【日 付】 2023年12月28日
【山 域】 越美国境 三周ヶ岳周辺
【天 候】 晴れ
【コース】 広野ダム事務所下~二ツ屋~・849~・1025~越美国境稜線~三周ヶ岳、夜叉が池分岐~三周ヶ岳~越美国境稜線~・1025
~・800~△634.4黒谷山~北西尾根末端~標高550mまで登り返し~北東尾根~ダム
かつての二ツ屋集落の手前辺り。雪の杉林の斜面にシカの足跡が刻まれていた。やっぱりここからが取りつきやすいのだな。
目星を付けていた場所だった。三周ヶ岳と美濃俣丸からの下りに2回歩いたことのある尾根だったが着地地点は覚えていなかった。
時間を確認すると6時40分を過ぎている。車道歩きに30分かかってしまった。もう少し早く出発したらよかった。
夫とふたりだったけれど、2月のまとまった降雪の翌日、湿った新雪で膝近くまで潜りながらも、
逆回り黒谷山から周回出来たという思い出が頭にこびり付いていて、明るくなりかけてからでも大丈夫と考えていた。
あの時から8年近くの歳月が経っているのに。車の中でゆっくりしていた時間を悔やむ。正午まで5時間半弱。
まだ、無理ではない。雪質が悪くなければ辿り着けるだろう。気を取り直してシカの足跡に続く。
「あっ!」木を掴み、よいしょと左足を持ち上げた瞬間、スノーシューが、カラカラと急斜面を転げ落ちていった。
尾根芯に向かい登り始めて早々のアクシデント。ラチェットの締め方が緩かったのか。
数メートル下の木に引っ掛かり止まってくれてほっとするが、ちいさな手抜きが取り返しのつかない事態にもなり得る。
気を付けなければ、と気持ちを引き締める。
尾根に出ると、一面の雪で覆われた雑木林の中に、なんとなく道型らしきラインを感じた。
街道の尾と呼ばれるこの尾根には、二ツ屋と門入を結ぶ道が通っていたという。スタンフォード大学の地形図では、
二ツ屋からは標高500mまで谷を通り、そこから尾根に乗り、国境稜線を越えて金が丸に下り、谷に沿って破線道が門入まで延びている。
春に登った山日和さんから、尾根の末端からも明瞭な仕事道が続いていた、とお聞きして、
雪が無くてもヤブに捕まらずに歩けるのだと知り、「街道の尾」の風景が、まぶたの裏に広がり、
お正月に実家に帰る前の今日、三周ヶ岳に向かうならここからだ、とやって来たのだった。
滑らかな雪面には、シカとヤマドリの足跡だけ。土曜日の降雪以来、この尾根を歩いた人はいない。うれしさがこみあげる。
でも、雪質は思っていたよりも、じとじと重かった。そして標高を上げるにつれ潜りが深くなる。
ふくらはぎの下だったのが中央まで潜るようになり、ため息が出る。息も上がる。
まだ雪に慣れていないのか。体力が落ちたのか。・849前後の急斜面では、うまく足を踏ん張ることが出来ず、
膝近くまで潜り何度もズルズルと滑ってしまう。
あれこれ思いを巡らせながら歩くわたしを思い描いていたが、甘かった。目は少しでも潜りが浅そうなところを探している。
そして、見えない倒木の間にずぼっとはまり、ふぅとため息をつく。
それでも、見上げた、たくさんの枝先にちいさな無数の冬芽をつけた春を夢見る木々の先に広がる白い雲が浮かぶ空は、
穏やかに青く澄み渡り、そのどこかに、誰かの、何かの、あたたかな眼差しのようなものを感じ、「よし」と力が湧いてくる。
9時35分、・1025着。700m登った。白く煌めく国境稜線の山やまに目が釘付けになる。
三周ヶ岳はこの稜線の向こう。山頂まで標高差であと270m。ちいさなアップダウンはあるけれど、お昼頃には辿り着けるか。
若いブナの林の中を縫いながら国境稜線に乗ると、霧氷を纏われた、おおきなおおきな三周ヶ岳が目の前に。
想像もしなかった淡い青色に輝くお姿に胸が震える。ここまで来させていただきました。でも、まだ進めますね。目を閉じて手を合わせる。
ひと息ついて前を向くと、綿あめのような雪の塊を抱えた灌木群が。足元のまっしろな雪面はうねうねと波打ち、
真冬のまっすぐな陽射しを受け、きらきらと瞬いている。気温が上がり雪は重くなるばかりだったが、昨日降り積もったような雪景色に、
わぁ、と気持ちが高ぶり、その眩い雪面に、一本の光の筋を感じ、その筋に導かれるように一歩を重ねていく。
あともう少し、もう少し。夜叉ケ池との分岐の1250mピークへの最後の登りでは、
スノーシューの上に被さる雪の重みにへこたれそうになるが、一歩の積み重ねは確実だ。
