おはようございます、satoさん。
わりばしさんの沢納めは時山の谷だったのですね。
幾里谷と薮ヶ谷(ヶが入るのですね)を巡る沢山旅を描くとは、わりばしさんならではですね。
行きも帰りも長い林道歩き・・・、でも、林道があるから、この長いふたつの谷を巡ることが出来るのですね。
幾里谷は「幾里あるかわからない」という名がつけられるぐらいですから地元の人も長いと思っていたようです。
三年前の秋、初めてのオフ会へと、毘沙門谷からダイラへと向かった時、次々と現れた炭焼き窯跡に目を見張りました。
時山文化伝承館で炭焼きの里の歴史に触れ、以来、時山の風景が、より色濃く感じるようになりました。
今回辿った谷の方が炭焼きの色が濃かったです。
搬出先の上石津に近いというのも関係しているのでしょう。
わりばしさん達はどんな風景に出会われたのだろう。地図で辿りながら味わわせていただきました。
幾里谷林道に残された水力発電所の跡。ひとつの風景が物語るもの。
私も、山中で出会った風景から、山と企業との関わりについて考えさせられたりします。
カルスト台地は霊仙といい藤原といい昔人と企業とのつながりが見え隠れします。
緩やかに高度を上げていく幾里谷。窯跡が延々と出てくる谷なのですね。
時山は、近世以来戦前頃まで、ほとんど全戸が炭焼きに従事してきたそうです。
寝泊まり用の住居のことは、わりばしさんからお聞きしていましたが、雪囲いの石積みも築いていたとは。
炭焼きはまさに生業だったのですね。
ここで見た窯跡はすべてこの形でした。
時山文化伝承館でこの話を聞いてわかりました。
かんじきも家々で作っていたので、昔はもっと雪深かったのでしょうね。
薮谷峠へと突き上げる左俣は、滝とゴルジュがあるのですね。右俣を遡っていった先の源頭の風景が気になります。
柏原から歩いたことがあるのですが、見下ろした谷の風景は記憶に残っていないのです。
でも、林道が走っているので趣きに欠けそうですね。
カレンフェルトの岩が残るカルスト台地ならではの源頭で美しかったです。
この季節の山歩きの楽しみのひとつ、なめこ取り。この2,3年、私はさっぱりです。
ナラ枯れの木の栄養分が吸い尽くされたからなのでしょうか。
鈴鹿ではダメでしたが、台高では採れました。
山上の林道には、唖然とさせられます。林道が出来る前の風景を思い描くとかなしくなります。
失われたものは元には戻らない。放置林を見るとやるせない気持ちになります。
昨秋、ソノド北尾根を訪れたのですが、放置林と投げやりなシカ避けネットにため息をつきながら歩いていました。
少し前に歩いた、高屋山大白木山稜線も同じ運命を辿るのではと、胸が痛くなりました。
「鈴鹿の山と谷」、草川さんの「鈴鹿の山を歩く」を読み、そして現状を見ると炭焼きの森がどう変わっていったのかがリアルにわかります。
薮谷峠道は、もはや埋もれてしまったのですね。薮ヶ滝は、巻きも危ういのですね。
ソノドから林道終点へのワサビ田を通る道もよく分からなくなっていました。
山中で偶然、埋もれかけた道に出会うのはどきどきしますが、
暮らしの道が埋もれていくのをみると、さみしさを覚えます。
昔は生活道路として使われていた「こえど」への道も林道が上下に出来て、消えちゃいました。
薮ヶ谷林道沿いにある炭焼き窯の5つは、まだ現役なのですね。
厳しい自然環境で育った木を使い、独特の形の窯で焼いた時山の黒炭は「時山炭」と呼ばれ、質の良さで定評があり、
特に薮ヶ谷の炭は際立つとか。
使える状態だと思います。
現役バリバリなのは2つぐらいかな。
時山炭と薮ヶ谷との関連は知りませんでした。
この谷に炭窯が残った理由がわかりました。
- 薮ヶ谷の炭焼窯
秋の山村の、軒先につるし柿がつるされた民家の風景は、こころにしみいりますね。
移りゆく時の中、変わらぬ秋の風物詩。
過ぎゆく秋と、すぐそこまで来た冬を感じます。
実の大きな立派な渋柿でした。
地元の人が大切にしているようです。
沢納めの旅は、鈴鹿のお山の光と影を感じられた山旅だったのですね。
私もいろいろ感じさせていただきました。
山で遊ばせてもらう中で光と影を感じることの多い、今日この頃です。