロの谷を延々上ることになる。
枝谷の河原小屋谷は、平均してコンターが混んではいますが、特に悪場のないゴロ谷なんですね。両岸に道型などは無かったんでしょうか?
延々と上らされるだけで、悪場は無いですね。
両岸が狭まっていて、道型がありそうな感じではなかったです。
- 河原小屋谷
源頭部に近づき谷が立ってきたので右側の斜面に逃げ稜線に着くと広々とした植林の森だった。
地池谷枝谷の源頭ですね。ここは不思議なところです。
この枝谷は源頭部で二俣になっていて、西側はミズナラやブナの原生林、東側は針葉樹の原生林で檜が多い。それゆえ、わりばしさんが植林の森と見誤ったのかな?
こんな背が高くまっすぐ伸びたりっぱな檜林が残されていることが不思議でした。原生の大杉谷の周辺にはこんなりっぱな桧の林がたくさんあったのでしょう。
ここはまた、嘉茂助谷ノ頭~地池山間の稜線で水が簡単に得られる貴重な場所でもあります。
わりばしさんはご存知かもしれませんが、ニッチの92年版の地図を添付します。
この地図には、この鞍部から沖見峠に向かって、地形図にはない破線道が書かれています。
以前に地池谷出合から尾根を登って稜線づたいで嘉茂助に向かおうとした時、尾根途中で地形図に書かれていない、土倉道より狭いもののいいまもしっかりしている水平道を見つけその道を辿ったのですが、いわゆる苔辻から堂倉谷に降りる破線道手前の谷で崩落していました。
檜の原生林に植林が隣接してるって感じです。
破線の先には塩崎さんの書いている営林署の小屋があったのかもしれませんね。
合流した大台林道は復旧工事の真っ最中でユンボが二台稼働し、林道の岩を谷底に落としていた。
いまは、このあたりが工事中ですか。岩を谷に落すって…、おいおい!ですねぇ。
このあたりの林道は崩れていないので、岩を落とす復旧工事って感じでした。
これまた長い林道を歩き堂倉避難小屋に着く。この日は、私含め6人の泊まりだったのでゆったりとすごせた。
案外、この小屋を使う人も多いのですね。
大昔に泊まった事がありますが、現在の小屋は隙間風が吹き込むこともなくきれいなもんです。
木本祭は南面の緩傾地で行うことに決まっておりアザミ谷には該当する場所は一箇所しかない。
木本祭は、梁になるような大木の前で行うんでしたっけ?方角も決まっているのですか。
木本祭跡に、大口径の檜の切り株でも残っていればいいでしょうが、既に朽ち落ちているでしょうね。
御神木の立木の場所が南面山腹の緩斜地と決められていて、祭壇を御神木の南側の設けるという決まりですね。
御神木は二本で、①二本が十間以内の位置に並んでいる②二本とも地上から十七尺上がったところの直径が尺七寸以上である③地上からその位置まで無節であることが条件です。
当初「木曽湯船澤蘭山并大杉山之図」には坊主上ヶに神木と思われる大木が画かれていたので、木本祭が行われた場所と考えてました。
ただ、絵図には坊主上ヶは堂倉谷の右岸に描かれているのですが、宮川村史に示されているアザミ谷はテンネンコウシ高に突き上げる谷で左岸なんです。
つまり、坊主上ヶまで神官を連れてきて、対岸のアザミ谷で木本祭をおこなったということになりますね。
真夜中に行う神事と生活の営みの場はおのずと分けたのかもしれません。
取りつきには小屋跡らしき石積みの平坦地がある。
けっこう広い平坦地ですよね。ここは、林道無き時代に土倉道と合流する要所ですね。ここが「宮ノ平」の可能性はないかなぁ。
絵地図に画かれている道から考えるとここが「宮ノ平」で、もう一本の道が向かっている杉皮小屋が堂倉小屋のあたりなのかなあ?
破線道の谷のみ自然林が残されており紅葉がきれいだ。
ここは降ったことしかありませんが、道型は上部だけで、谷部分には無かったでしょ?
小屋跡付近には道型らしきものはありました。現在も歩かれてはいるようで、マーキングもありました。
- 宮ノ平
到着したのは、以前から一度来たかった苔辻。
雲一つない青空に船津の町と熊野灘が広がっている。陽に照らされて広がる苔のじゅうたんがふかふかして暖かい。一番のとっておきのプレゼントをもらった気がする。
ここは穏やかないいところですね、眺望もあるし。つひ休憩したくなる(^^)。
良い所です。野呂介石がここの展望については書いていないので、当時は原生林の森だったのでしょうね。
- 坊主上ヶ峠
稜線を上りすぐに与八郎高(嘉茂助谷の頭南峰)。
あれ?破線道を辿らなかったんですか?
苔辻を坊主上ヶ峠と思ったのは、八町尾根を下りかけたあたりだったので、このルートどりになりました。
これに沿って下って行くと赤外線の動物感知器が設置されている出合付近の左岸道についた。
えっ!?こんなところにセンサーがあるんですか?
二ヶ所ありました。私が確認のために手をかざしたりしていたので、この二日間はカウントが上がっていると思います。
センサーは夏来た時には無かったんですが。
「一の山頂に至る 是坊主上ヶの峠なり 右の方に登る峰頂 是を日本の鼻と唱」という箇所になる。歩くまでは感じなかったのだが、この一つの山頂とは苔辻の事のように思う。
ここが峠になるでしょうね。
破線道と八町尾根の1153ピークは、尾根を歩かれたと思いますが、山腹および谷筋に道があって破線道・「苔辻」へと繋がってた可能性もあるかな?と思います。
私もそう思います。
この「樋ヶ谷中尾」を歩いたと思われる記録を残した人物が3人います。
その一人は当然ながら野呂介石であり、1885年に大阪府官吏木下文三郎、1889年に登った松阪の大平参次です(記録は、「奥伊勢宮川村の本草」に補記として転載されています)。
その峠を、それぞれ「坊主揚げの峠」、「坊主峠」、「大坊主山の嶺」(嶺=峠だろうと思います)と表現しています。
記録が残っていれば木本祭の場所を特定できる資料になるかもしれませんね。
p.s. 「神宮文庫」閲覧可能なのですね。知らなかったです。どうも豊宮崎文庫とごっちゃにして記憶してたようです。今度行ってみます。
木本祭の年数も判明できたんですね。
神宮文庫は閲覧日が、木・金・土のみですが閲覧できますよ。
「となりのトトロ」のような昭和初期の雰囲気がただよう、なかなか残っていないレトロな空間でお勧めです。
zippさんの目で場所確認をお願いします。
木本祭の年数は「大杉谷国有林の施業変遷史」に載っていました。