ふぅ、とおおきく息を吐き出し、つるりとした雪原によたっと飛び出す。
白雪姫さまがお眠りになる夜叉ケ池と、純白の女神さまが御座す三周ヶ岳への白い道が合わさる地。
なんて夢のようにうつくしいのだろう。雪庇が出来る前の稜線は、ふわりとやわらか。青空の下で、ふるふるとやさしく揺れている。
ふるふるふる・・・微かに微かに揺れている。わたしの胸の鼓動と合わさるように。
11時50分を回っていた。山頂には、正午を過ぎてしまうけれど、休憩時間を短くしたら大丈夫だ。
一歩一歩噛みしめながら、光り輝く峰に近づいていく。
12時20分少し前。まっ白な三周ヶ岳の頂に到達した。最後は今日もやさしくわたしを包み込んでくださった。
疲れた足がすぅっと軽くなり、青と白、ふたつの色が織りなす輝く頂に、わたしは静かに立っていた。
感極まるのかな、と思ったが、「あぁ」と声が出かかっただけだった。
ぽかんと口を開け、わたしのこころを惹き付けてやまない奥美濃、越前、湖北の山々、そして憧れの白き峰、白山を、
澄み渡った青空を、ひとつひとつ見つめていく。ひとつひとつじっと見つめていく。
じわじわじわと、からだの奥から感情が湧き上がってくる。
あぁ、なんて素晴らしいのだろう。なんて尊い風景なのだろう。言葉では言い尽くせない感情に包まれる。
どのくらい突っ立っていたのだろう。喉が渇いた、と気づき、腰を下ろして水を飲む。
喉元を通った水がこくこくと音をたてながらからだの中を滑り落ちていく。
こくこく、こころの池に溜まっていき、溢れた水が、ぽたりと涙となってこぼれ落ちた。
とどまることなく流れていく時の中で、ぷつっと止まってしまった時がある。
その時以前、その後という言い方をすると、わたしは、今、その後を生きている。
2021年3月4日、父を亡くした。3月1日の多分夜中に倒れ、そのまま意識を戻すことなく4日の夕方に息を引き取った。
心房細動による脳梗塞だった。最後に父に会ったのは、亡くなる2年前。
母が山で転倒し肘を骨折して入院手術をしたと聞き、びっくりして帰省した時だった。
その時は一泊しか出来ず、父とはほとんど話をすることなく別れてしまった。
生きている限り、親も子も老いていき、やがて死んでしまう、と頭では理解していても、わたしがいる限り親もいると思っていた。
ほんとうに馬鹿な人間だ。
その後、かなしみと後悔の渦の中、近江に戻った日の翌日、何かに駆り立てられるように向かったのが、三周ヶ岳だった。
広野ダムから黙々と雪の残る車道を歩き、先ず夜叉ケ池に向かい、越美国境稜線から高丸を往復して、白く輝く三周ヶ岳に立った。
胸が張り裂けそうなのに、こころもからだも疲れ切っているのに、びっくりするくらいに足取りは軽かった。
そして、うつくしい風景に見入っているわたしがいた。
1250mピークから仰ぎ見た三周ヶ岳は、これ以上ないくらいにうつくしく凛々しくもやさしいお姿だった。
山頂は光に満ち溢れ天国のようだった。
こんなに苦しいのに、なんでお山はこんなにうつくしいの。なんでわたしはうつくしさにこころ震えるの。
次から次へと涙が溢れ出た。
あの日と同じくらい穏やかな陽気に包まれた山頂だった。年末だというのに。
「ひとりでラッセル頑張ったなぁ」あの日と同じ青い空を見上げ、父の口調を真似てぼそっと呟く。
お父さんがいなくなってから3年近く生きてきたけれど、かなしみは癒えることは無いよ。より深くなったよ。
ぐるぐるしてばかりだよ。でも、しあわせも感じる。それでいいんだね。
これからも、かなしみを抱え、今、在るわたしを味わう。それでいいんだね。青い空のかなたに問いかける。
12時50分。17時には薄暗くなる。16時半頃までには車道に出なくてはならない。
あと少しゆっくりしたいという気持ちを押し切り、えいっ、と立ち上がる。
ほんの30分の休憩だったのに、うららかな陽射しで雪はべちゃべちゃ状態になっていた。
少しでも登りになると、疲れた足は刻んだ足跡を求める。
・1144で立ち止まり、あの日下った廃村岩谷への尾根を辿る方が楽で、早く下山出来るな、と頭をよぎったが、
まだ余裕があるとみて、足跡を追い・1025に戻っていく。
14時35分、・1025着。さぁ、どうするか。街道の尾の登りに要した時間は3時間弱。
ここを下れば、この雪質でも2時間かからずに車道に出るだろう。
黒谷山の方を眺めると、すっかり記憶から抜け落ちていたが、たおやかな尾根にブナの林が続いていた。
気持ちよさげな尾根。風景は忘れてしまったけれど困難な場所はなかったはず。ヤブもそれほどではないだろう。
街道の尾と同じような感じで歩けるだろう。予定していたコースに足を踏み入れる。
上から眺めた通り、ブナの林が続く素敵な尾根だった。雪は重いが、足にやさしい傾斜なので歩みも順調。
夢見心地の時間が過ぎていく。
松の目立つ雑木林となった。ひと登りしたら黒谷山だ。何故か、松の木が生い茂り反射板の立つ黒谷山は記憶に残っている。
あぁ、ここ、と反射板の下に着くと、進行方向の木々にいくつもの赤丸と矢印がつけられていた。
以前は無かったような。ふうっと肩の力が抜ける。
夢見心地といいながらも、方向を間違わないように地図とにらめっこ、時間も気になっていた。
休まずに赤丸を追っていく。赤丸は視野から無くなることなく続いていく。
楽をさせていただきありがたい、とトントン下っていったが、標高550mの尾根の分岐で、あれっ?と立ち止まる。
赤丸は左の尾根についていた。この尾根の末端は崖だ。でも、下向きの矢印まである。
どうしよう。決めていた右の尾根を覗くと、ボサボサと灌木の枝が飛び出た冴えない尾根。
左は、なんとなく仕事道が付けられているようにも見える。こちらに反射板の巡視路が作られたのだと解釈して、赤丸と矢印に従う。
尾根は歩きやすく、赤丸も続いていった。そしてダムの管理事務所と車道がすぐ下に。
時計を見ると、16時35分。計算通りだった、とうれしくなる。でも、その数秒後、「えっ?」とからだが固まった。
丁寧すぎるくらいに付けられた赤丸と矢印の最後は、何にもなかった。いや、わたしの知っている崖があるだけだった。
愕然として、どういうこと?という思いが湧き上がるが、すぐに、戻らなければならないと判断する。
朝、車道を歩きながら、ここならすんなり出ることが出来ると確認した右の尾根まで。
疲れた足で登り返している間に、日は暮れてしまう。ズルズルの雪。200m登るのに一時間くらいかかるかもしれない。
下りは暗闇の中。車道に出られるのは18時半頃か。19時にはならないだろう。疲れ果てては危ない。先ずカロリー補給をしよう。
ビスケットをほおばると美味しくて、小袋を食べきり、さらにもう二袋空けていた。お腹が満たされ、気持ちもどっしりとした感じに。
さぁ、戻ろう。ゆっくりと戻っていく。橙色に染まる空を眺めながら、なるべく息を切らさぬよう、ゆっくり、ゆっくり、戻っていく。
550m地点に着いた時には、夕闇に覆われていた。ここから間違わないように、転ばないように、慎重に下らなければならない。
もう一度リュックを降ろし、チョコレートを食べ、お湯を飲む。
ヘッドランプで照らしても尾根の形は分らない。でもGPSのおかげで、自分がどこを歩いているのか分かる。
家を出る時、緊急用にカイロもと、リュックの雨ぶたにふたつ入れたのを思い出す。GPSが無かったらビバークだった。
雑木林から植林となった。暗闇の中を谷音が大きく響き渡る。傾斜がほとんどなくなると、程なくして車道に出た。
ほっと胸をなでおろし、時計を見ると18時半だった。
黒い森を振り返ると、また、わたしのこころを見つめる、誰かの、何かの、眼差しのようなものを感じた。
見上げた東の空には、まんまるのお月さまがお顔を出していた。
後は一本道。青白い光に照らされた静寂の世界に、足音を響かせ、今日一日を反芻しながら、朝に刻んだ足跡が残る道を戻っていった。
年末年始を実家で過ごした後の1月5日、菅並から横山岳に登った。
山頂周辺では思いもかけない霧氷が出迎えてくれた。
煌めく木々の間から望んだ三周ヶ岳は、この日も白く輝いていた。
しみじみとうつくしかった。
紛争、地震、個々が抱える様々な現実・・・世の中は、かなしみ苦しみ理不尽なことだらけ。
でも山は、いつも変わらず、どっしりとここに在る。晴れた日は光り輝き、荒れた日は雨風雪をまっすぐに受け。
残酷で悲惨な現実は後を絶たない。わたし自身も明日のことは分らない。
どれほどの人が、かなしみ苦しみ今日一日を生きているのだろう。
そして、その同じ時、わたしもいろいろな思いを抱え、今を生きている。
うまく言えないけれど、それが、わたしの現実、人生というものなのだろう。
あの日も今日も清らかに輝く三周ヶ岳を見つめながら、いろいろな現実、選択の繰り返しの人生の中、
わたしが山から教えてもらってきたものをあらためて思う。
sato